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最近の社会トレンドというか、ドイツのメルケル首相や英国メイ首相をはじめ小池都知事や蓮舫党首など女性が台頭する時代が到来した感があります。一方、女性が強い時代を不安な時代の裏付けと危惧する声もあります。何故なら母性本能は、安全・平和な環境下では適度に発揮されるものですが、不安な状況下では過剰に反応してします危険性があるからです。<br />戦国時代を生きた細川ガラシャは、洋の東西を問わず「強い女」の典型とされています。彼女は、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の娘に当たり、定説では、逆臣の娘として苦渋を強いられ、心の拠り所を求めてキリシタンになったと伝えられています。しかしこうした場合、出家するのが戦国時代の慣わしでした。ガラシャが新婚時代に暮らした長岡京市にある「勝龍寺城跡」を訪ね、彼女がキリシタンに傾いた謎に思いを馳せてまいりました。<br /><br />勝龍寺城公園を紹介しているサイトです。<br />https://kojodan.jp/castle/135/

青嵐薫風 長岡京逍遥③勝龍寺城跡(エピローグ)

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2017/04/30 - 2017/04/30

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

最近の社会トレンドというか、ドイツのメルケル首相や英国メイ首相をはじめ小池都知事や蓮舫党首など女性が台頭する時代が到来した感があります。一方、女性が強い時代を不安な時代の裏付けと危惧する声もあります。何故なら母性本能は、安全・平和な環境下では適度に発揮されるものですが、不安な状況下では過剰に反応してします危険性があるからです。
戦国時代を生きた細川ガラシャは、洋の東西を問わず「強い女」の典型とされています。彼女は、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀の娘に当たり、定説では、逆臣の娘として苦渋を強いられ、心の拠り所を求めてキリシタンになったと伝えられています。しかしこうした場合、出家するのが戦国時代の慣わしでした。ガラシャが新婚時代に暮らした長岡京市にある「勝龍寺城跡」を訪ね、彼女がキリシタンに傾いた謎に思いを馳せてまいりました。

勝龍寺城公園を紹介しているサイトです。
https://kojodan.jp/castle/135/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 私鉄 徒歩

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  • JR「長岡京」駅の近くにある道標です。<br />乙訓寺から阪急バスを利用し、「薬師堂」バス停からJR「長岡京」駅までやってきました。バスの本数が限られているため、事前に時刻表をチェックしておかれることをお勧めします。通常ルートは1時間に1本ですが、逆方向の光明寺経由であれば、時間帯によっては30分に1本あります。<br />道標の先のクリーム色のバスが阪急バスです。

    JR「長岡京」駅の近くにある道標です。
    乙訓寺から阪急バスを利用し、「薬師堂」バス停からJR「長岡京」駅までやってきました。バスの本数が限られているため、事前に時刻表をチェックしておかれることをお勧めします。通常ルートは1時間に1本ですが、逆方向の光明寺経由であれば、時間帯によっては30分に1本あります。
    道標の先のクリーム色のバスが阪急バスです。

  • JR東海道線「長岡京」駅<br />駅前の歩道橋からは、天王山方面の山並みが見渡せます。<br />勝龍寺城跡へ向かうにはJRの線路の反対側に出る必要があります。下の道路は駅の手前で行き止まりになっているため、歩道橋に上がって駅舎を経て東口へ降ります。

    JR東海道線「長岡京」駅
    駅前の歩道橋からは、天王山方面の山並みが見渡せます。
    勝龍寺城跡へ向かうにはJRの線路の反対側に出る必要があります。下の道路は駅の手前で行き止まりになっているため、歩道橋に上がって駅舎を経て東口へ降ります。

  • JR東海道線「長岡京」駅<br />駅の東口に降り立つと、駅前のロータリには「勝龍寺城公園」の方向を示す石柱の道標があります。石柱の上にちょこんと載せられたタケノコは、長岡京市がタケノコの名産地であることに因みます。<br />因みに勝龍寺城公園は「日本の歴史公園百選」に選ばれていますが、百選という名称ながら実際は250もの公園が選ばれているという何でもありの「百選」です。

    JR東海道線「長岡京」駅
    駅の東口に降り立つと、駅前のロータリには「勝龍寺城公園」の方向を示す石柱の道標があります。石柱の上にちょこんと載せられたタケノコは、長岡京市がタケノコの名産地であることに因みます。
    因みに勝龍寺城公園は「日本の歴史公園百選」に選ばれていますが、百選という名称ながら実際は250もの公園が選ばれているという何でもありの「百選」です。

  • JR東海道線「長岡京」駅<br />竹をモチーフにした時計のオブジェがあり、借景は村田製作所の本社ビルになります。<br />この付近は江戸時代初期に永井直清が16年間営んだ城の本丸があった場所で、神足館とも呼ばれていました。山崎の合戦で落城した勝龍寺城には江戸時代の1633年に直清が入城し、幕府の命で城の北に屋敷を建てたと言われており、それがこの辺りになります。

    JR東海道線「長岡京」駅
    竹をモチーフにした時計のオブジェがあり、借景は村田製作所の本社ビルになります。
    この付近は江戸時代初期に永井直清が16年間営んだ城の本丸があった場所で、神足館とも呼ばれていました。山崎の合戦で落城した勝龍寺城には江戸時代の1633年に直清が入城し、幕府の命で城の北に屋敷を建てたと言われており、それがこの辺りになります。

  • ガラシャ通り<br />JR「長岡京」駅から続く道は、「ガラシャ通り」と呼ばれています。毎年11月にはここで「ガラシャ祭り」が行われ、坂本城から勝龍寺城へお輿入れした様子を再現しています。<br />往路の電車の中では三浦綾子著『細川ガラシャ夫人(上)』のガラシャの輿入れの件を読み返し、気合を入れて臨みました。<br /><br />ガラシャの本名は玉と言い、1563(永禄6)年に明智光秀の三女として生まれました。1578(天正6)年8月、織田信長の媒酌により明智家の与力 細川藤孝の嫡男 忠興と16歳同士で勝龍寺城にて祝言を挙げました。2人は信長にも「人形のように可愛い夫婦」と称され、翌年に長男、翌々年に長女を授かり、幸せな生活を送りました。<br />2年後に領地替えで丹後の宮津に移りますが、その2年後に玉にとっては青天の霹靂とでも言うべき「本能寺の変」が起こり、境遇は一変します。光秀は以前からの盟友である藤孝・忠興父子に加勢を求めるも、藤孝は剃髪して弔意を表し、忠興は光秀の誘いをきっぱりと断り、玉を生まれたばかりの子どもから引き離し、丹波国の味土野に幽閉しました。<br />ところがその2年後、秀吉の取りなしで玉は大坂の細川屋敷に戻されました。この理由は「女好きの秀吉が、美しい玉を見初めたから」というのが定説で、その際のエピソードも伝えられています。秀吉に呼び出された玉は、手籠めにされそうになったら秀吉を刺して自害する覚悟でした。しかし、挨拶の際に意図的に懐刀を落としたため、秀吉は玉の覚悟を知って手を出さなかったようです。<br />玉がキリシタンに傾いたのは、その翌年の1587(天正15)年2月でした。復活祭の日に教会を訪ね、スペイン人宣教師セスペデスから説教を聴きました。侍女 清原マリアを介して教義を学び、敬虔なキリシタンに変身し、同年8月、神の寵愛を意味する「ガラシャ(Gratia)」なる洗礼名を授かりました。どうやら秀吉の誘惑がキリシタンになる起爆剤になったことは間違いありません。夫が生きており、離縁もしてもらえないために出家できないと考え、キリシタンを選んだとすれば頷けます。

    ガラシャ通り
    JR「長岡京」駅から続く道は、「ガラシャ通り」と呼ばれています。毎年11月にはここで「ガラシャ祭り」が行われ、坂本城から勝龍寺城へお輿入れした様子を再現しています。
    往路の電車の中では三浦綾子著『細川ガラシャ夫人(上)』のガラシャの輿入れの件を読み返し、気合を入れて臨みました。

    ガラシャの本名は玉と言い、1563(永禄6)年に明智光秀の三女として生まれました。1578(天正6)年8月、織田信長の媒酌により明智家の与力 細川藤孝の嫡男 忠興と16歳同士で勝龍寺城にて祝言を挙げました。2人は信長にも「人形のように可愛い夫婦」と称され、翌年に長男、翌々年に長女を授かり、幸せな生活を送りました。
    2年後に領地替えで丹後の宮津に移りますが、その2年後に玉にとっては青天の霹靂とでも言うべき「本能寺の変」が起こり、境遇は一変します。光秀は以前からの盟友である藤孝・忠興父子に加勢を求めるも、藤孝は剃髪して弔意を表し、忠興は光秀の誘いをきっぱりと断り、玉を生まれたばかりの子どもから引き離し、丹波国の味土野に幽閉しました。
    ところがその2年後、秀吉の取りなしで玉は大坂の細川屋敷に戻されました。この理由は「女好きの秀吉が、美しい玉を見初めたから」というのが定説で、その際のエピソードも伝えられています。秀吉に呼び出された玉は、手籠めにされそうになったら秀吉を刺して自害する覚悟でした。しかし、挨拶の際に意図的に懐刀を落としたため、秀吉は玉の覚悟を知って手を出さなかったようです。
    玉がキリシタンに傾いたのは、その翌年の1587(天正15)年2月でした。復活祭の日に教会を訪ね、スペイン人宣教師セスペデスから説教を聴きました。侍女 清原マリアを介して教義を学び、敬虔なキリシタンに変身し、同年8月、神の寵愛を意味する「ガラシャ(Gratia)」なる洗礼名を授かりました。どうやら秀吉の誘惑がキリシタンになる起爆剤になったことは間違いありません。夫が生きており、離縁もしてもらえないために出家できないと考え、キリシタンを選んだとすれば頷けます。

  • 勝龍寺城跡<br />JR「長岡京」駅から徒歩10分弱で住宅街の先に「勝龍寺城跡」の北西隅櫓が見えてきます。何と石落しまで設けられた本格的な隅櫓ですが、休憩所になっています。城跡は、現在「勝龍寺城公園」として市民に開放され、こうした模擬櫓や城門、石垣などのお城風の建造物が往時を偲ばせます。遺構としては水濠や土塁しかありませんが、ここを舞台にした数々のエピソードは歴史ファンには垂涎の的です。<br /><br />勝龍寺城は、1339(暦応2)年に足利尊氏の命により細川頼春が築城したとされています。その後、1578( 天正6)年に明智光秀の娘 玉が細川忠興に嫁ぎ、2年間この城で幸福な新婚時代を過ごしました。<br />本能寺の変の後、秀吉と光秀が戦った「山崎の合戦」の際、光秀はここを属城にしました。しかし往時、忠興と玉は宮津で暮らしており、光秀と行動を共にした訳ではありません。それどころか、藤孝・忠興 父子は光秀を裏切って秀吉に従軍しています。敗れた光秀は、この勝龍寺城に逃げ込み、夜を待って脱出するも坂本城に向かう途中、農民の槍に突かれて負傷し、自刃したとされています。

    勝龍寺城跡
    JR「長岡京」駅から徒歩10分弱で住宅街の先に「勝龍寺城跡」の北西隅櫓が見えてきます。何と石落しまで設けられた本格的な隅櫓ですが、休憩所になっています。城跡は、現在「勝龍寺城公園」として市民に開放され、こうした模擬櫓や城門、石垣などのお城風の建造物が往時を偲ばせます。遺構としては水濠や土塁しかありませんが、ここを舞台にした数々のエピソードは歴史ファンには垂涎の的です。

    勝龍寺城は、1339(暦応2)年に足利尊氏の命により細川頼春が築城したとされています。その後、1578( 天正6)年に明智光秀の娘 玉が細川忠興に嫁ぎ、2年間この城で幸福な新婚時代を過ごしました。
    本能寺の変の後、秀吉と光秀が戦った「山崎の合戦」の際、光秀はここを属城にしました。しかし往時、忠興と玉は宮津で暮らしており、光秀と行動を共にした訳ではありません。それどころか、藤孝・忠興 父子は光秀を裏切って秀吉に従軍しています。敗れた光秀は、この勝龍寺城に逃げ込み、夜を待って脱出するも坂本城に向かう途中、農民の槍に突かれて負傷し、自刃したとされています。

  • 勝龍寺城跡<br />勝龍寺城は、室町~戦国時代に重要拠点とされた城郭で、守護大名の郡代役所が時代に応じて要塞化した典型例です。戦国時代までは反織田方の三好三人衆の属城でしたが、「勝龍寺城の戦い」で信長軍に屈して開城し、その後信長の命で細川藤孝(幽斎)が城主となり、堅固な城郭に改修しました。<br />山崎の合戦で敗走した明智光秀は勝龍寺城に帰城するも羽柴秀吉軍の追撃を受け逃走し、翌日に秀吉が入城。その後、秀吉が周辺を治めるために山崎城を築いたこともあり、勝龍寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして荒廃しました。その後、江戸時代に永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ修築を行いましたが、1649(慶安2)年に直清が摂津高槻藩に転封されると役目を終えて廃城となりました。<br />しかし発掘調査で藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓跡が新たに発見され、勝龍寺城が鉄砲時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城であり、石垣で築く近世の城に遷移する間際の城郭として、城郭史上でも貴重なものであることが判ってきています。

    勝龍寺城跡
    勝龍寺城は、室町~戦国時代に重要拠点とされた城郭で、守護大名の郡代役所が時代に応じて要塞化した典型例です。戦国時代までは反織田方の三好三人衆の属城でしたが、「勝龍寺城の戦い」で信長軍に屈して開城し、その後信長の命で細川藤孝(幽斎)が城主となり、堅固な城郭に改修しました。
    山崎の合戦で敗走した明智光秀は勝龍寺城に帰城するも羽柴秀吉軍の追撃を受け逃走し、翌日に秀吉が入城。その後、秀吉が周辺を治めるために山崎城を築いたこともあり、勝龍寺城は石材が淀古城の修築に使用されるなどして荒廃しました。その後、江戸時代に永井直清が山城長岡藩へ封ぜられ修築を行いましたが、1649(慶安2)年に直清が摂津高槻藩に転封されると役目を終えて廃城となりました。
    しかし発掘調査で藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓跡が新たに発見され、勝龍寺城が鉄砲時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城であり、石垣で築く近世の城に遷移する間際の城郭として、城郭史上でも貴重なものであることが判ってきています。

  • 勝龍寺城跡 濠<br />玉は父 光秀が信長を討った本当の理由を知っていたのかもしれません。そしてそれが、藤孝・忠興父子を秀吉に従わせ、玉がキリシタンになった理由でもあると考えれば全ての辻褄が合います。<br />信長が天下布武を宣言できた背景には、イエズス会の支援があったそうです。故に本能寺の変は、信長と不和になったイエズス会が裏で仕掛けたという説が真実味を帯びてきます。つまりイエズス会が、信長の度重なる度を過ぎたパワハラに悩む光秀に「信長を討てば、あなたが天下人になるよう支援する」と持ち掛けたのかもしれません。また、キリスト教が理想とする社会は、秀光が信長を反面教師として夢見ていたものと共鳴したとも考えられます。当時、光秀は信長に理由もなく領地を没収され、代地として毛利氏の国を自らの手で奪うよう命じられていたのです。何となく、石油の輸出を止められて無鉄砲にも太平洋戦争を決断した日本軍部を彷彿とさせます。(日本軍部には、後ろ盾はなかったのですが…。)<br />信長からの死の宣告に怯えるより、先手必勝の方が自分と家族のため、ひいては世のため人のためと考え、確かな後ろ盾を得た上で実行に移したのでしょう。信長暗殺は、恐らく信長の家臣の誰もが考えていたことではなかったでしょうか?

    勝龍寺城跡 濠
    玉は父 光秀が信長を討った本当の理由を知っていたのかもしれません。そしてそれが、藤孝・忠興父子を秀吉に従わせ、玉がキリシタンになった理由でもあると考えれば全ての辻褄が合います。
    信長が天下布武を宣言できた背景には、イエズス会の支援があったそうです。故に本能寺の変は、信長と不和になったイエズス会が裏で仕掛けたという説が真実味を帯びてきます。つまりイエズス会が、信長の度重なる度を過ぎたパワハラに悩む光秀に「信長を討てば、あなたが天下人になるよう支援する」と持ち掛けたのかもしれません。また、キリスト教が理想とする社会は、秀光が信長を反面教師として夢見ていたものと共鳴したとも考えられます。当時、光秀は信長に理由もなく領地を没収され、代地として毛利氏の国を自らの手で奪うよう命じられていたのです。何となく、石油の輸出を止められて無鉄砲にも太平洋戦争を決断した日本軍部を彷彿とさせます。(日本軍部には、後ろ盾はなかったのですが…。)
    信長からの死の宣告に怯えるより、先手必勝の方が自分と家族のため、ひいては世のため人のためと考え、確かな後ろ盾を得た上で実行に移したのでしょう。信長暗殺は、恐らく信長の家臣の誰もが考えていたことではなかったでしょうか?

  • 勝龍寺城跡 濠<br />濠には色素が退化したと思しき、白い鯉が棲んでいます。白蛇が神のお使いであるように、この鯉もそうした意味合いを持つのかもしれません。<br /><br />玉がキリシタンに傾いたきっかけは、忠興に対する心が離れたことも一因です。舅の藤孝は光秀の親友であり部下だったにも拘わらず、父の危難を救ってくれませんでした。<br />一方、夫婦の間に決定的な亀裂が入ったのは、玉が幽閉されて別居していた時のようです。忠興は玉に恋着し、一方の玉は父を殺した敵の1人である忠興への確執が芽生えていました。そんな中、止めを刺したのは、忠興が玉の幽閉中に側室にした「おりょう」の存在を知ったことでした。玉は離婚も考えたようですが、帰る家もなく、忠興もそれを認めませんでした。そうした境遇の中、女性が何に救いを求めるのか…。玉の場合、それがキリスト教だったのではないでしょうか?

    勝龍寺城跡 濠
    濠には色素が退化したと思しき、白い鯉が棲んでいます。白蛇が神のお使いであるように、この鯉もそうした意味合いを持つのかもしれません。

    玉がキリシタンに傾いたきっかけは、忠興に対する心が離れたことも一因です。舅の藤孝は光秀の親友であり部下だったにも拘わらず、父の危難を救ってくれませんでした。
    一方、夫婦の間に決定的な亀裂が入ったのは、玉が幽閉されて別居していた時のようです。忠興は玉に恋着し、一方の玉は父を殺した敵の1人である忠興への確執が芽生えていました。そんな中、止めを刺したのは、忠興が玉の幽閉中に側室にした「おりょう」の存在を知ったことでした。玉は離婚も考えたようですが、帰る家もなく、忠興もそれを認めませんでした。そうした境遇の中、女性が何に救いを求めるのか…。玉の場合、それがキリスト教だったのではないでしょうか?

  • 勝龍寺城跡 南門<br />ここで気になるのが忠興の人物像です。一般的には文武に優れ、戦国一の名将とされますが、反面「天下一短気な男」としても知られていました。しかも執拗な嫉妬心と独占欲から、玉と親しくした庭師や家臣を手討ちにしたとのエピソードもあるほどです。<br />ある朝、玉が植木職人に声を掛け、挨拶を返しただけで忠興が男の首を刎ねたのです。こうしたことから玉はうつ病を罹っており、この沙汰にも表情ひとつ変えず、罵りもしなかったそうです。血が着いた刀を玉の小袖で拭いても動じることなく小袖を数日着続け、最後は忠興が謝って着替えてもらったようです。三浦綾子女史の著書では小袖で生首を受け取ったとありますが、これは後の世の脚色と思います。<br />また、忠興が「お前は蛇だ」と怒鳴ると、玉は「鬼の女房には蛇がなるのさ」と嫌味を返したとも言われています。忠興は、玉が嫁いで以来、「玉の美貌」だけは人一倍大切にしましたが、「玉の心情」に斟酌することは稀だったそうです。

    勝龍寺城跡 南門
    ここで気になるのが忠興の人物像です。一般的には文武に優れ、戦国一の名将とされますが、反面「天下一短気な男」としても知られていました。しかも執拗な嫉妬心と独占欲から、玉と親しくした庭師や家臣を手討ちにしたとのエピソードもあるほどです。
    ある朝、玉が植木職人に声を掛け、挨拶を返しただけで忠興が男の首を刎ねたのです。こうしたことから玉はうつ病を罹っており、この沙汰にも表情ひとつ変えず、罵りもしなかったそうです。血が着いた刀を玉の小袖で拭いても動じることなく小袖を数日着続け、最後は忠興が謝って着替えてもらったようです。三浦綾子女史の著書では小袖で生首を受け取ったとありますが、これは後の世の脚色と思います。
    また、忠興が「お前は蛇だ」と怒鳴ると、玉は「鬼の女房には蛇がなるのさ」と嫌味を返したとも言われています。忠興は、玉が嫁いで以来、「玉の美貌」だけは人一倍大切にしましたが、「玉の心情」に斟酌することは稀だったそうです。

  • 勝龍寺城跡 南門<br />上杉討伐に向かう際、忠興は留守番の者たちに「屋敷が敵に囲まれるようなことがあれば、玉を殺し、お前たちは切腹するように」と命じたそうです。玉は自分に仕えてくれた女性たちと前田利家の息女である息子 忠隆の嫁 千代を逃がし、キリシタンに自殺は許されないため、白装束に身を包んで神に祈りを捧げながら家老 小笠原少斎に胸を突かせました。家臣が放った火で屋敷が炎に包まれる中、玉は38歳の生涯を閉じました。玉は遺体が残らないよう、家臣には屋敷に爆薬を仕掛けるよう命じたとも伝えられています。<br />夫との確執はあったものの、最後は武士の妻を全うして人質になることを恥じ、死して忠興を支えたのです。玉の骨は、屋敷が焼け落ちた後、神父によって拾われ、大阪市東淀川区の崇禅寺に埋葬されたと伝わります。他にも数ヶ所に玉の墓は存在し、そのうちのひとつが京都市北区の高桐院です。<br />やがて関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、家康は玉の行動に強く心を打たれ、忠興に豊前国32万石を与えたそうです。

    勝龍寺城跡 南門
    上杉討伐に向かう際、忠興は留守番の者たちに「屋敷が敵に囲まれるようなことがあれば、玉を殺し、お前たちは切腹するように」と命じたそうです。玉は自分に仕えてくれた女性たちと前田利家の息女である息子 忠隆の嫁 千代を逃がし、キリシタンに自殺は許されないため、白装束に身を包んで神に祈りを捧げながら家老 小笠原少斎に胸を突かせました。家臣が放った火で屋敷が炎に包まれる中、玉は38歳の生涯を閉じました。玉は遺体が残らないよう、家臣には屋敷に爆薬を仕掛けるよう命じたとも伝えられています。
    夫との確執はあったものの、最後は武士の妻を全うして人質になることを恥じ、死して忠興を支えたのです。玉の骨は、屋敷が焼け落ちた後、神父によって拾われ、大阪市東淀川区の崇禅寺に埋葬されたと伝わります。他にも数ヶ所に玉の墓は存在し、そのうちのひとつが京都市北区の高桐院です。
    やがて関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、家康は玉の行動に強く心を打たれ、忠興に豊前国32万石を与えたそうです。

  • 勝龍寺城跡 南門<br />南門の橋の左袂には「明智光秀公 三女 玉 お輿入れの城」の石碑が建てられています。長岡京市は細川ガラシャゆかりの街としてPRしているようです。

    勝龍寺城跡 南門
    南門の橋の左袂には「明智光秀公 三女 玉 お輿入れの城」の石碑が建てられています。長岡京市は細川ガラシャゆかりの街としてPRしているようです。

  • 勝龍寺城跡 南門<br />2003年に長岡京市と中国寧波市の友好都市締結20周年記念に贈られた石柱です。<br />活き活きとした下り龍の姿が印象的です。

    勝龍寺城跡 南門
    2003年に長岡京市と中国寧波市の友好都市締結20周年記念に贈られた石柱です。
    活き活きとした下り龍の姿が印象的です。

  • 勝龍寺城跡 南門<br />1600(慶長5)年7月17日、石田三成と徳川家康が対立する中、忠興は上杉討伐に向かう家康に従軍して関東に下りました。この時、三成は、大坂屋敷に残る諸大名の妻たちを人質にしようと企てました。玉にも兵が迫りましたが、人質になることを拒絶し、壮絶な最期を遂げました。<br />玉は積極的に死を選択しました。しかしそれは決して自殺ではなく、自分の全存在を賭した死に様でした。乱世に対する精一杯の女性としての抵抗と神への一途な信仰を両立させた死に様だったとも言えます。<br />辞世の句は「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」です。彼女の強い意志と覚悟が窺えます。玉の投げ付けた一句は、どのように忠興の心に響いたのでしょうか?

    勝龍寺城跡 南門
    1600(慶長5)年7月17日、石田三成と徳川家康が対立する中、忠興は上杉討伐に向かう家康に従軍して関東に下りました。この時、三成は、大坂屋敷に残る諸大名の妻たちを人質にしようと企てました。玉にも兵が迫りましたが、人質になることを拒絶し、壮絶な最期を遂げました。
    玉は積極的に死を選択しました。しかしそれは決して自殺ではなく、自分の全存在を賭した死に様でした。乱世に対する精一杯の女性としての抵抗と神への一途な信仰を両立させた死に様だったとも言えます。
    辞世の句は「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」です。彼女の強い意志と覚悟が窺えます。玉の投げ付けた一句は、どのように忠興の心に響いたのでしょうか?

  • 勝龍寺城跡 南門<br />安 廷苑著『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』には、ガラシャがどれほど夫婦生活に苦悩を抱えていたかが、そして自己の最期を予感していたことが記されています。ガラシャは「細川屋敷が敵兵に囲まれたら、夫は私に死ねと言うでしょう。その時キリスト教信者である自分は自害してよいのでしょうか」と宣教師に訊ねたそうです。彼はバチカンに「キリスト教に入信した武士が切腹するのは名誉を守るための行為であるが、それを許してよいか」と諮問しましたが、バチカンの返答は「NO」、「『腹を切らずに逃げろ』と説得せよ」でした。<br />ガラシャはそれ以前にも宣教師オルガンティーノに訊ねたそうですが、彼がどう答えたかはレポートになかったそうです。答えは記されていないものの、「彼女は大変満足した」とのレポートがあり、安氏の推察はイエズス会がこの問答については恣意的に残さなかったとしています。恐らく、「自害しても問題はない。それは信者として名誉ある死であり、殉教にも等しい死である」とでも彼女に伝えたのだろうと推測されています。<br />かくてガラシャは殉死を遂げ、屋敷は炎に包まれ、石田三成は諸大名の家族を人質に取るという当初の戦略の断念を余儀なくされました。これがどれほど東軍の武将たちを安堵させたことでしょう。つまり、細川藤孝・忠興父子の行動が光秀を滅ぼす遠因になったように、ガラシャの死は三成を滅ぼす遠因ともなったのです。

    勝龍寺城跡 南門
    安 廷苑著『細川ガラシャ キリシタン史料から見た生涯』には、ガラシャがどれほど夫婦生活に苦悩を抱えていたかが、そして自己の最期を予感していたことが記されています。ガラシャは「細川屋敷が敵兵に囲まれたら、夫は私に死ねと言うでしょう。その時キリスト教信者である自分は自害してよいのでしょうか」と宣教師に訊ねたそうです。彼はバチカンに「キリスト教に入信した武士が切腹するのは名誉を守るための行為であるが、それを許してよいか」と諮問しましたが、バチカンの返答は「NO」、「『腹を切らずに逃げろ』と説得せよ」でした。
    ガラシャはそれ以前にも宣教師オルガンティーノに訊ねたそうですが、彼がどう答えたかはレポートになかったそうです。答えは記されていないものの、「彼女は大変満足した」とのレポートがあり、安氏の推察はイエズス会がこの問答については恣意的に残さなかったとしています。恐らく、「自害しても問題はない。それは信者として名誉ある死であり、殉教にも等しい死である」とでも彼女に伝えたのだろうと推測されています。
    かくてガラシャは殉死を遂げ、屋敷は炎に包まれ、石田三成は諸大名の家族を人質に取るという当初の戦略の断念を余儀なくされました。これがどれほど東軍の武将たちを安堵させたことでしょう。つまり、細川藤孝・忠興父子の行動が光秀を滅ぼす遠因になったように、ガラシャの死は三成を滅ぼす遠因ともなったのです。

  • 勝龍寺城跡 南門<br />軒丸瓦に細川氏の「九曜紋」、瓦には本家足利氏の「二つ引両紋」が施されています。肥後細川氏の家紋「九曜紋」は、信長の小柄に付いていた九曜紋を見た忠興が自分の衣服に使用したいと信長に願い出たところ、「しからば定紋にせよ」との言葉を添えて与えられたと伝えられています。往時の忠興は長岡姓を称しており、細川家代々の家紋に代わる新たな紋として主君 信長の小柄の九曜紋を望んだものとされています。<br />ここの細川氏は、清和源氏足利氏の分れで室町幕府の管領を務めた細川氏の一族です。足利陸奥判官 義康の4代目の孫に当たる義季が、鎌倉時代中頃に三河国額田郡細川郷に住み 、細川氏を名乗ったことに始まります。南北両朝対立の動乱期には、細川氏一族は足利尊氏に属して活躍し、室町幕府成立に尽力します。一連の戦功で一族は讃岐・阿波・河内・和泉諸国の守護職に任じられ、やがて将軍 義詮の遺命を受けた細川頼之が管領となり、3代将軍 義満を補佐し、室町幕府体制を確立しました。<br />応仁の乱では、管領 細川勝元が東軍の立役者となって西軍の総帥 山名宗全と対立し、その子 政元は10代将軍 義材をクーデタで倒して幕政を牛耳りましたが、自らが招いた細川家跡目争いで横死します。以後、細川氏宗家は泥沼の同族争いで歴史の荒波に呑まれて没落します。<br />近世大名として生き残った細川氏は、頼之の弟で 和泉半国守護職に任じられた頼有の末裔の藤孝(幽斎)・忠興の子孫です。江戸時代は肥後54万石の大大名に出世しています。近年では当主が総理大臣(細川護煕)にもなる大出世を果たしています。

    勝龍寺城跡 南門
    軒丸瓦に細川氏の「九曜紋」、瓦には本家足利氏の「二つ引両紋」が施されています。肥後細川氏の家紋「九曜紋」は、信長の小柄に付いていた九曜紋を見た忠興が自分の衣服に使用したいと信長に願い出たところ、「しからば定紋にせよ」との言葉を添えて与えられたと伝えられています。往時の忠興は長岡姓を称しており、細川家代々の家紋に代わる新たな紋として主君 信長の小柄の九曜紋を望んだものとされています。
    ここの細川氏は、清和源氏足利氏の分れで室町幕府の管領を務めた細川氏の一族です。足利陸奥判官 義康の4代目の孫に当たる義季が、鎌倉時代中頃に三河国額田郡細川郷に住み 、細川氏を名乗ったことに始まります。南北両朝対立の動乱期には、細川氏一族は足利尊氏に属して活躍し、室町幕府成立に尽力します。一連の戦功で一族は讃岐・阿波・河内・和泉諸国の守護職に任じられ、やがて将軍 義詮の遺命を受けた細川頼之が管領となり、3代将軍 義満を補佐し、室町幕府体制を確立しました。
    応仁の乱では、管領 細川勝元が東軍の立役者となって西軍の総帥 山名宗全と対立し、その子 政元は10代将軍 義材をクーデタで倒して幕政を牛耳りましたが、自らが招いた細川家跡目争いで横死します。以後、細川氏宗家は泥沼の同族争いで歴史の荒波に呑まれて没落します。
    近世大名として生き残った細川氏は、頼之の弟で 和泉半国守護職に任じられた頼有の末裔の藤孝(幽斎)・忠興の子孫です。江戸時代は肥後54万石の大大名に出世しています。近年では当主が総理大臣(細川護煕)にもなる大出世を果たしています。

  • 勝龍寺城跡 細川忠興・玉(ガラシャ)像<br />ガラシャの「強い女」のイメージは、海外で醸成されたものだそうです。イエズス会の宣教師がガラシャの様子を逐一本国に報告しており、その情報を基にラテン語の戯曲『強き女…またの名を丹後王国の女王グラツィア』が制作されました。脚本はイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフ、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウトが担当しました。アドルフは、コルネリウス・ハザルト著『日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰』を基に戯曲化しており、ガラシャを次のように紹介しています。<br />「強き女、そして彼女の真珠にも勝る貴さ。またの名を、丹後王国の女王グラツィア(ガラシャ)。キリスト信仰のために幾多の困難を耐え抜いた誉れ高き女性」。

    勝龍寺城跡 細川忠興・玉(ガラシャ)像
    ガラシャの「強い女」のイメージは、海外で醸成されたものだそうです。イエズス会の宣教師がガラシャの様子を逐一本国に報告しており、その情報を基にラテン語の戯曲『強き女…またの名を丹後王国の女王グラツィア』が制作されました。脚本はイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフ、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウトが担当しました。アドルフは、コルネリウス・ハザルト著『日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰』を基に戯曲化しており、ガラシャを次のように紹介しています。
    「強き女、そして彼女の真珠にも勝る貴さ。またの名を、丹後王国の女王グラツィア(ガラシャ)。キリスト信仰のために幾多の困難を耐え抜いた誉れ高き女性」。

  • 勝龍寺城跡 細川忠興・玉(ガラシャ)像<br />ガラシャはその死に様が壮絶だったが故に、イエズス会によって欧州にも知らされ、「強い女」として歴史に名を残し、キリシタンの代名詞になりました。<br />しかし、彼女の死は、関ヶ原の戦いに関わる政治工作でイエズス会の策略だったとの説もあります。それを隠蔽するため、イエズス会が彼女を殉教者に祀り上げ、伝説化したとも考えられています。イエズス会が「本能寺の変」の黒幕だったとすれば、ガラシャの口封じのためにさもありなんの話です。<br />こうした説があるのは、家を守るために死を選んだことは武家の女性としては立派なことでしたが、決して信仰心で殉教した訳ではないからです。イエズス会が黒幕だとするのは極論としても、武家の女性としての死に様が評判になり、偶然にもキリシタンだったため、イエズス会が彼女を殉教者として美談化したというのが真相ではないでしょうか?

    勝龍寺城跡 細川忠興・玉(ガラシャ)像
    ガラシャはその死に様が壮絶だったが故に、イエズス会によって欧州にも知らされ、「強い女」として歴史に名を残し、キリシタンの代名詞になりました。
    しかし、彼女の死は、関ヶ原の戦いに関わる政治工作でイエズス会の策略だったとの説もあります。それを隠蔽するため、イエズス会が彼女を殉教者に祀り上げ、伝説化したとも考えられています。イエズス会が「本能寺の変」の黒幕だったとすれば、ガラシャの口封じのためにさもありなんの話です。
    こうした説があるのは、家を守るために死を選んだことは武家の女性としては立派なことでしたが、決して信仰心で殉教した訳ではないからです。イエズス会が黒幕だとするのは極論としても、武家の女性としての死に様が評判になり、偶然にもキリシタンだったため、イエズス会が彼女を殉教者として美談化したというのが真相ではないでしょうか?

  • 勝龍寺城跡 <br />勝龍寺城は、南北朝時代初期の1339(暦応2)年に北朝の足利尊氏に味方した細川頼春が、南朝に対抗するために築いた平城というのが定説でした。しかし近年の研究により、この説はグレーになってきています。<br />因みにムック社刊『よみがえる日本の城(19)』によると、「歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる細川藤孝(幽斎)の正当性を強調するための創作である可能が高い(幽斎は頼春の次男 頼有の末裔)」とあります。また、二木宏・福島克彦編『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』によると、本格的な城郭として体をなしたのは、1546(天文15)年に細川国慶の家臣 今村慶満が居城していた頃としています。<br />しかし1467年(応仁元年)に始まった「応仁の乱」の際には東軍の山崎城に対峙する陣城として修築されて西軍の山城守護 畠山義就の乙訓地域の拠点となり、戦国時代を通じて重要な城郭だったことは確かです。ここが重要拠点であった理由は、立地にあります。京都西南部に位置し、西国街道と久我畷(くがなわて)を同時に押さえられる交通の要衝に築かれています。京都西南部の玄関口であることから、大阪方面の最前線基地として、出陣・帰陣する大軍を待機させたり、戦で負傷した兵を収容したり、大阪方面から攻め込んできた敵勢を鎮圧したりする役割を担ったと考えられています。

    勝龍寺城跡
    勝龍寺城は、南北朝時代初期の1339(暦応2)年に北朝の足利尊氏に味方した細川頼春が、南朝に対抗するために築いた平城というのが定説でした。しかし近年の研究により、この説はグレーになってきています。
    因みにムック社刊『よみがえる日本の城(19)』によると、「歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる細川藤孝(幽斎)の正当性を強調するための創作である可能が高い(幽斎は頼春の次男 頼有の末裔)」とあります。また、二木宏・福島克彦編『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』によると、本格的な城郭として体をなしたのは、1546(天文15)年に細川国慶の家臣 今村慶満が居城していた頃としています。
    しかし1467年(応仁元年)に始まった「応仁の乱」の際には東軍の山崎城に対峙する陣城として修築されて西軍の山城守護 畠山義就の乙訓地域の拠点となり、戦国時代を通じて重要な城郭だったことは確かです。ここが重要拠点であった理由は、立地にあります。京都西南部に位置し、西国街道と久我畷(くがなわて)を同時に押さえられる交通の要衝に築かれています。京都西南部の玄関口であることから、大阪方面の最前線基地として、出陣・帰陣する大軍を待機させたり、戦で負傷した兵を収容したり、大阪方面から攻め込んできた敵勢を鎮圧したりする役割を担ったと考えられています。

  • 勝龍寺城跡 「ガラシャおもかげの水」の石碑<br />こちらは歴史的な遺構ということではなく、ガラシャがこの辺りで夫婦水入らずで新婚生活を謳歌したであろうとの歴史ロマンに因んで名付けられた「地下水100%の水道水」です。<br />飲用にも適しており、地元の方が汲みに来られるのか、何故かペットボトル1本分に制限されています。<br />ガラシャにあやかって見所を増やそうと言う、逞しい観光戦略のようです。

    勝龍寺城跡 「ガラシャおもかげの水」の石碑
    こちらは歴史的な遺構ということではなく、ガラシャがこの辺りで夫婦水入らずで新婚生活を謳歌したであろうとの歴史ロマンに因んで名付けられた「地下水100%の水道水」です。
    飲用にも適しており、地元の方が汲みに来られるのか、何故かペットボトル1本分に制限されています。
    ガラシャにあやかって見所を増やそうと言う、逞しい観光戦略のようです。

  • 勝龍寺城跡 東側土塁<br />本丸の北東隅から、石垣で築かれた高さ4mの土塁が発見されています。土塁の上には一辺が10m四方の平坦な地があり、そこには多聞櫓が築かれていたと推定されています。しかし現在は何故か隅櫓と塀が建築され、隅櫓は休憩所になっています。<br /><br />この城に着目したのは織田信長の慧眼と言えます。信長は、上洛すると細川藤孝に勝龍寺城を与え、京都の重要拠点として大改修を命じました。<br />藤孝は、天守に相当する殿主を造営し、それまで単郭式の城郭を2重の堀やを枡形虎口など持つ強固な城郭に改修しています。往時の勝龍寺城は、槇島城と共に信長にとって山城の2大前線拠点としての役割を担っていたようです。

    勝龍寺城跡 東側土塁
    本丸の北東隅から、石垣で築かれた高さ4mの土塁が発見されています。土塁の上には一辺が10m四方の平坦な地があり、そこには多聞櫓が築かれていたと推定されています。しかし現在は何故か隅櫓と塀が建築され、隅櫓は休憩所になっています。

    この城に着目したのは織田信長の慧眼と言えます。信長は、上洛すると細川藤孝に勝龍寺城を与え、京都の重要拠点として大改修を命じました。
    藤孝は、天守に相当する殿主を造営し、それまで単郭式の城郭を2重の堀やを枡形虎口など持つ強固な城郭に改修しています。往時の勝龍寺城は、槇島城と共に信長にとって山城の2大前線拠点としての役割を担っていたようです。

  • 勝龍寺城跡 <br />土塁の上から見渡した勝龍寺城跡です。正面の建物は、天守風の管理棟です。<br />かつてこうした天守が建っていた訳ではありません。ここに城が存在したことを後世に伝えるため、時代考証などは二の次にしてイメージ先行で天守を模した管理棟や隅櫓などを建ててしまったようです。昭和時代の模擬天守ブームの渦中ならば情状酌量といったところですが、何とここが造られたのは平成になってからです。バブル時代だったのかもしれませんが、次世代へ勝龍寺城の存在を伝えるのであれば、もう少し史実を調べてからでも遅くはなかったのではないかと思います。

    勝龍寺城跡
    土塁の上から見渡した勝龍寺城跡です。正面の建物は、天守風の管理棟です。
    かつてこうした天守が建っていた訳ではありません。ここに城が存在したことを後世に伝えるため、時代考証などは二の次にしてイメージ先行で天守を模した管理棟や隅櫓などを建ててしまったようです。昭和時代の模擬天守ブームの渦中ならば情状酌量といったところですが、何とここが造られたのは平成になってからです。バブル時代だったのかもしれませんが、次世代へ勝龍寺城の存在を伝えるのであれば、もう少し史実を調べてからでも遅くはなかったのではないかと思います。

  • 勝龍寺城跡 北側土塁<br />勝龍寺城が歴史の表舞台に登場するのは1582年(天正10年)に起きた「山崎の合戦」です。本能寺の変の11日後に起きた明智光秀と羽柴秀吉の「天王山の戦い」で知られる合戦です。この戦いの際、京都を抑えていた光秀は勝龍寺城を最前線基地として改修しました。もちろん秀吉軍を迎え撃ち、自軍の兵を収容するのが目的でしたが、これが築城の名手 光秀らしくない大誤算でした。<br />何故なら、勝龍寺城全体の広さは5ha弱。江戸城:2082ha、大坂城:452ha、姫路城:44ha、熊本城:20haに比べると貧相です。更に本丸に限れば、敷地は105m×70mとなり、サッカーコート程のスペースしかありません。

    勝龍寺城跡 北側土塁
    勝龍寺城が歴史の表舞台に登場するのは1582年(天正10年)に起きた「山崎の合戦」です。本能寺の変の11日後に起きた明智光秀と羽柴秀吉の「天王山の戦い」で知られる合戦です。この戦いの際、京都を抑えていた光秀は勝龍寺城を最前線基地として改修しました。もちろん秀吉軍を迎え撃ち、自軍の兵を収容するのが目的でしたが、これが築城の名手 光秀らしくない大誤算でした。
    何故なら、勝龍寺城全体の広さは5ha弱。江戸城:2082ha、大坂城:452ha、姫路城:44ha、熊本城:20haに比べると貧相です。更に本丸に限れば、敷地は105m×70mとなり、サッカーコート程のスペースしかありません。

  • 勝龍寺城跡 井戸跡<br />直径90cm、深さ2mあり、発掘調査中にも水が涌いていたそうです。尚、井戸に積み上げられた石には石仏や五輪塔などが含まれていたそうです。<br />この城の一番の強みは、籠城の際に必要不可欠な水源の豊富さです。本丸からは4箇所の井戸が発掘されています。その内3箇所が細川藤孝の改修時に造られたものです。これだけの水源があれば、例え敵に包囲されて籠城戦になっても長期戦を勝ち抜くことができたに違いありません。<br /><br />

    勝龍寺城跡 井戸跡
    直径90cm、深さ2mあり、発掘調査中にも水が涌いていたそうです。尚、井戸に積み上げられた石には石仏や五輪塔などが含まれていたそうです。
    この城の一番の強みは、籠城の際に必要不可欠な水源の豊富さです。本丸からは4箇所の井戸が発掘されています。その内3箇所が細川藤孝の改修時に造られたものです。これだけの水源があれば、例え敵に包囲されて籠城戦になっても長期戦を勝ち抜くことができたに違いありません。

  • 勝龍寺城跡 北門跡<br />本丸北西隅で発見された北門跡です。山崎の合戦で敗れた光秀は、夜陰に紛れてこの北門から坂本城方面へ逃れたと伝えられています。その際は、目立たないように溝尾庄兵衛以下5~6人の供しか同行させなかったようです。<br />往時、城攻めをしていたのが黒田勘兵衛でした。彼は、今後の攻略を有利に運ぶため、敢えて北門の包囲網を甘くするよう秀吉に進言したとの説もあります。<br />

    勝龍寺城跡 北門跡
    本丸北西隅で発見された北門跡です。山崎の合戦で敗れた光秀は、夜陰に紛れてこの北門から坂本城方面へ逃れたと伝えられています。その際は、目立たないように溝尾庄兵衛以下5~6人の供しか同行させなかったようです。
    往時、城攻めをしていたのが黒田勘兵衛でした。彼は、今後の攻略を有利に運ぶため、敢えて北門の包囲網を甘くするよう秀吉に進言したとの説もあります。

  • 勝龍寺城跡 <br />発掘の際に掘り出された石仏や五輪塔が納められています。築城の際、これらも石垣の石材の一部として利用されていたそうです。<br />管理棟の展示コーナーにも置かれていましたので、ひょっとするとここにある一部はフェイクなのかもしれません。<br />

    勝龍寺城跡
    発掘の際に掘り出された石仏や五輪塔が納められています。築城の際、これらも石垣の石材の一部として利用されていたそうです。
    管理棟の展示コーナーにも置かれていましたので、ひょっとするとここにある一部はフェイクなのかもしれません。

  • 勝龍寺城跡 北門跡<br />山崎の合戦で敗走した光秀は、勝龍寺城に兵を集め、ここで秀吉軍を迎え撃つ作戦を考えていました。しかし勝龍寺城は、あっけなく落城しました。<br />その理由は、次の3つです。<br />1.城が小振りで、必要な数の兵を収容できなかった <br />2.城が小振りで、秀吉の大軍を受けきれなかった<br />3.多勢に無勢で、味方の兵の脱走が相次いだ<br />勝龍寺城で戦うことを諦めた光秀は、密かにこの北門から脱走しました。そして、居城の坂本城へと落ち延びる途中、小栗栖の竹藪で落ち武者狩りの農民に遭遇し、槍で刺されて負傷して自刃したとされています。<br />歴史にもしもはありませんが、この城郭が目論見通りに機能していたならば、「三日天下」の歴史がどう覆っていたか判りません。と言うことで、不名誉なことに勝龍寺城は日本の歴史を動かした「最弱の城」のひとつとして有名になっています。考えようによっては、名も知られていない城郭に比べれば幸せなことかもしれませんが…。<br />猫騙しとして人気のある「ガラシャ」を前面に押し出す地元の方々の観光戦略にも頷けるものがあります。

    勝龍寺城跡 北門跡
    山崎の合戦で敗走した光秀は、勝龍寺城に兵を集め、ここで秀吉軍を迎え撃つ作戦を考えていました。しかし勝龍寺城は、あっけなく落城しました。
    その理由は、次の3つです。
    1.城が小振りで、必要な数の兵を収容できなかった 
    2.城が小振りで、秀吉の大軍を受けきれなかった
    3.多勢に無勢で、味方の兵の脱走が相次いだ
    勝龍寺城で戦うことを諦めた光秀は、密かにこの北門から脱走しました。そして、居城の坂本城へと落ち延びる途中、小栗栖の竹藪で落ち武者狩りの農民に遭遇し、槍で刺されて負傷して自刃したとされています。
    歴史にもしもはありませんが、この城郭が目論見通りに機能していたならば、「三日天下」の歴史がどう覆っていたか判りません。と言うことで、不名誉なことに勝龍寺城は日本の歴史を動かした「最弱の城」のひとつとして有名になっています。考えようによっては、名も知られていない城郭に比べれば幸せなことかもしれませんが…。
    猫騙しとして人気のある「ガラシャ」を前面に押し出す地元の方々の観光戦略にも頷けるものがあります。

  • 勝龍寺城跡 北門跡<br />勝龍寺城には、南門と北門に枡形虎口が設けられました。枡形虎口とは、道を直角に曲げて敵の直進を防ぎ、侵入してきた敵を枡の形をした内部で包囲殲滅するための、戦国時代に普及した防御施設です。<br />随所にある説明板にはこうした絵が描かれており、直感的に判り易く解説されています。

    勝龍寺城跡 北門跡
    勝龍寺城には、南門と北門に枡形虎口が設けられました。枡形虎口とは、道を直角に曲げて敵の直進を防ぎ、侵入してきた敵を枡の形をした内部で包囲殲滅するための、戦国時代に普及した防御施設です。
    随所にある説明板にはこうした絵が描かれており、直感的に判り易く解説されています。

  • 勝龍寺城跡 西側土塁<br />茂みの中には立派な石組もありますが、本来流れているはずの水がありません。枯山水のようにも見えてきます。

    勝龍寺城跡 西側土塁
    茂みの中には立派な石組もありますが、本来流れているはずの水がありません。枯山水のようにも見えてきます。

  • 勝龍寺城跡 西側土塁<br />かつての本丸から沼田丸へのルートには、土塁の斜面に石を配した階段が設けられています。土塁に上がり、沼田丸へは橋を使って渡ったそうです。土塁上には2層櫓、隅櫓などが建っていたと考えられています。<br />

    勝龍寺城跡 西側土塁
    かつての本丸から沼田丸へのルートには、土塁の斜面に石を配した階段が設けられています。土塁に上がり、沼田丸へは橋を使って渡ったそうです。土塁上には2層櫓、隅櫓などが建っていたと考えられています。

  • 勝龍寺城跡 北門跡<br />土塁の北西から見下ろすと北門の枡形虎口の形がよく判ります。

    勝龍寺城跡 北門跡
    土塁の北西から見下ろすと北門の枡形虎口の形がよく判ります。

  • 勝龍寺城跡 南西土塁<br />かつて本丸の四方には多聞櫓や隅櫓が築かれ、特にこの南西の隅櫓は、南門へ押し寄せた敵に対して真横から矢や鉄砲で攻撃できるよう、本丸から少し出っ張った位置に築かれています。<br />こうした実践的な城郭であったことをもう少しアピールされてもよいと思います。

    勝龍寺城跡 南西土塁
    かつて本丸の四方には多聞櫓や隅櫓が築かれ、特にこの南西の隅櫓は、南門へ押し寄せた敵に対して真横から矢や鉄砲で攻撃できるよう、本丸から少し出っ張った位置に築かれています。
    こうした実践的な城郭であったことをもう少しアピールされてもよいと思います。

  • 勝龍寺城跡 アヤメ<br />水が抜かれた池の畔には、目にも鮮やかなアヤメが数本咲いています。<br /><br />謎の多い本能寺の変に関しては、50以上の仮説が存在します。しかし光秀の単独犯ではなく、黒幕が存在したと言うのが定説です。筆頭にキリシタン説を挙げましたが、その他の説を列挙いたします。<br />1.徳川家康説<br />家康は堺の商人と親しく、信長が進める南蛮貿易は彼らには不利益でした。そこで商人たちが家康に信長打倒をそそのかしたとも考えられます。<br />2.羽柴秀吉説<br />数々の武功を上げながらも、家柄の低い秀吉は家臣の中で最も下に扱われていました。例え実力主義を標榜する信長でも、自分がトップに躍り出るのは難しいと一発逆転を狙って暗殺を企てたとも考えられます。光秀を討った山崎の合戦は、口封じともとれます。<br />3.安国寺恵瓊(毛利氏)説<br />毛利氏は秀吉と対峙していましたが、間もなく信長自身による本格的な攻撃が始まることを知り、存亡の危機に直面していました。そこで、毛利氏の使僧だった安国寺恵瓊が、光秀や秀吉への全面協力を条件に暗殺をけしかけたとも考えられます。<br />4.仏教勢力説<br />石山本願寺は、最後まで対抗する覚悟でしたが、信長の要請による天皇の仲介で和睦し、大坂を退去させられました。本願寺が信長を亡き者にしようと考えても不思議ではありません。信長が本願寺の勢力を削ぐためにキリスト教の保護に力点をおいたことから考えても説得力のある説です。<br />5.朝廷・公家勢力説<br />信長が安土城内に清涼殿を模した御殿を造営していたことが発掘調査で明らかになり、天皇を囲い込む構想だったことが判明しました。公家勢力は、「朝廷の実権が信長に握られ、自分たちの地位が蔑ろにされる」と危機感を募らせたことでしょう。そこで、正親町天皇の側近の近衛前久、勧修寺晴豊、吉田兼見と光秀を取り込み、暗殺をけしかけたとも考えられます。<br /><br />ひとつ言えるのは、このように誰もが信長の暗殺者になる動機は充分だったということです。信長の天下が続けば、家臣は針の筵で毎日を怯えながら暮らすことになるのは自明でした。世間もまたしかり。しかしそれを実行に移せたのは、唯一光秀だけだったのです。<br />家康が信長の言動を反面教師に260年間の安泰政権を打ち立てたのは皮肉なことです。

    勝龍寺城跡 アヤメ
    水が抜かれた池の畔には、目にも鮮やかなアヤメが数本咲いています。

    謎の多い本能寺の変に関しては、50以上の仮説が存在します。しかし光秀の単独犯ではなく、黒幕が存在したと言うのが定説です。筆頭にキリシタン説を挙げましたが、その他の説を列挙いたします。
    1.徳川家康説
    家康は堺の商人と親しく、信長が進める南蛮貿易は彼らには不利益でした。そこで商人たちが家康に信長打倒をそそのかしたとも考えられます。
    2.羽柴秀吉説
    数々の武功を上げながらも、家柄の低い秀吉は家臣の中で最も下に扱われていました。例え実力主義を標榜する信長でも、自分がトップに躍り出るのは難しいと一発逆転を狙って暗殺を企てたとも考えられます。光秀を討った山崎の合戦は、口封じともとれます。
    3.安国寺恵瓊(毛利氏)説
    毛利氏は秀吉と対峙していましたが、間もなく信長自身による本格的な攻撃が始まることを知り、存亡の危機に直面していました。そこで、毛利氏の使僧だった安国寺恵瓊が、光秀や秀吉への全面協力を条件に暗殺をけしかけたとも考えられます。
    4.仏教勢力説
    石山本願寺は、最後まで対抗する覚悟でしたが、信長の要請による天皇の仲介で和睦し、大坂を退去させられました。本願寺が信長を亡き者にしようと考えても不思議ではありません。信長が本願寺の勢力を削ぐためにキリスト教の保護に力点をおいたことから考えても説得力のある説です。
    5.朝廷・公家勢力説
    信長が安土城内に清涼殿を模した御殿を造営していたことが発掘調査で明らかになり、天皇を囲い込む構想だったことが判明しました。公家勢力は、「朝廷の実権が信長に握られ、自分たちの地位が蔑ろにされる」と危機感を募らせたことでしょう。そこで、正親町天皇の側近の近衛前久、勧修寺晴豊、吉田兼見と光秀を取り込み、暗殺をけしかけたとも考えられます。

    ひとつ言えるのは、このように誰もが信長の暗殺者になる動機は充分だったということです。信長の天下が続けば、家臣は針の筵で毎日を怯えながら暮らすことになるのは自明でした。世間もまたしかり。しかしそれを実行に移せたのは、唯一光秀だけだったのです。
    家康が信長の言動を反面教師に260年間の安泰政権を打ち立てたのは皮肉なことです。

  • 勝龍寺城跡 アヤメ<br />アヤメ、ハナショウブ、カキツバタを見分けるのは慣れないと難しいのですが、花弁の付け根にある大きな網目模様がアヤメを見分けるポイントです。 <br />ハナショウブには、花弁の根元に細長い目型の黄色い模様があります。<br />カキツバタには、花弁の付け根に細長い目型の白い模様があります。<br /><br />光秀は坂本城に落ち延びる途上で落ち武者狩りに遭い、負傷して自刃したと伝えられています。しかし一方では、領民によって助け出され、後の天海が彼だったとか利休が彼だったとも伝わり、生き延びていた可能性も示唆されています。<br />こうした伝承があるのは、光秀が領民から好かれていたためです。光秀の人となりを語るエピソードは枚挙に暇がありませんが、妻 熙子を娶る際の話が有名です。熙子は光秀の許嫁でしたが、疱瘡に罹り美しかった顔に痘痕ができたため、両親は熙子と偽って瓜二つの妹に身代わりをさせて光秀のもとに輿入れさせました。しかし光秀はそれを見破り、「容貌など歳月や病気でどうにでも変わるもの、ただ変わらぬものは心の美しさよ」と送り帰しました。そして約束通り、熙子が妻に迎え入れたというのです。 <br />玉の嫁ぎ先の忠興とは正反対であることが何かの因縁のように思えてなりません。

    勝龍寺城跡 アヤメ
    アヤメ、ハナショウブ、カキツバタを見分けるのは慣れないと難しいのですが、花弁の付け根にある大きな網目模様がアヤメを見分けるポイントです。
    ハナショウブには、花弁の根元に細長い目型の黄色い模様があります。
    カキツバタには、花弁の付け根に細長い目型の白い模様があります。

    光秀は坂本城に落ち延びる途上で落ち武者狩りに遭い、負傷して自刃したと伝えられています。しかし一方では、領民によって助け出され、後の天海が彼だったとか利休が彼だったとも伝わり、生き延びていた可能性も示唆されています。
    こうした伝承があるのは、光秀が領民から好かれていたためです。光秀の人となりを語るエピソードは枚挙に暇がありませんが、妻 熙子を娶る際の話が有名です。熙子は光秀の許嫁でしたが、疱瘡に罹り美しかった顔に痘痕ができたため、両親は熙子と偽って瓜二つの妹に身代わりをさせて光秀のもとに輿入れさせました。しかし光秀はそれを見破り、「容貌など歳月や病気でどうにでも変わるもの、ただ変わらぬものは心の美しさよ」と送り帰しました。そして約束通り、熙子が妻に迎え入れたというのです。
    玉の嫁ぎ先の忠興とは正反対であることが何かの因縁のように思えてなりません。

  • 勝龍寺城跡 管理棟 ロビー<br />1Fには、ちょっとした休憩所が設けられています。

    勝龍寺城跡 管理棟 ロビー
    1Fには、ちょっとした休憩所が設けられています。

  • 勝龍寺城跡 管理棟 ロビー<br />模擬建造された現在の勝龍寺城のジオラマです。<br />これを見れば全体像が把握できると思います。

    勝龍寺城跡 管理棟 ロビー
    模擬建造された現在の勝龍寺城のジオラマです。
    これを見れば全体像が把握できると思います。

  • 勝龍寺城跡 管理棟 ロビー<br />管理棟の2Fは、城郭の説明パネルや発掘調査による出土品などの展示コーナーとなっています。見学は無料ですが写真撮影は禁止です。<br />お玉お輿入れの図(複製)や細川氏の末裔となる元首相 細川護煕氏の書(上手とは思えませんが、味があります。)など興味深いものが展示されています。

    勝龍寺城跡 管理棟 ロビー
    管理棟の2Fは、城郭の説明パネルや発掘調査による出土品などの展示コーナーとなっています。見学は無料ですが写真撮影は禁止です。
    お玉お輿入れの図(複製)や細川氏の末裔となる元首相 細川護煕氏の書(上手とは思えませんが、味があります。)など興味深いものが展示されています。

  • 勝龍寺城跡 管理棟 ロビー<br />細川忠興と玉夫人の肖像画が掛けられています。<br />玉の伏目がちな気乗りしない表情と2人が目線を合わさないよそよそしさは、何か意図があるのかと勘ぐりたくなるような絵画です。<br />このお城で2人が暮らしていたのは新婚時代でしたので、幽門が解けた後の軟禁状態の時代ではありません。もう少し時代考証に見合った作品にできなかったのでしょうか?

    勝龍寺城跡 管理棟 ロビー
    細川忠興と玉夫人の肖像画が掛けられています。
    玉の伏目がちな気乗りしない表情と2人が目線を合わさないよそよそしさは、何か意図があるのかと勘ぐりたくなるような絵画です。
    このお城で2人が暮らしていたのは新婚時代でしたので、幽門が解けた後の軟禁状態の時代ではありません。もう少し時代考証に見合った作品にできなかったのでしょうか?

  • 勝龍寺城跡 南門<br />南門はこうした高麗門仕立てになっています。<br />本丸を離れ、道一本挟んで西側にある沼田丸跡へ向かいます。<br />

    勝龍寺城跡 南門
    南門はこうした高麗門仕立てになっています。
    本丸を離れ、道一本挟んで西側にある沼田丸跡へ向かいます。

  • 勝龍寺城跡 沼田丸跡<br />本丸の西側にあり、現在芝地の公園となっています。東西50m、南北65mの少し盛り上がった台地にはかつては沼田丸が築かれ、土塁と濠で囲まれた長方形の曲輪でした。<br />この辺りは小畑川と犬川に挟まれた天然の要害であり、本丸と沼田丸を連ねた連郭式の縄張りの周囲には濠が巡らされ、昭和30年代までは濠に水があったそうです。<br />因みに「沼田」は細川藤孝の妻の旧姓であり、その一族が住んでいたことが由来です。

    勝龍寺城跡 沼田丸跡
    本丸の西側にあり、現在芝地の公園となっています。東西50m、南北65mの少し盛り上がった台地にはかつては沼田丸が築かれ、土塁と濠で囲まれた長方形の曲輪でした。
    この辺りは小畑川と犬川に挟まれた天然の要害であり、本丸と沼田丸を連ねた連郭式の縄張りの周囲には濠が巡らされ、昭和30年代までは濠に水があったそうです。
    因みに「沼田」は細川藤孝の妻の旧姓であり、その一族が住んでいたことが由来です。

  • 勝龍寺城跡 沼田丸跡<br />ここにも井戸跡があります。<br />その横には本丸と同じように「ガラシャおもかげの水」という地下水100%の水道が設けられており、近所の方が汲みに来られていました。こちらは、給水制限はされていないようです。<br />

    勝龍寺城跡 沼田丸跡
    ここにも井戸跡があります。
    その横には本丸と同じように「ガラシャおもかげの水」という地下水100%の水道が設けられており、近所の方が汲みに来られていました。こちらは、給水制限はされていないようです。

  • 勝龍寺城跡 沼田丸跡<br />公園にはベンチ以外何もありませんが、奥にある一段下がった所に小さな公園があり、藤棚があります。<br />

    勝龍寺城跡 沼田丸跡
    公園にはベンチ以外何もありませんが、奥にある一段下がった所に小さな公園があり、藤棚があります。

  • 勝龍寺城跡 沼田丸跡<br />仄かな甘い香りが漂っています。

    勝龍寺城跡 沼田丸跡
    仄かな甘い香りが漂っています。

  • ガラシャ通り<br />再びガラシャ通りまで戻り、少し南方にある勝龍寺へ向かいます。<br />途中にある電光掲示板には気温27℃とあります。

    ガラシャ通り
    再びガラシャ通りまで戻り、少し南方にある勝龍寺へ向かいます。
    途中にある電光掲示板には気温27℃とあります。

  • 勝龍寺城大門橋の石碑<br />小畑川に架かる大門橋の手前に、「勝龍寺城大門橋」の石碑と結界門らしきものが建っています。<br />南北朝時代、勝龍寺城を築城の際、細川師氏は、宇波多川(現小畑川)の流れを西南の方に移動させ、勝龍寺城の外濠にしました。<br />その後、1571(元亀2)年、細川藤孝が勝龍寺城を改修した際、ここに大手門を構築しました。以来、この大手門に架かる橋は「大門橋」と呼ばれるようになりました。

    勝龍寺城大門橋の石碑
    小畑川に架かる大門橋の手前に、「勝龍寺城大門橋」の石碑と結界門らしきものが建っています。
    南北朝時代、勝龍寺城を築城の際、細川師氏は、宇波多川(現小畑川)の流れを西南の方に移動させ、勝龍寺城の外濠にしました。
    その後、1571(元亀2)年、細川藤孝が勝龍寺城を改修した際、ここに大手門を構築しました。以来、この大手門に架かる橋は「大門橋」と呼ばれるようになりました。

  • 大門橋<br />淀川水系の一級河川に当たる小畑川に架けられた橋ですが、かつての面影を偲べるものではありません。<br />小畑川は京都盆地の南西縁を流れる桂川の支流であり、日本最初の有料橋とされる「一文橋」が架けられていることで知られています。暴れ川としても知られ、洪水で幾度も橋が流されたため、通行人から一文ずつ徴収して橋の架け替え費用にしたそうです。欄干には巨大な一文銭が掛けられているそうです。<br />

    大門橋
    淀川水系の一級河川に当たる小畑川に架けられた橋ですが、かつての面影を偲べるものではありません。
    小畑川は京都盆地の南西縁を流れる桂川の支流であり、日本最初の有料橋とされる「一文橋」が架けられていることで知られています。暴れ川としても知られ、洪水で幾度も橋が流されたため、通行人から一文ずつ徴収して橋の架け替え費用にしたそうです。欄干には巨大な一文銭が掛けられているそうです。

  • ヤマボウシ<br />ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属で、日本から中国・朝鮮半島に分布する落葉高木です。<br />総苞片が見られるのは5~7月頃で、先端の尖った花のような総苞片を4枚広げ、その中心に黄緑色の小さな花が球状に集合しています。この総苞片を坊主頭と頭巾に見立てて「山法師」と名付けられました。<br />花言葉は「友情」です。さわやかで落ちついた印象のある純白の総苞片にぴったりな純粋さを感じさせます。

    ヤマボウシ
    ミズキ科ミズキ属ヤマボウシ亜属で、日本から中国・朝鮮半島に分布する落葉高木です。
    総苞片が見られるのは5~7月頃で、先端の尖った花のような総苞片を4枚広げ、その中心に黄緑色の小さな花が球状に集合しています。この総苞片を坊主頭と頭巾に見立てて「山法師」と名付けられました。
    花言葉は「友情」です。さわやかで落ちついた印象のある純白の総苞片にぴったりな純粋さを感じさせます。

  • 勝龍寺<br />勝龍寺城公園から徒歩5分程の距離の所に勝龍寺があります。元々この寺院があり、築城した際にその縄張りに勝龍寺も含めたことから勝龍寺城と名付けられたものと思われます。<br />平安時代の806(大同元)年、空海によって開基されたと伝わる古刹です。往時、寺号は「恵解山青龍寺」と言い、青龍寺という寺名は空海が修行した唐の青龍寺に因むそうです。更に嵯峨天皇の勅願により、観音堂を始め九十九坊が建つ大寺院だったそうです。962(応和2)年に近郷大干ばつ・大飢饉が発生し、村上天皇の勅命により住職 千観上人の七日間雨乞い祈祷で念願の雨が降り、「龍神を呼ぶ、即ち龍神に勝って雨を降らした事ゆえ以後勝龍寺と名乗れ」との勅命から「勝龍寺」に改名されています。

    勝龍寺
    勝龍寺城公園から徒歩5分程の距離の所に勝龍寺があります。元々この寺院があり、築城した際にその縄張りに勝龍寺も含めたことから勝龍寺城と名付けられたものと思われます。
    平安時代の806(大同元)年、空海によって開基されたと伝わる古刹です。往時、寺号は「恵解山青龍寺」と言い、青龍寺という寺名は空海が修行した唐の青龍寺に因むそうです。更に嵯峨天皇の勅願により、観音堂を始め九十九坊が建つ大寺院だったそうです。962(応和2)年に近郷大干ばつ・大飢饉が発生し、村上天皇の勅命により住職 千観上人の七日間雨乞い祈祷で念願の雨が降り、「龍神を呼ぶ、即ち龍神に勝って雨を降らした事ゆえ以後勝龍寺と名乗れ」との勅命から「勝龍寺」に改名されています。

  • 勝龍寺<br />本堂には、疫病や悪人が入り込まないようにする結界「勧請縄」が渡されています。<br />室町時代には、境内が勝龍寺城に隣接していたために度々延焼し、その後の山崎の合戦では福島正則の猛攻撃に遭い焼失しました。現在の勝龍寺は、専勝坊の法灯を継いでいるそうです。<br />本尊は、鎌倉時代の毘須羯摩(びすかつま)作と伝える十一面観音像を祀ります。重文に指定されて京都国立博物館に寄託されていますが、8月18日とガラシャ祭りには勝龍寺にてご開帳されます。その他にも聖観音立像や二天王立像(持国天像・多聞天像)が安置されており、いずれも市文化財になっています。

    勝龍寺
    本堂には、疫病や悪人が入り込まないようにする結界「勧請縄」が渡されています。
    室町時代には、境内が勝龍寺城に隣接していたために度々延焼し、その後の山崎の合戦では福島正則の猛攻撃に遭い焼失しました。現在の勝龍寺は、専勝坊の法灯を継いでいるそうです。
    本尊は、鎌倉時代の毘須羯摩(びすかつま)作と伝える十一面観音像を祀ります。重文に指定されて京都国立博物館に寄託されていますが、8月18日とガラシャ祭りには勝龍寺にてご開帳されます。その他にも聖観音立像や二天王立像(持国天像・多聞天像)が安置されており、いずれも市文化財になっています。

  • 勝龍寺 本堂<br />京都洛西三十三ヵ所観音第14番札所。日本ぼけ封じ三十三ヶ所霊場第3番霊場、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第3霊場ともなっています。<br />最近の寺院のトレンドは延命系ではなく、こうした「ボケ封じ」系や「ポックリ」系だそうです。

    勝龍寺 本堂
    京都洛西三十三ヵ所観音第14番札所。日本ぼけ封じ三十三ヶ所霊場第3番霊場、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第3霊場ともなっています。
    最近の寺院のトレンドは延命系ではなく、こうした「ボケ封じ」系や「ポックリ」系だそうです。

  • 勝龍寺 本堂<br />額にあるのは聖観音菩薩でしょうか?

    勝龍寺 本堂
    額にあるのは聖観音菩薩でしょうか?

  • 勝龍寺 鐘楼<br />かつては大きな寺院だったようですが現在はその面影はなく、本堂と鐘楼があるだけのこじんまりした何処にでもありそうなお寺さんの雰囲気です。<br />参拝者が少ないため、余計そのように感じるのかもしれませんが…。

    勝龍寺 鐘楼
    かつては大きな寺院だったようですが現在はその面影はなく、本堂と鐘楼があるだけのこじんまりした何処にでもありそうなお寺さんの雰囲気です。
    参拝者が少ないため、余計そのように感じるのかもしれませんが…。

  • 勝龍寺 鐘楼<br />梵鐘には、「3代目」との説明文があります。初代の梵鐘は鎌倉時代の1319年鋳造の銘がある梵鐘でしたが、大坂の陣のどさぐさに紛れて持ち去られ、現在、大阪府能勢町の真如寺に存在が確認されており、府指定文化財になっています。<br />2代目は1766年に鐘楼堂並びに梵鐘が再建されましたが、梵鐘は太平洋戦争時に金属供出されています。<br />3代目になる現在の梵鐘は、1977(昭和52)年に鋳造されたものです。

    勝龍寺 鐘楼
    梵鐘には、「3代目」との説明文があります。初代の梵鐘は鎌倉時代の1319年鋳造の銘がある梵鐘でしたが、大坂の陣のどさぐさに紛れて持ち去られ、現在、大阪府能勢町の真如寺に存在が確認されており、府指定文化財になっています。
    2代目は1766年に鐘楼堂並びに梵鐘が再建されましたが、梵鐘は太平洋戦争時に金属供出されています。
    3代目になる現在の梵鐘は、1977(昭和52)年に鋳造されたものです。

  • 勝龍寺 境内<br />厳重に金網で囲われた彫像が一体あります。<br />一見「日本武尊」を彷彿とさせる出で立ちなのですが、ネットにも情報がありません。何者なのでしょうか?

    勝龍寺 境内
    厳重に金網で囲われた彫像が一体あります。
    一見「日本武尊」を彷彿とさせる出で立ちなのですが、ネットにも情報がありません。何者なのでしょうか?

  • 春日神社<br />勝龍寺のお隣というか、同じ境内の東側に同居しています。<br />平安時代末期の1174(承安4)年、九条兼実による建立と伝わります。1582(天正10)年に山崎の合戦で延焼しましたが、1604(慶兆9)年に再建されています。江戸時代には勝龍寺村の氏神になったそうです。<br />石鳥居には1700(元禄13)年、石燈籠には1714(正徳4)年、狛犬には1865(慶応元)年の銘が刻まれています。

    春日神社
    勝龍寺のお隣というか、同じ境内の東側に同居しています。
    平安時代末期の1174(承安4)年、九条兼実による建立と伝わります。1582(天正10)年に山崎の合戦で延焼しましたが、1604(慶兆9)年に再建されています。 江戸時代には勝龍寺村の氏神になったそうです。
    石鳥居には1700(元禄13)年、石燈籠には1714(正徳4)年、狛犬には1865(慶応元)年の銘が刻まれています。

  • 春日神社<br />境内は玉垣で囲われ、神門、拝殿、覆屋に納まった一間社流造の本殿があります。<br />ご祭神には、天津児屋根尊(あまつこやねのみこと)、姫大神(ひめおおかみ)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、斎主命(いわいぬしのみこと)の4柱を祀ります。<br />

    春日神社
    境内は玉垣で囲われ、神門、拝殿、覆屋に納まった一間社流造の本殿があります。
    ご祭神には、天津児屋根尊(あまつこやねのみこと)、姫大神(ひめおおかみ)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、斎主命(いわいぬしのみこと)の4柱を祀ります。

  • 観音寺<br />勝龍寺城公園の手前にあり、住宅に挟まれてウナギの寝床のような入口が特徴です。<br />山号は「大悲山」と言い、京都洛西観音霊場第13番札所です。<br />室町時代の1570(元亀元)年、雪山によって開創され、江戸時代の宝暦年間(1751~63年)に再建されたと伝わります。<br />

    観音寺
    勝龍寺城公園の手前にあり、住宅に挟まれてウナギの寝床のような入口が特徴です。
    山号は「大悲山」と言い、京都洛西観音霊場第13番札所です。
    室町時代の1570(元亀元)年、雪山によって開創され、江戸時代の宝暦年間(1751~63年)に再建されたと伝わります。

  • 観音寺<br />本尊の十一面観音坐像は、府の重要文化財に指定されており、南北朝時代、第97代(南朝第二代)後村上天皇が第96代(南朝初代)後醍醐天皇の菩提を弔うために僧 舜悟に命じて仏師 秀弁に作らさせたものと伝わります。<br />像内部に残された胎内銘には「1355(文和4)年に常光寺(滋賀県甲賀市、臨済宗永源寺派)に奉安されていた」とあり、その後、当寺に還されたものだそうです。

    観音寺
    本尊の十一面観音坐像は、府の重要文化財に指定されており、南北朝時代、第97代(南朝第二代)後村上天皇が第96代(南朝初代)後醍醐天皇の菩提を弔うために僧 舜悟に命じて仏師 秀弁に作らさせたものと伝わります。
    像内部に残された胎内銘には「1355(文和4)年に常光寺(滋賀県甲賀市、臨済宗永源寺派)に奉安されていた」とあり、その後、当寺に還されたものだそうです。

  • 勝龍寺城の土塁<br />ガラシャ通りの東側に神足(こうたり)神社の入口があり、入口を入った右側に勝龍寺城の土塁と空濠跡があります。

    勝龍寺城の土塁
    ガラシャ通りの東側に神足(こうたり)神社の入口があり、入口を入った右側に勝龍寺城の土塁と空濠跡があります。

  • 土塁<br />奥の高くなった所は、横矢掛かりの虎口と呼ばれています。<br />空濠には土橋(写真撮影している所)が設けられ、土橋の幅は約1mと狭く、敵が一気に攻め込めないようにしています。また、横矢掛かりの虎口からは、前方の土橋を渡る敵を狙い撃つことができます。<br />勝龍寺城外郭に位置する神足屋敷は、藤孝が国人(こくじん)神足氏の居館である神足城を勝龍寺城に組み込んだものと考えられています。

    土塁
    奥の高くなった所は、横矢掛かりの虎口と呼ばれています。
    空濠には土橋(写真撮影している所)が設けられ、土橋の幅は約1mと狭く、敵が一気に攻め込めないようにしています。また、横矢掛かりの虎口からは、前方の土橋を渡る敵を狙い撃つことができます。
    勝龍寺城外郭に位置する神足屋敷は、藤孝が国人(こくじん)神足氏の居館である神足城を勝龍寺城に組み込んだものと考えられています。

  • 神足神社 <br />神足神社は、旧神足村の産土神で、延喜式には乙訓19座の一つの「神足神社」と比定されています。<br />『神足大明神縁起』によると、桓武天皇の頃、東方よりの光が田村(旧神足)の池中に降り立ち、自らを神足遊戯神道と称したと伝えます。ご祭神は「舎人親王(天武天皇の子)」とされていますが、天神立命(あめのかみたちのみこと)や本居宣長説の遠津山岬多良斯神(とほつやまさきたらしのかみ)、伴信友説の桓武天皇など諸説あり、詳細は不明です。<br />因みに天神立命は、饒速日命(にぎはやひのみこと)の随行者の一人で天磐船の船長を務めたとされる人物です。<br />この付近は古来より開かれた地域で縄文時代の遺跡や弥生時代の石剣・管玉などが出土し、墓地もあります。それ以降、長岡京の地ともなり、まさに日本の歴史を見届けてきた地と言えます。

    神足神社
    神足神社は、旧神足村の産土神で、延喜式には乙訓19座の一つの「神足神社」と比定されています。
    『神足大明神縁起』によると、桓武天皇の頃、東方よりの光が田村(旧神足)の池中に降り立ち、自らを神足遊戯神道と称したと伝えます。ご祭神は「舎人親王(天武天皇の子)」とされていますが、天神立命(あめのかみたちのみこと)や本居宣長説の遠津山岬多良斯神(とほつやまさきたらしのかみ)、伴信友説の桓武天皇など諸説あり、詳細は不明です。
    因みに天神立命は、饒速日命(にぎはやひのみこと)の随行者の一人で天磐船の船長を務めたとされる人物です。
    この付近は古来より開かれた地域で縄文時代の遺跡や弥生時代の石剣・管玉などが出土し、墓地もあります。それ以降、長岡京の地ともなり、まさに日本の歴史を見届けてきた地と言えます。

  • 神足神社 拝殿<br />神足神社には、「桓武天皇の夢」として次のような伝説が伝承されています。<br />「田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。天皇は目覚められ、神足村にこの神を祀る社を建てさせ、太刀と絹を秘蔵させた」。以後、この社は「神足神社」、田村は「神足村」と呼ばれるようになったと伝えられます。<br />また、784(延暦3)年の長岡京遷都に際し、桓武天皇の行幸に神足家の初祖である神足光丸が随行してこの地に移り住み、宮廷の裏鬼門を守護するため、金の太刀と絹をご神体として祀ったとする説もあります。<br />因みにご神体の太刀は、太平洋戦争の金属供出により失われたそうです。絹は現在も祀られているそうです。

    神足神社 拝殿
    神足神社には、「桓武天皇の夢」として次のような伝説が伝承されています。
    「田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。天皇は目覚められ、神足村にこの神を祀る社を建てさせ、太刀と絹を秘蔵させた」。以後、この社は「神足神社」、田村は「神足村」と呼ばれるようになったと伝えられます。
    また、784(延暦3)年の長岡京遷都に際し、桓武天皇の行幸に神足家の初祖である神足光丸が随行してこの地に移り住み、宮廷の裏鬼門を守護するため、金の太刀と絹をご神体として祀ったとする説もあります。
    因みにご神体の太刀は、太平洋戦争の金属供出により失われたそうです。絹は現在も祀られているそうです。

  • 神足神社 本殿<br />本殿は流造です。<br />「神+足」という社名に因み、サッカーや陸上競技に関するご利益があるとされています。<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    神足神社 本殿
    本殿は流造です。
    「神+足」という社名に因み、サッカーや陸上競技に関するご利益があるとされています。

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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