2016/11/03 - 2016/11/04
279位(同エリア1277件中)
熱帯魚さん
所用のため、広州へ。
1日目は単なる移動日だったので
広州到着後は特に予定ナシ。
広州は私にとって特別な町。
18歳の時、短期留学で初めて訪れた
中国の町が広州でした。
その時から広州は大好き♪
今回は半日しか時間がないですが
ホテルに荷物を置いてから
とにかくあちこち歩き回りました。
規模が大きすぎる南越王宮博物館を
ほぼ閉館時間に見終わって、
夕方再び路地裏散歩へ。
路地裏散歩がとまらない…
広州ってホント魅力的な町。
★★ 広州出張記 11/3~11/4 ★★
01★深セン羅湖区★和諧号(城際列車)に乗って深セン駅から広州東駅に出発!
http://4travel.jp/travelogue/11185536
02★広州★広州東駅から地下鉄でホテルへ ~広州東駅・公園前駅・国民政府旧址・迎商雅蘭酒店~
http://4travel.jp/travelogue/11185797
03★広州★路地裏さんぽ ~越華路・旧倉巷~
http://4travel.jp/travelogue/11185836
04★広州★食在広州!遅めのランチはひとり飲茶@點都徳 そして 広州都城隍廟にお参り
http://4travel.jp/travelogue/11186064
05★広州★歴史さんぽ ~南越王宮博物館(南越国宮署遺址・秦代造船遺址)~ 前半
http://4travel.jp/travelogue/11186714
06★広州★歴史さんぽ ~南越王宮博物館(南越国宮署遺址・秦代造船遺址)~ 後半
http://4travel.jp/travelogue/11191773
07★広州★路地裏さんぽ ~廣東財政廳旧跡・昌興街・三・二九起義指揮部旧跡・小東営清真寺・万木草堂(邱氏書室)・文徳楼~
http://4travel.jp/travelogue/11192305
08★広州★路地裏さんぽ ~文徳路・万福路・西横街・木排頭・泰康路水母湾・部前東~ 夕食は同僚と広州酒家で
http://4travel.jp/travelogue/11194992
09★朝食 @ 迎商雅蘭酒店 と ブッフェランチ @ ダブルツリーbyヒルトン広州
http://4travel.jp/travelogue/11195226
10★広州★激混みの広州駅切符売場 そして 和諧号(城際列車)に乗って広州駅から深セン駅へ
http://4travel.jp/travelogue/11195432
11★深セン羅湖区★深セン駅到着!地下鉄とバスで帰宅
http://4travel.jp/travelogue/11185821
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩
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-
博物館を出ると、そこにはこんな素敵な建物が。
○ 廣東財政廳旧址
1919年竣工の欧風建築。孫中山(孫文)は民国10年(1921年)4月13日に、この建物の中で国会議員と座談会を開き、4月24日には、この建物でミン粤軍が広東に戻ってきたのを迎えました。5月5日には、孫中山は非常大総統就任を宣言し、財政庁のテラスにて就任を祝福に集まった群衆らに挨拶をしたそうです。また、民国11年(1922年)6月12日には、孫中山は財政庁で記者会見を行い、陳炯明が北伐に反対しているという陰謀を暴きました。 -
○ 北京路
廣東財政廳の前にまっすぐのびる通り。 -
○ 昌興街
1916年、華僑の蔡興、蔡昌兄弟が惠愛路(現中山五路一帯)に大新百貨店(現新大新百貨店所在地)をオープンさせました。この蔡氏兄弟を記念して、この通りを「昌興街」と呼んでいます。 -
今はこんな感じの通りです。
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地図を見ていたらモスクを見つけたので行ってみることに。同じ路地には、三・二九起義指揮部旧址なる歴史建築がありました。
○ 三・二九起義指揮部旧址
三・二九起義(黄花崗起義)とは、黄興が総指揮した起義のことで、1911年10月、指揮部がここに建てられました。1911年4月27日(旧暦3月29日)、黄興は決死隊を率いてこの指揮部を出発し両広総督を攻撃しました。しかしながら多勢の敵には打ち勝てず、林覚民ら約100名ほどが犠牲となりました。起義後、72名の遺体が収集され、黄花崗に葬られました。 -
紀念館は残念ながらすでに閉まっていました。
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さて。こんな路地を歩いていくと、
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そこにモスクがありました。まさかこんな小さな路地にあるとは思ってもみませんでした。こんなところに?と半信半疑でしたが、ちょうどムスリムっぽい黒人さんたちが通りかかって、ついていったらありました。
○ 小東営清真寺 -
敷地内には中国人女性のムスリムがひとり(管理人さんか何か?)と、黒人男性のムスリムが数名いました。どう見ても私浮きまくっていましたが、周りは私を気にする様子もなさそうで、私は見学しつつ写真撮っていました。
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このモスクは500年ほどの歴史があるそうで、修復工事の記録などが壁に残されていました。
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イチオシ
不思議な路地でした。
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さてどんどん空は暗くなっていきます。
人々は家路に急いでいました。 -
大通りを歩きつつ、どこか面白そうな路地はないかときょろきょろしていると、こんな古そうな建物が見えました。
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イチオシ
○ 万木草堂(邱氏書室)
もとは邱氏の書斎で、清嘉慶9年(1804年)建造で、広東邱氏の子弟が省都で科挙試験を受ける際の住居でした。1891年に康有為が万木草堂に学堂を開設し、講義を行ったり、改良主義の思想を提唱したり、政治運動を展開したりすることによって、戊戌変法の拠点となりました。
すでにこの時間は閉館時間で、中でたまたまイベントを行っている最中だったため、遠目から中の様子を眺めることができました。 -
入り口近くに有った像。
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そしてその万木草堂のある路地をさらに歩いていくと…古そうな住宅があありました。そのままこの路地を抜けていくと、廃品回収をしている家(写真左にうつっている灯りのところ)があり、その前では家具を解体しているおじさんがいました。その家具を解体している様子を見ていると、その家具からさささーーーーともう何十匹ものゴキブリが出てきて…私、卒倒しそうになりました(-_-;)
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割と賑やかな通りに出ました。
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さらに歩くと、文明路で、やたらオサレなビルがありました。
○ 東方文徳広場 -
文徳路と文明路の交差点に出ました。ここから文徳路へ。
前、ネットで見て気になった文徳楼という建物を見に行くことにしました。 -
ちょっと暗めの道を歩いて、
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文徳東路に入ると、
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かなり暗い通りで、目でなんとか見えるものも写真には撮りづらい感じ。
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見つけました。
○ 文徳楼
1925年秋、中国共産党広東区軍委員が文徳楼の一部の部屋を借りて、従業員を住まわせました。周恩来、鄧穎超は3号、李富春、蔡暢は1号の2階、海軍局代理局長李之龍らが4号2階に住んでいました。 -
イチオシ
すごい!この朽ち具合。でも中にはまだ住んでいる人がいました。
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味のある歴史建築でした。
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