不死鳥の如く蘇ったお寺〜天台寺門宗総本山長等山園城寺(三井寺)〜
- 5.0
- 旅行時期:2015/09(約10年前)
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by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)
大津 クチコミ:111件
壬申の乱で敗死した大友皇子(弘文天皇)の皇子である大友与多王の開基に始まる園城寺(三井寺)は、西国三十三番観音霊場第十四番札所となっており、多くの方々の信仰を集めている場所です。
近江京を開いた天智天皇は、弥勒菩薩を本尊とする寺を都の安泰目的で作ろうとしたが生前に果たせませんでした。子の大友皇子は壬申の乱で敗死、大津京は廃都となります。その後大友与多王は、当寺反逆者の子として冷遇されていたと言われていますが、自身の僅かばかりの田畑を投げ打ち、父大友皇子の弔いに、祖父天智帝の弥勒菩薩像を本尊とする寺の建立を天武帝に発願し認められます。この時に天武帝が与えた寺号が?園城寺?、敵対していたとはいえ、与多王の私財を投げ打っての志に感銘して与えたものとして今に伝承されています。ではなぜ三井寺なのか?境内にある?閼伽井屋?に湧く霊泉、これが天智・天武・持統帝の三代の天皇の産湯に使われたから、即ち?御井の寺?が?三井寺?と変化したとされる考えが一般的なようです。勿論飛鳥時代の話であり、現実かどうかは怪しいところはあるものの、奈良時代前期に遡る瓦の出土があったりしたこともあり、フィクションというよりもはある程度史実に即した事実と見られていることも確かです。
そして平安時代初期に智証大師円珍が三井寺初代長吏に就任し三井寺の基礎を築きます。天台宗の最高峰天台座主にまで上りつめた円珍ではありましたが、没後1世紀程で慈覚大師円仁の門流と二派に分裂し、ことあるごとに対立を深めて行きます。そして正暦4(993)年には両者が激突、円珍派は比叡山を下り三井寺へと移ります。その後幾度となく比叡山宗徒により三井寺は焼き討ちをされますが、その度に復興を遂げてきたことこそが?不死鳥の寺?と言われる所以となっています。その復興の陰に隠れた歴史的事実ことこそ?当時の権力者?との深いパイプラインであったとされています。
強力な権門である比叡山延暦寺の山門派を牽制するために鎌倉・室町幕府の保護を受けることによって栄華を極めた寺門派三井寺、その背景に見え隠れする?権力と宗教?の関係は歴史好きにはたまらないことなのかも知れません。
しかし時代に乗っていた三井寺の歴史に陰りが見えてきます。文禄4(1595)年、豊臣秀吉の怒りをかった三井寺は、事実上の廃寺扱いを受けてしまいます。その経緯は定かではないものの、当時三井寺にあった堂宇や寺宝は強制的に他へと移されてしまいます。秀吉の怒りは3年程で鎮まり、再興が進められることにはなるものの、当時の金堂が延暦寺に移され、釈迦堂として今なお現存していることには、なにか因果めいたものを感じます。この再興時に進められた寺観こそが私達が現在見ることができる三井寺の姿になります。
明治以降天台宗寺門派を名乗り続けていた三井寺ではありましたが、戦後昭和21(1946)年に天台寺門派総本山となり現在に至ります。
大津城攻めの時は城に向けて大砲が撃たれ、眼下にあった海軍航空隊大津飛行場を飛び立つ戦闘機を見守り、琵琶湖博覧会の会場を見守った時から51年…。大津の都跡はマンションが乱立する一大ベッドタウンと化しました。田舎ではあるものの交通の便だけは?頗る良い?この大津という街を、歴史背景を追いかけて一日費やすもの面白いかと思います。春にはサクラ、秋には紅葉の本当に綺麗な場所?三井寺?は、時期を問わず楽しめる場所であると思います。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 三井寺駅から徒歩15分くらいかかります。少ないバスならば三井寺バス停下車すぐ。
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 紅葉と桜の時期は非常に混雑します。
- バリアフリー:
- 3.0
- 階段はあります。
- 見ごたえ:
- 5.0
- 堂宇や寺宝は勿論のこと観音堂広場からの景色は絶景です!
クチコミ投稿日:2015/11/22
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