俗に「京の七口」と言われ、大きな街道筋の町外れには決まって刑場が置かれていた。梟首は政治的勝者が、敗者を辱め、罪人として一...
続きを読む方的に断罪することで政権の正当性をアピールする重要なセレモニーだった。
明智光秀の首も発見されたのち胴とつながれ、粟田口刑場さらされた。本当に光秀の首と胴かは極めて疑わしい。
京都の寺院が、刑死者1000人ごとに供養碑を建て、その数は幕末までに15基に及んだから、1万5000人近くが処刑されたことがわかる。これらの供養碑は、明治の廃仏毀釈の際に失われた。粟田口刑場は明治に廃され、1872年粟田口解剖場が設置された。四面がガラス張りの建物で、刑死者の解剖が行われ、医師がその様子を参観した。だが同年解剖場は移転され、以後この地は利用されることなく忌み地として残された。
その後道路や鉄道の建設により、刑場跡はいくぶん損なわれたものの、当時の状態をわずかに留めている。車の通行量は多いが、どことなく気味の悪い土地だ。現在刑場跡にある2つの石碑は、解剖場時代の刑死者の供養塔なので、2000人以上が解剖されたことになる。
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投稿日:2021/02/20