東アジア交流ハウス雨森芳洲庵
美術館・博物館
3.21
東アジア交流ハウス雨森芳洲庵 クチコミ・アクセス・周辺情報
浅井・湖北・高月 観光 満足度ランキング 24位
クチコミ・評判
1~3件(全3件中)
-
高月雨森集落の散策がおすすめ
- 4.0
- 旅行時期:2016/06(約10年前)
- 5
木ノ本インターからは車で10分位で到着します。国道からは少し入り込んだ場所ですが、道案内の看板が至るところにあり、すぐに分... 続きを読むかると思います。賤ヶ岳登山と余呉湖散策の後に訪問しました。
江戸中期、朝鮮半島との外交や貿易に尽力した高月町出身の儒学者・雨森芳洲の業績を顕彰するため、生家跡に建てられていて、著書の『交隣提醒』など、300点以上の貴重な資料を収蔵されています。
当日は勉強会が開催されており、多くの人が入館されていました。
雨森集落の景観が素晴らしく、集落の至るところにある用水路には花が飾ってあり、手作りの水車もありました。
またグランドにバスケットゴールがありましたが、ゴールボードに芳洲の絵が描かれており、集落の方の芳洲愛が感じられました。 閉じる投稿日:2016/06/12
-
朝鮮通信使の応接と外交を担う真文役として活躍した雨森芳洲の生家・雨森芳洲庵
- 4.0
- 旅行時期:2009/04(約17年前)
- 2
雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう1668−1755年)は江戸時代の儒学者で、北近江雨森村(現・滋賀県伊香郡高月町雨森)の医... 続きを読む師の子として生まれ18歳で江戸に出て儒学者・木下順庵(きのした じゅんあん1621−1699年)に師事、師の推挙で1689年に対馬藩に仕え、生涯藩の文教と対朝鮮外交に尽くした。特に、1711年の徳川 家宣(とくがわ いえのぶ1662−1712年)の第6代将軍就任祝いと1719年の徳川 吉宗(とくがわ よしむね1684−1751年)の第8代将軍就任祝いの朝鮮通信使の応接と外交を担う真文役として活躍した。ハングル語の邦訳書、会話の入門書なども著している。
高月町では1924年に芳洲会を設立し1984年、生家跡に雨森芳洲庵を建設、芳洲が残した遺品、著書、文献、資料などを展示している。欅(けやき)の老木に囲まれた敷地内には、遠州流庭園や芳洲神社がある。雨森芳洲は江戸時代に日本と朝鮮との友好交流のために尽力した功労者の一人だ。
アクセス――― JR北陸本線「高月駅」下車 徒歩 25 分
閉じる投稿日:2013/01/04
-
対朝鮮外交に尽くした雨森芳洲の生家跡、雨森芳洲庵
- 4.0
- 旅行時期:2009/04(約17年前)
- 1
雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう1668−1755年)は江戸時代の儒学者で、北近江雨森村(現・滋賀県伊香郡高月町雨森)の医... 続きを読む師の子として生まれ18歳で江戸に出て儒学者・木下順庵(きのした じゅんあん1621−1699年)に師事、師の推挙で1689年に対馬藩に仕え、生涯藩の文教と対朝鮮外交に尽くした。特に、1711年の徳川 家宣(とくがわ いえのぶ1662−1712年)の第6代将軍就任祝いと1719年の徳川 吉宗(とくがわ よしむね1684−1751年)の第8代将軍就任祝いの朝鮮通信使の応接と外交を担う真文役として活躍した。ハングル語の邦訳書、会話の入門書なども著している。
高月町では1924年に芳洲会を設立し1984年、生家跡に雨森芳洲庵を建設、芳洲が残した遺品、著書、文献、資料などを展示している。欅(けやき)の老木に囲まれた敷地内には、遠州流庭園や芳洲神社がある。雨森芳洲は江戸時代に日本と朝鮮との友好交流のために尽力した功労者の一人だ。
アクセス――― JR北陸本線「高月駅」下車 徒歩 25 分
閉じる投稿日:2011/11/24
1件目~3件目を表示(全3件中)
基本情報(地図・住所・アクセス)
このスポットに関するQ&A(0件)
東アジア交流ハウス雨森芳洲庵について質問してみよう!
浅井・湖北・高月に行ったことがあるトラベラーのみなさんに、いっせいに質問できます。
-
ひろちゃんさん
-
さすらいおじさんさん