即ち、毛野(けぬ)とは文字通り草深き地と言ふ意味を有し、那須野ヶ原に関する限り近世に至るまで何等変化無き状態だった。
此...
続きを読むれは、此の地を流れる那珂川(なかがわ)、熊川(くまがわ)間、及び、蛇尾川(じゃびがわ)、箒川(ほうきがわ)間に位置する複合扇状地上を形成存在する土地が那須火山群に面する火山灰土に覆われし地故に、水利乏しく、表流水無く、且つ、地下水位深度の為に土地質が瘦せ、明治初期ですら陸羽街道(りくうかいどう)沿道外は人煙稀な灌木茂れし荒蕪地で蕎麦や粟、稗以外の農作物は育成し得ない土壌だった。
唯一、東北部に蛇尾川上流から取水した蟇沼用水(ひきぬま ようすい)が存在したが、明和8年(1771年)に大田原城下まで延長開通すると同時に藩統制下に置かれ、沿線村外に於ける飲料外使用は固く禁ぜられ違反すれば死罪が待っていた。
那須野ヶ原に転機が訪れるのは明治13年(1880年)である。
此の年、三島通庸(みしま つねみち)(天保6年(1835年)6月26日~明治21年(1888年)7月28日)の長男 彌太郎(みしま やたろう)(慶應3年(1867年)5月4日~大正8年(1919年)3月7日)が同年3月20日附で那須野ヶ原開拓の為に政府に対し土地払下申請を行ったが、政府は那須野ヶ原の現状に鑑み払下は時期尚早と解し同年8月3日附で約1000haの土地貸渡許可を付与し、此れを基に農場開拓の為に肇耕社(ちょうこうしゃ)を設立し運営開始される。
亦、同年5月1日に印南丈作(いんなみ じょうさく)(天保6年(1835年)6月26日~明治21年(1888年1月7日)、及び、矢板 武(やいた たけし)(嘉永2年(1849年)11月14日~大正11年(1922年)3月22日)両名が連署の上、那須野ヶ原に於ける勧農事業を目的とする官有地拝借並に予約開拓牧畜払下を請願し、此れを受け政府は審査の上、
1)土地借用期間20年
2)但し、成功期限15年以内
3)期限内成功時は無償払下
を条件として同年9月17日附で裁可された事に端を発する。
政府は明治16年(1883年)10月30日附で第2代栃木県令(現在の知事職)藤川為親(ふじかわ ためちか)に代わり、三島通庸を第3代栃木県令に任命し三島は拝命後直ちに赴任した。
三島は現在国立公文書館に於いて保存されている内務省文書に、『道路ハ運搬ノ便否ニ関シ自ラ物産ノ興廃人民ノ貧富ニ頑リ斯モ之ヲ惣セニヘカラス』と残されている様に、土木開発に拠る地域開発こそ地域活性の一助になるとの信念を有し山形県、及び、福島県令在任時代に大いに実績を上げたが、印南矢板に依る那須開墾社の活動内容を知るや此れに対し県行政として積極的協力を惜しまず、明治18年(1885年)4月15日に周囲の猛反対を押し切り現在に残る那須疎水(なす そすい)建設に着手し約5ヶ月後の同年9月15日に疎水基幹建設工事は完了無事開通したが、疎水存在無き時代は殆ど農作物育成せぬ不毛で荒漠たる原野は一転して民に恵みをもたらす肥沃にして豊饒なる農耕地へと変貌を遂げた。
那須疎水(なす そすい)
那須塩原市千本松799
東北本線西那須野駅西口 JRバス関東塩原線千本松停留所降車 徒歩2分
閉じる
投稿日:2011/12/13