長崎刑務所浦上刑務支所の基礎部分です。
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- 旅行時期:2017/09(約7年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
長崎市 クチコミ:57件
平和公園内の平和祈念像手前に黒ずんだ煉瓦の礎石が残っています。長崎刑務所浦上刑務支所、昭和2(1927)年9月に完成した13,000㎡の敷地を持つ大きな刑務所であり、抗日運動を行い、治安維持法違反で逮捕された活動家や九州管内の死刑囚が執行を待つ間収監されていた刑務所だったそうです。
昭和20(1945)年8月9日午前11時2分の原爆投下時には、爆心地から100~350mという至近距離で被爆し、庁舎と周囲を取り囲んでいた塀は一瞬にして崩壊し周囲は瓦礫の山となり、僅かに炊事場の煙突1本が残っただけとなりました。
被爆時刑務所内いた職員18人、官舎住居者35人、受刑者および被告人81人の計134人が全員死亡しています。
平成4(1992)1月に平和公園の地下駐車場建設工事の最中に、赤レンガ造りの拘置所跡基礎部分と側溝、死刑場の地下部分の遺構が発見されました。その発見によって工事は中断し、被爆者や市民団体からその刑務所の遺構の保存を求める運動が起こります。しかし刑務所と死刑場の遺構を残すということには批判的な意見が多く、当時の本島等市長はそのまま埋設する方針を固めていましたが、後に方針を転換し、刑務所は被爆の惨状を伝えるものではなく、また死刑場の保存は『人間の感性から一般的に白日にさらすべきではない』として、それらのある公園北側の遺構を解体し、平和公園敷地内に分割して埋設するとしました。
これら一連の騒動により長崎市は被爆遺構の調査・保存に関する基準として『長崎市被爆建造物等の取扱基準』を策定し平成4(1992)年9月1日より施行され、現在に至っています。
確かに死刑場のあった刑務所の遺構を残すのは如何なものかと思うところは確かにあります。しかし爆心地から最も近い公の施設であり、尚且つ職員をはじめすべての受刑者が被爆死した人類史上例のない施設であることもまた事実です。被爆都市である長崎と広島。原爆資料館や平和公園の建設にあたっても、時期を筆頭にありとあらゆる施設の開設に大きな時間の隔たりがあります。怒りの広島と祈りの長崎と比較されるように、被爆遺構に関する捉え方にも大きな隔たりがあるのは事実ですが、やはり残せるものは残すといったスタンスが、原爆被害を後世に伝えるには必要不可欠なものではないかと思わずにはいられません。代わりのものがあるならともかく、それしかないものであればやはり『残して行く』ようにすべきではないだろうか、そう改めて思います。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 松山町電停から徒歩10分程です。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- なんとなく見ている方は多く見受けられました。
- バリアフリー:
- 5.0
- 通路は石が敷かれています。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 遺構に古の姿を想像してしまいます。
クチコミ投稿日:2017/10/06
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