2017/04/30 - 2017/04/30
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montsaintmichelさん
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桜の季節が終焉し、漸く心穏やかな毎日が過ごせるようになったばかりですが、今度はツツジや牡丹の開花情報で心が乱される時期になりました。近場でこの2つを同時に愛でられるスポットがないか探したところ、長岡京がヒットしました。
キリシマツツジで知られる長岡天満宮が鎮座する洛西 長岡京の地は、菅原道真が在原業平らと共に詩歌管弦を楽しんだとされる縁深い場所です。また、この周辺は菅原家の所領地でした。
道真は、京の都から太宰府へ左遷させられる途中に長岡の地へ立ち寄り、「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しみました。その際、近臣の中小路宗則が道真自作の木像と念持仏を託され、道真の死後、ここに祀ったことが長岡天満宮のはじまりです。
元々皇室の崇敬が篤く、度々寄進や造営を受け、1638(寛永15)年には八条宮智仁親王によってランドマーク的な八条ヶ池が築造されました。その池に渡された参道の両側にキリシマツツジが植樹され、樹齢100~150年のキリシマツツジが情念の如く深紅に燃え盛る姿は日本屈指の美しさと讃えられています。
現在の社殿(本殿、祝詞舎、透塀)は1941(昭和16)年に京都 平安神宮の社殿を移築したものであり、丹塗りの美しい拝殿は既存の拝殿を増改築して1998年に竣工しており、府文化財にも指定されています。尚、現在の敷地は2万余坪ですが、明治時代まではこの5倍もの広さがあったようです。
長岡天満宮のHPです。
http://www.nagaokatenmangu.or.jp/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
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-
阪急電鉄「長岡天神」駅
公共交通機関を利用して長岡天満宮を訪ねる方法は、阪急電鉄とJRの2つの方法があります。
距離的には阪急京都線の方が便利です。阪急「長岡天神」駅からは徒歩10分弱、JR東海道線「長岡京」駅からは徒歩20分強あります。 -
開田城(かいでんじょう)跡 土塁
阪急「長岡天神」駅を降り、アゼリア通り(府道79号線)を西へ数分歩いた所にあるマンションの周辺が城の跡地です。このように「開田城土塁公園」として、復元も混ざっているようですが、土塁の一部が保存されています。
戦国時代に地元土豪の中小路氏の居城だったと伝わります。中小路氏は元々開田天満宮(現 長岡天満宮)の神職の出でしたが、この城を拠点に勢力を拡大しました。戦国期以降の廃城時期等は不詳ですが、1470年頃、山名弾正に襲撃されたと伝わります。
因みに土塁の上に植えられた大きな木は、市が指定して管理している「保存樹木」のクスノキ(高さ20m)です。
高層マンションの脇にこうした遺跡を保存しているのは、数々の歴史の舞台となった古都 長岡京の矜持の現れだと思います。福山城の遺構を潰したり、岸和田古城の土塁をマンション建設で潰した事例がある中、ここの様に遺構を保存しながら開発を進める手法をロールモデルとしていただけたらと思います。
お花と歴史を愛でる散策としては、幸先の良いスタートとなりました。 -
大鳥居
長岡天神駅から線路を背に左折し、府道210号線を西へ直進すると雄渾な大鳥居が見えてきます。ただし、今回は開田城跡を訪問するため少し遠回りして府道79号線を通ったため、この写真は後で撮影したものです。
長岡天満宮の入り口正面に屹立する総御影石製の大鳥居は、2002年の菅公御神忌100年大萬燈祭を奉賛して1998年に奉納された、近隣でも数少ない石造りの大鳥居です。総高9.75m、笠木 12m、総重量50トンある巨大なものです。 -
八条ヶ池
長岡天満宮境内の東面には、広大な八条ヶ池がたおやかな姿を横たえています。1638(寛永15)年、往時の領主 八条宮智仁親王が築造を命じた灌漑用の溜め池です。神社の縁起によると、江戸時代に統治一帯を領した親王が、境内の東側に池を開き、境内周囲に濠を掘ったと伝わります。
「八条宮」からの寄進造営なので「八条ヶ池」と呼ぶのでしょう。外周は約1km、貯水量は約35000トンを誇ります。
また、境内の東面に沿って総檜造りの水上橋が設けられ、その途中に設けられた六角舎は景観のアクセントにもなっています。 -
八条ヶ池
八条ヶ池を2分する水上橋は天満宮への表参道となっており、それがこの時期は深紅の回廊に身を替え、参道入口から約60m続く姿は圧巻です。
まるでレッド・カーペットのような花道が続いています。 -
八条ヶ池
長岡天満宮のキリシマツツジは、市の天然記念物にも指定されています。
2010年7月、「長岡京らしい景観を形作るうえで大切な樹木」として次世代に引き継いでいくため、景観重要樹木に指定されました。
地球温暖化など環境負荷が一段と増え、放っておくと絶滅の危惧があるからです。
一度枯らしてしまうと、こうした景観を見るには100年以上かかります。 -
八条ヶ池
ここのキリシマツツジは樹高2.5m程あり、4月末に深紅の花を一斉に咲かせる姿は壮大かつ感動的でもあります。樹齢100~150年と推定され、約百株が植わっています。
また、市では貴重なキリシマツツジを保全するため、1993年に中堤を拡幅しています。この中堤と中ノ島を結ぶ水上橋を含む一帯は、「八条ヶ池ふれあい回遊のみち」と名付けられ、多くの人々が行き交います。
参道は、キリシマツツジの真ん中を進む道とその左右にある外側の道の計3本あります。 -
参道(中堤)
個々の花自体はさほど大きなものではありませんが、60m程の中堤の両脇にこれだけ密集して咲く花姿にはただただ圧倒されます。 -
参道
ツツジ科ツツジ属、九州に自生するヤマツツジ(山躑躅)とミヤマキリシマ(深山霧島)との交配による園芸品種の総称とされ、色濃い真紅に咲くのが特徴です。
江戸時代の寛永年間(1624~44年)に薩摩で作出され、正保年間(1644~47年)に大阪に伝えられて京都や江戸にまで広まりました。
属名の Rhododendron は、ギリシャ語の「rhodon(バラ)+dendron(樹木)」が由来です。紅色の花を付ける木という意味で名付けられました。
花言葉は「燃え上がる愛」。花色と一斉に咲き乱れる姿そのものをストレートに表現したような花言葉です。 -
参道
長岡天満宮の境内に導く細い参道は、キリシマツツジで埋め尽くされ、両側とも見事に真っ赤に染め上げられています。深紅の色彩がまるで洪水のように押し寄せます。
人気のルートは、勿論キリシマツツジの開花期だけ解放される中央の参道ですが、シーズン中は人通りが絶えることがなく、写真を撮るのも一苦労です。端から端まで写真に捉えるには、早朝しかないそうです。 -
参道
こちらは参道の南面です。日当たりが良好な分、北面に比べて開花は進んでおり、一部色褪せた箇所もあります。
順光に照らされたキリシマツツジの花色は文字通り「深紅」で、葉が見えなくなるほど密集して咲いています。一面を真っ赤に染め上げた光景は、空の蒼さと周囲の木々の新緑のコントラストが相俟って息を呑む美しさです。 -
参道
「美人薄命」とはよく言ったもので、キリシマツツジの見頃は桜と同じく1週間ととても短いのが残念です。
花の命が短いが故か、長岡天満宮のキリシマツツジは圧倒的な存在感で自己アピールしてきます。その迫力ある光景を体感しようと、花期には多くの参拝者が訪れます。国内でもトップクラスの観賞地ではないでしょうか。 -
参道
それでは鉄板の中央参道を抜けていきましょう。
参道の途中に架けられた石造りの太鼓橋は、加賀 前田藩からの寄進と伝わります。
八条宮智忠親王は、1642(寛永19)年に前田利常の四女 富子を妃としているため、その関係による寄進と窺えます。
また、加賀百万石で有名な前田家は菅原道真の末裔と称していたことで知られ、家紋も天満宮と同様の「梅」を用いた「梅鉢紋」を使っています。 -
参道
キリシマツツジのような赤色は、波長が長いために「色飽和」が起こり易く、カメラマン泣かせと言われ、デジカメの弱点でもあります。色飽和とは、彩度が高過ぎて色階調が失われた状態を言い、露光がオーバーした時に起こる「白飛び」に似た現象です。彩度が高く、デジタルデータ的に正しく階調を表現できなくなる状態を言い、花の輪郭が崩れ、アメーバのように赤い塊として結合してしまいます。
対策としては、
1.カメラの彩度設定で彩度を弱くしておく。
2.露出補正を-1~-1.5EVに設定し、現像時に背景の明るさを考慮しつつ花の階調性が失われない程度まで明るさを戻す。
3.光の反射を抑えるためPLフィルターを使う。(逆光は効果なし)
4.RAWで撮影し、RAW現像する際に色飽和しないように微調整する。
などがあります。
今回は、3と4を駆使して見た目に近い色彩を再現しています。 -
参道
太鼓橋から参道の入口方向を振り返ると人でごった返しています。 -
参道
漸く参道の出口に達しました。
と言うか、人の流れを阻害していた元凶は当方だったようです。急がれている方には申し訳ありませんでした。 -
参道
参道の南面を西側から撮影した様子です。
日当たりの良好な南面に若干緑の葉が目立つのは、すでに花が萎れ、花の密度が低くなっているためだと思います。
例年であれば連休に入る頃には鮮やかな色彩は衰えを見せていますが、今年は桜もそうでしたが開花が遅れていてラッキーでした。
萎れた花は、樹木の管理をされている方々が摘んでおられるのでしょうね。訪れる人を最高の美しさで迎え入れるため、日夜活躍されている裏方さんのご苦労に頭が下がります。 -
八条ヶ池
池の南側は、情景ががらりと切り替わります。
水面に浮かぶ茅葺の数寄屋造りの東屋が古風かつ優美で和心の琴線に触れ、長岡京が平安京に遷都されるまでの10年間都であったことを偲ばせます。 -
八条ヶ池
キリシマツツジと水上御殿のコラボレーションです。 -
八条ヶ池 錦水亭
池の畔に建つのは、筍会席料理で有名な、1881年創業の老舗料亭「錦水亭」です。長岡やその少し北にある大原野や大枝塚原は筍の里で知られており、今頃は朝掘り筍が採れます。また、長岡京の町を覆う竹林は特に美しく、『竹取物語』のモデルになったとも言われています。
その独特の栽培方法は「軟化栽培法」と呼ばれ、10月に竹藪一面に藁を敷くことに始まり、施肥、親竹の選定、先止め、更新と年間を通して丹精込めて大切に育て上げ、春に感謝しながら収穫します。 -
八条ヶ池 錦水亭
錦水亭の名称は山階宮の命名だそうです。 八条宮によって造成された八条ヶ池を取り入れ、大小の数寄屋造りのお座敷が池の水面に点在し、 老松やキリシマツツジ、桜木に覆われた自然の大庭園と共にその景観にはため息が漏れるほどです。
しかし、お値段も目が飛び出るほどです。「たけのこづくしのコース」が松12000円~菊20000円となります。ビールを付け、税・サービス料を加えると昼食にしてはかなりの出費です。因みに個人予約の場合は、3つ上の写真の右端にある大部屋での食事となり、個室に比べて風情は劣るようです。
と言う訳で、目で愉しむだけにさせていただきます。因みに鑑賞料は、無料です! -
八条ヶ池 錦水亭
TV番組『朝だ!生です旅サラダ』の「ヒロドが行く!日本列島コレうまの旅」のコーナーで紹介されていました。また、時代劇の料亭のロケ地としても度々目にされていると思います。因みに天神さんも、ロケ地に使われていますよ!
障子の隙間から庭園にあるキリシマツツジがちらりと覗く様が優雅です。ここからは、屋形船に乗っているかのような感覚で外の景観を愉しむことができる仕掛けなのでしょう。
深紅に染まった景色を愛でながら食すタケノコの味は格別でしょうね! -
参道
キリシマツツジは霧島山が原産地とされ、江戸時代に盆栽用として霧島山から全国に 広まったとされています。しかし現在は本家の霧島山では絶滅し、かろうじて周辺の民家で見かける程度だそうです。
因みに樹齢百年以上の古木が地域に500本以上ある所は、能登だけだそうです。 -
参道
枝先に2~3輪の花を付け、花径は2~3cmの小さなサイズです。
ツツジ(躑躅)の名は、連なって咲くツヅキ咲き、花の形の筒咲きが由来とされ、見る人の足を引き止める花の美しさから、漢名で佇むの意味の躑躅(てきちょく)が当てられたと言われています。
花言葉「燃え上がる愛」は、ぽつぽつと咲き始め、満開の頃には葉が見えなくなるほど密集して咲く鮮やかな赤い花の印象から付けられています。 -
参道
レッド・ウォールの参道を抜けると、場面はまたしてもがらりと切り替わり、もみじの新緑が美しい境内を社殿へと向かわせる趣向です。 -
参道
光と影が織りなす若楓の姿に心がときめきます。小さなもみじの花も可愛らしいです。
若楓という言葉は、『徒然草』に詠まれています。
「卯月ばかりの若楓、すべて、よろずの花紅葉にもまさりてめでり」。 -
錦水亭
境内へ導く参道を外れ、左手の錦水亭への散策道に分け入ります。
錦水亭の入口には、このような見事な藤棚がありますのでお見逃しなく! -
錦水亭
点在する東屋には、それぞれに趣向を凝らした門が構えられています。
苔生した屋根に生える根性のある草が味わいを添えています。 -
錦水亭
簾に水紋がゆらゆらと映り込み、なかなかの風情を湛えた佇まいです。紅殻の艶めかしい壁色がまた魅力的です。 -
錦水亭
「錦水亭」創業の年は、奇遇にも桂宮(八条宮)家の第12代当主 淑子内親王が53歳で薨去された年です。淑子内親王は、和宮の異母姉に当たる人物ですが、その後、桂宮家は継嗣不在のため断絶を余儀なくされています。
このように八条ヶ池に面して料亭を建てるという暴挙が許されたのは、明治初年に発せられた上地令や桂宮家の廃絶の賜物なのかもしれません。 -
錦水亭
門と東屋の間には庭があり、そこに渡された橋もまた時代劇のロケに使われています。
対岸から障子越しにチラリと見えたキリシマツツジの正体がこれのようです。 -
錦水亭
筍の絵柄が入ったマンホールの蓋です。 -
八条ヶ池
こうした数寄屋造りの風情ある建物とコラボさせることができるのも古都ならではの味わい深さです。 -
八条ヶ池
一幅の絵を見ているような感覚に包まれます。
正面の山の頂は、方角的に嵐山にある愛宕山でしょうか? -
八条ヶ池
キリシマツツジONLYでは単調な絵になりがちですが、いい具合に東屋がアクセントになってくれています。 -
五の鳥居
社殿への参道に戻りました。
階段の途中で鉤形に参道を90度曲がると、その先には最後の鳥居が聳えています。 -
拝殿(府文化財)
祭神は、学問の神様として知られる菅原道真です。道真が無実の罪で平安京を追われて太宰府へ左遷させられる途中、かつて在原業平らと共に詩歌管弦を愉しんだこの地に立ち寄り、都を振り返って名残を惜しんだ逸話から「見返り天神」とも呼ばれています。
道真は、太宰府にお供した乙訓郡開田村の中小路宗則ら3人との別れ際に、自身の姿を模した6cm余りの木造を贈りました。左遷から2年後の903(延喜3)年、道真は配流先で亡くなりました。これを聞いた宗則らは、その木像をご神体として祀りました。これが長岡天満宮のはじまりと言われています。 -
手水舎(市指定有形文化財)
1913(大正2)年に建造された「旧祝詞舎」を1941(昭和16)年にここに移築したものです。仁和寺の勅使門などを手がけた名工 亀岡末吉の設計になります。
手水舎は誰もができる簡単な禊の場です。禊とは、穢れた身体を清めることです。かつては神殿に赴く前には水に入って身を清めたとされ、参拝の前に手を清めるのはそのためです。また、口を漱ぐのは、体内に潜む穢れをも清めるためです。 -
手水舎
梁にある蟇股には、宝相華紋や梅鉢紋、その周囲には唐草紋の流麗で洗練された彫刻が施されています。
そして車板に潜むのは、獅噛です。歯を噛みしめる時、顔をしかめることから、極端に怒った相貌の鬼神の面の表情などを獅噛と言います。また、龍などと共に霊獣とされる獅子が噛んでいる飾りを獅噛と言い、霊気にあやかり、力強さを表す目的のものです。
しがみつくは、「獅噛つく」と書きます。「獅子が噛み付くほどにしっかり」という意味ですが、その獅子とは実は天部の神様たちの意匠として用いられたものだそうです。 -
拝殿
拝殿の左手前には筆塚があります。筆の功徳を思い、筆に感謝し、書道上達を願う筆塚祭が毎年5月5日に行われます。
天満宮ですからもちろん祭神は菅原道真ですが、ここは他と違って梅の木は奥の方にひっそりと植えられており、合格祈願の絵馬もあまり目立ちません。道真の死後、怒りを鎮める為に建立された天満宮が多いのですが、こちらは生前からあった神社ということもあるのでしょうか? -
拝殿
現拝殿は1998年に既存の素木の拝殿を朱塗りにし増改築したものです。
梅の装飾が目立ちます。これらは長岡天満宮の神紋です。
蟇股は大きすぎて蟇股に見えませんが、紅白梅がきれいです。 -
拝殿
ご利益は、学業成就、家内安全、交通安全、書道上達です。 -
撫で牛
古いため触ると崩れる危険性があるため、注意書きが立てられています。
天満宮には牛の像があることが多いのですが、長岡天満宮では、拝殿の左前に1頭、拝殿の右手前、手水舎の西に2頭、拝殿の手前の鳥居の脇に子牛の像が1頭、合計4頭の牛がいます。
撫で牛が横たわっている(臥牛)理由は、「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言に由来しています。
次のような事跡から、牛が神使いとなっています。
道真の生まれ年が「丑」だった。
道真は、牛に乗り大宰府へ下った。
茸狩りの時に仔牛が懐いてきたので、喜んだ道真が館に連れて帰って可愛がった。道真が太宰府に左遷の時、途中で刺客に襲われたが、可愛がっていた仔牛が駆けつけて刺客から守った。
また、道真が亡くなったのが丑の月の丑の日だった。
そして道真が太宰府で亡くなった時、遺骸を乗せた車を曳いていた牛が途中でひれ伏して動かなくなり、そこが墓所となって太宰府天満宮が建てられた。 -
社殿
南側から見た本殿、祝詞舎、透塀(すきべい)です。
本殿は、1888(明治21年)に建造された京都 平安神宮の社殿を1941(昭和16)年に移築したものです。設計者は東大教授 伊藤忠太氏で、三間社流造り、素木の本殿で端正で丈が高く美しい姿をしています。
拝殿+幣殿(石の間)+本殿の3部構成の社殿を「石の間造り」と言います。また、日光東照宮がこの形式を採っていることから「権現造り」とも言われますが、長岡天満宮の社殿もこの3部構成です。しかし説明書きを見ると、「幣殿」と「石の間」の建物をここでは「祝詞舎」と表記しています。 -
境内
社務所の前に「中小路宗城大人之像」(右)と「中小路宗康大人像」の父子の銅像が建てられています。現在の名誉宮司で孫に当たる宗隆氏が、没後50年の昭和61年の例祭に建立したものです。
宗城大人は明治35年生まれで、衰微していた天満宮を社殿改修し、八条池石堤や参道板石の整備を行いました。その結果、村社だった社格は府社へと昇格し、再び賑わいを取り戻したそうです。
長岡天満宮の創始者 中小路宗則の末裔になります。道真の左遷に同行した中小路宗則は、道真没後に開田に戻って聖廟を創建しました。これが現在の長岡天満宮の生立ちとされています。
宗則の末裔は、長岡天満宮の神官を務める一方、土豪として勢力を拡大し応仁の乱においては細川氏の被官として中小路遠江守が登場するに至ります。中小路氏が城主を務めた開田城については、『大乗院寺社雑事記』(1470年)に山名是豊による襲撃が記されています。
以後、中小路氏は現代に至るまで長岡天満宮の神官を世襲しています。これらのことから、草創年期は不詳ですが、既に室町時代には社殿が存在し、中小路家が社家として奉祀していたことが窺えます。 -
酒樽奉納舎
拝殿手前の石段下に左右6m、高さ5m、北山丸太の柱、銅板葺きの屋根で50丁の飾樽が奉献できる奉献舎があり、京都を始め全国の有名な酒造会社の銘酒樽が奉納されています。
特徴は酒樽だけでなく、ご覧のように瓶ビールも奉納されていることです。
毎年4月末には、献酒祭が行われています。 -
錦景苑
参道の途中にある弁天池の周辺は、錦景苑として2007年に整備されています。高低差のある敷地を活かし、絵馬殿から眼下に庭を望むことと、絵馬殿を見上げる眺望を愉しむ趣向を合わせています。
秋には錦色に染まるであろう、池泉式と枯山水の融合した庭園です。2トンもある巨石を用いた石橋なども見応えがあります。
長岡天満宮はキリシマツツジや桜、花菖蒲などで有名ですが、紅葉も隠れた名所と言えます。 -
錦景苑 シャガ
アヤメによく似た白い花を咲かせます。アヤメ科アヤメ属の多年草で、原産地は中国ですが日本に古くから帰化していた植物です。
シャガ(著莪)の名は、中国語のシャガ(射干)に由来しています。射干は本来はヒオウギを指すのですが、それを間違ってシャガの花の方をこう呼んでしまったことに因むそうです。射干の発音がシャガと似ているので「著莪」になったようです。
朝から夕方までしか咲かない一日花ですが、このように群生するため、日毎に咲き変わる花が目を愉しませてくれます。
花言葉は意外にも「反抗」です。これは、葉っぱの形が鋭い剣を思わせ、人が踏み入らない日陰に花を咲かせる姿に因みます。また、「友人が多い」という花言葉もあります。こちらは種を付けないにも拘わらず、根茎が地下を這って沢山の花を咲かせる性質が由来となっています。 -
八重ヤマブキ
ヤマブキが満開です。
バラ科ヤマブキ属の落葉低木で、原産地は日本と中国です。山中に生え、花色が蕗(ふき)に似て金色で美しいことからこの名前が付けられました。また、『万葉集』では枝垂れた枝が風になびく風情を表した「山振(やまぶり)」と詠われ、それが「山吹」に転じたとも言われています。
花言葉は「気品」「崇高」「金運」「待ちかねる」などがあります。谷底に落とした金貨がヤマブキの花になったという言い伝えもあり、「気品」「金運」の花言葉はそれに因むそうです。 -
八重ヤマブキ
ヤマブキにまつわるお話を紹介します。
室町時代の武将 太田道灌は、突然のにわか雨に遭って農家で蓑笠を借りようとしました。すると、娘が出てきて一輪のヤマブキの花を無言で差し出しました。蓑笠を借りようとしたのに花を出されて道灌は内心腹を立てます。
後にこの話を家臣にしたところ、それは『後拾遺和歌集』の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の歌に掛け、山間の茅葺きの家であり、貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく伝えたのだと教わりました。
道灌は古歌を知らなかったことを恥じ、その後歌道に励み、歌人としても名を馳せたと言われています。 -
西山名物「焼たけのこ」
長岡京のたけのこは、全国の1割程の生産量しかありませんが、品質は日本一と言われる程レベルが高いブランド品です。茹でた筍の表面を少し焦がして売られており、香ばしさと甘みがたまりません。
因みに筍料理の一押しは、京の味処「うお寿」の「たけのこ姿ずし」です。乙訓寺の近くにあります。錦水亭に比べ、はるかにリーズナブルです。
http://www.uosu.jp/ -
西山名物「焼たけのこ」
食用の筍の代表は、孟宗竹です。927(延長5)年にまとめられた延喜式によると、朝廷に納めた箸用の竹が乙訓園の産出とされ、孟宗竹が唐から渡来したのは801(延暦20)年に長岡京市の海印寺寂照院を開山した道雄上人によるとしています。しかし1228(安貞2)年に曹洞宗の開祖 道元禅師が宋から持ち帰り寂照院に植えたなど諸説あり、渡来の歴史は定かではありません。
11世紀の『枕草子』にも「鞆岡は笹の生いたるがおかしきなり」とあることから、比較的早い時期に渡来したとも考えられます。しかしこの時点のものは鑑賞用とされ、食用ではなかったようです。江戸時代初期には乙訓一帯で竹年貢が定められ、1782(天明2)年に桂宮家で開田産の筍を題材に和歌が詠まれています。 -
キリシマツツジ
逆光に透ける、美しくも凛とした花姿です。
名残りは尽きませんが、これで見納めです。 -
牡丹桜
文化センター前の八重桜の並木は、今が盛りと咲き誇っています。
名残りの桜を見上げながら、次の目的地となる乙訓寺へ向かいます。
この続きは、青嵐薫風 長岡京逍遥②乙訓寺でお届けします。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- hiro3さん 2017/05/06 06:08:02
- 後を追いかけましたよ!
- montsaintmichelさん、おはようございます。
自分も同じ日に長岡天満宮と乙訓寺を廻りましたよ。
天神さんには、10時前の到着でしたので、人でいっぱいでした。
記念撮影に順番待ちが出来るくらい。ですから、沢山の人が写り込んでしまって、処理をどうするかと・・・(涙)
乙訓寺さんには、12時くらいでした。
青嵐とはいえ、お天気が良くて楽しめましたね。鯉のぼりさんも気持ちよさげにたなびいていました。
旅行記は、たまっておりかなり遅くなりそうです。
乙訓寺編、楽しみにしています!
hiro3
- montsaintmichelさん からの返信 2017/05/07 07:31:32
- RE: 後を追いかけましたよ!
- hiro3さん、おはようございます。
旅行記への訪問ありがとうございました。
現地でニアミスしていたのですね!
長岡天満宮の訪問はほぼ同じ時間帯だと思います。
ひょっとしたらお隣におられた方だったのかも!
hiro3さんの旅行記のアップを愉しみにしております。
montsaintmichel
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