一世紀半もの歴史ある小学校には資料室もある。
- 5.0
- 旅行時期:2019/09(約5年前)
-
by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
長崎市 クチコミ:57件
長崎市立山里小学校、前身校から149年の歴史を持つ小学校である。昭和20(1945)年8月9日にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された爆心地から700mの距離に位置し、現在の運動場付近にあったコの字型をした3階建ての鉄筋コンクリート造りの校舎は、爆心地方向の南側が爆風を受けて3階部分が倒壊し、次いで地下と2階から発生した火災によって、北側校舎の1・2階部を残して内部を全焼し、外郭を残すのみの大きな被害を被っている。
学校敷地内では防空壕を掘るために出勤していた学校職員32名のうち4名の生存者を除きほぼ即死している。また数字は不明であるが作業を手伝っていた学徒動員の生徒や近隣住民にも多くの死傷者を出している。当日は夏休みである登校児童はいなかったものの、学区が爆心地に近かったことから多くの児童が自宅付近で爆死・火傷死し、その割合は在籍児童の85%に上る1,300名に達したとされている。また原爆投下直後には救護所が設けられていた。
長崎市名誉市民となす永井隆博士との繋がりが強く、学校復興の過程に於いて桜の木50本が贈られている。また昭和24(1949)年には生き残った教師や生徒の原爆体験記を〝原子雲の下に生きて〟という表題で永井博士が発行し多くの部数が売れている。その売り上げは永井博士を経て生徒や教職員の手に渡った後、永井博士作詞の被爆し犠牲となった児童の鎮魂歌〝あの子〟を形にした〝あの子らの碑〟建立のために使われ、永井博士の寄付を加え昭和24(1949)年11月3日に除幕された。
そんな山里小学校に原爆資料室が開設された。昭和49(1974)年10月26日資料室の有る児童記念館が完成し、平成28(2016)年に改修をへて今日に至る。被爆した山里国民学校遺構等、被爆建物ならではの資料もたくさんあるが、やはり〝被爆と平和〟という意識が児童達にも引き継がれている特徴的ものを感じる。長崎原爆慰霊碑マップは、付近の慰霊碑を手作りの地図上に場所を示しているものである。意外にも知られていないことであるが、この類の地図は本当に少なく、地方自治体に問い合わせてもないと言われるものである。もし訪れる順番が変わっていたら、この地図を参考にして付近を歩くことができたのに…と残念に思った位のできであった。
原爆資料室以外にも学校敷地内には、あの子の碑の外当時使われていた防空壕等も残されており、その内容は〝生きた博物館〟さながらのものとなっている。学校内にあるにもかかわらず見学に事前の許可がいらないもの有難いことである。長崎で〝一番最初に訪れたい戦争史跡〟であると改めて思った。
《注》5月24日日曜日まで閉館中
- 施設の満足度
-
5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 如己堂永井隆記念館から徒歩7分。
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 無料だが見る価値は大いにある。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 時期と時間によっては修学旅行生も訪れる場所である。
- 展示内容:
- 5.0
- 規模は小さくとも内容の濃さには驚いた。
- バリアフリー:
- 4.0
- 階段がある。
クチコミ投稿日:2020/05/02
いいね!:6票