2016/07/20 - 2016/07/20
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しまむら☆さん
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白川郷を後にし次の目的地は五箇山を目指した。「白川郷は観光地化され過ぎていて、昔ながらの合掌集落の雰囲気を味わいたいのなら五箇山が良い」と事前の情報で聞いていたからだ。
高岡駅から白川郷までは約2時間かかってしまうが五箇山なら約90分で行くことが出来る。
白川郷までのバスフリー切符は3500円だが五箇山までなら2500円。
菅沼合掌造り集落と相倉合掌造り集落があり、菅沼の方は合掌集落が9棟、相倉の方は合掌集落が20棟とのこと。
時間の関係で今回は相倉合掌造り集落のみにお邪魔した。
http://www.info-toyama.com/tokushu/gokayama/2.cfm
- 旅行の満足度
- 5.0
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白川郷から約45分。相倉口のバス停で降りる。
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しかし、降りた地点からは合掌造り集落がまったく見えない・・・。
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駐車場から矢印の案内通りに進んで行く・・・。
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すると目の前がぱぁ〜っと開ける。
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合掌造り集落が出現!
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白川郷よりも観光客が全然いない・・・。
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ひとまず、有名な高台まで行くことに。
棚畑を登って行く。 -
すると・・・
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ひっそりとした相倉合掌造り集落の全景を見ることが出来る。
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白川郷は青空だったが相倉合掌造り集落では曇ってきて霧まで出てきた。
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山の天気は変わりやすい。
しかし、うっすらと霧がかっていることで秘境感が上がったように思えた。 -
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散策していると鳥居が・・・。
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昔からこいう雰囲気に弱い。
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特に夏の神社は好きだ。
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こちらの施設で合掌造り内部を見学することが出来る。
入場料は300円。開館時間は10:00〜15:00まで。
白川郷ではまったく合掌造り内部の見学をして来なかったので今回は見学することにした。 -
2階がメインエリアらしく、最初は2階を見るようにと案内された。
当時は養蚕が盛んだったようだ。 -
本物の蚕かと思いきや紙粘土で出来たおもちゃだった。
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この装置を使って繭にするらしい。
養蚕が盛んだったが戦後、化学繊維が発展し昭和40年代に廃れてしまったと説明文に書かれていた。 -
多くのパネルが置かれており五箇山の暮らしについて説明されていた。
昭和40年代〜50年代の風習の説明が多かった。
現代では廃れてしまっているのだろう。 -
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2階から撮影。
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こちらは1階。
暖かみのある雰囲気だ。
冬場は囲炉裏に火が点っており、温かいお茶をいただくことが出来る。 -
夏場はこちらで冷たいお茶をいただくことが出来る。
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皇族の方もいらしたようだ。
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合掌造り内部を見学した後は集落をぶらぶらと散策。
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少しずつ青空が覗かし初めた。
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一時が雨までぱらつき始めたので心配だったが良かった。
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ほとんど観光客がいないのでゆっくりとした時間が流れる。
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しかし、ちょっと油断した。
ほとんど居ないはずの外国人観光客に道を尋ねられた。
観光地に行くと高確率で外国人に声をかけらるんだよなぁ。
こっちも首からデカいカメラを下げているんだから観光客で現地の人じゃないんだぞ。 -
まぁ、何とか現地の方の力を借りて道を教えることが出来た。
現地の人は手馴れてる感じで英語で説明していたわ。
こいう集落でもグローバル化の波が・・・。
やっぱりこれからの時代、英語くらいは必要だよなぁ。
そうすればたくさんの国々の人と話せて情報交換も出来るし・・・。 -
天狗の足あと・・・?
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バスの中で五箇山の説明アナウンスが流れていた。
ウィキペディアだと↓
平家の落人が住み着いたと伝えられている。1183年、富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と平維盛(平清盛の孫)が戦った(倶利伽羅峠の戦い)。この時、義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされる。物的証拠はないが、一部の五箇山の民家の家紋として残っているとされている。
また、南北朝内乱期に、吉野朝遺臣によって地域文化が形成されたとも伝えられており、『五箇山誌』(1958年)には「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からである。養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは後醍醐天皇第八皇子、天台座主宗良親王によってである。」という説もある。
白山信仰による天台宗系密教の地域であったが、1471年(文明3年)浄土真宗本願寺八世蓮如が現在の福井県吉崎に下向し、北陸一帯が一向宗の勢力となりこの地域も浄土真宗に改宗したようである。北陸一帯の地名には「経塚」なる地名が残っているが、この地域にも天台宗系のお経を埋めた地を、こう呼んでいる。
江戸時代には、加賀藩の流刑地とされ、加賀騒動の大槻伝蔵もこの地へ流された。流刑地である五箇山には当地を流れる庄川に橋を掛けることが許されず、住民はブドウのつるで作った大綱を張り、籠をそれに取り付けて「籠渡し」として行き来した(現在でも残っており、人の代わりに人形が川を越える)。 -
江戸時代、加賀藩の流刑地だったというのは驚いた。
バスの説明ではだからこそ、隔離されていたため独自の文化が育まれたと説明されていた。 -
自分が五箇山を知ったのは富山をPRしているアニメを観て。
https://www.youtube.com/watch?v=fpdZ8UdouiY
それから月日は流れてバイク雑誌でも五箇山が紹介されていた。 -
いつかはバイクでも走ってみたいと思う。
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昔話の雰囲気を感じさせる相倉合掌造り集落でした。
https://www.youtube.com/watch?v=hTuFzGcvTBQ
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