2015/01/05 - 2015/01/05
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ドクターキムルさん
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戸塚宿から大坂上に上ると老人ホームの前に「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」が建っている。その横には「落人を見るかや野辺に若草の‥」の碑があり、この「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」を解説したもののようだ。
「落人」はWikipediaには「合戦に敗れて僻地に隠遁したもの、およびその末裔を指す言葉」しか記載がない。しかし、goo国語辞書には「歌舞伎舞踊「道行旅路の花聟(はなむこ)」の通称」との記載もある。
「落人」解説碑からはこの「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」を知ることは直ぐに諦めたが、帰ってからWebで調べると、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」で有名な「戸塚山中道行の場」の場面の舞台なのだという。
役に立たない解説があるのが「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」なのだ。
(表紙写真は「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」)
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「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」。
お軽/勘平
「仮名手本忠臣蔵」の登場人物。お軽のモデルは特別いないが,名前は大石良雄が京都山科で抱えていた妾の名といわれている。勘平のモデルは元禄14(1701)年,浅野長矩の刃傷事件という一大事を赤穂に伝えた使者のひとり萱野三平重実。仇討ちの計画が進行中,父から領主への仕官を勧められたので困り果て,同15年切腹したという。芝居では寛延1(1748)年8月大坂竹本座初演「仮名手本忠臣蔵」に,塩冶判官(モデルは浅野長矩)奥方顔世御前の腰元お軽と塩冶家の侍早野勘平重氏として登場し,一途に男を愛する女と,色男であるために道を誤った男として描かれている。塩冶判官が殿中で刃傷事件を起こしたとき,お軽と勘平はそれと知らず密会していたため,ひとまずお軽の故郷に立ち去る(3段目)。そこで猟師として暮らしていた勘平は,誤って義父与市兵衛を殺したと誤解し自害するが,死に際に潔白が証明され,討ち入りの連判状に加えられる(5・6段目)。祇園の一力茶屋に身売りされていたお軽は,大星由良之助(モデルは大石良雄)に届けられた顔世御前からの密書を覗き見たため,一時は口封じされそうになるが,兄寺岡平右衛門らの誠意によって,不義士斧九太夫を討つことになる(7段目)。この作品とは別に「お軽勘平」をクローズアップさせたのは,天保4(1833)年3月江戸河原崎座で付け加えられた清元「道行旅路の花聟」である。鎌倉から落ち行くふたりが桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中で見せる美しく華やかな所作事。純粋で真面目なふたりへの共感が,こうした場も創作させたのであろう。
(武藤純子)(https://kotobank.jp/word/%E3%81%8A%E8%BB%BD%2F%E5%8B%98%E5%B9%B3-1131012) -
「落人を見るかや野辺に若草の‥」解説碑。
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「東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」。
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裏銘文。建立年が記載されない石碑も珍しい。
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「落人」解説碑。
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