2014/09/26 - 2014/09/28
1位(同エリア1716件中)
montsaintmichelさん
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- 旅行記366冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 3,056,813アクセス
- フォロワー141人
初秋を感じさせる信濃路を旅してきました。信濃の枕詞は「みすずかる」。枕詞は、学校では意味不明の修辞で歌の調子を整えるものと教えられましたが、「みすず」は「篠竹(すずたけ)」の別称で「篠竹の生い茂る山国」を意味するそうです。それ故、信濃は、季節が織りなす自然美が目を愉しませるスポットだというのも頷けます。
実は7月末に計画したものの、JR中央西線が不通だったこともあり、断念した経緯があります。7月初旬の台風8号がもたらした集中豪雨により、木曽郡南木曽町では大規模な土石流災害が発生しました。沢に架かっていた橋桁が流されたり、土砂が線路上に大量に流れ込んだため、一部が不通になっていました。その後、1ヶ月ぶりに運転再開されたのを機に、再計画してみました。
個人旅行ですので夫婦それぞれの趣向を織り込み、松本~安曇野~上高地とバリエーションに富んだエリアを選んでみました。主人は信州と言えば北アルプスしか念頭になく、上高地は学生時代の登山で両手に余るほどの回数訪れた第3の古里のようです。最初はウォーキング目的で上高地を訪れることに相当抵抗があったようですが、夫婦で上高地ウォーキングを愉しむのもこれで2度目です。「山屋」としての矜持もあるのでしょうが、身体能力の衰えには勝てないということでしょう。当方は、「安曇野ちひろ美術館」をはじめとする雄大な自然に抱かれた安曇野アートロードに憩う作品たちをじっくりと堪能することが積年の夢でした。
信濃路逍遙のプロローグを飾るのは<松本>です。松本は、中世に信濃国府が置かれ、戦国時代~近世にかけて松本盆地の政治・経済・文化の中心として発展してきた歴史ある城下町です。しっとりと落ち着いた「なまこ壁の土蔵」あるいは「大正ロマン」を漂わせる街並みを今に残し、古来より親しまれてきた湧水群が街中を潤し、そして急峻な稜線を誇示する北アルプスへの玄関口にも当たります。また、松本城周辺は、旧開智学校をはじめとする歴史的建造物の宝庫でもあり、様々な時代へのタイムスリップを愉しむことができ、新しい発見が期待できる人気スポットです。
松本<前編>は、上土通り~松本城を紹介いたします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 新幹線 JR特急 徒歩
PR
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ワイドビュー しなの7号(383系)
スモーキーなフロントマスクが精悍なフォルムに溶け込んでいます。
「しなの」は、JR東海所有のL特急列車で、中央西線・篠ノ井線経由で名古屋〜長野間を3時間で結んでいます。
383系は、1998年の長野オリンピックに備えた特急「しなの」のイメージアップ用に開発された振り子式車両です。山間部をぬって走ることから、車両傾斜にコンピュータ制御付自然振子方式を採用し、急曲線通過性能を改善しています。車両はステンレスを主体にし、軽量化して制御応答性の改善を図っています。木曽山中を腰を振りながら軽やかに駆け抜ける野性味溢れるスプリンターですが、山中の全開走行時にもしっかりと体をホールドしてくれます。ただし、こうした列車に乗ったことがない方は微妙な横揺れに多少違和感を覚えるかもしれません。前身の日本初の振り子車両381系(1972〜1994年)に比べ、乗り心地はずいぶんよくなったとは主人の弁。381系では乗り物酔いする方が多かったようです。もちろん、自由席に立って乗車した場合のようですが…。
観光シーズンをずらしたつもりでしたが、久々の好天に恵まれ、グリーン車・指定席共に完売のようです。
1995年旧通商産業省 グッドデザイン商品選定、1996年鉄道友の会 ローレル賞受賞。 -
ワイドビュー しなの7号(383系)
テール(自由席車両)はこんなデザインです。
つまり、名古屋発の場合はグリーン車側が先頭になり、長野発ではこちらが先頭になります。新幹線のようにスピードを出せる地形を走る訳ではないので、風損に配慮した機能的デザインにする必要はないということなのでしょう。
名古屋〜松本間は、2時間ほどの鉄道の旅になります。
大阪圏から「しなの」を利用して松本まで行く場合、新大阪〜名古屋間の新幹線チケットを割安チケットショップで購入する方がお得な気がしますが、実際は新大阪〜松本まで通しで乗車券と特急券を購入する方がトータルでお徳になります。
因みに、「しなの」の特急券の料金は、名古屋〜松本だと2680円、(新大阪〜)名古屋〜松本だと50%OFFの1340円になります。どんな仕組みなのかよく判りませんが、新幹線チケットの割引分よりお徳です。
デジタル松本散策マップです。(P.5に味わいのある絵地図があります)
http://youkoso.city.matsumoto.nagano.jp/e-book/guide-digest/#page=1 -
旧松本駅表札
松本駅のお城口の階段を下りた所に3代目駅舎の表札が掛けられ、松本駅の歴史をそれとなく語りかけています。高さ:127cm、幅:46cmの欅の一枚板に篆刻文字で浮き彫りにされています。ブロンズの褪せた緑青を彷彿とさせる色合いも古式蒼然として重みが感じられます。この表札は、豊科町在住の俳句宗匠 篆刻家 曽山環翠氏による揮毫木彫だそうです。松本駅のシンボルとして、1948年(昭和23)年から旧駅舎が取り壊された1977年(昭和53年)まで、沢山の旅客を見守ってきました。
国鉄松本駅は1902年(明治35年)に開業し、2代目駅舎は1947年(昭和22年)に火災で焼失しています。翌年の再建を記念して掲げられたのがこの木彫表札です。1977年(昭和53年)にやまびこ国体の主会場に選ばれたのを契機に老朽駅舎を駅ビル方式に改築した際、この表札はその使命を終えました。表札は一時外されたのですが、1985年(昭和60年)に市民の要望で再び新駅ビルの入口に掲げられ、今日に至っています。 -
播隆(ばんりゅう)上人像
1986年、松本駅お城口の北端に播隆上人のブロンズ像が建立されました。江戸時代後半の浄土宗の僧で、槍ヶ岳の開山や笠ヶ岳の再興の祖と崇められています。1828年に日本で4番目に高い槍ヶ岳(標高3180m)に初登頂した、アルピニストなら知らない人はいないほどの誉れ高き人物です。
『建立の主旨』
「槍ヶ岳開山の祖 播隆上人は、幾多の苦難を乗り越えて1828年に槍ヶ岳登頂を極めた。日本アルプスの命名者 英人ガウランドの登頂(1878年)に先だつこと50年。まさに近代アルピニズムの黎明を開く不滅の業績を残した。ここに岳都松本の駅頭にその像を建立し偉業を永く讃える」。
槍ヶ岳開山150周年を記念して播隆上人像を造ることが決まり、上人と所縁のある玄向寺の住職が像のモデルに選ばれたそうです。播隆上人は修行のひとつとして槍ヶ岳に登ることを決意し、玄向寺の高僧 立禅(りゅうぜん)和尚を訪ね、開山の相談をしたのが玄向寺との縁になります。和尚から案内人を紹介され、苦労の末、山頂に岩を集めた祠を造り、三体の仏像を安置したそうです。往時の登山装備の貧弱さを考えると並大抵の苦労ではなかったことは明白です。槍ヶ岳に魅了され、命を賭して槍ヶ岳山岳信仰の礎を築いた上人とその案内人の熱き志に胸が締め付けられる想いです。
感慨も新たに、ここから松本市散策をスタートします。 -
牛つなぎ石
伊勢町通りを東に進み、本町と突き当たる何の変哲もないT字交差点の角に、注連縄が巻かれた黒っぽい石がポツンと安置されています。
上杉謙信が敵方の武田信玄に塩を送った時、塩を運んだ牛をつないだ伝説の石です。明治以降には、富山から鰤(ぶり)を運んだ牛や新潟から送られる塩を運んだ牛をつないだ石とも伝わっています。
松本地方を甲州の武田信玄が支配していた戦国時代、武田氏の敵の今川・北条氏は、太平洋側からの塩の道を封じ、甲州や信州の人々を困窮させました。これを知った武田氏の宿敵 上杉謙信は、日本海側から塩を贈呈しました。1568年、謙信からの塩を積んだ牛車が「牛つなぎ石」に辿り着き、この日を記念して松本では初市(塩市)が始まりました。明治以降に塩が国の専売になったこともあり、飴市と名前を替えて今に伝わっています。
また、この塩を送った故事が、「例えライバルでも困っている時には助ける」という意味の『敵に塩を送る』の由来となっています。 -
松本手まり柄のマンホール
伝統民芸のひとつとして「松本手まり」が有名で、足元を見ると綺麗な手まり柄のカラフルなマンホールなどが目に留まります。
江戸時代後期、松本藩の武士の家の女性や子どもたちが家計を助けるために作り始めたと伝わっています。当時は、この地方の童女たちの玩具のひとつとしてもてはやされたものです。
今では幸福を招く手まりとして縁起の良い飾り物として愛用され、結婚の際には花嫁さんが新しい円満な家庭を築く幸福のシンボルとして花嫁道具として持参する由緒ある民族芸術品だそうです。 -
同心小路
元禄時代、与力の下で城下の治安維持と商取引の不正を取り締まった町同心の屋敷があり、同心が10人ほど住んでいたと伝わる路地です。
今ではハイカラなブティックが立ち並び、同心たちもびっくりしていることでしょう。 -
同心小路
大通りに通じながら、のんびりと歩け、ホッとした気分にさせられる小路です。
区画整理事業で整備された際、それぞれの店が独自の演出に取り組み、市に働きかけて実現させた石畳を敷き詰めた小粋な小路です。
2002年に松本市「都市景観賞」に選ばれています。 -
食事処 うらしま
同心小路の西端に双子のような蔵造りの建物が仲良く並んでいます。手前のお店が「すき焼き・会席 浦島本店」です。創業は江戸末期だというに相応しい趣のある蔵造りです。このような造りなので腰が引けてしまいますが、「本日の昼定食」というメニューがあり、地元の方には人気だそうです。また、お味噌汁は、老舗味噌店「萬年屋」のものを使用し、丹念に取った出汁で懐かしい味を出しているそうです。
メニューは、さばみそ煮・さば塩焼き・沖ぶりみそ・つぼ鯛塩・しまほっけ・銀鮭西京みそ・銀ダラ粕・とり唐揚げ・牛肉コロッケ・メンチカツ・ひれかつ・おろしかつ・煮かつ・かつ丼など庶民的で、すべて均一料金で良心的です。
名物「すき焼きしゃぶしゃぶ」もいいですが、大衆の味も見逃せません。
次回は寄ってみたいと思います。 -
時計博物館
女鳥羽川の千歳橋の近くにひときわ目立つ建物があります。懐中時計から柱時計まで和洋の古時計を集めた博物館として開館12年目を迎え、コレクション数は600点ほどあるそうです。
時間の都合で見学はできませんでしたが、ここで無料レンタサイクルをお借りしました。ここには3台しか置かれていないので、2台残っていたのはラッキーでした。案外穴場かもしれません。
レンタサイクルマップ
http://youkoso.city.matsumoto.nagano.jp/img/chali/2013_manner.pdf
1974年、本田親蔵氏は、生涯をかけて蒐集した16〜20世紀初頭の貴重な和洋の古時計コレクションを松本市に寄贈されました。以来、本田コレクションは、松本市立博物館を代表するコレクションのひとつとして人気を集めてきました。その後、市民から寄贈された時計もコレクションに加え、2002年に新たに時計博物館が開館しました。外壁に設置された国内最大級の大きな振り子型時計(全長10m、振り子5.2m)は、シンボルとなっています。
館内では映像を駆使し、洋の東西を問わず、その時代の人々がいかに正確に時を刻もうとしてきたか、そして時計が時を刻むだけの道具ではなく調度品や装飾品としても発達してきた歴史を振り返ることができる趣向です。土・日曜日、祝日には2階の常設展示室で蓄音機とSPレコードの鑑賞も行われており、休日のひとときを満喫できます。 -
百老亭
松本城や大型バスの大手門駐車場から至近距離にある本格派の中華料理屋です。
中華屋の山賊焼きですが、専門店に劣らずその味とボリュームは絶品で、山賊焼のベスト10に入っています。添えられているマヨネーズがよく合います。中華風の特製ソースをかけた「油淋鶏山賊焼風」というメニューもあり、オススメとの事。営業時間は、【昼】11:30〜14:00【夜】17:30〜21:30。
丁度、お昼の混雑が一段落したタイミングに入れたので、ツアーの添乗員さんや運転手さんの隠れ家的憩いの場になっていました。奥には座敷もあり、近所に職場がある馴染み客が団体で押し寄せていました。 -
百老亭
中華料理のジャンルとしては、広東料理になります。
2015年5月31日まで「はしごチケット」なるものがいただけます。このチケットを他の加入店で提示すると色々なサービスが受けられます。
当方も3軒で使いました。
「はしごチケット」情報は、こちらのHPを参照ください。
http://youkoso.city.matsumoto.nagano.jp/m100/?page_id=2945 -
百老亭 明蝦巻
名物「明蝦巻」は百老亭のイチオシ点心だそうです。
百老亭のHPにあるクーポン券でいただきました。
この飲茶は、大きく粗めに刻んだ海老と黄ニラなどの中国野菜を入れて混ぜた具をお米から出来た極薄の皮に巻いてカラッと揚げた点心です。
皮のサクサク感とプリプリの海老の食感のコンビネーションが絶妙でした。
お店のHPはこちらです。
http://www.hyakuroutei.com/index.html -
百老亭 山賊焼
主人が注文したのが名物「山賊焼」。
鶏のもも肉をニンニクなどの入った秘伝のタレに漬け込み、片栗粉をまぶして大胆に丸ごと1枚豪快に香ばしく揚げてカットしたものです。
名前の通り、豪快にガッツリ食べる松本平の郷土料理です。 -
百老亭 山賊焼
本日のサービス定食ということで850円です。
ボリュームは半端ではありませんが、もも肉に味が付けられているので案外サクサク食べられます。
美味しく完食いたしました。ごちそうさまでした!! -
ナワテ通り 大手交番
ナワテ通りのメインの入口である大名町側には大手交番があります。一見して交番とは気付かないようなデザインの建物ですが、イメージは城下町と言うことで松本城の天守閣なのでしょう。
改築されてしまっていますが、かつてのTVドラマ「白線流し(1996年)」にも登場した名物交番だそうです。 -
ナワテ通り ガマ侍
ナワテ通りの大名町側入口でいきなり出現して度肝を抜かれたのが、こちらの巨大なオブジェ「ガマ侍」。巨大なガマの背中に刀を持った2人の侍が載っているのですが、侍も白いカエルに見えます。
元は2004年に東京藝大デザイン科一回生が学園祭のために作った神輿で、カエル繋がりでこの商店街に寄贈されたものだそうです。グロテスクというかユーモラスというか、藝大生のセンスには目を瞠るものがあります。
今やナワテ通りのシンボル的存在でもあり、発砲スチロール製ですので藝大OBや地元の学生さんたちが修復しながら今の姿を留めているそうです。左手にある電話ボックスと比べていただければ、その大きさは一目瞭然です。 -
ナワテ通り
「ナワテ通り=カエルの街」になったのには、それなりの由来があります。
その昔、「縄手」は松本城のお堀と女鳥羽川の清流にはさまれた「縄のように細く長い土手」でした。ナワテ通り商店街では、女鳥羽川の水辺で河鹿蛙(かじか)が美しい鳴き声を奏でていたという昔にあやかり、もう一度水が清く活気ある通りにカエようという取り組みを開始しました。こうして、1972年に「カエル大明神」を祀り、「カエルの街」になったのだそうです。以来カエルをシンボルキャラクターとして、市民や旅人たちがホッとして憩える通りをつくり、現在に至っています。
通りの幅は狭く、それほど長くもないのですが、花屋やはんこ屋、金物店、おもちゃ屋、骨董品屋などが密集して建ち並んでいます。各ショップは昭和のテイストが漂う長屋風で、波長が合ってしまうとなかなか抜け出せなくなる、見どころ満載の商店街です。 -
ナワテ通り 四柱神社(よはしらじんじゃ)
ナワテ通り沿いに鎮座する神社で、地元では、「しんとう(神道)さん」と呼ばれています。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすひ)の造化三神と、天照大神の四柱の神を祀ることから「四柱神社」の名があります。
天之御中主神は名の如く「天の中央に座す神」、高皇産霊神、神皇産霊神は様々なものを生産・造化する宇宙創造の根元にして「むすびの神」、そして天照大神は太陽神にしてこの造化の三神の「神意を地上に顕現する神」です。これだけ神徳の高い神様を一同に祀る神社は珍しく、全ての願いが叶う『願いごとむすびの神』として全国的に有名だそうです。
1872年(明治5年)に筑摩県松本に設置された神道中教院がルーツで、1874年から四柱の神を祀ったことに始まります。1879年に現在地に社殿を造営し、村社の四柱神社として遷座しています。
鳥居は鉄製の円柱で造られています。
イベントでもあるのか、ボンボリ飾りがきれいです。 -
ナワテ通り
東側入口の木陰に佇むのは、カエルの「ゴウタ」と呼ばれる、日夜勉学に励んだ二宮金次郎のカエルバージョンです。
大名町側入口の「メトバ」とペアのようですが、「メトバ」の方はスルーしてしまいました。 -
ナワテ通り 一ツ橋
街灯の扉も頑丈な造りで、往時の職人さんの心意気を感じさせます。
橋の下を流れる女鳥羽川の遥か上流には、美ヶ原高原の最高峰「王ヶ頭(おうがとう)」が頭を覗かせています。 -
上土(あげつち)通り
レトロ感が漂う標識が立てられています。一ツ橋から北に走る通りが、上土通りです。
はて、標識の奥に建つ緑色のドーム屋根を冠した立派な建物は大手老舗銀行???
実は、市営住宅「上土団地」です。1913年(大正2年)に完成した旧市役所跡地に建てられ、外観は旧松本市役所をイメージさせ重厚長大な雰囲気を感じさせています。
見方を変えればどことなく鉄格子のある監獄のようでもあります。また、ベランダがないというのも洗濯物を干すには不便ではないでしょうか?
このように、かつての町並み風景を残すのには多大な苦労があるということを改めて実感いたしました。感謝の気持ちを忘れてはなりません。 -
上土通り
蔵造りが売りの中町通りや長屋風の町並みが誘うナワテ通りが観光スポットとして注目されていますが、それらとは雰囲気を異にするのが上土通り界隈です。人通りも少なく、「大正ロマン」を感じさせるレトロな佇まいが魅力な隠れた名所です。
その昔、松本城の東門があり、住民はここから城内に入ったそうです。東門前の馬出し廊の堀の土を上げたところから町名となっています。また、大正時代には活動写真館などの娯楽を中心とした繁華街を形成して「松本の浅草」と呼ばれ、その独特の雰囲気を今に残しています。
白鳥写真館と下町会館に挟まれて建つのは、旧野々宮薬局。 -
上土通り 白鳥写真館(明治27年創業)
大正13年(1924年)に建築され、昭和2年(1927)に焼失しました。しかし、火災にあった部材を使ってリノベーションし、創建時の外観を再建しています。庇は、洋風ながら神社の唐破風を彷彿とさせる斬新なデザインです。 -
上土通り 白鳥写真館
2階のバルコニーと1階出入口の唐破風のような庇が、別々に取り付けられているのがアクセントになっています。
市の都市景観賞を受賞した大正時代の洋風建物です。 -
上土通り 下町会館
上土通りの代表格 下町会館(旧青柳化粧品店 昭和初期建築)は、旧き佳き時代のロマン漂う瀟洒な建物です。老朽化により解体を迫られていたのを、曳家移転してファサード部のみを復元したものですが、手投げの壁の質感とスクラッチタイルに匠の技が光ります。また、頂点にあるメダリオンも威風堂々な存在感を示しています。 -
上土通り 俥小屋
下町会館の右脇には「俥」小屋があり、人力車が置かれているそうです。
生憎この日は、出払っていました。 -
上土通り 東門の井戸
「俥」小屋の右側には、2008年に完成した、整備事業による緊急時の水確保ができる御影石製「東門の井戸」もあります。
清涼な湧水は、市民の水汲み場として活用され、街路樹への灌水や打ち水等にも利用されています。また、災害時に停電や断水が生じた場合でも手動ポンプを利用し、生活用水を確保でき、ライフラインを守る役目も担っています。
水量豊富ですが、飲用にも適しているそうです。 -
上土通り
「上土シネマ」の左隣にあるのが、1887年(明治20年)創業の酒屋と居酒屋。
1928年(昭和3年)建造で、元々は一軒屋だったそうです。昭和初期、当時3代目酒屋 平出宗正氏は、店舗を建て替えるに当たってわざわざ東京まで出向き、当時の建築事情を見聞した上で、自ら店舗設計されたそうです。 -
上土通り 上土シネマ
同館は1917年(大正6年)に「松本電気館」として市内の有志が出資して開館した映画館です。その後、平形興行に運営を譲渡、「オリオン座」「松本東映」と改名し、1967年(昭和42年)に建物を改築、現在の木造一部鉄筋コンクリート造りの映画館となっています。2002年に通りの名前をとって「上土シネマ」と改名しましたが、2008年に惜しまれながら90年の歴史に幕を降ろしました。
錆だらけになったアーチの骨組みが、どこか物憂げに語りかけてきます。栄枯盛衰、時代の流れの中で儚く消え行く定めを負うものもあるのですが…。複雑な気持ちになります。 -
大手 松本ホテル花月
明治29年(1896年)創業の白亜のホテルです。松本で初めて営業した老舗ホテルだそうで、名前にも「松本」という地名が入れられ、創業者としての矜持が伝わってきます。
昭和50年代初めのTV CMでは、「明治のハイカラ調と大正ロマンがミックスしたホテル。松本ホテル花月!」とアピールしていたそうです。右端の建屋は、喫茶室になっています。 -
大手 松本ホテル花月 喫茶室「花月」
ノスタルジックな雰囲気にそそられますが、悲しいかな寛ぐ時間はありません。
内装は、松本民芸家具で統一されているそうです。
ここも次回のお楽しみにとっておきます。 -
大手
上土通りを下町会館の先で左折するとレトロ感溢れる建物がめじろ押しです。
道を挟んで左側には松本ホテル花月が構えています。 -
大手 エステ・プリマベーラ
手前から説明していきましょう。
この蔵は何屋さんか不明でしたので、調べてみるとなんと「エステ・サロン」でした。
意外な組合わせはインパクト狙いなのかどうなのか分かりませんが、HPには次のように書かれています。
「適切な時間で的確なケアをするプリマベーラは、蔵づくりの外観。上土通りの雰囲気をこわさず街のアクセントになっています。 焚きしめられた香のかおりの空間で横たわり完璧なフォルムへ到達するリラクゼーションスペースです」。
http://primavera623.jp/info/ -
大手 御菓子司 東もん 磯村
創業1897年(明治30年)。大正2年に建てられた店舗は、木造蔵造りという正面が黒壁で側面が白壁、広い間口の大正時代の典型的な商家の造りです。昭和の高度経済成長期の改築や1998年の大雪による損壊などにより、やむなく一部改修されていますが、昔日の面影を留めているそうです。
松本の伝統を受け継ぐ手作りの和菓子店舗であり、焼菓子「上土通り」は洋の食材を取り入れ、和菓子の技で焼き上げた和魂洋才を地でいく銘菓だそうです。その他、歴代松本城主の家紋が入った「古瓦煎餅」も人気のようです。 -
大手 信濃毎日新聞松本専売所
長野の県紙「信濃毎日新聞」の専売所です。支局ではなく、販売所ながらこの堂々たる風格です。
この通りは、サプライズの連続です。
看板や窓のパターン等のディテールまで細やかな気遣いが感じられます。1階部分に庇を設け、歩道部に鉄平石を敷き、両隣の建物とのバランスや繋がりを持たせ、蔵と大正ロマンがミックスした街並み景観を醸しています。
2005年度、市の都市景観賞受賞。 -
大手 民芸食事処 池国
こうした本棟造は、長野県信州でもごく一部、安曇野から松本平〜塩尻にかけての盆地と南へ辰野を経て伊那谷へ伸びる平野部にかけて分布する、板葺き民家を代表する端正豪華、格調高い造りです。
最大の特徴は、雀踊りと呼ばれる棟飾りです。切妻屋根の端に破風板を二段重ねに打ち、板葺の厚みに対処するようにその頂点に大きな棟飾りを冠しています。建築業界用語で「雀」は屋根周りの表現として用いられ、「踊り」は踊り場のように留まる場所を意味します。雀がここに留まって遊ぶために設けたものではないようです。 -
大手 民芸食事処 池国
昭和3年(1928年)創業ですので、85年以上の伝統を誇ります。立地としては市役所や日銀松本支店なども近く、接待全盛の頃は冷凍の肉は一切使わないこだわりの和牛すきやきやしゃぶしゃぶだけで繁盛していたのでしょう。肉専門店として営む店なので、店主が目利きして仕入れた牛肉・馬肉は著名人も絶賛するそうです。
こうした「雀踊り」は、安曇野散策時や上高地へ向かうバスの車窓からも散見できます。どれも立派なお屋敷です。 -
さて、どこからの景色でしょうか?
松本城を上から俯瞰できる建物ですから、高層ホテル???
実は、あまり知られていないのですが、松本市役所からの眺望です。
市役所の受付で「展望室があると伺ったのですが」と尋ねると「エレベーターで5階に上がってください」と案内されました。エレベーターは4階までですのでそこからは「展望室」と記された目の前の階段を上ります。展望室にはライブカメラや地震計が設置されており、全面ガラス張りで、眺望絶佳です。 -
松本市役所 展望室
松本城に登城する前に、どのような構造になっているのか予習するにはもってこいの眺望です。
松本城は「梯郭式(崖などを背にした本丸に二の丸、三の丸が階段状に並ぶ形式)+輪郭式(本丸を中心に二の丸、三の丸が円状に配置される形式)」の平城であり、北側の丘陵を背にした後堅固の縄張りの城郭です。 -
松本市役所 展望室
常念岳と松本城がコラボして見事な景観を呈しています。2007年の耐震補強工事を契機に、一般へ開放するようになったそうです。
北アルプスをはじめ美ヶ原など360度の大パノラマが楽しめるスポットですので、隠れた名所と言えます。北側以外の窓は開放できるのも写真撮影にはありがたい配慮です。
因みに、時々TVや映画の撮影にも使われているようです。 -
松本市役所 展望室
美ヶ原高原の最高峰 王ヶ頭もバッチリ見えます。 -
松本城 太鼓門
文禄4年(1595年)頃に築かれ、門台北石垣上に太鼓楼が置かれ、時、登城、火急の合図などの発信源として太鼓楼が併設されたことからこの名があります。
現存しない二の丸の正門で、一の門(櫓門)と二の門(高麗門)で桝形を構成しています。明治期に破却されましたが、1999年に往時の姿で復元されました。 -
松本城 太鼓門 玄蕃石(げんばいし)
一の門に向かって左側にある石垣に埋め込まれた巨石は、「玄蕃石」と命名され、高さ3.2m、重さ推定26.5トンを誇ります。城の威容を示すために置かれた巨石です。
正面にある建屋が名の由来になった「太鼓楼」です。 -
松本城 太鼓門 玄蕃石
こうして見るとスケールの違いがよく判ります。
「玄蕃」は松本城を築城した石川康長の官名で、築城の際、玄蕃の過酷な陣頭指揮で運ばせた石ゆえにこの名が付けられているそうです。石垣の石材は山辺山や浅間、岡田から切り出されたもので、この石の由来にまつわる話が残されています。
井深村(岡田)にあったこの巨石を城普請のために運搬させようとした時、人夫のひとりが苦情を訴え、それが城主 石川玄蕃頭康長の耳に入りました。康長は怒ってその人夫を皆の前面に呼び出し、たちどころに首をはね、槍の穂先に貫いて先頭にたて、自らはその石の上に飛び乗って「ものどもさあ引け!」と命令して運搬させました。その後、誰言うことなくこの石を玄蕃石と呼ぶようになったそうです。
往時、重要な門には大きい石を埋め込む慣わしがあり、近くの上田城 真田石も有名です。 -
松本城 太鼓門 二の門
太鼓門枡形に入って入口(二の門)方向を振り返ると、周囲の壁には狭間(さま:銃眼、矢眼)があちこちに見られ、戦国時代に築城された城だと言う実感が湧いてきます。 -
松本城
松本のランドマークは、北アルプスや美ヶ原高原の山並みを背景に威風堂々と聳え立つ国宝 松本城。とても美しい姿をした城郭で、年間80万人の観光客を集める「信濃のドル箱」と言われるのも頷けます。築城から400年を超える風雪に耐え、今なお堂々とした姿を見せる松本城は、姫路、熊本、犬山城と並ぶ日本の4大国宝城郭のひとつです。明治維新の後、競売にかけられて取り壊しの危機に見舞われましたが、多くの方々の尽力で難を逃れたそうです。
松本城のトレードマークは、白漆喰の外壁と黒漆喰の下見張り。何故、黒かと言うと、松本城を築造した石川康長は豊臣秀吉からの信頼の厚い武将であり、秀吉への忠誠の証として黒い居城 大坂城に倣ったためです。松本城は、戦国末期の鉄砲戦のための天守の典型として現存する唯一の城です。因みに、関ヶ原の合戦以降は、姫路城など白亜の天守が築造されています。
ところで「烏城」と言う呼び名は正式ではなく、歴史的にもそう呼ばれた事実はないそうです。60年ほど前、バスガイドさんのインスピレーションで言い広められたとされています。実際、「烏城」と呼ばれる岡山城の方は真っ黒で、松本城は黒と白のツートン・カラーになっています。 -
松本城
戦国時代の永正年間(1504〜21年)に造られた深志城がルーツです。その後、甲斐 武田信玄がこの地を占拠して信濃支配の拠点としましたが、天正10年(1582年)に小笠原貞慶が本能寺の変の動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めました。それまで「深志」と呼ばれていたこの地は、この頃から「松本」と呼ばれるようになったようです。
石川康長が文禄末(1593〜94年))に松本城に築造した五層六階の天守は、現存する中では日本最古であり、戦闘に有利な山城が多く築かれた戦国時代にあっては異色の平城です。天守のうち、大天守・渡櫓・乾小天守のまとまりを「連結式天守」と呼び、戦国時代に造られたため、石落しや狭間が多く設けられ、窓は少なく、守り易い構造なのが特徴です。大天守・辰巳附櫓・月見櫓のまとまりは「複合式天守」と呼び、平和な時代に増設されたため、戦への備えを一切持っていません。これら2つの形式を合わせて「複合連結複合式天守」と呼びます。戦うための黒い堅守な天守と、泰平の世に造られた優雅な辰巳附櫓、月見櫓などの対比の妙や優れた建築技術を今日に伝えています。後者は、壁の厚さは半分、窓等の開放部は大きくなり、飾りも付いて時代背景を如実に反映しています。この方式の天守は、唯一松本城だけに見られる特徴的な構造です。 -
松本城 黒門(二の門)
名の由来は、黒い下見板が張られているからではありません。この黒は、「色」を指すものではなく、「正式」という意味を持ちます。従って本丸に入るための正式な門ということになります。 -
松本城 黒門
一の門(櫓門)は昭和35年(1960年)に復興され、二の門(高麗門)と袖塀が平成2年(1990)に整備されています。
これらを合わせて黒門枡形の復元となっています。 -
松本城 黒門 一の門
平面がL字形に直角に折れる矩折(かねおれ)櫓門が特徴です。
櫓門と枡形門で直交型の桝形を備えた防衛の要の門です。
この形式は、太鼓門も同じです。 -
松本城 黒門 一の門
一の門には、松本城の基本形を造った石川数正が豊臣秀吉に入封された際に使用が許された五七桐紋も再現されています。
戦乱の幕が開けられる以前の着工だけに、いかに時代の最先端を走っていたかが窺える意匠です。 -
松本城 宇宙ツツジ
黒門を抜けてすぐ左手の、天守閣を見上げる本丸庭園の片隅にあります。竹の囲いの中に植えられてスクスクと育っています。日本人初の女性宇宙飛行士 向井千秋さんが、1994年にスペースシャトル「コロンビア」号で宇宙飛行した際、出身地の群馬県館林市の要望で機内に持ち込んだツツジの種子を、地球に帰還後、発芽させたものだそうです。植樹後、3年で花を咲かせたそうです。認定26号と記されていますので、全国に同様の苗が贈られたのでしょう。この「26」という数字にハッとさせられます。何故なら、天守閣最上階の天井に「二十六夜神」が祀られ、奇しくもその数字が一致しているからです。果たして偶然なのか、意図的なのか…。
松本城との関係は、松本市が「花いっぱい運動」の発祥の地であり、2000年に館林市で開かれた「第43回全日本花いっぱい大会」に出席した松本市長に株分けされた「宇宙ツツジ」の苗が贈られ、ここに植樹されと言うことです。
何となく、暫く見入ってしまいました。 -
松本城 野面積の石垣
安山岩を「野面積((のづらづみ)」で積んだ、勾配が緩く反りのない低い石垣です。表面に露出している石面は大きくはないのですが、奥に向かっては長い石が用いられ、しっかり組み合わさっているそうです。石垣の隅部は、石の長い方と短い方の向きを互い違いに組む「算木積」という組み方がされています。算木積に用いられる隅石は長辺が短辺の2倍から3倍になるのが普通のようです。長辺と短辺が一段毎に互い違いになるように積まれることにより、隅石の長辺で短辺の隣の石となる隅脇石を挟みつけるので、石垣の隅部が強固となるとの事です。
加工せずに積み上げたものですので、形に統一性がなく、石同士が噛合っていません。そのため隙間や出っ張りがあり、敵に登られ易いという欠点がありますが、排水性に優れ、頑丈だそうです。
因みに、野面積の石垣の上に建てられた最古の天守は丸岡城で見ることができます。
丸岡城の旅行記はこちらを参照ください。
http://4travel.jp/travelogue/10707481 -
松本城 天守一階
天守一階には一間毎に柱が立ち並び、全体の重み(1000トン)を支持する構造となっています。その周囲幅一間の通路は、内側の床より50cm程低くなっています。これを入側または武者走と呼ぶそうです。戦闘の時、武士が矢玉を持ってここを走り回ったのでその名がついたそうです。 -
松本城 天守一階
武者走の外側の柱列をよく観ると糸巻きのように内側に若干湾曲していることが判ります。これは下の天守台石垣の天端の線が糸巻状に仕上げてあるためです。実は、松本城の天守台は菱形をしており、天守は内側に湾曲した天守台の上に造られています。往時の石積技術では天守台を正矩形に築くことができず、天守も相似形になっています。この天端の歪みを「武者走」で吸収し、1階入側柱以内の身舎を正しい長方形に造り、上層階の柱筋を通し天守の重量をこの一階身舎の下の土台が受け止め、さらにその下の土台支持柱に伝える仕組みになっています。まさに湿地帯に技術の粋を集めて造られた天守であり、国宝中の国宝と言える所以です。 -
松本城 天守一階 懸魚の芯材
展示されている懸魚の芯材です。辰巳附櫓に取り付けられていたもので、材料は桧です。
よく観るといくつも小さな穴が開いています。こられは釘の跡で、釘の間に糸をめぐらせ泥と漆喰で塗り固めるためのものだそうです。芯材に白漆喰を塗り重ねると懸魚になります。 -
松本城 天守二階 鉄砲蔵
二階は鉄砲蔵で、戦国〜江戸時代まで実際に日本で製作された火縄銃や鉄砲に関わる資料などの展示スペースです。
松本市出身の故 赤羽通重氏は、夫人と共に一生涯をかけて数多くの鉄砲・装備品・文書類などを収集され、鉄砲141挺をはじめ数多くの装備品や文書類を松本市に寄贈されました。松本城は、いわゆる「平城」と呼ばれる城で、築城の時から既に鉄砲を意識した構造が採用されたのが特徴ですが、実際には松本城で戦闘が行われることはなかったそうです。
「こんな堅牢な城を攻めるなんて理に合わないことはやめとこう」という気にさせたのでしょう。これこそ、兵法の原点「戦わずして勝」です! -
松本城 天守二階 鉄砲蔵
元々松本城は、鉄砲戦を想定して築城され、壁は当時他の城には無かった防弾壁、さらに狭間と呼ばれる銃眼が無数に配置され、火縄銃の収蔵数も日本有数だったそうです。 -
松本城 天守二階 鉄砲蔵 火縄銃の大筒
日本初の大筒は、天正4年(1576年)九州の戦国キリシタン大名 大友宗麟こと大友義鎮(おおとも よししげ)がポルトガルから入手したものだそうです。大坂冬の陣(1615年)では、稲富一夢(いなとみ いちむ)の工夫による徳川方の50匁弾筒の昼夜を分かたぬ猛射が大坂城天守閣の一部や淀君ら婦女子の館を破損して厭戦気分を早める戦略がとられ、和議を早める結果となったことは良く知られています。 -
松本城 天守二階 鉄砲蔵
丁寧な美しい装飾細工が施され、命がけで戦うための装備というよりも芸術作品と言った方がよいくらいです。 -
松本城 天守二階 船載砲
オランダ製の木台下部に4つの輪が付けられた「船載砲」です。
もう少し明るいと見易いのですが、国宝ゆえの制約があるのでしょう。
ガレー船に搭載されていたオランダ製。城塞砲としても使われ、口径33mmの弾を500m先まで飛ばせたそうです。船上を引き回したり装弾の便宜を図るために木台下部に4輪を配してします。 -
松本城 天守三階
通称「隠れ階」とか{「暗闇重(くらやみじゅう)」と呼ばれています。天守二重の屋根裏に設けられているため天井は低く、窓もなく、明かりは南側千鳥破風の木連格子(きづれこうし、狐格子とも言う)の一部からわずかに漏れるだけの暗い間です。
外側から見ると丁度、破風の一部になるようなデザインのため、その奥に三階が有るようには思えません。何故この様な階を造ったかには諸説あり、それぞれにまあまあ納得したりしなかったりです。
①上階にある御座所で大名が有事の際に邪魔が入らぬよう、この階にて家来が侵入するのをくい止めるために待ち伏せた「武者溜」に当てた。
②敵の目を欺く為のもの。実際に攻め入ったら一つ余計に階があった…。
③建築上の狂いを修正するのにやむをえずできてしまった。
何れにしろ天守建築後は、松本城は一度も外部からの侵略は無く、この階はもっぱら物置として使われたようです。
柱は手斧(ちょうな)がけの跡が残ったまま。鉋(かんな)がけがなされているのは居所とされた四階以上となっています。 -
松本城 天守四階 城主の御座所
続く四階は、三階までとはガラリと趣が異なり、柱が少なく、天井が高い上に四方から光が入るので明るく広々とした開放感溢れる居住まいとなっています。書院式風にすだれで囲んでいる部屋が御座所と呼ばれる御座所です。柱、鴨居、長押などは全て鉋で仕上げられ、有事の際、六階の最上階と共に城主の座所に当てられたと言われています。 -
松本城 天守四階
天守五階へ登る階段が一番急な階段で、勾配61度あります。また段の高さがあり、更に天井が低いので足元と頭の両方に気を付けて登ります。
松本城の全ての階段の勾配は55~61度もあり、上り下りが大変だと思ってしまう方も多いようです。しかし天守閣の目的は、「①城主の威光を示す。②遠くを見るため。③戦での籠城に備えた物資の保管、攻撃」にあり、普段、殿様たちが生活する場ではありませんでした。普段は家来しか立ち入ることはなく、堅牢さや戦時の効率性を希求したためにこのような急峻な階段になっています。
殿様たちの普段の生活の場は、本丸御殿や二の丸御殿、三の丸御殿などであり、1階もしくは2階建てで階段も緩やかなものでした。本丸御殿は儀式用、二の丸・三の丸御殿が城主家族の生活の場というパターンが多かったそうです。
片や冷暖房・照明完備でエレベータにお土産屋も堂々と入城するハイテク大坂城とは趣向が正反対です。大坂城は、国宝指定されなかったことが幸いしたのでしょうね。 -
松本城 天守五階
天守五階は中央に3間四方の大広間があり、有事には重臣達の作戦会議室や居所に充てられたものと推定されています。四方に窓があり、六階と共に周囲の戦況を見るのに都合がよい造りです。30本の柱は全て創建当時のままで、うち4本は六階との通し柱となっています。
ここからは金網に邪魔されずに眺望を楽しめます。
眼下には、まさに天下人にだけに見ることが許される絶景が広がっています。昔は、組と言われる部隊毎に分かれた武士集団の中でも成績優秀な者だけが、「お城拝見」といって登ることを許された場所だそうです。眼下の赤い橋と、彼方に見える北アルプスの山並みのコントラストがなんとも美しいです。
眼下に見える朱色の典雅な橋が埋橋。元々は堀の中に塀を築き、敵の移動を妨げる足駄塀(あしだべい)があったことが知られていましたが、構造が詳らかでないため、昭和の大修理(昭和25〜30年)の際、絵図を元に八ツ橋型の現在の朱色の欄干を持つ橋が架けられました。
埋橋を渡ったところが埋門跡。「埋門(うずみもん)」とは、石垣を通路の幅だけ切り通して門を設けたもので、両側の石垣の間に埋もれて見えたことからこの名があります。
2011年6月の長野県中部地震により石垣が崩れる被害を受けたため、現在解体修理中です。 -
松本城 天守五階 六階に登る階段
他の階に比べて天井が高く4.54mあり、そのために六階に登るこの階段にだけはおどり場が設けられ、階段が比較的緩やかになっています。 -
松本城 天守六階
かつての最上階は、犬山城のように廻縁がある望楼式天守だったそうです。しかし、松本は冬季は雪が多くて寒く、役に立たないばかりか傷みが激しく、それで廻縁を廃止して周りを囲ってしまったそうです。故に最上階が不自然に大きくなり、無骨で戦闘的な天守閣のイメージを根付かせています。
天守閣最上階の梁の上には、最大のパワースポットが鎮座しています。
井桁梁でがっちりと組まれた中央奥の神棚には、1618年に神託により勧請され、それ以降約400年もの間、松本城を度重なる災害から護り続けてきた守護神(女神)「二十六夜神の社」が祀られ、強力なパワーが天守閣全体を包み込んでいるように思えます。元々は、関東発祥の無病息災を願う風習=二十六夜神だそうです。 -
松本城 天守六階
ところで「二十六夜神」とは…。
江戸時代初期の元和4年(1618年)1月26日の夜、城主 戸田氏の家臣 川井八郎三郎清良という侍が宿直をしていたところ、そこへ白装束に緋の袴姿の女性が現れ、「二十六日の夜、三石三斗三升三勺(500kg程)の米を炊いて祀れば必ずや城は栄えよう」と告げ、綿の袋を渡しました。
翌日、家老を通じ城主にこの話をしたところ、早速最上階の梁の上に祠を造り、綿の袋を御神体として祀って毎月26日に三石三斗三升三勺の米を供えました。享保12年(1727年)に本丸御殿で火災が起こりましたが、「二十六夜神」のご利益で天守への延焼をくい止めたとの言い伝えがあるそうです。二十六とは、日付を指していたのですね。 -
松本城 辰巳附櫓 二階
天守の辰巳(南東)方向に当たり、隣接している月見櫓と共に松平直政によって寛永年間に増築されました。櫓西面の北から2本の柱は天守の柱に添えられていて、付設されたことが判ります。
窓の上方が尖った特殊なアーチ型になった窓を「花頭窓(かとうまど)」と呼び、独特の形状が良いアクセントになっています。禅宗寺院の建築に見られる形式で、中国から鎌倉時代に渡来しました。後に城郭建築にも広がり、松本城では乾小天守四階に4箇所、辰巳附櫓二階に2箇所設けられています。窓の内側には引分の板戸が付き、下の敷居には水切りの小穴が開けられています。 -
松本城 月見櫓 二階
残念ながらここは修理中でした。それでも開放感のある櫓を実感できます。
名月観賞の宴が催された櫓で、周りには朱塗りの回縁(まわりえん)が巡らされ、北・東・南の3面には舞良戸(まいらど)が嵌められています。泰平の世になって造られたため、赤い高欄が雅な趣を醸し出し、能舞台を彷彿とさる造りです。
松本城は、現存する日本の城の中で唯一天守と月見櫓が連結された一体構造となっている城です。月見櫓は、家康の孫にあたる松平直政が時の将軍 家光を迎えるため、寛永10年(1633年)に増築させたものです。 -
松本城
豊臣秀吉は、天正18年(1590年)に北条氏直を下して天下統一すると徳川家康を関東に移封しました。この時、松本城主 小笠原秀正が家康に従って下総に移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じました。石川数正・康長父子は、城と城下町の経営に尽力し、康長の代には天守・乾小天守、渡櫓をはじめ、御殿、太鼓門、黒門、櫓、堀などを造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備を進め、近世城郭としての基礎を固めました。天守の築造年代は、文禄2年から3年(1593〜94年)と考えられています。天守の高さは石垣上端から25m、本丸地上面より29.4mあります。彦根城の2倍程あります。天守は幾たびかの存続の危機に晒されましたが、400余年の風雪に耐え、戦国時代そのままの姿で保存されているのはすごいことだと思います。 -
松本城
石川康長が造営したのは天守、乾天守、渡櫓ですが、その40年後の1633年頃、城主 松平直政により辰巳附櫓と月見櫓が増築され、現在のようなバランスがとれた天守の姿が完成しました。
戸田氏の後に城主になったのが、将軍家光の従兄弟の松平直正。家光が京都からの帰途に善光寺参詣するため松本城に立ち寄ることになり、家光のために急遽、2つの櫓を造りました。時代は泰平の世となっており、月見櫓は風雅に鮮やな朱にか彩られました。しかし中山道の崖崩れが発生したため家光の善光寺参詣は中止され、結局城を訪れることはなかったそうです。
現存する城郭建築の中で月見櫓を持つのは松本城と岡山城だけですが、天守と一体構造なのは松本城天守五棟だけです。 -
松本城 唐破風の懸魚
5重目には入母屋破風(木連格子の破風)、3重目には唐破風(竪格子窓の白漆喰総籠)、2重目には千鳥破風(木連格子の破風)が見られます。
唐破風の懸魚は、蕪懸魚と鰭(ひれ)を一体化させたように厚く横長の形になっているのが特徴で、繰形に如意形を残した古式な様式です。これを兎毛通(うのけどおし)懸魚と呼び、天守群の唐破風などに採用しています。
捨瓦は、上の屋根から氷柱が落ちてきて屋根瓦を破損しないように、本来の瓦の上に二重に施された瓦です。昭和の大修理で国宝保存工事第1号として修理されましたが、その際に新たに取り付けられた氷柱対策で、それ以前の松本城にはなかったものだそうです。景観を損なわずに国宝を守るため、知恵を絞ったのでしょうね。法隆寺の金堂をヒントにしたのでしょうか?雪国ですので金堂と対象物は異なりますが、目的は同じです。
法隆寺 金堂の2重瓦はこちらを参照してください。
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=34059286 -
松本城 飾り屋根(千鳥破風)
比較的に新しく築城された城は、「破風で天守を飾る」と揶揄されるように破風で飾られた天守が多くあります。しかし松本城は実戦用の天守ですので、破風の数が少ないのが特徴です。6階は望楼の役目、5階は作戦会議室、4階は城主の御座所、3階は避難所、2階は武者溜(たまり)、1階は倉庫(食料・武器・弾薬等)であったと考えられます。
因みに、この優雅な千鳥破風の床下には「落狭間」が設けられています。内部の床から矢や鉄砲、煮え湯などを発射し、石垣をよじ登ってくる敵を撃退する仕組みです。こうした飾り破風も実線に活用しないと生き延びることができないという、戦国時代の切実な創意工夫が松本城のひとつ魅力でもあります。 -
松本城
黒門 一の門を潜ってすぐ右側にある事務所に「はしごチケット」を渡せば、このような登城朱印がいただけます。
この続きは、②松本<後編>でお届けします。
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この旅行記へのコメント (2)
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- こあひるさん 2014/10/03 12:28:51
- 黒い城
- montsaintmichelさん、こんにちは。
先日、会津若松城に行き(ここは復元されたものですが)、もともと建てられたものは、豊臣秀吉のお城に倣って、黒かったと聞き、へ〜ぇとビックリしました。
なので、松本城の壁の色にもなるほど〜と思いました。それにしても、その時代から、ずっと残ってきたというのは奇跡的ですね〜。
詳しい説明で、ガイドさん付きで見学しているような気分に浸ることができました。
こあひる
- montsaintmichelさん からの返信 2014/10/03 17:16:48
- RE: 黒い城
- こあひる 様
旅行記にご訪問いただきありがとうございました。
会津若松城も元は黒かったとは驚きです。
今回の旅行記も長編になりそうですが、よろしかったらまたご訪問いただけるとうれしいです。
montsaintmichel
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