2007/05/29 - 2009/03/20
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Krisflyerさん
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デリーは12世紀にトルコから来たイスラム系奴隷王朝以来、長期に渡りムスリム王朝による都が次々に建てられた。中でも最後のムスリム王朝であったムガール朝時代には、ヒンズー教文化との融合によりインド独特のイスラム建築様式(サラセン様式とも言う)が花開いた時期でも有る。
ムガールの王、そしてその王朝に使えた宰相達は自分たちの廟や、天文台等をデリーに数多く建設し、今でもそれらの建造物はよく保存されている。
特に、コンノートプレースを中心としたニューデリー地域には、世界遺産にも認定された遺跡や、世界遺産クラスの見ごたえの有る大型遺産が多数残されている。
まずは、その中でも特に重要な建造物を巡ってみた。
①フマユーン廟
②ジャンタル・マンタル
③シャフダルジャン廟
④プラーナ・キラ
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 2.0
- グルメ
- 3.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 1.0
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 交通手段
- レンタカー
-
フマユーン廟に隣接するイサカーン廟への入り口。
イサ・カーン廟はフマユーン廟建造物群の中に位置する廟であるが、フマユーン廟より若干古く、また建築様式も全く異なるローディー様式である。
この様に廟の周囲を防護的目的で周囲壁を取り付けるのは典型的なローディ様式の建築の特徴である。ローディー以降ムガール時代に入ると、この様な壁は装飾的目的の色合いが濃いものへと移り変わっていく。 -
●イサ・カーン廟/Tomb of Isa Khan
建築:1547-48年
フマユーン廟の南西方向に隣接してイサ・カーン廟のコンプレックスが有る。八角形の敷地の真ん中には、同じく八角形の形をしたイサ・カーンの廟が置かれている。
イサ・カーンはシェール・シャー王朝時代の貴族。フマユーン廟はこの廟からかなり影響を受けたと思われる。 -
イサ・カーン廟内の棺群
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イサ・カーン廟は棺が置かれている講堂の周囲を巡るように回廊が有る。回廊も同じ8角形となっており、それぞれ8方向に向かって3つのアーチ型の開口部が有る。
回廊の天井部分もアーチ型になっているのに注目。柱型にはそれぞれ細かな彫刻が施されているのも必見。 -
講堂と回廊の間にはこの様にジャリJalisと呼ばれる透かし彫り付きの彫刻が施され、これらが明かり窓の役割も果たしている。
このジャリは今後ムガール時代の数多くの建築に取り入れられている。 -
●イサ・カーン廟コンプレックスのモスク
イサ・カーン廟コンプレックス内の西側にメッカの方角へ向かってモスクが建てられている。モスクの構内中央部分にはメッカの方角に向かってミハラブが取り付けられている。 -
●ブ・ハリマ門
フマユーン廟の敷地内へ通じる門で、敷地内へ入った後の1番目の門である。16世紀後半の建築である為、フマユーン廟そのものより随分後の建築である。 -
●アラブ・サライの北門
1560年頃の建築。
建築そのものは、フマユーン廟に大変似た様式では有るが、若干アフガン様式寄りになっている。 -
●アフサルワラ廟とモスク
アラブサライの中に有る廟とモスク。1566年以前の建築である。
実際の建築年は不明であるが、廟の中の棺の一つに1566年の記載がある事から、少なくともそれより前には建てられたものと推測される。
実際のところ、この廟とモスクが何の目的で建てられたかは、はっきりしておらず、アフサル=オフィサーを意味しており、軍隊のコマンダーの為のモスクと廟とも考えられる。
現在はアラブサライの中に有るが、元々はアラブサライとば別物として建てられており、個別の出入り口を持っている。 -
●フマユーン廟 Humayun Tomb
ムガール第2代皇帝のフマユーンはシェールシャー王朝との戦いによって失ったデリーを晩年に失地回復したが、その翌年階段から足を滑らせて事故死してしまう。
この廟はフマユーンの死後、その后によって建てられたものである。この廟の建設によりイスラム廟のひとつの建築様式が確立され、それが後のタージマハールの建築へと繋がっていく。
玉ねぎ型ドーム屋根はムガール初期の様相(下部が膨らんでいない)であるが、基壇の上のシンメトリーなデザインはまさにタージマハールの原型でも有る。 -
・廟の正面玄関
後のムガール建築では一般的となるアーチ型の玄関。廟のみならず城砦にも同じような門が設けられているのが、多数見られる。
大きなアーチの中に、二層式となったアーチ開放部が見られるのが特徴。アーチ上部の両脇にはダビデの星の紋章が有る。 -
・フマユーン帝の棺
石棺では有るが、ドーム内に位置しているのは、そこに埋葬していることを示す墓碑的役割の石棺であり、レプリカである。
実際の遺体はこの石棺の下部に埋葬されている。 -
フマユーン廟を東側から見上げた様子。西側から見るよりも基壇の大きさが際立って見える。
基壇にも多数のアーチが有るが、この中にはフマユーン帝の親族一同が埋葬されている。
基壇及び廟部分は上から見ると正方形の形をしており、東西南北それぞれの方角のデザインは同一デザインである。 -
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●バルバルの廟 Barber Tomb
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ジャンタルマンタル
Jantar Mantar
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デリーの中心部コンノート・プレイスに程近いところにある不思議な建造物。ともすれば何かの記念碑と思われるかもしれないが、これらの建造物はすべて天文台、或いは天体観測用として作られたものである。
ジャンタルマンタルを造ったのはジャイプールのマハーラージャ、スワイ・ジャイ・シン2世。自身が優秀な天文学者でもあったジャイ・シンは自身の研究を深める為にもこの様な天文台をインド各地に造った。
もっとも大きいのはジャイプールに残るもの。自身の宮殿のすぐ横に造られている。 -
●ミシュラ・ヤントラ(Misra Yantra)
この建造物はデリーのジャンタルマンタルにしかない。ジャイシン2世の建造ではなく、その息子マド・シンによるものらしい。
この建造物の中に5つの機材が含まれている。ダクシノットラ・バッティ、サムラート、ニヤットチャクラ、カルカ・ラシヴァルヤ、ウエスタン・クァドラントである。 -
●サムラート・ヤントラ(Samrat Yantra)
ジャイシン2世が建てた全てのジャンタル・マンタルに有る建造物で、デリーのジャンタルマンタルにおいては、最大の建造物。中央の長い階段状のもの、両脇の4分弧にて構成されるが、東側の4分弧(写真右)は、それだけで独立した機能を持つ機器でもある。
いわゆる日時計で、太陽時刻、現在時刻、赤緯の計測が可能。
真ん中の建造物は高さ20mもあり、この頂上からの風景は立派な物であったが、最近阿呆2人が上から飛び降りるという事故が起きてから、上れなくなった。 -
●シャンタマサ・ヤントラ(Shanthamasa Yantra)
サムラートヤントラを構成する機器でもあり、サムラートヤントラの東側に位置する4分弧の機器。
赤緯、天頂距離、太陽の直径を計ることが出来る。 -
サムラートヤントラとシャンタマサヤントラ2つをセットで見たところ。サムラートヤントラの大きさが群を抜いているのがよく判る。
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●ジャイ・プラカッシュ・ヤントラ(Jai Prakash Yantra)
ジャイの光という意味のまさにジャイシンの名前に因んで名づけられた機器。
天体の座標、現在時刻、黄道帯の観測の為に使用された。 -
●ラム・ヤントラ(Ram Yantras)
天空の物体(月、星、太陽)の垂直や水平の位置の角度を測定する機器。
名前の由来は、ジャイシン2世の父、ラム・シンに因んで名づけられた。
ジャイプールとデリーのジャンタルマンタルにのみ存在する機器で、2つの円形の建造物より構成されていてる。 -
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シャフダルジャン廟
Shafdarjung Tomb
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デリーの南部、高級住宅街の一角に残る廟。ムガール帝国末期に立てられた廟で、当時デリー一帯にあった地方自治国のアヴァド国の宰相でもあった、シャフダルジャンの為に建てられた。
ムガール末期の為、デリーに残るほかの建造物に比較すると幾分か規模的にも小さいが、ムガール建築様式の完成型ともいえる設計が特徴である。 -
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●シャフダルジャン廟
タージマハルやフマユーン廟に比較すると規模的には小さいながらも、ムガール帝国時代に確立したイスラム様式のデザインの完成型である。
特にドームの屋根部分は膨らみのある玉ねぎ型をしている。 -
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プラーナ・キラ
Purana Qila
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フマユーン廟建築群のすぐ北側に位置する城塞。伝説によるとここにはインドラプラスタと呼ばれる都が置かれていたそうで、その跡地に建築されたのがこの城塞。
今有る城塞はムガール皇帝のフマユーン帝によって1533年から実に5年を費やして建てられた物。特に先述のフマユーンには所縁や因縁の深い場所でもある。
フマユーンの時代にはここで政治を行っており、図書館や井戸、モスクが残されている。1553年には一時的にアフガン王のシェールシャーによって奪われたが、後に奪還した。 -
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●シェール・マンダル
フマユーン帝の図書室が収められていた8角形の建物。プラーナキラの中でもひと際目立つ建築であり、シンボル的な存在。
この地を奪還したフマユーンはその1年後にこの図書館の階段から足を踏み外して亡くなったらしい。今なお謎の残る事件である。
建築自体は2層建築となっており、それぞれの層にアーチ型の開放窓が設けられている。 -
この塔はシェールシャーによって建てられた(フマユーンの建築は無いのか?)。現在は2層建築であるが、元々はさらに高い建築になる予定であったが、シェール・シャーが死亡した事により今の高さで収まった。
後にフマユーンがこの城塞を奪還後図書館として使用していたが、1556年1月24日の夕方、お祈りに向かおうとした際に階段から足を踏み外し、その2日後に亡くなった。 -
●キラ・イ・クナ・モスク
(Qila-i-Kuhna Mosque)
1541年に占領中のアフガン王シェール・シャーによって建てられたモスク。赤砂岩と白大理石を使って建てており、モスクのファサードには蹄鉄型のアーチが5つ付けられている。
モスクは金曜モスク(ジャマ・マスジッドとも言う)として建てられており、1本の柱廊のみを持つ礼拝堂が中に設けられている。 -
モスクのイーワーン。中央の蹄鉄アーチの周囲にはカリグラフによる碑文の装飾が入れられている。
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●フマユーン門(南門)
城塞の南端に位置する城門。 -
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