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前々からずっと行ってみたかった合掌造りの集落白川郷。自分が住んでいる千葉県からだと東京から特急で高山を目指すか名古屋まで行ってそこから上を目指すかのルートしかなかった。<br /><br />しかし、北陸新幹線が開業し新高岡駅からバスで目指すルートがあると知った。<br />これなら乗り換えとかもほとんどいらないし行きやすそう。<br /><br />どうせだったら晴れの日の白川郷が撮影したい!と思い天気予報とにらめっこ。<br />去年も一度計画をしたが天候が悪く断念していた。<br /><br />今年は天候とホテルの宿泊先も都合が良かったので2、3日で計画を立てて行って来た。<br />やはり独身は身軽だ(笑)

やっと行けた!憧れの白川郷

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2016/07/20 - 2016/07/20

356位(同エリア1405件中)

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しまむら☆

しまむら☆さん

前々からずっと行ってみたかった合掌造りの集落白川郷。自分が住んでいる千葉県からだと東京から特急で高山を目指すか名古屋まで行ってそこから上を目指すかのルートしかなかった。

しかし、北陸新幹線が開業し新高岡駅からバスで目指すルートがあると知った。
これなら乗り換えとかもほとんどいらないし行きやすそう。

どうせだったら晴れの日の白川郷が撮影したい!と思い天気予報とにらめっこ。
去年も一度計画をしたが天候が悪く断念していた。

今年は天候とホテルの宿泊先も都合が良かったので2、3日で計画を立てて行って来た。
やはり独身は身軽だ(笑)

旅行の満足度
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
観光バス 新幹線 徒歩

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  • 東京から新幹線で約3時間。<br />新高岡駅に到着。<br />片道13000円ほど。<br /><br />すっかりと夜になっていた。

    東京から新幹線で約3時間。
    新高岡駅に到着。
    片道13000円ほど。

    すっかりと夜になっていた。

  • 新高岡駅は出来たばかりで周りに何もない。<br />メインとなるのはJR高岡駅。<br /><br />新高岡駅から2キロほど。そこそこ歩く。

    新高岡駅は出来たばかりで周りに何もない。
    メインとなるのはJR高岡駅。

    新高岡駅から2キロほど。そこそこ歩く。

  • 途中で青く光る駐輪場があったので撮影。<br />珍しい?

    途中で青く光る駐輪場があったので撮影。
    珍しい?

  • 高岡駅からの夜景。<br />思っていたよりも栄えていて驚いた。<br />人口は約18万人のそこそこ大きな都市です。<br />

    高岡駅からの夜景。
    思っていたよりも栄えていて驚いた。
    人口は約18万人のそこそこ大きな都市です。

  • あちこちにこの萌えキャラが貼られていた。<br />どちらさん?

    あちこちにこの萌えキャラが貼られていた。
    どちらさん?

  • こちらが今回宿泊先のホテル。ホテル K&G高岡。<br />JR高岡駅から徒歩2分の立地です。<br /><br />宿泊料金はリーズナブルで朝食付きで一泊5000円。<br />それでいてカードキー。<br />設備は申し分なく良かった。<br />しかし、朝食はパンのみなので物足りない。

    こちらが今回宿泊先のホテル。ホテル K&G高岡。
    JR高岡駅から徒歩2分の立地です。

    宿泊料金はリーズナブルで朝食付きで一泊5000円。
    それでいてカードキー。
    設備は申し分なく良かった。
    しかし、朝食はパンのみなので物足りない。

  • ホテルからの眺め。<br />地上8階からです。

    ホテルからの眺め。
    地上8階からです。

  • 翌朝、08:10のバスで白川郷まで向かいます。乗車時間は2時間。

    翌朝、08:10のバスで白川郷まで向かいます。乗車時間は2時間。

  • 金沢からなら1時間15分で白川郷まで行けるようですが予約が必要です。<br />新高岡からなら予約不要で行くことが出来ます。<br />2日間のフリー切符で3500円。

    金沢からなら1時間15分で白川郷まで行けるようですが予約が必要です。
    新高岡からなら予約不要で行くことが出来ます。
    2日間のフリー切符で3500円。

  • しかし、1日に5便のみの運行。時間には注意が必要です。<br />http://www.kaetsunou.co.jp/regular/sekaiisan/

    しかし、1日に5便のみの運行。時間には注意が必要です。
    http://www.kaetsunou.co.jp/regular/sekaiisan/

  • 他のバス停留所では多くの人が並んでいましたが白川郷に行くためのバスはわずか数人。<br />やはり金沢から行く人が多いのか・・・。

    他のバス停留所では多くの人が並んでいましたが白川郷に行くためのバスはわずか数人。
    やはり金沢から行く人が多いのか・・・。

  • 高速道路に乗っていざ白川郷へ。<br />道中の景色はとても美しいかったです。

    高速道路に乗っていざ白川郷へ。
    道中の景色はとても美しいかったです。

  • 空も晴れて来ました。<br />降りて写真撮影がしたかった。

    空も晴れて来ました。
    降りて写真撮影がしたかった。

  • そしていよいよ白川郷の駐車場まで到着。

    そしていよいよ白川郷の駐車場まで到着。

  • この橋を渡った先がメインエリアとなります。

    この橋を渡った先がメインエリアとなります。

  • いやぁ〜、ここの景色も素晴らしかった。

    いやぁ〜、ここの景色も素晴らしかった。

  • そしていよいよメインエリアへと上陸。

    そしていよいよメインエリアへと上陸。

  • 一般の人も生活しているようです。

    一般の人も生活しているようです。

  • そして見よ!この青空。<br />夏!

    そして見よ!この青空。
    夏!

  • ここはちょっとした広場ですね。

    ここはちょっとした広場ですね。

  • 土産屋があったり、合掌造りの家の中を見学したりも出来ます。

    土産屋があったり、合掌造りの家の中を見学したりも出来ます。

  • そして、白川郷を見下ろすことの出来る高台を目指します。

    そして、白川郷を見下ろすことの出来る高台を目指します。

  • 白川郷の深い谷間にいつ頃から人が住んでいたのか、詳しいことは分りません。<br /> 最も古い記録は、奈良時代、飛騨の匠の記録に、馬狩村の出身者と思われる名前が見られます。有名な伝承では、源平合戦の初期、越中倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が住み着いたといいますが、伝説の範疇を出ません。<br /><br /> 白川郷がようやく歴史に登場するのは鎌倉初期の建長5年(1253)親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊が庄川沿いに浄土真宗を布教してからです。<br /> その頃、白川郷をはじめ飛騨の多くは、美濃・白山神社長滝寺の社領地で、白山信仰を中心とする天台系密教の強い影響下にありました。初め美濃国で布教を試みた善俊は、白山長滝寺の勢力に阻まれ、庄川沿いに飛騨に入りました。白川郷の鳩ヶ谷に道場を構えた善俊は熱心に教えを説き、農民たちの間に浄土真宗が広まります。<br /><br /> 一方、相次ぐ戦乱で白山長滝寺の勢力が衰えたのを機に、寛政元年(1460)信州から内ヶ島氏が進出して白川一帯を治める豪族になりました。内ヶ島氏は庄川流域で金鉱山を経営し、農業に向かない乏しい土地ながら、大きな勢力を誇りました。<br /><br />当時、越前や加賀、越中といった北陸諸国では真宗門徒が武家勢力を追い出し、農民が実権を奪い取る一向一揆が猛威を振るい、白川郷にも一揆の勢力が流れ込んできました。<br /> 浄土真宗のもとで団結した農民たちと内ヶ島氏は激しく対立し、文明7年(1475)数度にわたって武力衝突します。翌年、内ヶ島為氏は正蓮寺に籠った僧・明教を焼き討ちし、対立は頂点に達しますが、本願寺・蓮如上人の仲裁で和解し、それ以降は共存共栄を図ることになりました。<br /><br /> 文亀元年(1501)内ヶ島為氏は正蓮寺を再興するため、赤牛に1本の杉の大木を曳かせて放ち、その牛が白川郷中野で止まったので、ここに赤牛に曳かせた杉の木一本を用いて照蓮寺として再興しました。<br /> 時代は戦国時代になり、天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が討たれた頃、白川郷を除いて飛騨をほぼ統一した三木自綱は内ヶ島氏理と共に越中領主・佐々成政と反豊臣秀吉連合を組みました。<br /> 豊臣秀吉は配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じ、天正13年(1585)金森長近の軍勢は越前から白山の山脈を越えて白川郷を攻撃しました。金森氏は事前に照蓮寺勢力と手を結んだため、越中に出陣中の内ヶ島氏はたまらず降伏します。<br /><br />金森長近は白川郷の鉱山資源に目をつけたのか、領地を安堵したうえ内ヶ島理氏を居城の帰雲城に帰してやりますが、直後の天正大地震で内ヶ島氏は居城、城下町もろとも山崩れの中に埋まってしまいました。<br /> 金森長近は真宗門徒の功績を称えて照蓮寺を高山に移し、広大な寺域を与えます。<br />中野の照蓮寺は「中野御坊」と呼ばれ、変わらずに白川郷の信仰の拠り所でした。<br /><br /> 後に飛騨を数度にわたって訪れた円空上人は、白山神を信仰する天台系密教僧ですが、白川郷では阿弥陀仏以外の信仰を排斥する浄土真宗が強いため、庄川流域へ足を踏み入れることはありませんでした。

    イチオシ

    白川郷の深い谷間にいつ頃から人が住んでいたのか、詳しいことは分りません。
     最も古い記録は、奈良時代、飛騨の匠の記録に、馬狩村の出身者と思われる名前が見られます。有名な伝承では、源平合戦の初期、越中倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が住み着いたといいますが、伝説の範疇を出ません。

     白川郷がようやく歴史に登場するのは鎌倉初期の建長5年(1253)親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊が庄川沿いに浄土真宗を布教してからです。
     その頃、白川郷をはじめ飛騨の多くは、美濃・白山神社長滝寺の社領地で、白山信仰を中心とする天台系密教の強い影響下にありました。初め美濃国で布教を試みた善俊は、白山長滝寺の勢力に阻まれ、庄川沿いに飛騨に入りました。白川郷の鳩ヶ谷に道場を構えた善俊は熱心に教えを説き、農民たちの間に浄土真宗が広まります。

     一方、相次ぐ戦乱で白山長滝寺の勢力が衰えたのを機に、寛政元年(1460)信州から内ヶ島氏が進出して白川一帯を治める豪族になりました。内ヶ島氏は庄川流域で金鉱山を経営し、農業に向かない乏しい土地ながら、大きな勢力を誇りました。

    当時、越前や加賀、越中といった北陸諸国では真宗門徒が武家勢力を追い出し、農民が実権を奪い取る一向一揆が猛威を振るい、白川郷にも一揆の勢力が流れ込んできました。
     浄土真宗のもとで団結した農民たちと内ヶ島氏は激しく対立し、文明7年(1475)数度にわたって武力衝突します。翌年、内ヶ島為氏は正蓮寺に籠った僧・明教を焼き討ちし、対立は頂点に達しますが、本願寺・蓮如上人の仲裁で和解し、それ以降は共存共栄を図ることになりました。

     文亀元年(1501)内ヶ島為氏は正蓮寺を再興するため、赤牛に1本の杉の大木を曳かせて放ち、その牛が白川郷中野で止まったので、ここに赤牛に曳かせた杉の木一本を用いて照蓮寺として再興しました。
     時代は戦国時代になり、天正10年(1582)本能寺の変で織田信長が討たれた頃、白川郷を除いて飛騨をほぼ統一した三木自綱は内ヶ島氏理と共に越中領主・佐々成政と反豊臣秀吉連合を組みました。
     豊臣秀吉は配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じ、天正13年(1585)金森長近の軍勢は越前から白山の山脈を越えて白川郷を攻撃しました。金森氏は事前に照蓮寺勢力と手を結んだため、越中に出陣中の内ヶ島氏はたまらず降伏します。

    金森長近は白川郷の鉱山資源に目をつけたのか、領地を安堵したうえ内ヶ島理氏を居城の帰雲城に帰してやりますが、直後の天正大地震で内ヶ島氏は居城、城下町もろとも山崩れの中に埋まってしまいました。
     金森長近は真宗門徒の功績を称えて照蓮寺を高山に移し、広大な寺域を与えます。
    中野の照蓮寺は「中野御坊」と呼ばれ、変わらずに白川郷の信仰の拠り所でした。

     後に飛騨を数度にわたって訪れた円空上人は、白山神を信仰する天台系密教僧ですが、白川郷では阿弥陀仏以外の信仰を排斥する浄土真宗が強いため、庄川流域へ足を踏み入れることはありませんでした。

  • 江戸時代の中頃になると、現金収入として養蚕業が盛んになります。北陸系の寄棟茅葺屋根が主流だった白川郷では、養蚕スペースを設けるために民家が大型化して合掌造り民家が誕生しました。<br /><br /> 特に農地が乏しい下白川郷では、農地と労働力の確保のために3層、4層の切妻合掌造りが発達し、分家を認めず、長男以外に正式な結婚を許さない大家族制度が生まれました。分家ができない兄弟は、他家の女性の元へ通い内縁を結ぶ妻問い婚をし、生まれた子どもは女性の家で育てられました。<br /> 養蚕が主要産業だった白川郷では、成人した子どもたちが貴重な労働力になります。特に養蚕作業に欠かせない女手は、家業に精を出すため嫁がずに子どもを生むのが習慣でした。<br /><br /> 合掌造りの茅葺屋根は30年から50年の耐久性がありますが、その葺き替えには数百人もの人手が必要です。村中が協力して役割を分担し、共同で屋根葺き作業を行う「結」はこうして生まれました。<br /><br /> 白川郷や越中五箇山ならではの産業が、火薬の原料である煙硝の生産でした。<br /> 家の床下に刈ったヒエやヨモギを敷き、蚕糞を混ぜた土に人尿を撒いて、数年かけて煙硝土を作ります。煙硝土を灰汁で煮詰めると純度の高い煙硝ができました。秘境の地だった白川郷は、軍事秘密である煙硝生産に最適の土地でもありました<br /><br />明治8年(1868)下白川郷が白川村、上白川郷が荘川村に再編されますが、社会制度と経済の変革によって、白川郷の生活は大きく揺らぎます。煙硝生産が規制され、チリ硝石の輸入によって煙硝作りが廃れると、現金収入を求めて男は鉱山労働者、女は信州の製糸工場の女工に、出稼ぎをするようになります。<br /><br /> 第二次世界大戦後には、化学繊維の普及や農業用水整備による桑畑の水田化により養蚕業が廃れて大型合掌造り民家の必要がなくなりました。若い人は仕事と便利な生活を求めて村の外へ出てゆきました。<br /><br /> 昭和36年(1961)戦後の経済成長を支える御母衣ダムの建設は、300戸以上の合掌造り民家を湖底に沈め、過疎化が一気に進みます。ダムの建設や村外移住のために無人になった合掌造り民家は都会の料亭や民家園に売られました。<br /> 危機感を持った人たちによって保存活動が始まり、高山の飛騨民俗村、下呂の下呂温泉合掌村、白川郷にも集落を再現した合掌造り民家園が誕生しました。中野照蓮寺は高山の城山公園に移築され、境内の桜の老木はダム湖畔に移植され「荘川桜」として旧村民の心の拠り所になりました。<br /><br /> 昭和42年(1967)冬の豪雪に耐え切れず山間僻地の加須良集落が集団離村し、馬狩集落は村ごとトヨタ自動車に買収されました。飛騨加須良の隣村・越中桂集落もダムの底に沈みます。<br /> 合掌造りの屋根葺き替えには、現在の金額で3千万円以上の金額がかかります。<br /> 村人総出で行う「結」の共同作業も大変なものです。昭和30年代に50棟以上の合掌造りがあった飯島集落では「結」が維持できなくなり、大火をきっかけに全ての合掌造り民家が解体され、村外へ売却されました。<br /><br />白川郷の多くの集落がダム補償金を得て、便利な現代風住宅に建て替えるなかで、村内最大の荻町集落はダム補償金の対象になりませんでした。そのため、結果的に多くの合掌造りが残されていました。<br /> 全国的に伝統家屋保存の機運が高まるなか、白川郷の危機を感じた荻町集落では昭和46年(1971)「売らない、貸さない、壊さない」の三原則を定め、茅葺屋根の葺き替えに補助金を出したり、民家の外観を壊す改装は行わないようにしました。<br />やがて、白川郷は国道156号線の改良と相まって観光立村へと歩き出します。<br /><br /> 平成7年(1995)白川郷荻町合掌集落世界文化遺産へ登録されると、人口1900人の集落に年間100万人を越える観光客が押し寄せるようになりました。そして平成20年(2008)東海北陸自動車道が全線開通しました。<br /> しかし、交通の便が良くなると共に、日本の農山村文化を継承してきた白川郷の合掌造り民家や風景は、単なる通過点、お手軽な世界遺産スポットへと変わってしまいました。観光客は短い滞在時間であたふたと駆け回り、合掌造り民家の敷地に入り込んで写真を撮り、手軽なお土産を買って白川郷を後にします。<br /><br /> 荻町合掌集落は神社仏閣のような名所旧跡ではありません。合掌造り民家を含めた集落全体の景観と、農村に生きる人々の暮らしそのものが世界遺産です。<br />世界遺産の意義を未来に伝えるために、日本の原風景である農村文化を見つめなおしてみましょう。<br /><br />ホームページより参照。

    江戸時代の中頃になると、現金収入として養蚕業が盛んになります。北陸系の寄棟茅葺屋根が主流だった白川郷では、養蚕スペースを設けるために民家が大型化して合掌造り民家が誕生しました。

     特に農地が乏しい下白川郷では、農地と労働力の確保のために3層、4層の切妻合掌造りが発達し、分家を認めず、長男以外に正式な結婚を許さない大家族制度が生まれました。分家ができない兄弟は、他家の女性の元へ通い内縁を結ぶ妻問い婚をし、生まれた子どもは女性の家で育てられました。
     養蚕が主要産業だった白川郷では、成人した子どもたちが貴重な労働力になります。特に養蚕作業に欠かせない女手は、家業に精を出すため嫁がずに子どもを生むのが習慣でした。

     合掌造りの茅葺屋根は30年から50年の耐久性がありますが、その葺き替えには数百人もの人手が必要です。村中が協力して役割を分担し、共同で屋根葺き作業を行う「結」はこうして生まれました。

     白川郷や越中五箇山ならではの産業が、火薬の原料である煙硝の生産でした。
     家の床下に刈ったヒエやヨモギを敷き、蚕糞を混ぜた土に人尿を撒いて、数年かけて煙硝土を作ります。煙硝土を灰汁で煮詰めると純度の高い煙硝ができました。秘境の地だった白川郷は、軍事秘密である煙硝生産に最適の土地でもありました

    明治8年(1868)下白川郷が白川村、上白川郷が荘川村に再編されますが、社会制度と経済の変革によって、白川郷の生活は大きく揺らぎます。煙硝生産が規制され、チリ硝石の輸入によって煙硝作りが廃れると、現金収入を求めて男は鉱山労働者、女は信州の製糸工場の女工に、出稼ぎをするようになります。

     第二次世界大戦後には、化学繊維の普及や農業用水整備による桑畑の水田化により養蚕業が廃れて大型合掌造り民家の必要がなくなりました。若い人は仕事と便利な生活を求めて村の外へ出てゆきました。

     昭和36年(1961)戦後の経済成長を支える御母衣ダムの建設は、300戸以上の合掌造り民家を湖底に沈め、過疎化が一気に進みます。ダムの建設や村外移住のために無人になった合掌造り民家は都会の料亭や民家園に売られました。
     危機感を持った人たちによって保存活動が始まり、高山の飛騨民俗村、下呂の下呂温泉合掌村、白川郷にも集落を再現した合掌造り民家園が誕生しました。中野照蓮寺は高山の城山公園に移築され、境内の桜の老木はダム湖畔に移植され「荘川桜」として旧村民の心の拠り所になりました。

     昭和42年(1967)冬の豪雪に耐え切れず山間僻地の加須良集落が集団離村し、馬狩集落は村ごとトヨタ自動車に買収されました。飛騨加須良の隣村・越中桂集落もダムの底に沈みます。
     合掌造りの屋根葺き替えには、現在の金額で3千万円以上の金額がかかります。
     村人総出で行う「結」の共同作業も大変なものです。昭和30年代に50棟以上の合掌造りがあった飯島集落では「結」が維持できなくなり、大火をきっかけに全ての合掌造り民家が解体され、村外へ売却されました。

    白川郷の多くの集落がダム補償金を得て、便利な現代風住宅に建て替えるなかで、村内最大の荻町集落はダム補償金の対象になりませんでした。そのため、結果的に多くの合掌造りが残されていました。
     全国的に伝統家屋保存の機運が高まるなか、白川郷の危機を感じた荻町集落では昭和46年(1971)「売らない、貸さない、壊さない」の三原則を定め、茅葺屋根の葺き替えに補助金を出したり、民家の外観を壊す改装は行わないようにしました。
    やがて、白川郷は国道156号線の改良と相まって観光立村へと歩き出します。

     平成7年(1995)白川郷荻町合掌集落世界文化遺産へ登録されると、人口1900人の集落に年間100万人を越える観光客が押し寄せるようになりました。そして平成20年(2008)東海北陸自動車道が全線開通しました。
     しかし、交通の便が良くなると共に、日本の農山村文化を継承してきた白川郷の合掌造り民家や風景は、単なる通過点、お手軽な世界遺産スポットへと変わってしまいました。観光客は短い滞在時間であたふたと駆け回り、合掌造り民家の敷地に入り込んで写真を撮り、手軽なお土産を買って白川郷を後にします。

     荻町合掌集落は神社仏閣のような名所旧跡ではありません。合掌造り民家を含めた集落全体の景観と、農村に生きる人々の暮らしそのものが世界遺産です。
    世界遺産の意義を未来に伝えるために、日本の原風景である農村文化を見つめなおしてみましょう。

    ホームページより参照。

  • 外国人観光客が多く観光客の9割以上は外国人でした。<br />でも、思っていたよりは観光客は少なめ。<br />こいう人のいないような写真も撮れました。

    外国人観光客が多く観光客の9割以上は外国人でした。
    でも、思っていたよりは観光客は少なめ。
    こいう人のいないような写真も撮れました。

  • この階段を登って高台まで行きます。徒歩15分。

    この階段を登って高台まで行きます。徒歩15分。

  • 開けた場所に出ます。

    開けた場所に出ます。

  • 有名な撮影スポット。

    有名な撮影スポット。

  • 拡大して。

    イチオシ

    拡大して。

  • この青空をどれほど待ち焦がれたか。

    この青空をどれほど待ち焦がれたか。

  • 外国人観光客も写真撮影をしています。

    外国人観光客も写真撮影をしています。

  • 別のアングルから

    別のアングルから

  • 帰りはここを下って降りて行きます。

    帰りはここを下って降りて行きます。

  • 先ほどは通らなかった道へと出ました。<br />鯉でも泳いでいるのかと思いきやニジマスでした。

    先ほどは通らなかった道へと出ました。
    鯉でも泳いでいるのかと思いきやニジマスでした。

  • 白川郷は合掌集落としては一番大きいので広い。

    白川郷は合掌集落としては一番大きいので広い。

  • 道に迷いそうになりながらも何とかバス停付近へと辿り着きました。

    道に迷いそうになりながらも何とかバス停付近へと辿り着きました。

  • 青空の下、合掌集落を観ることが出来て良かった。<br />ただ、外国人観光客が多すぎて風情が半減。<br />それが少し残念でした。

    青空の下、合掌集落を観ることが出来て良かった。
    ただ、外国人観光客が多すぎて風情が半減。
    それが少し残念でした。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • momotaさん 2016/07/24 00:35:32
    きれいな青空!
    しまむら☆さん、こんばんは♪

    白川郷へ行かれたんですね〜。
    北陸新幹線開通でそんなルートでいくことができるとはいいこと聞きました。
    私は名古屋周りで行きましたが4時間半くらいかかったかなぁ。
    何だか関東からは行きにくい場所ですよね。

    私もずっと憧れていた為期待が大き過ぎた事とその時案内してもらった
    タクシー運転手が最悪だったので純粋に楽しむことが出来ずあまりいい
    印象が残らない結果になってしまったんですよね。

    しまむらさんは狙い通りスカッと綺麗な青空のもと絶景を堪能できて
    良かったですね。ほんとここは外国の方が多いですよね。
    勝手なものだけどもっと何にもないようなそれこそ電気も通っていないで
    ほしいくらいにこういう場所では望んでしまう。
    いくら昔ながらの風景が残されてるとはいえ現代を生きる人ですもんね〜
    実際にはインターネットなんかも復旧してるんでしょうね。

    青空に合掌造りの夏景色(^^♪ほんと、素晴らしいですね!

    しまむら☆

    しまむら☆さん からの返信 2016/07/24 09:06:28
    RE: きれいな青空!
    >>momotaさん
    こんにちは。

    自分も昔、白川郷に行きたくて調べた時は特急を結構、乗り継ぐようで面倒だなぁと思い行くことを躊躇してしまいました。
    北陸新幹線が開業したことで少ない乗り継ぎで行くことが出来ました。
    まぁ、時間はかかりますが。
    高岡市内のホテルがとても安くて助かりました。新幹線もネット予約で10%引きで行くことが出来ました。

    白川郷は関東からは行き辛い場所にありますね。

    白川郷は観光地化されすぎていて、テーマパークのような感じになっていますよね。

    私も勝手ながらもっと田舎の農村のような雰囲気を期待していました。
    ちょっとげんなりして滞在時間は2時間ほどです。
    観光立国を目指している日本ですが外国人観光客が多すぎるのもどうかと思いました。
    金沢→白川郷→飛騨高山を巡るゴールデンルートなのだとか。
    現地の人からすれば貴重な収入源なのでしょうが・・・。

    まぁ、しかしながら狙い通りの「夏色 白川郷」を撮影出来たのはとても良かったです!
    ありがとうございました。

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