2003/09/06 - 2003/09/07
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drakenさん
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映画『俺は、君のためにこそ 死にに行く』が上映されて、
再び注目された『特攻隊』
彼らはたった一つしかない命を何のために捧げて、散華されたのか?
映画の舞台となった『鹿児島県・知覧』の写真とともにdraken
なりのコメントを書かせていただきます。
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懐かしの名古屋空港&JASのレインボーカラーの
機体 -
鹿児島空港のターミナルビルの反対側から見えたのは
日本製の唯一の旅客機『YS−11』
出現した当初、圧倒的な強さを誇っていた名機、
零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を作り上げた日本の航空技術。
敗戦後進駐したGHQは、そんな日本の航空技術を発展させないため、資料を焼却処分させ、日本に民間機さえ作る事を禁じた。
だが、戦後12年過ぎた1957年にに日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除される事となり、再び日本の翼を甦らせようとした5人のサムライが立ち上がった。
その国産旅客機のプロジェクトチームにはゼロ戦の設計を担当した堀越二郎氏も含まれていた。
そのチームが完成させたのがこの『YS−11』なのです。
日本の翼が日本の空に甦るまでを描いたストーリーが
プロジェクトX『翼はよみがえった <YS−11>日本初の国産旅客機』で紹介されています。
機会がありましたら、ぜひコチラの方もご覧ください。 -
鹿児島空港に着陸態勢に入ったYS−11
着陸時はエンジン出力を下げるので、音は多少静かです。
しかし、離陸時は当然の事ながら、エンジン出力を上げて飛び立つのでプロペラ機独特のエンジン音がして、ファンにはたまらないです。
ブロロロロ〜♪
62年前の特攻隊機もこんな感じの音を出して、帰らぬ旅に出たのでしょうか。
でも、それは淋しい悲しげな音だったかも・・・。 -
九州自動車道で鹿児島市内に向かいます。
ここは途中立ち寄った桜島サービスエリアで見つけた
いかにも『鹿児島』っていう西郷どん変身セット
ちなみにココのサービスエリアでは無料で桜島の火山灰を持ち帰る事ができました。
僕も記念に持ち帰ったんだけど、どこに行ったんだろう・・・。 -
ついに、特攻隊の出撃基地があった知覧町に到着です。
http://maps.google.co.jp/maps?ie=UTF-8&oe=UTF-8&hl=ja&tab=wl&q=
こんな山あいののどかな町から、62年前に多くの若者が帰らぬ旅に出たなんて・・・。
この山の風景は62年前と変わらないだろうから、出撃のために初めて知覧を訪れた若者達も、こののどかな風景を見たんでしょう。
遠い故郷を思い出した人もいたかもしれませんね。 -
今回の旅のメイン
知覧特攻平和会館に到着しました。
空が眩しいくらいに青いです。
62年前のこんな晴天時には、多くの若者が出撃していった事でしょう。
館内の写真撮影は禁止されているので、これ以降は知覧町の公式HPを参考に進めさせて頂きます。
ただ、この地を訪れたのが4年近く前の事なので、僕の記憶違い等があるかも知れませんが、ご了承下さい。
知覧特攻平和会館
http://www.town.chiran.kagoshima.jp//cgi-bin/hpViewContents.cgi?pID=20041215091804
参考図書
特攻へのレクイエム
http://www.amazon.co.jp/%E7%89%B9%E6%94%BB%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A0-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E9%9B%AA%E6%9E%9D/dp/4120031675/ref=pd_bbs_sr_1/503-1236882-1822301?ie=UTF8&s=books&qid=1182646744&sr=8-1
特攻隊員の命の声が聞こえる
http://www.amazon.co.jp/%E7%89%B9%E6%94%BB%E9%9A%8A%E5%93%A1%E3%81%AE%E5%91%BD%E3%81%AE%E5%A3%B0%E3%81%8C%E8%81%9E%E3%81%93%E3%81%88%E3%82%8B%E2%80%95%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%80%81%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%82%8F%E3%81%8C%E7%A5%96%E5%9B%BD-%E7%A5%9E%E5%9D%82-%E6%AC%A1%E9%83%8E/dp/456957601X/ref=pd_sim_b_4/503-1236882-1822301?ie=UTF8&qid=1182646744&sr=8-1 -
特別攻撃隊について語るには、現在の考え方ではなく、当時の状況から特攻に至った背景を知る必要があります。
特攻を考え出したのは大西瀧治朗中将ですが、彼は
「特攻は統率の外道」と認識していました。ではなぜ、『外道』な作戦の特攻を実行したのか?
当時のコメントを書き出します。
(大西中将が赴任したフィリピンは、もう戦闘機は
40機ほどしか残っていなかった。その戦力しかない状況でのコメントです。)
「もう日本は戦争を続けるべきではない。一日も早く講和条約を結ぶべきだ。マリアナを失った今日、敵はすでにサイパンから内地を爆撃できる大型爆撃機を配備している。今の日本の戦力では、残念ながらこれを阻止できない。また重油、ガソリンが半年分しかない。(中略)半年後には、工場も飛行機も戦車も軍艦も動けなくなってしまう。そうなってからでは遅いのだ。しかしガダルカナル以来、一度として敵の反抗を食い止めたことがない。一度でいいから、敵をレイテから追い落とし、それを機会に講和に持ち込めば、敵に七分、味方に三分の条件でできる。(中略)日本(本土)を守るためにも特攻を実施して、フィリピンを最後の戦場にしなければならない。(以下略)」
特攻を統率の外道と考えていた大西中将は、特攻を局面打開の非常手段として考えていたようである。
同じく大西中将の言葉
「少なくとも1週間くらい敵の空母の甲板を使えないようにする必要がある。それには零戦に250kg爆弾を抱えさせて、体当たり攻撃をやる他に確実な方法はないと思うが、どんなものだろう。」
本土を焼き尽くされる前に、講和に持ち込むための局面打開作戦として、(あくまでも)一時的に(統率の外道である)特攻を実施したいのだが、皆さんはどうお考えですか?
というコメントだと僕は思います。
そして、特攻作戦実施が決まり、(映画中にもあった)関行男大尉を指揮官とする23名が選ばれ、敷島、大和、朝日、山桜の4隊が編成された。
大西中将や飛行長中島少佐たちの前で突然隊長指名を受けた関大尉は、頭を抱えて考え込んだという。彼は結婚したばかりで妻も年老いた母もいた。しばらくの沈黙の後、「承知しました」と答え、自室に遺書を書きに戻っていったという。この後、当時このマバラカット基地にいた海軍報道班員のインタビューに対し関はこう答えている。
「僕には体当たりしなくても敵空母に500kg爆弾を命中させる自信がある。日本もおしまいだよ、僕のような優秀なパイロットを殺すなんてね。僕は天皇陛下のためとか日本帝国のためとかで行くんじゃないよ。妻を護るために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう」
多少、自暴自棄になっているように感じますが、
それが素直な感情だと思います。
最愛の者のために死ぬ と思うしかなかったでしょうね。
そして、出撃にあたり大西中将の訓示
「この体当たり攻撃隊を神風(じんぷう)特別攻撃隊と命名し、4隊を敷島、大和、朝日、山桜とする。日本はまさに危機にある。この機器を救える者は大臣でも、大将でも、軍令部総長でもない。もちろん自分のような長官でもない。それは諸氏のごとき純真にして気力に満ちた若い人達のみである。自分は一億国民に代わってお願いする。どうか成功を祈る・・・。皆はすでに命を捨てた神であるから、欲望はないであろう。ただ自分の体当たりの戦果を知ることができないのが心残りであろう。自分はこれを見届けて、必ず上聞に達するようにする。しっかり頼む」と涙ぐんだ。
この日(10月20日)は、天候不順などの理由で戦果をあげる事無く帰還する事を余儀なくされた。2回目、3回目の出撃も不発に終わった。死を決意して、3度も帰還。隊員達にとっては、地獄のような試練だったろう。
指揮官に任命された関大尉は、帰投するたびに「申し訳ありません」と涙を流して謝った。関大尉は最後の出撃の日まで、一睡もしてなかったという・・・。
4回目の出撃となった10月25日、各隊は次々と体当たり攻撃を成功させ、大戦果をあげた。関大尉も、この日ついに空母に突入し、散華された。
隊員の方々は、生き地獄からやっと開放されるという
気持ちだったんでしょうね。
http://www.town.chiran.kagoshima.jp//cgi-bin/hpViewContents.cgi?pID=20041215092452
↑見学当時、以上のような背景は知らなかったにも関わらず、会館内でこの画を見て、涙をボロボロと流してしまいました。
安らかにお眠り下さい。 -
この初回の特攻での戦果の大きさが、その後の闇雲な特攻攻撃へと続いていった。
通常の戦闘行為と異なり、ほとんど生還の道はない、むしろ死にに行く と言える特攻攻撃。
そんな死刑宣告ともいえる指名を受けた隊員は、出撃までにどんな思いで過ごしたのでしょう。
不意に限りができてしまった自分の時間(生命)、残り少ない時間。だからこそ生きとし生けるものへの感情移入をする者が多かったそうです。
ある者は出撃直前(4月)に見た桜が人生で最も美しかった と日記に残し、別の隊員は出撃前ににこにこしながら、整備兵の所に近づいて来て、「一緒に連れて行くには忍びない。かわいそうだから、大切にしてやってくれ」と、自分の飛行服についていたしらみをつまんで渡して飛び去ったという。
しらみに対してでさえ、感情移入できるのだから、残していく両親、妻、子供に対して、どれほどの思いが
あっただろう。
特攻隊員の遺書を一部紹介します
相花信夫 伍長 18歳
遺書 母を慕いて
母上お元気ですか
永い間本当にありがとうございました
我6歳の時より育て下されし母
継母とはいえ、世のこの種の女にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福だった
遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと -
家族と離れて知覧にやって来た特攻隊員達に、最後の家族の温もりを与えてくれたのは、特攻おばさんこと
鳥浜とめさんや、特攻隊員たちの身の回りの世話をしていた知覧高等女学校の生徒達であろう。
映画にもあったように、知覧で富屋食堂という軍用食堂を経営していたトメさんは、死を目前にしたまだ20歳くらいの若い隊員達に家族の温もりを感じてもらいたいと切望していました。
そんなトメさんの優しさに多くの隊員は、トメさんを母のように慕った。
息子のようにかわいがっていた若者達が、日に日に2度と帰らぬ出撃に出て行く・・・。どうしようもできないとわかっていても、トメさんにとってはとてもつらい日々だったろう。
そして知覧高等女学校の生徒達(通称 なでしこ部隊)も勤労動員で特攻隊員たちの身の回りの世話をする事になったのだが、食事や洗濯、掃除なども隊員達を気持ちよく送り出してあげようと、献身的に尽くし
ていました。作業以外にも、隊員達の話し相手になったり、一緒に歌を歌ったりして隊員達に安らぎを与えていたと思います。
桜の季節には、せめてものはなむけにと、町の人に叱られようが構わず、桜の枝を折って隊員達に捧げたそうです。
そんな温もりを与えてくれた女学生の皆さんに隊員たちが語った言葉にこんなのがあります。
「自分達が、必ず日本を護るから。日本を良くするから、その時は頑張って勉強するんだよ」
「自分達が死んで日本を護るよ」
また、ある隊員は書簡で
「俺は昨日、静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔も見えない遠くから、俺達に頭を下げてくれた子供達のいじらしさに強く胸を打たれた。(中略)ほんとうにあのような可愛い子供達のためなら、生命も決して惜しくはない」
多くの特攻隊員の中には、不本意ながら命令で出撃した人もいたかもしれません。でも、自分の命を懸けてでも護るべきもの(家族、子供達、日本など)がみつかった人は、そんな人たちのために死にに行く 事ができたんじゃないでしょうか? -
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この旅行記へのコメント (4)
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- ぼぬかいさん 2007/06/25 12:10:46
- 切ない。。。。
- ワタシは映画でも戦争ものは絶対見ないのですが、事実を知るのも大切なのですよね。
この時代にはこの方法しか無かったのでせうか。。。
いつか必ず争いのない世界が来ることを願って止みません。
そして中華航空の事故。
思い出しましたよ。大変な事故でした。
カンの強い友人が事故現場の近くを通った時に今でも色んな思いが残っているのを感じたそうです。
旅行好きな私らには人事ではないですよね。
防げる事故なら確実に防いで欲しいと願います。
もう犠牲者を出さない為にも、たのしい旅の為にも。
たまにはマジなことをいう ぼぬかいでした。
この次にマジなことをいうのは、多分。。。。二年後くらいか。
- drakenさん からの返信 2007/06/30 10:43:52
- RE: 切ない。。。。
- 書き込みありがとうございます。
ぼぬかいさんの気持ち、僕も分かりますよ。
戦争映画は人が死んでいく映像がいっぱいですからね。
でも事実を知らなきゃ、いけないとも思うのですよ。
>この時代にはこの方法しか無かったのでせうか。。。
ぼぬかいさんの世代も多分、学校では日本が侵略戦争を起こした と学校では習ったんではないでしょうか?
僕も学校で習った事を事実だと思っていました。
でも、あるきっかけで自分で本を読んで調べてみると、事実は戦争で日本を叩きたかったアメリカが、戦争を回避しようと努力した日本をいたぶり続け、暴発させたと知ったのです。
当時は支配する側になるか、支配される側になるかの時代。
日本が反抗しなかったら、そのまま東南アジア諸国のように欧米の植民地に
されていたかもしれません。
確かに戦争で非常に多くの犠牲をだしましたが、戦わず植民地にされていたら、今のような日本の繁栄があったかどうか・・・。
当時のそういう状況から僕は、全く日本が悪くないとは言わないけど、アメリカも悪いだろっ!! と考えています。
戦後、アメリカが日本人に押し付けた「日本はひどいことをした、諸外国に謝らなければ」という『自虐史観』が日本の教育界に残り、日本の事を嫌い、日本人として誇りを持てない若い人が作り出されているのです。
でもね、ネットの普及で事実を知って、日本人としての誇りを取り戻す若い人たちが増えてきているんです。
僕も旅行記を通じて、観光地の地理だけでなく、歴史からのアプローチで
日本の事を好きになってくれるひとが増えてくれればと 思っています。
押し付けじゃなく、参考資料を提示して、どう感じるかは本人に任せますけどね。
前半が長くなっちゃったけど、中華航空の事故現場も航空機を利用するトラベラーとして、近くに行くついでにみなさんにぜひ紹介したいなと 思いました。
>この次にマジなことをいうのは、多分。。。。二年後くらいか
2年に一度の貴重な発言を引き出してしまって スイマセンでした〜。
-
- crosswordさん 2007/06/24 08:47:58
- 知覧と映画
- drakenさんへ
お久しぶりです!
気になるタイトルが出ていたのでやってきました。
drakenさんは2003年に訪れていたのですね。
私もあの映画を見て感じるところが多くて、
もしできれば知覧に行ってみたいと思っていたところです。
映画をテーマにしたツアーもありましたので、
それを利用して知覧と周辺を見てきたいですが、
スケジュールがどうなるか...。
crossword
- drakenさん からの返信 2007/06/24 11:24:31
- RE: 知覧と映画
- crosswordさん、一票ありがとうございます。
知覧の旅行記はこれからコメントをつけていく所なんですが、
励みになります。
crosswordさんは近々鹿児島旅行の予定があるのですか?
知覧は特攻平和会館の他に、薩摩の小京都と呼ばれる武家屋敷の街並みが
美しい所なので、時間があればぜひ立ち寄られる事をお勧めしますよ。
特攻平和会館のコメントは、ネットや本で調べながら書き込むので、
多少時間がかかると思いますが、武家屋敷や長崎鼻、指宿の写真だけは
早めにアップしておきますので、良かったら参考にしてくださいね。
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