柴田勝重の墓
名所・史跡
3.23
柴田勝重の墓 クチコミ・アクセス・周辺情報
織田信長の死後、柴田勝家が豊臣秀吉に滅ぼされた後、孫の勝重は成人すると徳川家康に仕えた。そして、上仙川・中仙川の地を与えられた。今の新川団地の場所に勝重の陣屋があったと、『新編武蔵風土記稿』などに記される。この地は島屋敷遺跡と呼ばれ、団地の建替工事に伴い発掘調査が行われた。80年ほどで柴田家の仙川の知行は終わり、以後は幕府の直轄地となった。勝重は、寛永9(1632)年、52歳で病死。春清寺墓地には宝篋印塔型の雄大な墓がある。法名は「揚源院殿雄山浄英居士」である。また、十世勝房が寛政8(1796)年に建立した柴田家の由緒を記した碑もある。なお、新川の勝淵神社境内には勝重が勝家の兜を埋納したという塚がある。
クチコミ・評判
1~4件(全4件中)
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城探訪東京(5)で柴田勝重の墓に寄りました
- 4.0
- 旅行時期:2021/09(約4年前)
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柴田勝家の子孫が、江戸幕府の旗本になって続いていたとは驚き
- 3.0
- 旅行時期:2021/05(約5年前)
- 0
京王線仙川駅が最寄り駅。
仙川駅出口から北西へ約1.5㎞、春清寺の墓地にあります。
柴田勝重(1579~1632)は、... 続きを読む安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、江戸幕府旗本です。
柴田勝家の孫といったほうがわかりやすいでしょう。
説明板によると、天正11年(1583)北ノ庄城落城の折、勝家により愛用の兜を与えられ、郎党とともに関東に逃げたそうです。
勝重は江戸幕府の旗本になり、柴田家は代々旗本として仕えたそうです。
墓は宝篋印塔型の雄大なもので、法名は「揚源院殿雄山浄英居士」。
十世勝房が寛政8年(1796)に建立した柴田家の由緒を記した碑もあります。
柴田勝家の子孫が江戸幕府の旗本として続いていたのは知らなかったので、歴史好きとしてはなかなか感慨深いものがありました。
閉じる投稿日:2022/03/07
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古いが立派なお墓でした
- 3.5
- 旅行時期:2020/04(約6年前)
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柴田勝家の孫で旗本(徒歩頭3500石)勝重のお墓です(大原山春清寺内)。
- 3.0
- 旅行時期:2012/06(約14年前)
- 1
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基本情報(地図・住所・アクセス)
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