2007/10/06 - 2007/10/06
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のださん
10月6日・7日は増上寺とその周辺で「みなと区民まつり」が行われるということで、これにかこつけて増上寺へ参拝します。
区民まつりにはそれほど興味があるわけでもないが、増上寺参拝のきっかけとして選んだだけです。
そうでもしなけりゃ参拝しない自分もどうかと思う。
江戸の鬼門を守る寛永寺に対して、裏鬼門を守る増上寺。
神社の場合はどうかというと、鬼門は神田明神に対して裏鬼門は日枝神社ですがそれはいいとして。
元々は別の場所にある寺院だったが、徳川家康が江戸城に入るとき、行列がなかなか進まず、たまたま寺の前で止まって、住職と話をしたのが菩提寺になるきっかけだった、という話を聞いたことがあります。
実は家康は小田原にいるときから増上寺を菩提寺にしようと決めていたという説も有力のようです。
現在の場所に移ったのは1598年だそうです。
先の大戦でほとんどが焼失してしまったということで、現在の建造物は比較的新しいものなのでしょう。
まずは田町駅で降りて、三田界隈をちょこっとだけ回ってみます。
学生時代は毎日のように田町駅で降りていましたが、ほとんど勉強もせず無為に過ごしていたため、語れるだけのものを全く持っていません。
田町駅、三田界隈ともに開発が進んで、私の学生時代と比べて今は随分姿が変わっているようです。
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田町駅に着いたのはすでに9時過ぎ。
三田方面に降りて、第一京浜を北上します。
「江戸開城西郷南洲勝海舟会見之地」碑。
三田の史跡と言えば真っ先にこちらが挙がります。
西郷吉之助書とありますが、西郷隆盛の揮毫のようです。
西郷隆盛というのは実は父親の名前で、本名は西郷隆永、吉之助は通称です。
ここに薩摩藩邸があって、会談により無血開城へとつながっていきます。
来年は気力が続けば大河ドラマを観ようと思っていますが、この辺の話がどう描かれるか楽しみにしています。
篤姫がいなければ無血開城は実現しなかったでしょうし。
わずか23歳で未亡人となり天璋院と号した篤姫は、たびたび勝とのデートを楽しんだ、という逸話も残っています。
※追記:
題字を書いた「西郷吉之助」というのは、西郷隆盛の孫にあたる人物のようです。
とんだ恥を晒してしまった。 -
第一京浜を南下して、札の辻という交差点。
高札を掲げていたからですね。
罪人が首を晒されたりもしたようです。
ここをさらに南下すると、高輪大木戸、品川宿へとつながります。
芝口門が立ち、江戸の入り口だったようです。
すぐ東が江戸湾で、一日中見ていても飽きないことから「日暮御門」と呼ばれたそうです。
日光東照宮でもそんな話があったよね?
ここは追分とは逆で、市内への道を二手に分けています。 -
札の辻交差点から慶應義塾大学方面(東京タワー方面)に向かって、ちょっと右に入ると港区立港郷土資料館。
三田図書館の4Fにあります。
この図書館には学生時代しょっちゅう入っていて、なつかしく思いましたが、郷土資料館に入るのは初めて、と言うかあることすら知らなかった。
日曜祝日は休みというのは痛い。
展示数は非常に少ないです。
現在は「テーマ展 港区名所図会」として、麻布・赤坂の名所を描いた絵画を展示しています。
あと、「さわれる展示室」というのがあって、クジラの骨や縄文土器に触ってみることができますが、12時半からしか開かないことが判明。
マジかよ、それを楽しみに来たのによ〜。
なぜ時間制限があるのかよくわかりませんが、まあしゃーない、次のチャンスを待ちますか。 -
三田から芝公園までは歩いても行けるわけですが、あえて三田駅から都営浅草線に乗り隣の大門駅まで。
駅出口から増上寺へ向かう途中で寄り道します。
ちなみに、地下鉄に乗って芝公園まで行くには、通常は都営三田線が便利です。
まずは芝大神宮。
元々は現増上寺の場所にあったそうですが、増上寺の移転に伴い現在の場所に移されたとのことです(異説あり)。 -
生姜塚。
こちらではだらだら祭りという例大祭が行われます。
まあだらだらと長期間続くということなのでしょうが、主に売っているのは生姜だそうです。
べったら市と双璧をなす、と言ったら大げさでしょうか? -
鳥居の横にある貯金塚。
「貯金と災厄」として説明板があります。
牧野元次郎頭取の不動貯金銀行が、関東大震災の復興に多大なる貢献をした、ということです。
この銀行は協和銀行→りそな銀行と変遷します。
「倉は焼けても貯金は焼けぬ」・・・だそうです。
そう、ですか・・・ -
拝殿まで上がっていきます。
狛犬に「め組」とあります。
芝地区を担当していた町火消し・め組の鳶職人が力士連中ともめて騒ぎを起こした事件は「め組の喧嘩」として知られています。
その舞台がこの神社、当時は「芝神明宮」などと呼ばれていたそうです。
まさに「火事と喧嘩は江戸の華」を地で行く話で、歌舞伎の題材にもなり、事態を拡大させた半鐘はこちらに祀られているそうです。
この狛犬はめ組が奉納したという話があるそうですが、本当かどうかは知りません。
他には、足利直義の御教書(祈祷に対する感謝状)や、この辺りを支配していた吉良氏の朱印状、なども納められているそうです。 -
境内の力石。
ある意味力士ゆかりの場所ですので、ふさわしいですね。
明治時代に活躍した力士・金杉藤吉が、片手で持ち上げたそうです。
五十貫余、とありますが、1貫=3.75kgとすると、約190kg。
港区にある力石のうち、力士ゆかりのものはこれだけだそうです。 -
再び通りに出て、言わずと知れた大門が見えてきます。
駅名にもなっています。
増上寺総門ですが、昭和12年に造られたコンクリート製だそうです。
旧大門は、芝に移転してくる際、家康から江戸城の高麗門を譲り受けたのだそうです。 -
大門をくぐって、また寄り道。
港区役所方向に曲がります。
その途中にある常照院。
増上寺の子院だそうですが、江戸時代はこの界隈は子院で埋め尽くされたという話も聞いたことがあります。
ところで、なぜここに寄るのか? -
こちらには、「白子屋お熊」の墓があります。
大岡忠相が実際に裁いた唯一の事件として有名で、後に「城木屋お駒」として芝居の題材にもなりました。
お熊は、殺人未遂や不義密通などの罪に問われた、のかどうかは知らないが、鈴ヶ森刑場で処刑されます。
吉宗の倹約時代ですので、「こんな女はこうなるぞ」っていう見せしめなのかもしれませんが、特にすぐれた裁きではないようです。
忠相は名奉行として後世に名を残すこととなりますが、それは司法制度を改革したからですね。
連座制は廃止、拷問や島流しもかなりの制限を加えたらしいです。 -
港区役所前までやってきました。
すでに出店で埋め尽くされています。
「浅岡飯たきの井」。
万治3(1660)年、伊達騒動が勃発しました。
仙台藩3代藩主伊達綱宗は酒に溺れて暗愚だったため、強制的に隠居させられ、わずか2歳(今で言うと1歳?)の亀千代が後を継ぎました。
4代藩主伊達綱村です。
綱宗の側室である浅岡の局は、伊達家の仕度所としても使われていた良源院(増上寺子院)にて、わが子の亀千代を毒殺の危険から守ろうと、この井戸の水を汲んで食事を作った、と伝えられています。 -
まだ増上寺へは入りません。
随分と前置きが長いです。
万延元年遣米使節記念碑。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換の使命を帯びて、江戸竹芝より初の遣米使節が旅立ったのだそうです。
100周年を記念して碑が建立されました。 -
ペリー提督の胸像が向かい側に。
「ペルリ提督の像」だそうです。
といっても、今日は出店のテントが邪魔でしょうがない。 -
さあ、ようやく増上寺に入ります。
威厳のある三門です。
三解脱門と呼びます。
三つの煩悩を解脱する門だそうです。
三門とは、解脱するために入る空門、無想門、無作門。
大門が表門だとすれば、こちらは中門です。
江戸初期に大造営された際の面影を残す唯一の建造物だそうです。 -
境内に入ると、すでにまつりでにぎわっています。
区民まつりをきっかけに来ましたが、ここまで来る間に、正直まつりなどどうでもよくなってきました。
何にも興味ない。
入って右側に松が見えますが、グラント将軍が植樹したものです。
上野公園では檜を植えましたが、増上寺にも参詣し、松を植えたということです。
その名もグラント松。 -
鐘楼堂。
この梵鐘はでかい。
江戸の梵鐘の中でも特に有名で、川柳も多く残っていますが、代表的なのが「今鳴るは芝か上野か浅草か」。
増上寺、寛永寺、浅草寺ともに徳川家の拠り所となった寺院ですね。
4代将軍家綱の時代に鋳造されました。
江戸で鋳造されたので江戸っ子鐘と呼ばれ、100里先に届いたのだそうです。
「江戸七分ほどは聞える芝の鐘」 -
右手に進みます。
「阿波丸事件殉難者之碑」。
昭和20年4月1日、台湾沖を進んでいた貨客船「阿波丸」が、アメリカ潜水艦「クィーンフィッシュ」の魚雷を受けて沈没してしまったのが阿波丸事件。
タイタニック事件を上回る世界最大の海難事故です。
この船を攻撃することは国際法違反であり、アメリカも非を認めたにもかかわらず、戦後には、こともあろうに日本は賠償請求権を放棄します。
戦勝国は絶対正義という風潮の中では仕方なかったのでしょうか?
この事件は風化させてはいけません。 -
ここにもめ組?
め組供養碑と言って、め組の殉難者・物故者の供養のためだそうです。 -
弔魂之碑。
山岡鉄舟の揮毫だそうです。
西南戦争従軍犠牲看護者二十人慰霊、を目的としているのだそうです。 -
参道をまたいで、三解脱門から見れば左側。
聖観世音菩薩像。
ホテルニュージャパン火災の犠牲者を慰霊するために建立されたそうです。
この事件は私もおぼろげながら記憶があります。
スプリンクラーがついていなかったとか社長の会見がめちゃくちゃ批判を呼んだとか・・・。
力道山が刺されたクラブもこのホテルにあったそうですね。 -
一旦黒門から出ます。
方丈(庫裡)の表門だったから旧方丈門だそうです。 -
白塗りの経蔵。
家康が増上寺に寄進した大蔵経が納められています。 -
案内図を見て歩いているわけでもないので、どこに何があるのか実はよくわかっていませんが、適当に進んでいます。
一応南側は芝公園として区域が分かれているみたいです。
旧台徳院霊廟惣門。
台徳院というのは2代将軍秀忠の号です。
3代将軍家光が霊廟を建立したそうです。
空襲で焼け残った数少ない建造物のうちの一つ。
二体の木造仁王像が安置されています。
秀忠の廟は増上寺の南側にあるのでいわゆる南廟です。 -
適当に歩いていると芝東照宮が見えますので、参拝。
元々は増上寺内において家康を祀る安国殿だったが、神仏分離によって東照宮として独立した、とのことです。 -
大イチョウ。
寛永18(1641)年、安国殿再建の際、3代将軍家光が植えたとのことです。 -
拝殿まで上がってきました。
「大徳川展」というのが見えますが、10日に始まる東京国立博物館の特別展のことです。 -
また公園内を進むと、盛り上がっている部分があります。
芝丸山古墳です。
都内最大級の前方後円墳で、坪井正五郎が調査した、とのことです。
登ってみます。 -
古墳を登っていくと、「伊能忠敬測地遺功表」。
なぜ古墳の上に建っているのかは知らないが、起点としたのは高輪大木戸、という話は聞いたことがあります。
最初は1889(明治22)年に東京地学協会が青銅製のものを建てたが、戦時中の金属回収政策により取り壊されて、1965(昭和40)年に再建されて現在に至るのだそうです。
伊能忠敬は元々商人で、かなりの成功を収めたので、当初は私財を投げ打って測地していました。
現在の貨幣価値に換算して数億円とも言われています。
測量・天文学を学び始めるのが何と50歳のとき。
当時の平均寿命を考慮すると驚異的なことかもしれません。
何かを始めるのに遅すぎるということはない、というメッセージとも言えます。 -
昨今再び脚光を浴びているらしい東京タワーが見えます。
東京タワーが建っているところも、実は元々増上寺の敷地内です。
東京タワーは、当然観光スポットとして建てられたわけではなく、都内にテレビ電波を届ける目的で計画されました。
相当に広大な土地が必要で、展望台を造るので見晴らしも良くなくてはいけない。
増上寺の境内一帯は1873年に公園に指定され、25区画に分割されました。
その中の紅葉山という区画に建てられました。
秀忠が江戸城からカエデなどを移したから紅葉山と呼ばれたそうです。 -
境内に戻って、大殿の裏を通って表にやってきました。
大殿はでかいですね。
メインステージでは大道芸が行われているようです。
スルーでいきます。 -
大殿の南側に光摂殿があります。
今日は天井絵を特別公開しているみたいです。
大広間の天井に、(多分近代)日本画家120名の絵画(草花図)がはめ込まれており、普段は入ることはできないようです。
これは貴重な経験だ。
境内は人が多すぎでうんざりだが、今日来た甲斐があったということでしょう。 -
大殿の北側は安国殿。
家康が崇拝したという阿弥陀如来、通称「黒本尊」が祀られています。
よくわからないのですが、安国殿というのは現在の芝東照宮の場所にあったが、分離独立した後にこちらの安国殿が建立された、ということでしょうか? -
安国殿の前に西向観音。
子育て安産に霊験あらたか、だそうです。 -
安国殿の裏手に、言わずと知れた徳川将軍家墓所。
「鋳抜門」という門が構えています。
普段は公開されていないということも実は知らなかったが、今日は特別に公開しているということで、やはり今日来て正解でした。
公開されているとは言え墓地ですので、静かに回ります。
まあ私は当然いつも静かですよ。 -
2・6・7・9・12・14代の各将軍墓が安置されています。
石製のものもあれば青銅製のものもあります。
それに加えて、家茂の隣には和宮、その隣には将軍の生母や側室たちが眠っています。
秀忠の正室で織田信長の姪でもある崇源院(お江与)は、秀忠とともに埋葬されていますが、和宮は家茂とは別に墓を建てられているのは特別扱いなのか何なのか?
注目すべき点ではあると思います。
家茂の隣に埋葬というのは和宮の遺志だったそうですね。 -
静寛院というのは和宮の号ですね。
和宮と増上寺墓所と言えば、忘れてはいけないエピソードが。
1959年から1960年にかけて墓所が改装されたわけですが、埋葬されている方々の遺骸も発掘調査されました。
なぜか和宮の左手の骨が見つからない。
実は生前すでに左手を失っていたのではないか、という説が浮上しました。
また、棺から男性の写真が見つかりましたが、この男性は家茂の可能性が高いと言われています。
降嫁する前の婚約者だった有栖川宮熾仁親王だとする説もあります。
政略結婚とは言え、夫婦仲は相当良かったというのが定説のようです。 -
さて、ランチを摂ろう。
芝公園近辺のホテルと言えば東京プリンスホテル、というくらいに有名なこちらにしましょう。
元々は徳川家霊廟の敷地だったところに建っているそうです。 -
区民まつりの喧騒から離れて、ホテル内は驚くほど静かです。
B1Fのレストランペトレアで食べることにします。
Aランチとかいうのを注文。
コーヒーつきでしめて2,000円。 -
秋鮭と何とかのパスタってやつですが、オリーブオイルが多いのか、最後のほうはちょっとくどい。
まあでも、落ち着いて食事できたので良しとします。 -
プリンスホテル駐車場北側に位置する御成門。
将軍が増上寺に参詣する際によくこちらの裏門が使われていたので、将軍が御成りになる、ってことで御成門。
こちらも空襲で焼け残った数少ない遺構です。
元々はこことは別の場所(現在の御成門交差点)にあったのを移転させたそうです。 -
御成門よりも御成門駅の出口に近いのが、二天門。
有章院霊廟の門です。
有章院というのは、わずか7歳でこの世を去った悲劇の7代将軍家継のことです。
将軍に就任した家継が幼少のため、生母の月光院や新井白石・間部詮房らが政治に大幅に関与し、勢力争いのあおりを受けて絵島生島事件が起こってしまいます。
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