シーボルト記念館訪問
- 5.0
- 旅行時期:2014/05(約12年前)
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by tadさん(男性)
長崎市 クチコミ:6件
シーボルトの日本の医学への貢献と、日本事情を海外に広めた点に対しては、彼の貢献は大きい。司馬遼太郎の「花神」でいねと大村益次郎の関係をしってから、いねとシーボルトのことにも関心が広がっていたので、今回、長崎を訪れた際、この記念館を訪問してみた。資料は複製が多いものの、いくつか貴重なものもある。
江戸時代の鎖国状態にあって、シーボルトの行動は、日本の医学にとっては貢献度大だったようだ。たきとの間にできた子供いねは日本最初の女医ともいうべき存在となり、そのいねと大村益次郎との出会いは、司馬遼太郎の記述では、接点が結構あったことになっている。その真偽のほどは不明だが、シーボルトの弟子が日本全国にネットワーク的な分布をなしていたようだということを今回の記念館の展示で確認した。大村益次郎のことは、この記念館ではでてこないが、いねが大阪で死の床にある大村益次郎を看病したことは他の資料でもでてくる。そのいねの環境を知るのに、今回の記念館の展示は興味深いものであった。
いねとたきはシーボルトの再来日時にあっている。シーボルトはかつて、スパイ行為の嫌疑で、日本を追放された。30年後のシーボルトの再訪日時には、一転して、幕府のお抱えになっている。いねも行動がしやすかっただろうが、実際、いねの腹違いの訪日したシーボルトの息子達とも後に知り合っている。
ふたりのシーボルトの息子は、どちらも日本等で外交官として活躍し、当時の日本の国際化に貢献した一家だといわざるをえない。いねは彼らの世話にもなったようだ。シーボルトが立派な貴族の家系の人物で、日本紹介の活動も長年にわたり、欧米で彼の日本紹介の研究や書物は当時貴重なものであったようだ。アメリカのペリーも訪日前に彼の日本紹介の書を読んでいたことを今回知った。
なお、今回の訪問日は、ちょうど、あじさいが咲き乱れ、「おたきさん」からきたといわれる「オタクサ」が記念館の庭や隣の鳴滝塾、今の「シーボルト宅跡地」にも咲き乱れていて美しかった。
シーボルトの日本愛は本物であったと確認できる訪問であった。シーボルトとたきやいねとのやりとりの書簡なども非常に興味深いものであった。ある時期、オペラ「蝶々夫人」のピンカートンと重ね合わせていたことがあるが、まったく違う。シーボルトはそういういい加減な男ではなかったと確信できた。感動的なのは、シーボルトがスパイ容疑で国外追放処分になりそうなとき、彼は日本永住の努力までもしている。日本とのつながりを大事にしていたことが伺えるエピソードだと思う。
いづれにしろ、歴史マニアには他の有名観光地には劣らない訪問地だと思う。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 展示内容:
- 5.0
クチコミ投稿日:2014/05/30
いいね!:5票
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