2015/05/28 - 2015/05/28
395位(同エリア3881件中)
junemayさん
- junemayさんTOP
- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 192,637アクセス
- フォロワー41人
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
勝手知ったる部分の少ないフィレンツェの中で、昨年訪れて、大変気に入ったサンティッシマ・アヌンツィアータ広場にやって参りました。ここなら楽勝でたどり着くことが出来ます。昨年は「捨て子養育院」が工事中で閉鎖中、サンティッシマ・アヌンツィアータ教会はミサの最中で内部を見ることが出来なかったのですが、果たして、今年はどうなることでしょう。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
サンティッシマ・アヌンツィアータ広場の中央です。前の旅行記でも紹介しましたが、広場の騎馬像はメディチ家のフェルディナンド1世。第3代のトスカーナ大公です。彼は政治的な手腕、経済政策のみならず、文化・芸術面でも優れたパトロンであり続けたようです。
広場の北側には、サンティッシマ・アヌンツィアータ教会が美しいロッジアのあるファサードを見せています。 -
広場の東側には、ブルネレスキが設計した「捨て子養育院」のロッジアが続きます。昨年は工事用シートで覆われていたけれど、今回はセーフ・・・だと思ったんです! でもまだ、一部工事中みたい・・・ ロッジアの後ろにある男女別の宿舎、病院の建物を含めた工事は1419年に始まり、正式に孤児院(病院)がオープンしたのは1445年のことです。
-
西側には、これまたロッジアのあるセルヴィ・ディ・マリア(マリアの下僕会)というサンティッシマ・アヌンツィアータ教会の母体にもなっている修道会の建物。
広場の名前の由来となっている教会とブルネレスキの設計した「捨て子養育院」のロッジアと調和のとれたアントニオ・ダ・サンガッロ(ヴェッキオ)とバッチョ・ダニョーロの設計により、1516年〜1525年に建てたものです。
ロッジア上に8つの扉が並んでいて、見た目は共同住宅のようです。現在はホテルになっているという話も聞きましたが、プライベート空間なので、立ち入ることはできませんでした。広場の建物の中で私の一番のお気に入りです。 -
広場の北側の建物の幽霊騒ぎについては、昨年の旅行記で書いたので、よろしければご覧くださいね。
http://4travel.jp/travelogue/10937765 -
まずは「捨て子養育院」(イタリア語では『罪なき者の病院』と言う意味)です。
コリント式の列柱がずらりと並ぶ長いロッジアが特徴の「捨て子養育院」は、つい先ほど見てきた大聖堂前の「ピガッロのロッジア」と似たような性格の建物で、生まれた子供を育てることが出来ない貧困層を救うために、フィレンツェの絹織物のギルドが出資し、運営していた世界最古の孤児院です。 -
当時、絹織物がフィレンツェの基幹産業だったため、このギルドは市内では一番裕福な団体でしたが、他のギルドでも同様の慈善事業を行ってきたのだそうです。社会的弱者=子供や巡礼者、病人に対する社会福祉事業が民間団体によって脈々と受け継がれてきたんですね。
ファサードは、全部で9つの半円形のアーチで構成されています。アーチの高さ、幅、奥行きは全て同じ長さなのだそうです。つまり、正四面体を並べて、角を削ったような形をしていることになりますね。 -
アーチのスパンドレル(2つのアーチに挟まれた三角形部分)には、オムツでぐるぐる巻きにされた赤ちゃんのレリーフのある青いテラコッタのトンドが並んでいます。
ブルネレスキ設計の図面では、この部分はただ穴が開いているデザインでしたが、彼の死後45年ほどたった1490年頃、アンドレア・デッラ・ロッビアは穴の部分を埋めるテラコッタを依頼されます。ロッビアは建物の総仕上げの段階で制作を行ったようです。残念なことに今では彼のオリジナルは数えるほどで、ほとんどのトンドは19世紀に作られたコピーだそうです。
写真は横に細長い捨て子養育院の建物のちょうど中央部分に当たります。 -
ロッジアの中央部分にはヴォールト天井に美しいフレスコが見えています。16世紀末〜17世紀初頭にかけて活躍した画家ベルナルディーノ・ポッチェッティによる1610年頃の作品です。ポッチェッティは孤児院をねぐらとしていたようで、この作品は彼が亡くなる2年前に描かれたものです。
孤児院はメディチ家の支援を受けてきたのでしょう。奥にはコジモ1世の胸像がありました。 -
フレスコはとても完成度の高い作品です。4つの台形部分には、コジモ1世の生涯からの場面が描かれています。四隅には美徳、正義、信仰、教会の寓意像が立っています。
中央の楕円形の部分では、戦の神マルスが、プットたちに囲まれて、メディチ家の紋章のついた盾を持っていますよ! -
こちらがその拡大版です。赤と白の丸薬 目立ちますねえ!
-
ロッジアの奥、孤児院の入り口にあった格子窓のようなものは、回転式になっていて、かつては赤ちゃんをそっと寝かせ、「置きざり」にすることができるようになっていた装置だそうです。
碑文にはこう書かれていました。
「4世紀に渡り、これは罪なき回転扉でした。顔を知られることなく、貧困と惨めさから逃れたい人のために、この扉が閉じられることはありませんでした。」
顔を知られることなく置いて行ける。どこかの国の赤ちゃんポストも同じような造りでしたっけ? 回転扉は、1875年の孤児院閉鎖まで常にスタンバイの状態だったそうです。
背後のルーネットのフレスコも、ヴォールトのフレスコ同様ボッチェッティの作品です。胸像はコジモ1世の息子フランチェスコ1世。孤児院出身者が制作したものだと聞きました。 -
イチオシ
中に入ってすぐの大きなキオストロの壁にあったのは、アンドレア・デッラ・ロッビアの「受胎告知」でした。アンドレアさん またお目にかかれてまことに嬉しい限り!! 1493年の作品です。
-
下の扉の横にあった小さな聖水盤は、15世紀の彫刻家アントニオ・デイ・ロッセリーノの作品だそうです。
-
こちらが、男の子用だった大きなキオストロ全景です。入場券売り場で「今日は無料よ!」と言われ、喜んだのもつかの間、どうやらこの日はあるイヴェント用に貸し切りだったようで、美術館に入ることは叶いませんでした。またまたがっくり・・・です。
中庭には、イヴェントの後で行われるパーティの準備中でした。 -
仕方がないので、回廊を歩きます。
最初の乳児が捨てられたのは1445年のオープンから10日たった日のことでした。大きくなると、男の子には読み書きが教えられ、能力に応じて技能を身につけさせました。女の子には裁縫、料理等、女性向きの仕事が教えられ、時には持参金を用意して結婚を斡旋することもあったそうです。しかし、女の子はここに居残ったり、修道女になるケースが圧倒的に多かったようです。 -
孤児院では乳母を沢山必要としましたが、時には乳母が自分の子供を捨てて、賃金を貰いながら自分の子供を孤児院で育てるというケースもあったそうです。そのため、孤児院ではヤギや牛を飼って、ミルクを自給自足にし、乳母の数を減らすといった策で対処したこともあったんですって。善意を踏みにじる行為ですが、生活に困っていたのでしょうね。自分の子に毎日会えるし、願ったり叶ったりだと。
-
ほらっ ここでセミナーが開催されているために、今日は展示物を見ることが出来ないんだそうです。
19世紀には孤児院は財政難から古くから所蔵していた絵画を売却してしまい、今では殆ど残っていないそうですが、それでもルカ・デッラ・ロッビア、サンドロ・ボッティチェリ、ドメニコ・ギルランダイオなどが見られるはずでした。 -
「この部屋だけは入っていいわよ」と言われて入場した部屋のヴォールトです。何と言う名前の部屋だったのか失念。メモも取っていません。
栄光のプット達が元気に飛び回っていました。 -
クロス・ヴォールトの付け根まで、装飾が施されています。
-
火を司る者と十字架を掲げる者の間で、子供を守る者=母(乳母?)が授乳中。この辺りが一番重要な部分のようですね。
-
女の子用のキオストロは大変狭く、まだ工事中のようでした。壁のフレスコも殆ど剥げていて、見るべきものはないように思いました。
-
彫像の右側の扉の上のルーネットには少々見にくいですが、また赤い丸薬のついたフレスコ画がありました。
-
作品を見られなかった腹いせに、美術館の作品の絵ハガキを写しましたよ。
左上にルカ・デッラ・ロッビアの「聖母子」。右側はギルランダイオの「東方三博士の礼拝」とその部分です。 -
上左はピエロ・ディ・コジモの「アレキサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚」、カタリナと幼子キリストのズームが下半分にあります。
上中はドメニコ・ディ・ミケリーノの「子供たちを守る聖母」。
上右はヤコポ・デル・コンテの「無実の者達の聖母」です。この2枚が一番この場所に相応しい絵ですね。 -
他にもボッティチェリの「マドンナ」。これ見たかったんだぁ。
次回に期待しましょう。今日は美術館に縁なし・・・ -
再びサンティッシマ・アヌンツィアータ広場です。広場に二つある噴水 海の怪物の噴水の前にやって参りました。そう言えば去年はじっくり見なかったような気がします。
広場がピエトロ・タッカの設計により工事を開始したのが1626年。そして中央のフェルディナンド1世の騎馬像を挟むように2つの噴水が完成したのはそれから15年後の1641年だそうです。 -
精悍な顔つきの海の怪物を期待して近づいていったら、これが結構なファニーフェース! モヒカン刈りのような髪とセイウチのような髭。そして見開いたまん丸い目は全く怖くありません。腰を少しかがめておちゃんこしているような格好も笑えます。
マニエリスム時代の傑作に何を言うかと怒られそうですが、見ていて楽しくなる噴水でした。もう一つの噴水も全く同じものだったと思いますので、撮っていません。 -
続いてサンティッシマ・アヌンツィアータ教会に向かいます。この教会の歴史も古く、1088年には小さな祈祷所があったと言われています。1250年に創建された時には、ここは町の城壁の外側でした。1444年〜81年にかけて、ミケロッツォ・ディ・バルトロメオによって再建されましたが、資金不足により、ファサードのロッジアが建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・カッチーニの元で完成したのは1601年のことでした。
アーチの高さは広場にある他の二つのロッジアのある建物と揃えてありますが、教会のみ前に階段がない関係で、柱はその分長く(高く)なっています。 -
外側のロッジアの中央にある屋根付きの立派なルーネットには、ヤコポ・ダ・ポントルモ(1494年〜1557年)のフレスコを見ることが出来ました。ポントルモはマニエリスム期の画家で、アンドレア・サルトの弟子だそうです。
肝心なフレスコはかなり傷んでいますが、ここでも目立つのはメディチ家の丸薬ですね。このフレスコは、教皇レオ10世のフィレンツェ訪問に合わせ、1513年に描かれたものですが、今見ているものはコピーだそう。ロッジアの完成と共にこの場所に移されたのでしょうね。 -
昨年ここを訪れたのに、なんと! この中央扉上のモザイクを見た記憶がありません。受胎告知に捧げる教会ですから、あると思って当然なのですが、再訪して良かった!
やや荒削りな(特に二人の背景)感があるこちらのモザイクは、ドメニコ・ギルランダイオの弟のダヴィデ・ギルランダイオの作です。1509年。フィレンツェ大聖堂の北側にあるアーモンドの扉上にも、偉大な兄との共作の「受胎告知」がありましたね。彼はドメニコの死後、工房を引き継ぎ、ドメニコの息子リドルフォに絵の手ほどきを行いました。 -
教会の午後のオープンは4時から。まだ少し時間があるので、先に中にある「死者の回廊」il chiostro dei mortiから見ることにしましょう。ここは、回廊のホールと呼ばれる通路です。
-
両側に、葬送記念碑が並ぶ中を進んで行きます。胸像の上に家の紋章がずらりと並んでいますね。ここの方が死者の回廊と言う名前に相応しいような気がします。
奥の扉は聖母の聖具室への入り口。 -
暗いので見えにくいですが、フレスコの描かれたアーチをくぐると、そこが「死者の回廊」です。「大きい回廊」とも呼ばれています。
-
回廊はミケロッツォ・ディ・バルトロメオ他の建築家によって15世紀に完成しました。時が止まったような静寂が辺りを包んでいます。喧騒のフィレンツェからほんのちょっと離れただけで、こんな空間があるんですね。ブラボー!
-
この回廊の目玉は、なんといっても壁のルーネットに描かれた25枚のフレスコ画です。この中に何と! 隣の「捨て子養育院」ロッジアのフレスコを描いたベルナルディーノ・ポッチェッティ(1548年〜1612年)の作品が沢山ありました。殆どが彼の晩年1610年〜12年頃の作品です。
取りあえず、写したものを、フレスコの下に書いてある碑文から年表のように年代順に並べましたので、興味のある方のみご覧くださいね。長いよ〜 -
ベルナルディーノ・ポッチェッティの多分1作目はこちら。
「隠者としての生活」。
多分と言うのは、年号が入っていなかったからですが、手前の裸の男性は何者でしょうか?着飾った連中とのギャップが凄いですねえ!
セッテ・ファンダトーリ、この教会を建てた修道会マリアの下僕会(Servi di Maria)の7人の創始者ボンフィーリオ、アマディオ、ブオナジュンタ、マネット、ソステーニョ、ウグッチオーネ、そしてアレッシオが隠遁生活に入った頃のことだと思われますので1233年頃かしら? -
ベルナルディーノ・ポッチェッティの2作目は
「7人のフィレンツェ人の隠れ家 ヴィッラ・カマルツィア」1233年(この年号は、絵に描かれている出来事が起こった年で、絵が描かれた年ではありません。以下同じです)。
フレスコのテーマはマリアの下僕会という宗教組織の変遷、および後にその中心的な存在となる聖人フィリッポ・ベニーツィの生涯の物語が中心で、あまり興味をそそる内容ではありません。ここでは所々に見え隠れするフィレンツェの町と人々の暮らし、コスチュームなどをお楽しみください。 -
ベルナルディーノ・ポッチェッティの3作目は
「モンテセナリオ修道院の設立」。
マリアの下僕会は、フィレンツェ近郊のセナリオ山中に最初の修道院を建てます。
1234年。 -
イチオシ
美しさに思わず見とれてしまったがこちらのフレスコ!
「フィレンツェの司教とセッテ・ファンダトーリの前に現れた聖母」。1239年。 -
ベルナルディーノ・ポッチェッティの5作目
「ラウデシ(オルサンミケーレ)の誕生」。1245年。
語学力不足でよく理解できていないのですが、1245年に設立された会社組織の団体Campagnia dei Laudesiで、オルサンミケーレ教会及びその前身の穀物倉庫と関係があるようです。 -
ベルナルディーノ・ポッチェッティの6作目は
「フィレンツェの司教 聖アウグスティン修道会(マリアの下僕会はその下部団体)の新規則を割り当てる」。1256年。
この絵での注目は、背後にフィレンツェ大聖堂のクーポラが見えること! 13世紀には、大聖堂はまだ影も形もなかったはずなんですけれどね。 -
ベルナルディーノ・ポッチェッティの7作目は、
「聖ボナジュンタ・マネッティの死」 1257年。
最初の7人のメンバーの1人の死です。 -
「アマディオ・デッリ・アミデイ溺れた少年を助ける」
アマディオも設立メンバーの1人です。中央右側に裸の少年が見えますね。1266年 -
ベルナルディーノ・ポッチェッティ9作目は
「聖マネットがフィリッポ・べニーツイに味方して、辞職する場面」。フィレンツェの中のお話なので、中身についてはさっぱりわかりません! 7人の初期メンバーが聖母マリアの出現を見た頃にはまだ子供だったベニーツィは成長して聖職者になり、マリアの下僕会の幹部を務めていました。1268年。 -
ベルナルディーノ・ポッチェッティ10作目は
「フィリッポ王の前のパリの聖ソステーニョ」。
この空色のストッキングをはいている男性は、16世紀のイタリア喜劇俳優のフランチェスコ・アンデリーニだそうです。自身の当たり役「恐怖のキャプテン」カピターノ・スパヴェントの衣装で登場しています。当時の町の風刺を含んだフレスコと言うのは、なかなか外国人には理解できないですね。
残念ながらフレスコの状態があまり良くないので、パリの風景がわかりません。1269年。 -
ベルナルディーノ・ポッチェッティ11作目は
「神聖ローマ皇帝ルドルフ1世の前の聖ウグッチオーネ」。
この絵も、様々な登場人物に加え、町(これ フィレンツェかなあ? )の風景が背後に描かれていて、味わい深い1枚になっています。1270年。 -
ベルナルディーノ・ポッチェッティ12作目は
「聖ウグッチオーネと聖ソステーニョの死」。
セッテ・ファンダトーリのメンバー2人の聖人たちが亡くなった場面です。1282年。 -
正面から撮り忘れた1枚はベルナルディーノ・ポッチェッティの13作目
「聖フィリッポ・ベニーツィは2人の罪人を交換」1285年。聖フィリッポ・ベニーツィはこの年1285年に亡くなっています。
手前の二人の女性が罪人なのでしょうか?女性特有の職業の方かしら?
撮り忘れたものも何枚かありますが、「しつこい!」と言われそうに並べたてましたね。 -
イチオシ
後、キオストロにあったフレスコで目立ったものは、アルセニオ・マスカーニ(1579年〜1637年)の作品です。
こちらは、トスカーナ州プラートの町にある「サンタ・マリア・カファッジョ教会の礎石を置く場面」1250年3月とありました。背後に立派な城門が見えるということは、城壁の外に建てられたんですね。遠くの山々が美しい!
また、頭に荷物をのっけたご婦人と犬を連れた男性のコスチュームにも注目してしまいました! -
アルセニオ・マスカーニの2枚目は「天使が描いた聖母の顔」。えっ 聖母の顔ってどこにあるの? 皆さん、お分かりになりますか? 結局探せず・・・1252年。
-
まだまだ続きます。死者のキオストロ。見ごたえ十分です。こちらのアーチの縁の愛くるしい天使達は、マッテオ・ロッセッリ(1578年〜1650年)の作品。彼もまた17世紀フィレンツェを代表する画家の一人です。朝訪れたサンタ・マリア・マッジョーレ教会にも彼の作品がありました。
-
ロッセッリ2作目は「マリアの下僕会規則の承認」。
彼が制作したのは1614年頃ですが、承認は13世紀のこと。碑文の年号がかすれて良く見えませんでした。これは状態悪し。 -
ロッセッリ3作目は「教皇インノケンティウス4世とマリアの下僕会の保護者の枢機卿フィエスキ」。この日文も何故か年号の辺りが消えています。ロッセッリの1616年の作品です。
左手前の番人の衣装がカラフルで興味深いです。バチカンの衛兵のユニフォームを思い出してしまいました。 -
ロッセッリ4作目です。「フランス王の前の聖マネット」1247年。説教壇でミサを行っているのが聖マネットでしょうか? 駄々をこねているような子供の存在が気になります。「しぃ〜」と男性が口に手を当てています。なにせ王が列席しているミサの最中ですからね。ロッセッリ1616年の作品。
-
ロッセッリ5作目です。「聖ボンフィーりオの辞任」。ボンフィーリオはマリアの下僕会最初のメンバーのうちの一人です。これは何とか読めました。1255年の出来事。 ロッセッリは1614年に描き上げています。
ここでも帽子をかぶった男性が子供を連れていますね。 -
今度はヴェントゥーラ・サリンベーニ(1568年〜1613年)と言う画家のフレスコです。あまり良い状態ではないですが、せっかくなのでご紹介。すべて1605年の作品です。
サリンベーニ1枚目は「聖ボンフィーリオの死」1261年の出来事。 -
2枚目は「プラートのサンタ・マリア・カファッジョ教会の拡張工事」1262年。何枚か前に礎石を置いた教会の絵がありましたが、美しかった後ろの城壁が壊れていますよ。何があったのでしょう・・・教会は拡張工事なのでめでたいお話ですよね。
-
ヴェントゥーラ・サリンベーニ3枚目。
「聖マネットと教皇クレメンス1世」1265年。後ろを振り返っているのはダンテだという話ですよ。 -
イチオシ
ヴェントゥーラ・サリンベーニ最後の作品は、一番状態が良く、ダイナミックな構図の「フィリッポ・ベニーツィのヴィジョン」。年号が所々消えていますが、1253年で良いのかしら?
聖母の乗る玉座のついた馬車がまた凄い! 馬の代わりに車を引いているのは、ライオンと羊?です。聖母の周りには音楽天使たちが楽器を奏でています。今にも優美なメロディが聞こえて来そうでした。 -
イチオシ
最後にこれは別格! という作品をご紹介します。アンドレア・デル・サルトの「マドンナ・デル・サッコ」1525年の作品です。
サッコはバッグとか袋という意味ですが、傍らで本を読んでいる聖ヨセフが持っている白い袋にちなんでつけられた名前だそうです。
この作品はサルトがフィレンツェに帰還した1525年に制作されました。ペストが流行しているさ中の里帰りだったようです。
聖家族が「エジプトへの逃避」の途中で休息している場面だと思います。ぐいぐいと人を惹け付ける魅力があって、この絵に惹かれて、私は何枚か写真を撮り損ねました(単なる言い訳です)。 -
キオストロには、サン・ルカ礼拝堂、参事会会議場などがあったのですが、時間の関係で次に移ります。もうとっくに4時を回っています。
-
急いでやってきたのは、昨年も見たのですが、見逃した箇所が多かった小さい方のキオストロ「誓いの回廊」です。 教会の中央扉をくぐるとすぐにここに出ます。あらあら。また工事中?
幸いなことに、1447年にミケロッツォが設計した回廊は自由に見ることが出来ました。こちらの回廊には、1460年ごろに教会が依頼した、15世紀から16世紀にかけてのマニエリスムを誕生させることになる画家達アンドレア・デル・サルト、ポントルモ、ロッソ・フィオレンティーノなどの画家によるフレスコが凝縮しているのです。結局最初のフレスコが完成するまで16年かかってしまうのですが・・・
またフレスコが続きますよ。昨年見たアレッソ・バルドヴィネッティの傑作についてのみ修復中だったので、これについては、昨年の旅行記をご覧くださいね。
http://4travel.jp/travelogue/10937765 -
まずは昨年見逃したポントルモのフレスコ「訪問」から。1514年〜16年。
マリアとエリザベスが再会したのは、とても危なっかしい階段の上 と言う構図にまずびっくりです。どうしてこんなにたくさんの人達が周りにいるのでしょう? 手前のカメラ目線の女性、その後ろで荷物を頭に乗せている女性。すらりとした同じような顔の美人が目につきます。裸の男の子は天使? 背後のエゼドラのようにカーブした柱の階上では、ナイフを持った老人と少年の姿。アブラハムとイサク? 混沌とした中での一瞬の出会い。二人の主役以外にばかり目が行ってしまった1枚でした。 -
続いて、コジモ・ロッセッリの作品から「聖フィリッポ・ベニーツィの召命」。聖フィリッポは、死者のキオストロでも散々見てきたマリアの下僕会出身の聖人です。こちらの作品は、先ほどのものより130年ほど前の時代のもので、1476年の制作です。これが依頼から16年かかってようやく完成したというキオストロ最初の1枚です。
聖フィリッポの姿が2つ見えます。右側のアーチの傍(水色の服)と、左側の裸の青年。神に捧げるために世俗のものをすべて脱ぎ捨てている姿は、アッシジの聖フランチェスコと同じように見えたので、少々ためらいを覚えました。 -
アンドレア・デル・サルトの「聖フィリッポ ハンセン氏病を癒す」。1509年〜10年。サルトはたった2年で、「聖フィリッポ・ベニーツィ物語」を完成させています。
今見ているのは状態の悪い1枚です。聖フィリッポの一行(3人)は、丘の上、坂道の途中等、何か所かに見ることができます。随所で病気の癒しを行ったことを表しているようです。 -
続いてアンドレア・デル・サルトの「不信心のお仕置き」1510年。
どうやら、木の傍に倒れている人達は落雷でやられたようですが、それを「神のお仕置き」としたようです。これも「奇跡」と解釈されているのかなあ? 納得がいかず・・・ -
アンドレア・デル・サルト3枚目は「所有(欲)からの解放」。1509年〜1510年。
これは難解です。何が起こっているのか、私には良く分かりません。左側にいる聖フィリットが右手を挙げて祝福を示した瞬間に、両手を広げて倒れかかったご婦人とその左側の男性が誰なのか、なぜ倒れたのか・・・奇跡の場面だと書かれた解説もあったのですが、「所有(欲)からの解放」というタイトルと結びつけることが出来ませんでした。 -
サルト4枚目は「聖フィリッポ・ベニーツィの死と子供の復活」です。1510年。
死の床にある聖フィリッポの前に、倒れている少年と起き上がっている少年がいます。多分彼の命と引き換えに、復活を果たした少年がいるということで、これも奇跡なのかな? うう〜ん。難解が続きます。 -
サルト5枚目です。「聖フィリッポの聖遺物がフィレンツェ市民に奉仕する」1510年。
こちらもオカルト的な内容を含む1枚です。子供が生き返ったことを知ったフィレンツェの人が聖フィリッポの奇跡にあやかろうと、次から次へと病気の子供を連れて詣でている場面のように見えます。昨年もこの絵について書いていましたが、1年経っても進歩のない私。エクソシストしか思い浮かばない状態が継続中です。 -
サルト6枚目です。ようやく難解な聖フィリッポが終わって、内容が「マリアの物語」になりました。こちらは「マリアの誕生」1514年の作品です。
相変わらず登場人物が多いですが、マリアと母のアンナの距離が離れすぎのような気がしてなりません。 -
アンドレア・デル・サルト最後の作品は、「東方三博士の旅」。1511年。
通常、聖母子に礼拝している場面が多いのですが、こちらは星に導かれてはるばるやってきた三博士の旅の道中のようです。私が気になったのは、紫の服を着て振り向いている左側のご婦人。一体何者でしょうか? 右端のカメラ目線の男性はサルトの自画像だと言われています。 -
フランチャビジョ(フランチェスコ・ディ・クリストファノ)の「聖母の結婚」。1513年。
残念なことにマリアの顔が失われていますが、ヨセフが指輪をはめようとしているシーンだということは分かりますね。けったい人達が大勢いる神殿前の路上での結婚場面は珍しいなと思いました。 -
これで最後です。マリアの物語の最終場面「マリアの被昇天」です。ロッソ・フィオレンティーノの作品で1517年。
ここにも興味深い人物発見。被昇天に背中を向けて、何やら額縁のようなものを覗き込んでいる左から2番目の男性。顔がはっきりとしませんが、不自然なポーズですね。 -
はい。ようやく二つのキオストロを見終わりました。アンドレア・デル・サルトの胸像は昨年も写しましたが、沢山見せていただいたお礼の気持ちを込めてパチリ!
これから昨年はミサが延々と続き、入場できなかった教会内へと入っていきますよ。 -
久しぶりにローマのバロックの世界に戻ったような気分 というのが最初の印象でした。とても地味だった花の大聖堂からすると、ここは別世界のようです。
バロックの「お化粧」は1644年から始まりました。立派な大理石の柱、スタッコ装飾に金メッキ。一廊式ですが、両側にやや奥行きのある礼拝堂が並んでいます。 -
ご覧ください。この天井! ウンブリア州では、バロック装飾を剥して、フレスコの断片が壁に残るシンプルな内装の教会ばかり見てきたので、非常にまぶしく感じます。
中央のフレスコは、バルダッサーレ・フランチェスキーニのデザインを元に、ピエトロ・ジャンベッリが描いた「聖母被昇天」です。この写真では、ごめんなさい、良く分かりませんね。 -
身廊の中ほどにある対になったオルガンのある辺りから撮った1枚です。左右のアーチの上にはトンドの中には、1693年〜1702年頃にアレッサンドロ・ゲラルディら3人の画家によって描かれた絵画が見えます。その上の窓と窓の間にもずらりと絵画が並んでいますが、こちらは、コジモ・ウリヴェッリによる「聖母の有名な奇跡の場面」の数々だそうです。1671年。
-
カウンターファサードにあったその名もズバリ、「サンティッシマ・アヌンツィアータ(受胎告知を受けた尊き聖母)礼拝堂」です。このごてごて! と言うか、ランプやらなんやら一体いくつぶら下がっているんでしょうねえ。
-
小さな礼拝堂ですが、これ自体が独立した、壺のような格好のお堂になっていました。こちらはお堂の正面から撮った写真です。
同名の礼拝堂は1341年からあったそうですが、現在見るお堂は、メディチ家のピエロ・ディ・コジモの援助を得て、ミケロッツィの設計により1448年に完成したものだそうです。
カラッラ大理石でできた4本の柱が凄い! -
二人の天使が支える聖母の王冠の装飾の下には、1252年から存在したというフレスコ「奇跡の受胎告知」が見えています。その名の通り、このフレスコには奇跡のお話が残されていました。
この絵を頼まれたバルトロメオという画家は、何度描いてもマリアの顔がうまく描けず、才能がないと諦め、顔を描かずにふて寝してしまったのです。そしてそのあくる朝、自分の思い描いていた通りに見事に仕上がっている、このフレスコを発見したのだそうです。 -
その奇跡のフレスコのアップをどうぞ。
それにしてもなんて豪華な王冠とアクセサリーでしょう! -
身廊右側最初はバーリの聖ニコラに捧げる礼拝堂でした。祭壇画はエンポリとして知られているヤコポ・キメンティの「聖母、聖人達といる聖ニコラ」です。
-
右側三番目は、教会の創立者セッテ・ファンダトーリの礼拝堂です。両側に紋章付きの目立つ葬送モニュメントが見えますガ、ファブリツィオ・コッロレードと言う方のモニュメントです。後期マニエリスム時代の彫刻家オラツィオ・モキの作品です。
祭壇画は、ニッコロ・ナンネッティによって、7人の創立者達が描かれています。1727年。これは、1239年、彼らの前に聖母が出現したときの場面でしょう。 -
奇妙な祭壇画に惹かれて撮った、こちらの礼拝堂は聖ペッレグリーノ・ラツィオージに捧げられています。祭壇画の中では、右にいる人物が片足を十字架に架けられたキリストに差し出しています。
聖ペッレグリーノの足は壊疽にかかっていたのですが、その足をキリストが下りて来て癒してくれた場面なのだそうですよ。この教会に沢山の絵画を残しているコジモ・ウリヴェッリの1675年の作品です。
祭壇左側の葬送モニュメントの女性像が美しい! -
5番目の礼拝堂は1450年頃ミケロッツィによって造られたものです。左側には初期ルネッサンスの彫刻家ベルナルド・ロッセリーノ(1409年〜1464年)作の記念碑があります。右側のメディチ家の紋章がついたモニュメントは16世紀末のもので、トスカーナ大公国のティレニア海艦隊リーダーだったトマゾ・デ・メディチの遺骨が収められています。
-
祭壇には、「悲しみの聖母」像がありました。
-
オルガンの下の小さな礼拝堂にあった「救世主の礼拝堂」です。1966年の洪水で、以前あった祭壇画が失われ、現在あるのは20世紀後半のアンナ・ブリジダによる聖アントニオ・プッチに捧げるモザイク画。彼は1962年に列聖しています。
どういう状況なのかいまいちわかりませんが、後光が差している聖人はこれから右に見える小さな船で出かける場面なのかしら? 縋りついている子供と女性。聖人でなければどう見ても家族だと思うところですが・・・ -
ついでに祭壇左右の天使のフレスコを撮ってみました。
-
黒い羽が少々不気味です。新しいもののように見えますね。
-
身廊右奥にあるサクラメント礼拝堂です。ここはファルコニエーリ家の礼拝堂で、一族出身の福者ジュリアーナ・ファルコニエーリの聖遺物が祭壇下に置かれています。彼女は、マリアの下僕会の女子修道院の創設者です。
祭壇画は18世紀の画家ヴィンチェンツォ・メウッチの作品です。サンタ・マリア・マッジョーレ教会では天使ラッファエロのフレスコが印象的でした。 -
天使の音楽隊が描かれているヴォールトのフレスコも同じくヴィンチェンツォ・メウッチの作品。こう言っちゃなんですが、わりに平凡。
-
礼拝堂の左横にある小さな祭壇前に飾られたバッチョ・バンディネッリによる「ピエタ」は1559年の作品。フィレンツェにおけるマニエリスム彫刻家の草分け的存在の彼の作品ではシニョリーナ広場のミケランジェロのダヴィデ像の隣に立っている「ヘラクレスとカクス」が一番有名ですが、ダヴィデと比べて殆ど注目されず、醜悪だ! 野蛮だ! と散々こき下ろされたという歴史があります。「彫刻家としての彼の失敗は、ミケランジェロを模倣しようとする彼の欲望によってより強調された」とまで言われているんですよ。ちょっと気の毒な気がします。
通常聖母が抱く姿の「ピエタ」が多い中、こちらの1枚は背後にアリマタヤのヨセフの姿があります。ヨセフは新約聖書に登場するユダヤ人で、キリストの遺体を引き取って埋葬したことで知られています。このヨセフの顔はバンディネッリの自画像だという話ですよ。
バンディネッリと彼の妻の墓は、この礼拝堂内にあるそうです。 -
主祭壇は見事な円形のドームの中にありました。まずは、天井のフレスコ画が目に飛び込んできます。
ここは1444年にミケロッツォによって円形の瞑想所として建てられましたが、後になってレオン・バッティスタ・アルベルティが壮大なクーポラに作り替えたものです。
クーポラのフレスコはボルテッラーノ(1611年〜1690年)がわずか3年で描き上げた「聖母被昇天」(1680年〜83年)です。 -
聖母より、洗礼者聖ヨハネの方が断然目立っていますね。
-
新旧約聖書で御馴染の聖人達のオールスターキャストです。
-
大スペクタクルの下にあるのが主祭壇です。設計したのはレオン・バッティスタ・アルベルティ(1471年)。
大理石の大変素晴らしい床は1541年の制作だそう。このどこかにアンドレア・デル・サルトの墓もあったようですが、探し出せず。
主祭壇の後ろには1668年に作られたこれまた見事な聖歌隊席がありました。
ご覧の通り、クーポラの壁に沿ってここにも小さな礼拝堂が並んでいます。 -
背後に見える銀の聖体容器(チボリウム)は、フィリッポとジュリアーノのバッチョ・ダニョーロ兄弟が彫刻しました(1546年)。
-
クーポラの入り口のニッチェには、聖パオロと
-
聖ピエトロの大理石像。共にジョヴァンニ・バッティスタ・カッチーニ(1556年〜1613年)の作品です。確かオルヴィエートで、彼の彫刻を見た記憶(サンタゴスティーノ教会でした)・・・
-
身廊左側に移ります。ここは旧聖具室だった場所です。1445年、ヴィッラニ家の礼拝堂となり、後にミケロッツィによって改装されました。現在は十字架の礼拝堂と呼ばれています。
木製の十字架像は作者不明ですが、1404年より前のものと言われています。聖母と聖ヨハネ像はルカ・デッラ・ロッビア(と彼の工房)の作! 1430年〜50年頃の作品です。 -
床には美しい彫刻が施されたヴィッラニ家の墓標がありました。
右側に立っているのは洗礼者聖ヨハネの大きなテラコッタ像。どうやら、洗礼堂の壁装飾(現在はアッカデミア美術館所蔵)のためにこしらえたもので、ミケロッツォ自身の作品だそうですよ(1452年)。 -
ヴォールトのフレスコは、ヴィンチェンツォ・ウメッチ。サクラメント礼拝堂に続いての彼の作品はまたもヴォールトです。
-
小さなサン・ビアジョ礼拝堂です。大理石のフレームで囲われた祭壇画には、聖ビアジョと二人の殉教者達が描かれています。絵は15世紀のものですが、作者不詳だそうです。
ヴォールトのフレスコはヴォルテッラーノ(1611年〜1690年)によるもので、中央には聖チェチリア。周りの部分には天使の音楽隊が描かれていました。 -
身廊の左側と右側にあった古いオルガンのうち、左側のものとその下にあった小さな礼拝堂です。オルガンは1643年製造と言うフィレンツェ一古いもので、イタリア全土でも2番目の古さを誇ります。オルガンの装飾はピエロ・ロッセッリとジョヴァンニ・ダレッソ・ウンゲーロにより行われました。
下の小さな礼拝堂はライトが光ってよく見えませんが、バルトロメオ・ロッシによるリッチな大理石の装飾が施されています。 -
被昇天の礼拝堂です。どこかで見たことのある絵だと思ったらペルジーノでした。「聖母被昇天」1506年。
祭壇画は元々主祭壇用にフィリピーノ・リッピによって始められたのですが、1504年にリッピが亡くなり、中断していたものをペルジーノが引き継いだ形になりました。絵は二つのパートに分かれていて、もう片方は現在アッカデミア美術館に所蔵されています。 -
見上げている人達の目つき、表情、ポーズがペルジーノ独特のものを感じさせます。中でも中央の聖ヨハネ。可愛いすぎやしませんか? 祭壇画は1667年に、主祭壇からこちらの礼拝堂に移されました。
どの方角から撮っても、光が入ってしまい、写真は大失敗。 -
左右の壁には、大迫力の「ダヴィデとゴリアテ、聖なるアーク」のフレスコ画。ルイジ・アデモッロによる1828年の作品です。旧約聖書の「サムエル記」に描かれている巨人・ゴリアテを、羊飼いの少年ダビデが投石器を使って見事倒したお語です。
-
イチオシ
ダビデが投石器で石を投げると、石がゴリアテの額に突き刺さり、ゴリアテが倒れたところをダビデはゴリアテの剣で、その首を斬り落とすのです。中央で首を掲げているのがダビデ。成人したダヴィデはイスラエルの王となり、40年にわたり国を導くことになります。
-
「聖なるアーク」と言うよりも、「失われたアーク」と言った方が通りが良いアーク(聖櫃)は、ダビデが取り戻した後、エルサレムのソロモン神殿にありましたが、新バビロニアの王ネブカドネザル2世によりユダヤ人がエルサレムを追われ、バビロニア地方に捕虜として連行される事件(バビロンの捕囚)の後、所在が分からなくなりました。今では「失われたアーク」として、数十年前にヒットした映画で御馴染ですね。
-
アークってこんな形だったんだと、しげしげと見つめてしまいました。映画で見たはずですが、すっかり忘れてしまっています。
-
聖ヒエロニムスの礼拝堂です。祭壇画はボケボけだったので、壁のフレスコとヴォールトのみ紹介します。
こちらもボケています(泣)が、中央で熱弁をふるっているのは少年キリスト。「キリスト対博士達」。有名なシーンですね。マニエリスム期のフィレンツェの画家アレッサンドロ・アッローリ(1535年〜1607年)の作品です。 -
こちらもアレッサンドロ・アッローリの1枚で、「神殿から金貸しを追い出すキリスト」。えらい剣幕でキリストが怒っていますよ。マニエリスム期の絵の特徴がよくわかる1枚ですね。
-
ヴォールトもカラフルです。様々な場面が見られますよ。中央にはアダムとイヴ。その下には一風変わった「受胎告知」。四隅を除いて時計回りで「エジプトへの逃避」、「神殿へのお披露目」そして「聖誕」。
四隅に描かれているのは預言者とシビュラですね。同じくアッローリの作品です。 -
祭壇画「トリニタ(ヒエロニムスと二人の聖人達。二人はヒエロニムスが聖書をラテン語に翻訳した時に助手を務めた人達だそうですよ)」はアンドレア・デル・カスターニョ(1423年〜1457年)の作品。1453年頃。
両側のフレスコ画はアッローリによります。 -
最後は、フェローニ家(サン・ジュリアーノまたはサン・ジュゼッペとも言う)の礼拝堂です。まずはこのクーポラに圧倒されました! バロックバロックしていますが、渋い色遣いで救われています。
この礼拝堂は1451年に建てられ、当初はアンドレア・デル・カスターニョのフレスコ画で装飾されていました。バロック装飾で飾り立てたのはジョヴァンニ・バッティスタ・フォッギーニ。1693年の制作です。 -
次に目が行ったのは、祭壇の両脇にある墓です。パトロンであるフェローニ一族の豪華な装飾のある棺が素晴らしいですねえ。ここでもローマを思い出しましたよ。
ニッチェに立っている聖フランチェスコを制作したのはフィレンツェの彫刻家カミーッロ・カテーニ(1662年〜1732年)。手前の金のメダリオンに描かれている人物が棺の中の方でしょう。左側の寓意像は鍵を携えています。 -
反対側のニッチェに立っていたのは聖ドメニコ。こちらはフィレンツェ生まれの彫刻家カルロ・マルチェッリーニ(1643年〜1713年)の作品です。
死者は航海に関係していたのか、左側の寓意像は帆船が描かれたメダリオンを捧げ持っていました。 -
順番が逆になってしまいましたが、礼拝堂の中央祭壇はこちらです。大理石を惜しげもなく使った祭壇とても立派です。お金持ちのにおいがプンプン。
祭壇画は「聖ヨセフの変化」。うまく写っていないので分かりにくいかも。ドイツ人のバロック画家ヨハン・カール・ロス(1632年〜1698年)の作品です。彼はミュンヘン生まれですが、主にヴェネツィアで活躍しました。
手前にもキリストと思われる幼子を抱いたヨセフの姿があります。私はマリアの陰にいて大変控えめな存在のヨセフが、子供を愛しむ姿にとても惹かれます。
サンティッシマ・アヌンツィアータ教会。物凄いボリュームでしたね。昨年来の希望が叶い、博物館ではなく、教会としても今も機能しているこの教会に来れて本当に良かったです。ブラヴォー!!
もうあまり時間がないので、最後は慌ただしく見学して、教会を後にしました。 -
駅に向かう途中、大好きなサン・マルコ教会を経由します。フィレンツェの教会はどこも見ごたえ十分ですが、その中でもベスト3に入る教会です。
-
今回も入場できなかったアッカデミア美術館。正式名はアッカデミア・ディ・ベッレ・アルティ こちらは出口かしら?
アッカデミアと呼ばれているので、古い時代からのアートスクールだと思っていたら、この建物の前身は14世紀に建てられた病院だったんですね。「罪なき者の病院」同様、貧しい人や身寄りのない人を受け入れていたそうです。全く知りませんでした。
1784年に、病院はピエトロ・レオポルドによって、芸術の教育機関として生まれ変わり、今では併設された美術館の方が有名になりました。 -
おお〜 アンドレア・デッラ・ロッビアだ! ちょっと失礼して扉上のルーネットのテラコッタを撮らせていただきます。
今日はアンドレア・デッラ・ロッビアによくよく縁のある日のようです。「聖母と聖人」 -
こちらは、「キリストの復活」1495年です。両方の作品ともウィキメディアには彼の作品として紹介されていますが、そのほかの資料が見つからないので、詳細が分かりません。もしかしたら彼の工房による作品かもしれません。
-
相変わらず、アッカデミア美術館前は、入場を待つ人たちの長い列が続いていました。これだから入場をためらってしまうんですよね。特にアメリカ人が多いという話を聞きましたよ。
-
この道を通った理由はこちら。ジェラテリアのカラベです。1年間待ちに待った甲斐がありました。フィレンツェ=カラベと言うくらいに私の頭にはインプットされています。
-
シチリア出身の家族経営のジェラート店なので、今回はシチリアレモンとカフェの組み合わせにしてみましたが、私的にはやはり昨年のピスタチオほどの感動はありませんでした。勿論、すご〜く美味しいんですけれどね。
-
カラベで至福の時を過ごした後は、ちょっと横道にそれてパラッツォ・メディチ・リッカルディ(日本語ではマージ礼拝堂)を覗きます。
元々はコジモ・デ・メディチがミケロッツォ・ディ・バルトロメオに依頼したメディチ家の宮殿ですが、後の家族が取得したり増築したりした部分も含まれています。今回は時間がないので、その美しい中庭をちょこっと見るためだけに寄りました。 -
イチオシ
なんという調和のとれた装飾で満ちている中庭でしょう! そして小さめの彫像のあるニッチェが並ぶ回廊!
アーチの上には花綱のフレスコとメディチ家の紋章や神話のレリーフが描かれたフリーズがぐるりと一周しています。2階部分はルネサンス期特有の方立のある連窓が並んでいます。フレスコはマゾ・ディ・バルトオロメオ、トンドはベルトルド・ディ・ジョヴァンニの作だそうです。 -
ただでさえ時間が押しているのに、カラベで道草したせいで、さらに追い詰められていた私は、わずか数分で立ち去らねばならない運命にありました。
サンティッシマ・アヌンツィアータ教会でも感じましたが、フィレンツェの町の表と裏と言うよりは表と中 全然印象が異なりました。ここも、話すのも憚られるほど閑静で、時が止まったような空間でしたよ。 -
アーチの先にある扉の装飾に注目! 天使がずり落ちそうになっていますよ。とてもおしゃれな扉ですねえ。小さいから見えにくいかなあ・・・
-
道路に面した入り口の扉がまたとても重厚だったので思わず1枚。屋敷の外側はなぜか1枚も撮っていません。ストロッツィ宮に似たとてもごっついイメージの建物でした。また次回参りましょう。
-
一応駅には近づいていますよ。賑やかな聖ロレンツォ聖堂を通り越して、この後斜め右方向に行けば、すぐに駅のはずなんですが・・・
-
何故か、足はサンタ・マリア・ノヴェッラ広場に向かっていました(汗)。広場についてまた吃驚!
あれ〜 なんでここに「捨て子養育院」があるの?
この建物の正体を知ったのは日本に帰ってから。この時はただただびっくりして、近づいて行って、トンドの中のテラコッタが赤ちゃんでないことを確認して、ようやくほっとしたのでした。
良かったぁ。捨て子養育院じゃあない! でも似ているなあ・・・
扉には鍵がかかっていて入ることが出来ず、また、どこにも名称等が見つかりませんでした。 -
帰国してから調べたところ、この建物は「サン・パオロのロッジア」。以前は巡礼者用、回復期患者用の聖パオロ病院のものでした。昨年もこの広場に何度も来ているはずなのに、まったく気づかないとは、ひょっとして私の目は節穴か?
13世紀に設立された病院ですが、15世紀に「捨て子養育院」に触発されたロッジアを含め、増築されました。建てたのは、聖フランチェスコ系の修道会(The Third Order of St. Francis)で、増築を手掛けた建築家は驚いたことに、またしてもミケロッツォでした!
長い間、あまりに外観が似ているのでブルネレスキの設計だと思われていたようです。アーチの数は10あるので「捨て子養育院」より一つ多いですね。
一番端まで歩いて行って、トンドの写真を全部撮って参りましたので、またしばらくお付き合いくださいませ。1451年と言う年号が入っているトンドのテラコッタもまた、アンドレア・デッラ・ロッビア作でした! この方はベニーノ・ベニーニという方だそうです。病院のお医者さんか聖人なのか分かりません。 -
「キリストの慈悲」を受けている姿を描いた1枚。
-
他にはフランシスコ会の聖人がずらりと並んでいました。名前は分かりません。この人は女性なので、解説には単に「サンタ・フランチェスカーナ」=フランシスコ会の女性聖人としか記載がありませんでした。聖母の象徴百合の花を携えています。
-
こちらの女性はたくさんの野花を摘んできたところかしら? それにしても浮かないお顔!
-
後は男性が続きます。こちらの司教は、キリストと同じところに聖痕がある手袋をはめています。もっとにっこり笑ってほしい・・・
-
簡素な修道服に身を包んだ年配の僧のようです。
-
左手に何を持っているのかな?
-
こちらの司教も聖痕がありますね。フランシスコ会の特徴かな?
-
右袖の色が変わってしまっています。やはり聖母子がいないと寂しく感じるのは身勝手でしょうか?
-
この1枚も、キリストによる慈悲を受ける場面です。
-
最後はまた、同じベニーノ・ベニート氏の肖像で終わっていました。年号は1495年。44年かかって病院の改築が終わったようです。
-
イチオシ
そして建物の中央扉の上のルーネットにあったのは、聖フランチェスコと聖ドメニコの歴史的な会見を描いた施釉テラコッタ。同じくアンドレア・デッラ・ロッビアの1489年の作品です。
この場面! 最近どこかで見ましたよね。 -
そうそう、アレッツォの聖ドメニコ教会で見たんでした。服の色は異なっていますが、ほとんど同じポーズですよね。
1215年の第4ラテラノ公会議にフランチェスコが出席し、ドメニコ会を創始するドメニコと出会ったという話はとても有名で、フラ・アンジェリコを始め、いろいろな画家が二人の出会いの場面を絵に描いていますが、ウィキペディアによると、これは「根拠のない」話なのだそうです。 -
いくらなんでも、もう遅いぞ〜! はいはい。
サンタ・マリア・ノヴェッラのファサードで昨年気になったものがあって、それをもう一度見て帰ろうと、広場にやってきたのに、予期していなかったところで引っかかってしまいました。
サンタ・マリア・ノヴェッラは昨年と変わらず迎えてくれましたよ。 -
撮りたかったものというのは、こちらです。ファサード向かって右側にある白い出っ張り。日時計に似た装置でグノモンと言います。古代ギリシャ時代からあり、様々な目的に使用されてきました。通常は地面に置きますが、こちらのように地面に垂直に立てられグノモンはかつて、子午線上の太陽の高度を測定するために用いられたのだそうです。
コジモ1世の天文学者だったイニャッツァオ・ダンティが1572年に設置したものです。よく見ると、グノモンの少し左側に大理石が欠けた部分がありますが、太陽光はそこから入って聖堂内に光の筋を作り、大理石の床に春分、夏至、秋分、冬至を映し出すのだそうです。またしても時間の関係で見損ないました。 -
そしてファサードの左側にあったこちらのブロンズでできた輪っかのようなものは、昨年の旅行記で「青銅の儀球」と書いたのですが、正しくは日本語では「アーミラリ天球儀」と言う装置でした。極で接続された金属の輪で作られ、輪によって赤道、黄道、子午線、緯線などを表現する天球儀なのだそうです。
こちらもダンティが設置したもの。これを使って。ダンティは1574年の春分の日がユリウス暦によると11日早いことを発見しました。これが一つのきっかけとなって、1582年にグレゴリオ暦の導入に至ったのだそうですよ。 -
中央扉上のフレスコも、昨年はきちんと見なかったようで、遅ればせながら1枚。今更ながらですが、下の緑と白のフリーズの綺麗なことに驚きます。
フレスコは「聖体の日」の祭りを祝うドメニコ会修道士の姿が描かれています。そうそう、ここはドメニコ会の聖堂でした。内部を見学する時間がなかったので、また次回までここもお預けです。 -
そう言えばここにもオベリスクが2本、広場の両側に立っていました。
このオベリスクは大理石製で、コジモ2世とハプスブルグ家のマルゲリータとの結婚を祝して、バルトオロメオ・アンマッナティが完成させました。
大の古代ローマ好きだったコジモ1世が、フィレンツェ最大の広さを誇るサンタ・マリア・ノヴェッラ広場で、映画「ベン・ハー」で御馴染の戦車競走の開催を決定したのは1563年のこと。戦車が曲がるためのポストは、最初は木製のものが使われていましたが、1608年に今見るオベリスクに取り換えられたのだそうです。戦車競走は、赤、緑、青、白の4台の馬2頭立ての戦車が広場を3周するタイムで争われました。 -
オベリスクの尖った先についているのはフィレンツェ共和国の象徴であった百合の花。オベリスクは4匹の亀の背中によって支えられています。
何故亀なのか?と言う質問には誰も答えられないそうです。亀を制作したのはあの、ジャンボローニャだという話です。 -
名残惜しそうに、サンタ・マリア・ノヴェッラの入場口を覗き込みますが、タイム・アップです。さあ、駅までダッシュで参りましょう。
-
サンタ・マリア・ノヴェッラ駅です。なんとか間に合いそうですよ。
-
またぁ、何写しているんでしょうねえ・・・(笑)
-
18時15分発のフレッチアルジェントはビジネスマンで一杯の車内でした。ゆっくりする暇もなく、列車はたった37分で、ボローニャ・チェントラーレに到着します。ああ〜 疲れたので、もう少し座っていたかったなあ・・・
というわけで、大変長々と書いてしまったので、ボローニャの宿については次の旅行記「イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その73 ラヴェンナ1で!
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (4)
-
- マリアンヌさん 2016/08/22 12:51:40
- 懐かしいです♪
- junemayさん、毎度で〜す!
私が昨年、訪れたあたりもあって懐かしいです。
捨て子養育院、行きました。
ロッピアの作品は、美しいですよね。アレッツォにもあることを教えて頂いたし、機会があったら訪れたいです。
広場の幽霊騒ぎの館なんてあるんですね〜
ヴェネツィアなんかもそんな風聞のある館ありますけど、歴史が積み重ねればいろんなことありますからね。
そしてサンティッシマ・アヌンツィアータ教会、割とチェントロにあるのでいつでも行ける的なかんじで、実は開館時間が合わなくて未だ足を踏み入れてない教会です。
中はとても豪華なんですね。
おまけにペルジーノまであるんですね。
フィレンツェに立ち寄るときは、是非いつか行ってみたいです♪
私のプチ旅行は9月中旬です。今、バスの時刻表チェック中です。
続き楽しみにしています。
マリアンヌ
- junemayさん からの返信 2016/08/22 17:48:12
- RE: 懐かしいです♪
- マリアンヌさん こんばんは
今日は大雨ゆえ、一歩も家から出れないでおります。
サンティッシマ・アヌンツィアータ 本当に充実した、中身の濃い教会でした。フィレンツェは、一度に1か所か2か所ゆっくり回るのが理想なのかもしれませんね。いまだに京都や奈良の社寺仏閣が制覇できないのと同じ話なのかも。
さもなくば、ローマ1か月、フィレンツェ1か月滞在なんてどうです? 夢みたいな話だけれど、旅先で会ったアメリカ人夫婦がそれを楽しんでいました。いずれにしてもお金と時間、二つの余裕がないとできない話ですね。
てっきり旅立たれたと思っていたのですが、これからでしたか。どうぞ気を付けて行ってらっしゃい。マリアンヌさんの旅行記も楽しみにしております。
junemay
> junemayさん、毎度で〜す!
>
> 私が昨年、訪れたあたりもあって懐かしいです。
> 捨て子養育院、行きました。
> ロッピアの作品は、美しいですよね。アレッツォにもあることを教えて頂いたし、機会があったら訪れたいです。
>
> 広場の幽霊騒ぎの館なんてあるんですね〜
> ヴェネツィアなんかもそんな風聞のある館ありますけど、歴史が積み重ねればいろんなことありますからね。
>
> そしてサンティッシマ・アヌンツィアータ教会、割とチェントロにあるのでいつでも行ける的なかんじで、実は開館時間が合わなくて未だ足を踏み入れてない教会です。
> 中はとても豪華なんですね。
> おまけにペルジーノまであるんですね。
> フィレンツェに立ち寄るときは、是非いつか行ってみたいです♪
>
> 私のプチ旅行は9月中旬です。今、バスの時刻表チェック中です。
> 続き楽しみにしています。
>
> マリアンヌ
-
- とし坊さん 2016/08/22 06:46:10
- さらば フィレンツェ
- 同じ街でも細かく知ると趣が変わりますね
大変参考になります・・・
ありがとうございます
次の旅 お待ちしております(^O^)
- junemayさん からの返信 2016/08/22 17:36:14
- RE: さらば フィレンツェ
- とし坊さま
台風の大嵐の中からこんにちは!
うふふ。ここまで楽しみにしていただけると、もう少し手直ししないとお見せできなくなってしまいますよ。感動のあまり、ほとんど言葉が出ない、頭カラッポの状態だったので、ボロカメラの映像だけ楽しんでいただければと思っております。
サンティッシマ・アヌンツィアータ 財力のある教会らしく、中身が大変豪華でした。細かすぎるかなと思ったのですが、途中でやめられなくなってしまいました。知れば知るほど奥が深いです。
いつもありがとうございます。
junemay
> 同じ街でも細かく知ると趣が変わりますね
>
> 大変参考になります・・・
>
>
> ありがとうございます
>
> 次の旅 お待ちしております(^O^)
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
4
155