1970/08 - 1970/08
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片瀬貴文さん
私が住むことになった通りの名は「エドワール・ヴァイヤン」。
パリ・コミュンヌに名を残す、左翼政治家の名前である。
「パリ・コミュンヌ」と聞けば、理想を追い求めた学生時代を思い出す。
1789年の革命以来、フランスでは共和制政治が二度行われたが、いずれも短命、君主制が主体の社会だった。
しかし1870年普仏戦争で敗北が続き、皇帝の戦死により帝政が崩壊、1870年共和制の臨時国防政府が発足する。
そしてプロイセン軍によるパリ包囲の後、1871年降伏。
国民議会がボルドーに召集され、臨時政府による和平交渉が始まろうとしていた。
しかし、パリ包囲に抵抗、多大な犠牲を払ったパリ市民は、プロイセンに対する降伏を認めず、蜂起。
革命政府「パリ・コミューン」を樹立する。
パリ市民による選挙後、3月にコミューンの成立が宣言され、5月まで僅かの期間パリを統治する。
その間、女性参政権の実現、児童夜間労働の禁止、政教分離などの革新的な政策が打ち出され、暦も共和暦を採用。
だが、ドイツとフランス臨時政府に攻撃され、多くの死者を出しながら瓦解。
第三共和国政府は、コミューン兵士の死体を葬ることを許さず、また亡命したコミューン活動家にも追及の手が及んだ。
「パリ・コミューン」は短命ながらも、民衆によって打ち立てられた歴史上初の革命政権として、社会主義者に具体的なイメージを与えるという、歴史的価値を残す。
その後、カール・マルクスは「フランスの内乱」を執筆、コミューン戦士の名誉を擁護するとともに、コミューンの事業からプロレタリア革命理論を抽出した。
この著作の中でマルクスは、コミューンを労働者階級のための国家と規定し、社会主義革命におけるプロレタリア独裁の必要を説いている。
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