2014/10/09 - 2014/10/09
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Yo-chanさん
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クロアチアを中心にスロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロを周遊個人旅行してきました。
モスタルはすごくきれいな景色や建物があるわけではなく、今まで歩んできた歴史を織り込んだ新しい橋が世界遺産です。
その空気を感じたくて訪れました。
日本でネットで予約した日帰りバスツアーです 53.10ユーロ
現地の旅行社はGulliver Travel
大型バスがほぼ満席でした
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
PR
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ドブロブニクからアドリア海を見ながら3時間
途中のパスポートのチェックに30分以上かかりました -
モスタル手前30kmのポチテリで下車観光
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16世紀から17世紀にかけてのオスマン建築が林立していた
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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中の1993年にクロアチア人の武装勢力(クロアチア防衛評議会)によって大規模に破壊された
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モスク内部 2ユーロ
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爆撃の後、歴史的なイスラム建築はダイナマイトで爆破され、イスラム教徒のボシュニャク人の村民たちは殺害されるか強制収容所に送られるという、民族浄化の標的となった
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かつて南東ヨーロッパで最古のアート・コロニーであり、多くの芸術家に安全で平和な、芸術活動の場を提供してきた。
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2000年に国が永久保存に取り組み始めた
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Pociteljのモスク内部
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綺麗な模様の絨毯
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モスクの入り口
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山の上には要塞
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ポチテリのお土産屋
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案内図
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右にモスク左に要塞
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Pocitelj
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山の中をさらに進んでモスタルへ
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裕福なトルコ人の家
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Kajtaz's House
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トルコの家
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台所
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ローマ時代この地域は属州ダルマチアに含まれていた
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オスマン帝国がモスタルを支配し始めたのは1468年頃
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オスマン様式の町の発展は17世紀後半から18世紀初期にはピークを迎え、オスマンの支配力も19世紀半ばには衰えていき、これに代わってキリスト教が主要な役割を担うようになってきた
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宗教の寛容から町でのキリスト教の宗教施設やコミュニティの建設が受け入れられた
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もっとも古い正教の教会は1834年に町の東側の山の斜面に建てられている。
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その後、カトリックも自らのスペースを確保している。
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1878年から第一次世界大戦後の1918年まではオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった
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1939年にはユーゴスラビア王国のクロアチア自治州の一部となっている
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第二次世界大戦時、ナチスの傀儡政権であるクロアチア独立国の重要都市でもあった
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第二次世界大戦後、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の傘下
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ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立宣言後の1992年から1993年にかけ18ヶ月間、包囲下にあった
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ユーゴスラビア人民軍(JNA)が最初にモスタルを爆撃したのは1992年4月3日で続いて徐々に町を支配下に置いていった
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1992年6月12日、クロアチア防衛評議会(HVO)はユーゴスラビア人民軍をモスタルから追いやる十分な力を集めた
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ユーゴスラビア人民軍は報復として砲撃を行い、フランシスコ会修道院やカトリックの大聖堂、5万冊の蔵書がある図書館を含む司教宮殿、カラドジョズ・ベイモスク(Karadžoz-bey)や他の13のモスクを破壊している
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1992年6月半ばには戦線は東側に移動し、クロアチア防衛評議会はセルビア正教会のジトミスリッツ修道院や1863年から1873年にかけ建てられた正教の至聖三者大聖堂(Саборна црква Св. Тројице、通称「正教の古い大聖堂」)、生神女誕生聖堂(Црква Рођења Пресвете Богородице/Crkva Rođenja Presvete Bogorodice、通称「正教の新しい聖堂」)など19世紀中頃以来の建物を破壊している
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裕福なトルコ人の家
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戦争による被害を受けた建物
銃弾の跡がたくさん -
コスキ・メフメット・パシナ・ジャーミヤの前にある手足を洗う場所
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モスクの庭から橋が見えます
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Koski Mehmed Pasina Mosque
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1618年に建てられたイスラム寺院
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1992年からの紛争でモスタルは東西に分断され、西側はクロアチア勢力が、東側はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の軍が集まりそれぞれ支配することになった
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1993年11月9日には両勢力の対峙により、クロアチア勢力側により橋スタリ・モストは破壊されている。
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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結の1995年以降、モスタルの復興は急速に進むこととなった
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Burek
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Cevapi
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Dolma
3皿で40Knと安かったですが、味はイマイチ(-_-;) -
モスタルの猫
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ガイドが勧めるのでここで食べましたが・・・
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街の復興にはスペイン、アメリカ、トルコ、オランダ、クロアチアが資金援助を行っている
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グランドオープンは2004年7月23日に厳重な警戒の下執り行われた。
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紛争終結以来、市政は民族間の平等に注意深く配慮し慎重に行われている
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エキゾチックな内装
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クロアチア人とボシュニャク人の大部分はネレトヴァ川を挟み別々に生活している
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橋の東側にモスリムのボシュニャク人、西側にクロアチア人
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橋の上は結構急な坂なので、滑らないように突起が出ています
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モスリムの住む東側にはモスクがあります
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1993年の橋の破壊を忘れるな
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橋の周りにはたくさんのお土産屋
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カフェやレストランも
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橋 スターリ・モスト Stari Most Old Bridge
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現在に至るまでモスタルの象徴的な存在であるスタリ・モストは1566年には木製の橋から石橋に代わり、建築家ミマール・スィナンの門下生であったミマール・ハイルッディンにより造られオスマン時代の重要な建築物の一つとなっている
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橋脚を用いず、両岸からアーチ状にかかる橋は、見た目の美しさはもとより、
当時の建築技術の高さをうかがい知ることができる -
橋のたもとにあるPhoto Galleryから見下ろしたスターリ・モスト
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モスクのある東側
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若いトルコ人の観光客とおしゃべりをしました。
オスマントルコ時代のモスタルに興味があるようでした -
1991年の人種構成
ボシュニャク人・ムスリム系 - 43,930人 (34.9%)
クロアチア人 - 42,648人 (33.8%)
セルビア人 - 23,909人 (19.0%)
ユーゴスラビア人 - 12,654人 (10.0%)
その他 - 2,925人 (2.3%)
合計 - 126,066人 -
複雑な人種と宗教
私には理解するのが難しいです -
でもとても勉強になりました
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モスタル、大変な歴史を経てきた街です
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