歴史的価値がある碓氷峠関所跡
- 5.0
- 旅行時期:2007/07(約17年前)
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by hide-bachさん(男性)
安中・妙義 クチコミ:1件
関所の起こりは、醍醐天皇の昌泰二己未年(899)、
坂東に出没する群盗の取締りのため、交通を監視したのがはじめである。
類聚三大格(るいじゅうさんだいきゃく=筆者注、平安時代に編集された法令集)に
相模国足柄坂、上野国碓氷坂、置関勘過事
とあり、箱根と碓氷に関所を置いたことが記されている。
その後関所は、正応二年(1289)鎌倉幕府の執権北条貞時によって
関長原(安中市松井田町大字関長のことで、碓氷峠山麓を指す)に関所がすえられ、
以来戦国時代まで何度か時の権勢によって整備された。
江戸時代になって、慶長十九年(1614)大阪冬の陣のとき、
井伊兵部小輔直勝が関長原に借番所をつくり関東防衛の拠点とした。
江戸幕府によって、現在地に関所が移されたのは、元和九年(1623)三月である。
横川は碓氷峠山麓の3つの川が合流し、険しい山がせまって狭間となり、関所要害としては最適地だった。
寛永十二年(1635)参勤交代制の確立後は「入り鉄砲に出女」
(筆者注、武器として重要な飛び道具の鉄砲が入ることと、
人質として江戸に預かっている大名の妻が逃げ出すこと)を
きびしく取締り、関所手形を提出させた。
幕末になると、関所の改めもゆるやかになり、明治二年(1869)二月に廃関された。
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 1.0
- 見ごたえ:
- 4.5
クチコミ投稿日:2010/11/06
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