秀吉も焦った関門海峡「与次兵衛ヶ瀬」
- 4.5
- 旅行時期:2020/10(約5年前)
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by 旅好者さん(男性)
下関 クチコミ:107件
阿弥陀寺町に「姉妹都市ひろば」がありますが、その一画に「与次兵衛ヶ瀬の碑」があります。古来から海の難所だった関門海峡の逸話が書かれていました。名護屋に出陣していた豊臣秀吉は、大政所危篤の報に急ぎ、大坂に戻ることにします。乗った船が関門海峡に差し掛かったところで、潮に流され「死の瀬」と呼ばれていた岩礁に座礁してしまいます。大ピンチに陥った秀吉ですが、長府毛利初代藩主・毛利秀元に何とか助け上げれます。秀吉の船の船頭の名は明石与次兵衛といい、責任をとって切腹しました。その後、死の瀬は「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれる様になり、また、危険を知らせる石碑が建立されたとのことです。なお、1912年(明治45年)から与次兵衛ヶ瀬の除去作業が行なわれ、現在はなくなっています。
- 施設の満足度
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4.5
- 利用した際の同行者:
- 友人
- アクセス:
- 4.0
- 景観:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
クチコミ投稿日:2020/12/03
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