2007/10/06 - 2007/10/06
225位(同エリア238件中)
のださん
板橋区立美術館で「谷文晁とその一門」展が行われているので、これを鑑賞するのを機に板橋界隈を少しだけ回ります。
板橋区は多分初上陸です。
なぜ今日行くかと言うと、都営三田線を使って行くわけですが、午前中増上寺を回って、そのまま御成門駅または芝公園駅から1本で行けるので都合が良いと思ったからです。
効率良く行けるときに行っておかないと、出不精の私は再度出かけるのがかったるいわけですね。
板橋と言うとまず近藤勇を連想する私は変人なのかどうかは知らないが、まあ普通は、板橋宿と言って、中山道第一の宿場・板橋宿を思い浮かべるのでしょう、多分。
今日は、板橋本町駅でぶらり途中下車、その後西高島平駅へ向かいます。
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三田線は随分時間がかかるな。
板橋本町駅3番出口を出て、南、つまり日本橋方向へ。
国道17号線ですが、中山道と呼ばれます。
上を走るのは首都高池袋線。 -
最初の信号を右に曲がります。
この通りを愛染通りと呼ぶそうです。
では、なぜ愛染? -
まず右手に智清寺。
増上寺の末寺だそうです。
記録は消失してしまったので詳細はわからないが、室町時代にはあった寺だということです。 -
山門をくぐると石橋の跡があります。
この界隈の七村の農民たちが使っていた中用水(根村用水)にかけられた遺構だそうです。
この灌漑用水をめぐってしばしば水争いが起きたということです。
農民たちはこの寺に立てこもったりもしたそうです。 -
愛染通りをさらに進み、右へ入ると、日曜寺。
真言宗、本尊は愛染明王。
8代将軍徳川吉宗の次男である田安宗武が帰依しました。
田安宗武は、一橋家・清水家と並ぶ御三卿である田安家の初代当主です。
田安家は、御三家に次ぐ家格である御三卿の筆頭です。
吉宗の長男・家重が、言語不明瞭で大酒呑みだったのに対して、宗武は聡明で優秀。
松平乗邑らによって次期将軍に推されましたが、代々伝わる長幼の序によって結局家重が9代将軍に就任。
家重は恨みをつのらせていたのかどうか知らないが、松平乗邑を罷免、宗武を3年間の登城停止に処します。
ちなみに、増上寺での家重の遺骨調査から推定されることは、家重はかなりの男前、だそうです。
さらに、遺骨の姿勢から、家重女性説まで浮上しました。
大岡忠光しか近づけなかったのも声で女性だとばれないようにしていたから、との憶測もあります。
・・・また脱線しすぎだ。 -
愛染明王は「愛染さん」として親しまれており、入り口の玉垣は藍染組合が寄贈したものです。
愛染が藍染につながるから、ということらしいです。
この橋の遺構も、智清寺のものと同様に中用水(根村用水)に架かっていたものだそうです。 -
そしてこちらの山門。
戦災で焼け残った唯一の遺構。
扁額は、松平定信の揮毫です。
松平定信は田安宗武の三男だということですが、文献によって七男とか八男とか書かれていたりして、よくわかりませんが、とにかく徳川吉宗の孫です。
若い頃から優秀で、次期将軍候補でもありましたが、白川藩松平家に養子に出されたことで将軍継承権を失います。
これが田沼意次の画策と噂されたので田沼を徹底批判しておきながら、自分は田沼に賄賂を贈っていたというのは有名な話です。
・・・また脱線(以下略
逆光気味だと目立つが、めちゃくちゃレンズが汚れているな。 -
中山道まで戻って、ちょっとだけ南下。
新板橋が見えます。
下を流れるのは石神井川。
新板橋があるということは旧板橋があるということで。
実はこちらの中山道は元々のものではなく、新中山道とも言うべき道路で、旧中山道が別にありますので、そちらに行きます。 -
中山道を渡って真っ直ぐ進みます。
こちらの道が旧中山道、そして板橋が架かっています。
板橋区の名前の由来はこの板橋だと考えるのが自然ですが、実ははっきりしているわけではないそうです。
よく見ると橋は2本架かっていますが、こちらから見て手前のほうが元々の橋の位置だということです。
なぜ2本あるかというと、石神井川がこの地点で急カーブしていてよく氾濫していたので、直線的な新河川を掘ってそちらに流すようにしたからだそうです。 -
ここまで日本橋から2里25町33間=10.642km。
1里=3930m、1町=109m、1間=1.82mとして計算すると、10.645kmになりますが、まあそれくらいということです。
新板橋にも、確か日本橋から11kmという標柱が立っていました。
甲州街道の旧第一宿を高井戸と言って、日本橋から4里=16kmあり、あまりにも遠いだろってことで内藤新宿が整備されましたが、板橋宿も相当遠いと思いましたが高井戸ほどではないということですね。
後に谷文晁に入門する渡辺崋山が、若い頃生活が苦しく、まだ幼い弟を奉公に出すため、雪の降る中この橋で見送った、というエピソードも残っています。
この逸話は、崋山の自伝風「退役願書之稿」に載っている話のようです。
橋には、涙の別離がよく似合う。
ここをまた北側、つまり駅方面に進みます。 -
小さい石碑が建っています。
軽犯罪者に対する処罰として、江戸から追放する、というのがあって、それを「江戸払い」と言いますが、この辺りで放された、ということです。
まあわかりやすいように先ほどの橋が境目と言っても良いでしょうね。 -
さらに進んで、交差点にそびえる「縁切榎」。
この榎は確か3代目か4代目です。
早い話が、良縁であろうが悪縁であろうが切ってしまう、ということで、離婚したい人は樹皮を煎じて相手に飲ませたりして、嫁入りや婿入りの行列は避けて通るそうです。
10代将軍家治に降嫁した五十宮、12代将軍家慶に降嫁した楽宮は、ここを避けて別の道を通りました。
迂回路はどこにあるかはっきり知りませんが、愛染通りのさらに北側、根村道と呼ぶそうです。
有名なのが和宮ですが、ここを通るには通ったが、榎全体に布かなんかをかぶせて見えなくしてから通った、という話です。
ただしここの説明板によると、和宮も迂回路を通った、とあります。
京都から下ってくるのに(現代は東京駅へ向かうのを上りと呼ぶが、当時は上方から江戸へ入る質が高いものを「下りもの」と言って喜ばれた)、東海道ではなく中山道を通ったのにはいくつか理由があり、私もよく知らないが、大きな川が流れていないので、嫁入りなどの際には好まれた、というのがその一つだそうです。
家茂には、いわゆるお手つきの御中臈として「おひなの方」という人物がいたわけですが、和宮を迎えるにあたって側室がいるのは都合が悪い、ということで、毒殺で消されてしまった、という話です。
毒殺を指示したのは篤姫だとする説もあります。
閑話休題。
和宮の東下りのシーンは、来年の大河ドラマでも描かれるのでしょう。
いや、原作知らないけど、多分。 -
榎の下には祠がありますね。
特に切りたい縁はありませんが、一応お祈りだけしておきます。 -
縁切榎をちょっとだけ入っていって、板橋区公文書館。
ここは何?
小学校?
2階に公文書館がありますけど、展示などは特になく、図書館みたいに資料を調べるのに使うみたいです。
区立の公文書館って他にあるのでしょうか? -
再び都営三田線に乗って、終点西高島平駅まで。
三田線は途中から地上に出ますね。
終点が西高島平というのはもちろん知っていましたが、まさかここで降りる日が来ようとは。
駅を出ると、また国道17号線(中山道)と首都高池袋線に出会います。
ここから赤塚溜池公園を目指します。
これがまた遠いんだ。 -
ひたすら歩いて、公園に到着しました。
雰囲気は良さそうです。
まあ雰囲気が悪い公園というのもあまりないもので。
もしかしてここがいわゆる溜池でしょうか?
今日は釣り日和なのかどうかは知らないが、釣りを楽しんでいる人が多いです。
釣り人達のメッカとも言われているようですが、ホントかよ? -
溜池の向こう側に、板橋区立郷土資料館。
ここの展示は、今までで一番ひどいと思った。
ビデオが流れるらしいところでボタンを押しても、ぶっ壊れていて何も始まらない。
しゃーないから回ってみると、申し訳程度に3mくらい常設展があって、次に同じガラスケース内にいきなり特別展示が始まり、ちょっと進むと、また同じケース内に、常設展示しているらしい土器群が無造作に置かれていて、そしてまた特別展示。
常設展は邪魔だからどかしているという感じです。
何なんだここは?
まあ特別展だけは価値があるし、無料だからあまり文句も言えないけど、常設展をこんなおろそかにしているところは、ちょっとね・・・。
もっと郷土愛を示してくれないと。
板橋宿など、見どころもそれなりにあるわけだし。 -
屋外には、江戸時代後期に建てられたという農家の邸宅が展示してあります。
館内の展示より、こちらのほうがよっぽど見応えあり。
田中茂雄氏による寄贈の民家だそうです。 -
郷土資料館を後にし、公園内を進んでいくと、板橋区立美術館。
白河藩主・松平定信の御用絵師だった谷文晁は有名ですが、その弟子たちにもスポットライトを当てています。
私は渡辺崋山くらいしか名を知らなかったが、今回は谷一門の作品群を鑑賞できるという貴重な機会を得ました。
あと、今回の展示には出ていないが、田崎草雲も谷文晁門下だったというのも最近知った事実です。
料金は、区立と銘打っている施設にしてはかなり高い600円。
それにしては客も結構多いですね。
こんな辺鄙なところにあるのに。 -
公園前の通りは東京大仏通りといって、もちろん大仏があるからですが、その寺へ参拝しようと思います。
この辺の道はよくわからんが、ちょっとあやしいこちらに進んでみよう。
何か新たな発見があるかもしれない。 -
何もなかった。
さて、乗蓮寺というお寺に参詣しようと思ったら、「閉門午後四時」!
そりゃねえだろ、わざわざここまで来たのによ〜! -
大仏がわずかに見えます。
東京大仏といって、奈良、鎌倉の大仏に次ぐ大きさです。
悲惨な震災や戦災などが再び起きないようにという願いを込めて建立されたとのことです。
※追記:
たまたま知ったことですが大きさに関しては他にも高岡など諸説あり、どれをもって大きいとするかという決定打はなさそうです。 -
ぐるっと回って、こちらが正門のようですね。
この界隈まで来たら、乗蓮寺は是非参拝しておきたいところです。 -
大仏通りまで戻って、道路を挟んで反対側。
ちょろちょろとだけしか落ちていない滝があります。
「不動の滝」。
滝口に2体の不動尊石像が祀られているとのことですが、私には1体しか見えない・・・。
どんな干ばつでも枯れない、という話です。 -
最後に赤塚城本丸跡を見ることにします。
溜池公園の一部なのかどうかは知りませんが、公園から行けます。
鎌倉の管領・上杉氏についていた千葉実胤・自胤兄弟は、1456年、足利成氏に下総市川城を攻め落とされますが、太田道灌の助力によって武蔵国に逃れ、弟の自胤がこの赤塚城に移りました。
千葉自胤は、これまたこの界隈では有名な松月院という寺院の開基です。
丘の上が広場になっていますが、特に何もありません。
当時の城は、天守閣などを造るよりも、自然の地形をそのまま利用して防衛に努めたからなのかもしれません。
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