2005/11/13 - 2005/11/13
4409位(同エリア4471件中)
早島 潮さん
2005.11.13 秋の金閣寺、龍安寺、永観堂を訪問した。金閣寺は紅葉が見頃で大勢の観光客で賑わっていた。ブッシュ大統領の入洛を控え全国から県警機動隊が集められてものものしい警備が行われていた。
天気がよいので金閣寺から龍安寺まで約20分の道のりを歩いた。観光シーズンとあって石庭を見る濡れ縁には大勢の観光客がしばしの間哲学者になった振りをしていた。
蹲を見たがこれはレプリカである。本物は非公開だという。
以下は龍安寺のホームページからの引用である。
茶席蔵六庵にあるつくばい〔手洗鉢〕中心の口を共有すれば、『吾れ唯足ることを知る』と成り、知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し、という禅の格言を謎解きに図案化された無言の悟道である。
このつくばいは水戸光圀公の寄進によるものと伝えられている。
京都の秋の紅葉は素晴らしい。今年も永観堂へ立ち寄って紅葉を鑑賞してきた。11月13日はまだ見頃ではなかったが、それでも綺麗な紅葉であった。
PR
-
金閣寺参道
金閣寺は相国寺の山外塔頭の一つである。大本山相国寺のホームページには金閣寺の歴史が以下のように説明されている。以下は引用である。
京都市の西北端、正しくは京都市北区金閣寺町に、この寺はある。西に衣笠山、背後に左大文字山をひかえた景勝の地で、京都市の北部に連なるなだらか山なみは、北山の名で一般に親しまれているが、この北山(キタヤマ)につながる金閣寺の周辺一帯だけを特に北山(ホクサン)と呼ぶことがある・・・ -
金閣寺参道
-
金閣寺参道
-
金閣寺境内
-
金閣寺境内
-
金閣寺境内の紅葉
-
金閣寺境内の紅葉
-
金閣寺境内の紅葉
-
金閣寺
-
観光客で雑踏する金閣寺前
-
金閣寺
-
金閣寺
-
金閣寺境内の紅葉
-
金閣寺境内
-
金閣寺境内
-
金閣寺境内の足利義満将軍手洗いの水。
-
金閣寺境内。鯉魚石と龍門の滝
-
金閣寺境内の紅葉
-
金閣寺境内
-
金閣寺境内
-
金閣寺境内
-
金閣寺を後にして
-
金閣寺から龍安寺へ向かう道。道の両側にはブッシュ米大統領の来場に備えて物々しい警備がなされていた。
-
龍安寺の紅葉。
龍安寺の歴史は同寺のホームページによれば以下のように説明されている。
以下は引用である。
龍安寺の歴史。
宝徳2年(1450)室町幕府官領細川勝元が、徳大寺家の別荘を譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として創建されたものであり、臨済宗妙心寺派に属し、大雲山と号した禅苑の名刹である。
応仁の乱で焼失して、長享2年(1488)勝元の子政元が再興したが、寛政9年(1797)火災で方丈・仏殿・開山堂を焼失したため西源院方丈を移築した。方丈の前庭は枯山水の庭として著名である。 -
龍安寺の紅葉
-
龍安寺の紅葉
-
龍安寺の紅葉
-
龍安寺境内
-
龍安寺境内
-
龍安寺の石庭
-
龍安寺の石庭
-
龍安寺の石庭
-
龍安寺の石庭
-
龍安寺の庭
-
龍安寺の蹲。吾唯足知という文字が組み込まれている。
-
龍安寺の堂内
-
龍安寺の堂内の襖絵
-
龍安寺の堂内入り口の屏風
-
龍安寺の堂内
-
龍安寺の建物点景
-
龍安寺の石庭を囲う土塀
-
龍安寺の庭の立ち木
-
龍安寺の庭の立ち木
-
龍安寺の池。学生の頃中秋の名月を観るためこの池の畔で夜明かしした事を思い出して懐かしかった。
-
龍安寺の池
-
龍安寺の池
-
龍安寺に別れを告げる
-
永観堂の入り口。
永観堂の歴史と由緒は同寺のホームページに以下のように説明されている。以下は引用である。
私たちは、阿弥陀仏に帰依し、そのお慈悲を深く信じ、悦びのお念仏を称えましょう。
私たちは、仏のみ教えをうけて、くらしの中に生かし、人々と和合し社会の浄化につとめましょう。
本尊(国・重文)
みかえり阿弥陀像
永観堂の正式名称(しょうじゅらいごうさん むりょうじゅいん ぜんりんじ)
聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺
第七世法主永観律師にちなみ永観堂と通称される。
創 建
貞観五年(863)。
清和天皇より「禅林寺」の勅額を賜う。
宗 派
浄土宗西山禅林寺派
宗 祖
法然上人(源空)
派 祖
西山上人(證空)
称 名
南無阿弥陀佛
法 主
第八十九世 小木曽 善龍猊下
【おく山の岩がき紅葉散りぬべし、照る日の光、見るときなくて】「古今集」
この歌は、平安時代初期に、永観堂(禅林寺)を創建された弘法大師の弟子真紹僧都(しんじょう 797−873)の徳を慕って、自分の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌です。永観堂は仁寿三年(853)の草創以来今日まで、幾多の文化人達の筆や口にもてはやされ、親しまれて、“モミジの永観堂”として千百有余年のかがやかしい歴史を持った京都有数の古刹です。
真紹僧都は真言宗の僧侶であったため、禅林寺は真言密教の道場として始まります。創建にあたって、真紹僧都は「禅林寺清規(しんき)」に、「仏法は人によって生かされる、従って、我が建てる寺は、人々の鏡となり、薬となる人づくりの修練道場であらしめたい。」と照り映えるモミジ葉の輝きにも負けぬ、智徳ともにすぐれた人材養成を理想の旗印に掲げられたので、風光の美しさとともに、伝統的に各時代の指導的人材の輩出を数多く見ることとなりました。
永観堂の歴史は、大きく三つの時代に分けられます。最初は真紹僧都から永観律師(ようかんりっし 1033−1111)が住職になるまでの約220年間で、真言密教の寺院としての時代です。次は永観律師から静遍僧都(じょうへんそうず 1166−1224)までの約140年間。この時代は、真言密教と奈良で盛んだった三論宗系の浄土教寺院でした。その後は浄土宗の寺院となりました。
【みな人を渡さんと思う心こそ極楽にゆくしるべなりけれ】「千載集」
と詠まれた永観律師(ようかんりっし 1033−1111)はことに高名です。律師は、自らを「念仏宗永観」と名のられる程、弥陀の救いを信じ、念仏の道理の基礎の上に、当時、南は粟田口、北は鹿ケ谷に到る東山沿いの広大な寺域を持った禅林寺の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、救済活動に努力せられたことは、多くの史書にみえるところです。永観律師は幼少より秀才の誉れが高く、三論宗の学匠として名声を得るまでになりましたが、地位も名声も捨てて東山禅林寺に隠遁することを選びます。18歳から日課として一万遍の念仏を称え、後には六万遍もの念仏を称えたといわれています。禅林寺を永観堂と通称するのは、永観律師に由来しています。
永観堂を浄土教の寺院にしたのは、静遍僧都です。鎌倉時代の初め、源頼朝の帰依を受けた真言宗の学匠静遍僧都は、法然上人(1133−1212)の死後、その著「選択(せんちゃく)本願念仏集」にある念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、浄土教の教えに帰依されました。静遍僧都は誹謗の罪をくいて、法然上人をこの寺の11代住職に推し、自らを12代としました。そして、法然上人の高弟西山証空上人(1177−1247)に譲りました。その後、証空上人の弟子、浄音上人(1201−1271)が住職になり浄土宗西山派の寺院となりました。以来今日まで、約八百年永観堂は浄土宗西山禅林寺派の根本道場として、法灯を掲げています。
歴史の変遷とともに永観堂も隆盛・衰退を見ますが、近代を迎えると、71世の徹空俊玉僧正(?−1881)は社会福祉事業に貢献されました。師は京都府立病院の前身にあたる療病院を設立されました。
永観堂が浄土宗の寺院へ変わったのは、すべての人々が救われる道をそこに見いだしたからです。今も阿弥陀如来の慈悲に導かれ、永観堂は多くの人々の篤い信仰に支えられています。 -
永観堂の人込み
-
永観堂の紅葉
-
永観堂の紅葉
-
永観堂の紅葉
-
永観堂の紅葉
-
永観堂の紅葉
-
永観堂の庭
-
永観堂の観音菩薩像
-
永観堂の供養塔
-
永観堂の茶店
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
嵐山・嵯峨野・太秦・桂(京都) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
58