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  この話は99年3月、アゼルバイジャンの首都バクーからモスクワまで陸路鉄道で移動中、チェチェン共和国を通過の時に起きた武装集団による列車ジャックの話、第二次チェチェン戦争が始まる半年前に起きた事である。<br /><br />バクー発チェチェン経由モスクワ行きの夜行列車は3800キロの距離を四日かけて移動する。現在バクーとモスクワを結ぶ鉄道はロシア連邦を形成するダゲスタンを北上するルートが新たに敷設され、チェチェンを迂回しているが、当時はまだチェチェンをチェチェン領内を通過するルートしかなかった。ルートは内戦の影響で暫く運休していたが、99年に鉄道も復線し、トーマスクックのオーバーシーズ版にも掲載されていたので、ある程度安全が確保されていたのだろうと思い、私はバクーからモスクワへの移動を、空路よりも安い復旧間もない陸路を選択した。<br /><br /> バクーを出発したのが17時過ぎ、乗車したハードクラス(四人個室)の乗客はロシア人の中年の女性、ウクライナ系タタール人、そしてアゼルバイジャンの男性。全員民族が異なるが、お互いロシア語を介して意思の疎通はできる。いずれにせよモスクワ行きの列車に乗車するのはCIS圏内の民族が多いようで、皆日本人の私に驚いていた。「チェチェンを走るこの列車は危険極まりない。金持ちの日本人が乗車したら誘拐されるぞ!」と男性陣は私に脅しをかける。彼らは笑いながら話していたので、私も初めのうちは、地元の状況をしらん日本人が来たから少し脅かしてやろうか、と思っているのだろうとしか考えていなかった。<br /><br />この日の夜中、列車はアゼルバイジャンとロシアの国境を越えた。ロシア側では入国の際、カフカスで恒例となっているコントローラーの独断と偏見による「通行税の徴収」に悩まされた。地元の人で10〜20ドル、CIS圏外の人であれば30〜50ドルを不当に要求される。要はコントローラーに賄賂を渡さなければ、ロシアへ入国を拒否されてしまうのだ。このとき私の場合、ロシアのビザをダブルエントリーを取得しており、今回2回目の入国だったが、これに難癖をつけられ、入国拒否された―要は入国したければ50US$を支払えと賄賂の強要だ。<br /><br /> グルジアを出国する際にパスポートコントローラーや税関からの嫌と言うほど強請を経験し、ゴネまくって時間を稼ぎ、所持金を全て見せ(もちろん少なめに)僅かしかないことをアピールすると、向こうもあきらめると言うことがわかっていたので、再び実践すると、幸いなことにロシア側での「通行税」を徴収されることはなかったが、不愉快な気持ちになることだけは避けられない。カフカスの旅ではこの官憲の強請さえなければ、これだけ大自然と歴史ある建造物が多いので旅が楽しめると言うのに、残念でならない。<br /><br />ロシアに入国し暫くすると、私が乗車している車両の担当車掌と車掌長が個室に来、自分だけ通路に出るように呼び出した。一体何だろう、車掌までも賄賂を要求してくるのかな、と勘ぐっていると車掌長はまず自らの車掌証のドキュメントを見せ、彼自身が車掌長であることを証明し、話始めた。<br /><br />現在列車はダゲスタン領内を走っている。ダゲスタンはロシア連邦の庇護下にあるので治安は維持できているが、午前10時にはチェチェンに突入し、チェチェンの首都グロズヌイにさしかかる。つまり列車はダゲスタンを過ぎると、チェチェン領内を走るため、武装集団が乗り込み、金銭は間違いなく奪われ、命の保証すらもない非常に危険であることを伝えられた。<br /><br /> 1991年故ドゥダエフ大統領に率いられたチェチェンはロシアからの一方的に独立を宣言し、94年には第一次チェチェン戦争に発展する。当初火力と兵員に勝るロシア連邦軍が瞬く間にチェチェンを席巻すると見られていたが、経済破綻を帰したロシアでは、連邦軍の装備を整える余裕がなくチェチェン軍に大苦戦し、訓練ままならぬ連邦軍は1万人の戦死者を出したと言われている。その一方でチェチェンではロシア軍の無差別攻撃により、一般市民も併せ4万人の犠牲者をだした。連邦軍の大規模空爆により、グロズヌイに居住するロシア人市民の犠牲者も少なくないと言われている。この第一次チェチェン戦争は96年4月ドゥダエフ大統領の戦死によりロシア側の面目も保たれ、8月に停戦が成立、ロシア連邦軍はチェチェンから撤退し、チェチェンは事実上独立状態となっていた。初代大統領ドゥダエフの戦死後、ヤンダルビエフを経て穏健派と言われるマスハードフが大統領に就任したが、独立過激派のバサエフ派と対立、誘拐ビジネスの横行、武装勢力が列車を襲い略奪を繰り返すことすらも止められないマスハードフ派は、チェチェンを掌握していないのではとも当初ささやかれていた。<br /><br />車掌達は、私の所持金を車掌長に預けておけば、武装集団に奪われずに済むから、お金を差し出すように求めてきた。しかし賄賂社会のCISにこの身を投じている今、金銭が絡むと誰も信じられない。現にグルジアでは車掌からも強請をうけた。車掌長に渡しても、お金が無事に済む保証もなければ車掌が私のお金を盗むとも限らない。そして何故車掌達は多くの乗客がいる中で私のお金だけを預かろうとするのかも疑問だった。<br /><br /> 私が車掌長にお金を預けることを躊躇していると、もう一人の車掌がロシア語を私が理解できずにいると悟り、同じ客車からわざわざ英語の話せる乗客を探し、ウクライナ人の男性が英語での通訳を申し出、再び説明がなされた。彼の通訳のおかげで更にチェチェンで起こりうる武装勢力の襲撃という深刻な事態が起こり得ることは理解できた。通訳を引き受けた彼も、車掌の言う通り所持金を預ける方が安全だと勧めたが、連邦軍兵士や私服警官が車内を頻繁に歩いて警備をする中、武装勢力が現れるのか、どれだけ説明されても半信半疑だった。<br /><br /> 暫く考えあぐねた後、所持金は自分で管理する事を決め、彼らにその旨を伝えると残念そうにしながら、車掌長はチェチェン領内で必ず現れるであろう武装勢力に遭遇した場合、これだけは絶対に守るように言われた。<br /><br />1、 個室の鍵は絶対閉めるな。閉めておくと通路から自動小銃で蜂の巣になる可能性がある。<br /><br />2、金銭を要求されたら、おとなしく有り金全てを出す事。隠している事がバレて逆上して撃ち殺される可能性がある。<br /><br />3、チェチェンでは誘拐ビジネスが成立する社会。日本人のような裕福な人は誘拐される可能性が高い。拉致・誘拐されそうになったら絶対に抵抗はしないこと。相手が銃を乱射し、自分自身が射殺されるのはもちろん、周りの人が巻き添えを食らう。<br /><br />4、誘拐されたら山岳部に連れて行かれ、10%位は生きる望みはある。なので生きる望みをもち、武装勢力の指示に従い、助けを待つこと。誘拐されたら、責任をもって我々がロシア政府と日本大使館に通報する。<br /><br />と忠告を受けた。そして「命は大切に。幸運を」と締めくくられた。あまりに具体的すぎるアドバイスは、チェチェンで武装勢力に襲われる現実味を十分過ぎる程持っており、寝台で横になってもなかなか眠ることができなかった。本当に自動小銃を持った武装勢力に列車はジャックされるのだろうか、自分は誘拐されてしまうのだろうか?と・・・。<br />

チェチェン共和国で列車ジャック−恩人と赤き狼達 1/4 -始まりはバクーから

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1999/03/03 - 1999/03/06

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worldspan

worldspanさん

  この話は99年3月、アゼルバイジャンの首都バクーからモスクワまで陸路鉄道で移動中、チェチェン共和国を通過の時に起きた武装集団による列車ジャックの話、第二次チェチェン戦争が始まる半年前に起きた事である。

バクー発チェチェン経由モスクワ行きの夜行列車は3800キロの距離を四日かけて移動する。現在バクーとモスクワを結ぶ鉄道はロシア連邦を形成するダゲスタンを北上するルートが新たに敷設され、チェチェンを迂回しているが、当時はまだチェチェンをチェチェン領内を通過するルートしかなかった。ルートは内戦の影響で暫く運休していたが、99年に鉄道も復線し、トーマスクックのオーバーシーズ版にも掲載されていたので、ある程度安全が確保されていたのだろうと思い、私はバクーからモスクワへの移動を、空路よりも安い復旧間もない陸路を選択した。

 バクーを出発したのが17時過ぎ、乗車したハードクラス(四人個室)の乗客はロシア人の中年の女性、ウクライナ系タタール人、そしてアゼルバイジャンの男性。全員民族が異なるが、お互いロシア語を介して意思の疎通はできる。いずれにせよモスクワ行きの列車に乗車するのはCIS圏内の民族が多いようで、皆日本人の私に驚いていた。「チェチェンを走るこの列車は危険極まりない。金持ちの日本人が乗車したら誘拐されるぞ!」と男性陣は私に脅しをかける。彼らは笑いながら話していたので、私も初めのうちは、地元の状況をしらん日本人が来たから少し脅かしてやろうか、と思っているのだろうとしか考えていなかった。

この日の夜中、列車はアゼルバイジャンとロシアの国境を越えた。ロシア側では入国の際、カフカスで恒例となっているコントローラーの独断と偏見による「通行税の徴収」に悩まされた。地元の人で10〜20ドル、CIS圏外の人であれば30〜50ドルを不当に要求される。要はコントローラーに賄賂を渡さなければ、ロシアへ入国を拒否されてしまうのだ。このとき私の場合、ロシアのビザをダブルエントリーを取得しており、今回2回目の入国だったが、これに難癖をつけられ、入国拒否された―要は入国したければ50US$を支払えと賄賂の強要だ。

 グルジアを出国する際にパスポートコントローラーや税関からの嫌と言うほど強請を経験し、ゴネまくって時間を稼ぎ、所持金を全て見せ(もちろん少なめに)僅かしかないことをアピールすると、向こうもあきらめると言うことがわかっていたので、再び実践すると、幸いなことにロシア側での「通行税」を徴収されることはなかったが、不愉快な気持ちになることだけは避けられない。カフカスの旅ではこの官憲の強請さえなければ、これだけ大自然と歴史ある建造物が多いので旅が楽しめると言うのに、残念でならない。

ロシアに入国し暫くすると、私が乗車している車両の担当車掌と車掌長が個室に来、自分だけ通路に出るように呼び出した。一体何だろう、車掌までも賄賂を要求してくるのかな、と勘ぐっていると車掌長はまず自らの車掌証のドキュメントを見せ、彼自身が車掌長であることを証明し、話始めた。

現在列車はダゲスタン領内を走っている。ダゲスタンはロシア連邦の庇護下にあるので治安は維持できているが、午前10時にはチェチェンに突入し、チェチェンの首都グロズヌイにさしかかる。つまり列車はダゲスタンを過ぎると、チェチェン領内を走るため、武装集団が乗り込み、金銭は間違いなく奪われ、命の保証すらもない非常に危険であることを伝えられた。

 1991年故ドゥダエフ大統領に率いられたチェチェンはロシアからの一方的に独立を宣言し、94年には第一次チェチェン戦争に発展する。当初火力と兵員に勝るロシア連邦軍が瞬く間にチェチェンを席巻すると見られていたが、経済破綻を帰したロシアでは、連邦軍の装備を整える余裕がなくチェチェン軍に大苦戦し、訓練ままならぬ連邦軍は1万人の戦死者を出したと言われている。その一方でチェチェンではロシア軍の無差別攻撃により、一般市民も併せ4万人の犠牲者をだした。連邦軍の大規模空爆により、グロズヌイに居住するロシア人市民の犠牲者も少なくないと言われている。この第一次チェチェン戦争は96年4月ドゥダエフ大統領の戦死によりロシア側の面目も保たれ、8月に停戦が成立、ロシア連邦軍はチェチェンから撤退し、チェチェンは事実上独立状態となっていた。初代大統領ドゥダエフの戦死後、ヤンダルビエフを経て穏健派と言われるマスハードフが大統領に就任したが、独立過激派のバサエフ派と対立、誘拐ビジネスの横行、武装勢力が列車を襲い略奪を繰り返すことすらも止められないマスハードフ派は、チェチェンを掌握していないのではとも当初ささやかれていた。

車掌達は、私の所持金を車掌長に預けておけば、武装集団に奪われずに済むから、お金を差し出すように求めてきた。しかし賄賂社会のCISにこの身を投じている今、金銭が絡むと誰も信じられない。現にグルジアでは車掌からも強請をうけた。車掌長に渡しても、お金が無事に済む保証もなければ車掌が私のお金を盗むとも限らない。そして何故車掌達は多くの乗客がいる中で私のお金だけを預かろうとするのかも疑問だった。

 私が車掌長にお金を預けることを躊躇していると、もう一人の車掌がロシア語を私が理解できずにいると悟り、同じ客車からわざわざ英語の話せる乗客を探し、ウクライナ人の男性が英語での通訳を申し出、再び説明がなされた。彼の通訳のおかげで更にチェチェンで起こりうる武装勢力の襲撃という深刻な事態が起こり得ることは理解できた。通訳を引き受けた彼も、車掌の言う通り所持金を預ける方が安全だと勧めたが、連邦軍兵士や私服警官が車内を頻繁に歩いて警備をする中、武装勢力が現れるのか、どれだけ説明されても半信半疑だった。

 暫く考えあぐねた後、所持金は自分で管理する事を決め、彼らにその旨を伝えると残念そうにしながら、車掌長はチェチェン領内で必ず現れるであろう武装勢力に遭遇した場合、これだけは絶対に守るように言われた。

1、 個室の鍵は絶対閉めるな。閉めておくと通路から自動小銃で蜂の巣になる可能性がある。

2、金銭を要求されたら、おとなしく有り金全てを出す事。隠している事がバレて逆上して撃ち殺される可能性がある。

3、チェチェンでは誘拐ビジネスが成立する社会。日本人のような裕福な人は誘拐される可能性が高い。拉致・誘拐されそうになったら絶対に抵抗はしないこと。相手が銃を乱射し、自分自身が射殺されるのはもちろん、周りの人が巻き添えを食らう。

4、誘拐されたら山岳部に連れて行かれ、10%位は生きる望みはある。なので生きる望みをもち、武装勢力の指示に従い、助けを待つこと。誘拐されたら、責任をもって我々がロシア政府と日本大使館に通報する。

と忠告を受けた。そして「命は大切に。幸運を」と締めくくられた。あまりに具体的すぎるアドバイスは、チェチェンで武装勢力に襲われる現実味を十分過ぎる程持っており、寝台で横になってもなかなか眠ることができなかった。本当に自動小銃を持った武装勢力に列車はジャックされるのだろうか、自分は誘拐されてしまうのだろうか?と・・・。

交通手段
鉄道 高速・路線バス 自転車 タクシー ヒッチハイク
航空会社
アエロフロート・ロシア航空

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  • ロシアの中でモスクワ国際関係大学と並び、世界に誇る頭脳の中枢モスクワ大学МГУ(エム・ゲー・ウー)。<br />スターリン様式の建物は権威的でかっこよいですね。<br />

    ロシアの中でモスクワ国際関係大学と並び、世界に誇る頭脳の中枢モスクワ大学МГУ(エム・ゲー・ウー)。
    スターリン様式の建物は権威的でかっこよいですね。

  • 一方こちらは同じスターリン様式の建物の外務省

    一方こちらは同じスターリン様式の建物の外務省

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この旅行記へのコメント (4)

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  • フリーダムさん 2014/12/13 14:19:38
    worldspanさんて 旅行の全てを楽しみ変えられているのですね
    worldspanさんの旅行記をいつも楽しみ見ていますworldspanさんてどんなつらい旅でも全て楽しみに変えられているのですね それと訪問した地域の歴史的 社会的な鋭い洞察力
    そしかわいい お子さんとの”旅””私の場合子供はもう成人しましたから
    私とは口もきかないです。
    こんなかわいいおんなの子と旅でもしたいです。
    これからもworldspanさんの旅行記を楽しみしています。
    worldspanさんにコメント書くために会員登録をいたしました。したがって私の旅行記はゼロです。
    これから頑張って旅行記を記載したいと思います。皆様によろしくおねがいします。

    worldspan

    worldspanさん からの返信 2014/12/14 09:34:36
    RE: worldspanさんて 旅行の全てを楽しみ変えられているのですね
    フリーダムさん
    こんにちは。
    貴重なコメントありがとうございます。それにコメントを書いていただくために、4トラベルに登録されたとお聞きすると、大変恐縮いたします。

    私の場合、旅の中でトラブル、ハプニングがあったとはいえ、その殆どが自分に馴染みある地域。歴史や政治もある程度わかっているので、自分のなかで納得しながら且つ寛容に旅が続けられましたが、これがもし自分の専門外の地域での事なら、ひょっとすると、忌まわしい思い出としか残らなかったかもしれません。それに何だかんだかなり幸運に恵まれ、良い出逢いにも恵まれた旅を続けられていたこともあります。若い頃の旅の仕方では、運が悪ければきっと何処かで命を落としていたことでしょう。

    私は小さい頃に何度も祖父に連れられ旅(国内ですが)にでかけており、こうした経験が培われて今に至っているので、今度は自分が娘に経験や旅の楽しさを教え、日本から羽ばたいて行ってくれればとおもっています。

    こちらこそ、今後とも宜しくお願いします。

    worldspan

    フリーダム

    フリーダムさん からの返信 2014/12/16 00:31:41
    RE: RE: worldspanさんて 旅行の全てを楽しみ変えられているのですね
    返信ありがとうございます。その後worldspanさんコメントを下した方の部分を
    観ましたが、ユーゴスラビア/チトーについて大変 深い洞察力と研究をされているのですね 私もチトーを尊敬していますが、それはイメージでしかなかったです。worldspanさんの物事を底辺から研究するそんな迫力に敬意を払いだきます。それと色々な話題に柔軟ですね
    worldspanさんに強い刺激を受けます。掲示版のタイトル""旅行の全てを楽しみ変えられているのですね""は適切でなかったです。
    よろしくお願いします。

     

    worldspan

    worldspanさん からの返信 2014/12/21 08:33:15
    RE: RE: RE: worldspanさんて 旅行の全てを楽しみ変えられているのですね
    出張が続き、お返事が遅れすみません。

    ご返信ありがとうございます。
    チトーは1968年にザグレブで民族主義派の大学生が大学を占拠した時もチトー自身が乗り込んで彼らを説得し、民族主義を論破し、彼らを解散させた逸話があります。それぐらいの話術と説得力、そしてカリスマ性を持っていました。クロアチアとセルビアの血で血を洗う第二次世界大戦の両民族を抑えてユーゴスラビアを立ち直らせ、スターリンにも刃向いコメコンを脱退するほどですから、チトーには敬意を払っています。しかしその後のユーゴスラビアのことを考えたらやはり大きな遺恨を残してしまったことは否めません。チトーがセルビアにも配慮し、クロアチア内のセルビア人地域を自治州と認めたり、コソボを自治州として認めなければクロアチア内戦でセルビア人が追放されることもなかったでしょうし、コソボ紛争はなかったでしょう。そもそもユーゴスラビアを第二次世界大戦後に解体させ、スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロの4か国に分裂させていたら、このような大きな戦争になっていなかったかもしれません。しかし当時の東西冷戦の中で旧ユーゴは共産党のチトーがソ連の力を借りることなく独力でユーゴスラビア全土を解放していますので、実際には難しかったのかもしれません。そう考えると、ユーゴスラビアはチトーの力ではなく、東西の力で解放されていた方が良かったのかもしれませんね。

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