穂高・安曇野旅行記(ブログ) 一覧に戻る
ランチ後、安曇野アートロードを北へ進み、ビンサンチ美術館や有明山神社(主人のみ)、安曇野ちひろ美術館を鑑賞してJR穂高駅へ帰還します。<br />ビンサンチ美術館は、安曇野観光協会から送っていただいたパンフレットで初めて知った、コンピューターグラフィックスを用いた現代的なアートが楽しめる美術館です。CGと言うと堅苦しく思えますが、子供でも体験できるほど敷居は低く設定されています。キャラクターも可愛らしいフクロウや鳥、犬、ネコたちですので子供たちも愉しめる趣向になっています。<br />有明山神社は主人のテリトリーになります。こんな山奥に造られた有明山をご神体とする神社ですが、日光東照宮の陽明門に拮抗すると称される神門や手水舎を造り上げた職人たちの矜持や情熱を直に感じることができる神社です。彫刻の素晴らしさをじっくり堪能した後、周辺に熊が出没するとの情報がある八面大王が立て籠もった岩窟までスリリングなトレッキングを愉しんできました。目的は、岩窟をこの目で見て、大王にまつわる2通りの伝説のどちらが正しいのかを検証することでした。<br />エピローグは、積年の夢だった安曇野ちひろ美術館に行き、この地に憩う作品たちをじっくりと堪能してまいりました。<br />以上、バラエティーに富んだ安曇野逍遥<後編>です。

桐葉知秋 信濃路逍遥④安曇野<後編>

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2014/09/26 - 2014/09/28

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

ランチ後、安曇野アートロードを北へ進み、ビンサンチ美術館や有明山神社(主人のみ)、安曇野ちひろ美術館を鑑賞してJR穂高駅へ帰還します。
ビンサンチ美術館は、安曇野観光協会から送っていただいたパンフレットで初めて知った、コンピューターグラフィックスを用いた現代的なアートが楽しめる美術館です。CGと言うと堅苦しく思えますが、子供でも体験できるほど敷居は低く設定されています。キャラクターも可愛らしいフクロウや鳥、犬、ネコたちですので子供たちも愉しめる趣向になっています。
有明山神社は主人のテリトリーになります。こんな山奥に造られた有明山をご神体とする神社ですが、日光東照宮の陽明門に拮抗すると称される神門や手水舎を造り上げた職人たちの矜持や情熱を直に感じることができる神社です。彫刻の素晴らしさをじっくり堪能した後、周辺に熊が出没するとの情報がある八面大王が立て籠もった岩窟までスリリングなトレッキングを愉しんできました。目的は、岩窟をこの目で見て、大王にまつわる2通りの伝説のどちらが正しいのかを検証することでした。
エピローグは、積年の夢だった安曇野ちひろ美術館に行き、この地に憩う作品たちをじっくりと堪能してまいりました。
以上、バラエティーに富んだ安曇野逍遥<後編>です。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
新幹線 JR特急 JRローカル

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  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />安曇野の森ならではのウッディー感に包まれた、ちょっぴり摩訶不思議な世界に浸れる異次元空間です。中学校の教科書 美術副読本「コンピュータでの表現」に掲載されたフクロウがメインテーマになっており、落ち葉の神秘的な色や形をそのまま使ってコンピュータグラフィックスで制作された作品群が展示されています。<br />もうひとつの特徴が「ミクロアート」の世界。アートとサイエンスの融合とも言える、めくるめく壮大な色彩と異次元の幾何学模様に目を奪われる神秘的かつ不思議なミクロの世界を展示しています。主人はこちらに興味津々で、2人の趣向が見事に一致した美術館です。<br />http://vinsanchi.com/owl.html<br />

    安曇野ビンサンチ美術館
    安曇野の森ならではのウッディー感に包まれた、ちょっぴり摩訶不思議な世界に浸れる異次元空間です。中学校の教科書 美術副読本「コンピュータでの表現」に掲載されたフクロウがメインテーマになっており、落ち葉の神秘的な色や形をそのまま使ってコンピュータグラフィックスで制作された作品群が展示されています。
    もうひとつの特徴が「ミクロアート」の世界。アートとサイエンスの融合とも言える、めくるめく壮大な色彩と異次元の幾何学模様に目を奪われる神秘的かつ不思議なミクロの世界を展示しています。主人はこちらに興味津々で、2人の趣向が見事に一致した美術館です。
    http://vinsanchi.com/owl.html

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />1993年、北山夫妻が安曇野に移住し、森の中にウェスタンレッドシダー・ログハウスのアトリエを建てたのが始まりです。2000年、アトリエを開放した「アトリエ美術館ビンサンチ」を開館。2012年には、森の自然から生まれた作品を森に返し、展示するための屋外ハーブガーデンが造成され、「安曇野ビンサンチ美術館」としてリニューアルオープン。カナダ風のログハウスと癒しのシダーの香りに包まれたアトリエを美術館として開放し、古民家を彷彿とさせる設いの内装も魅力いっぱいで、絵画の雰囲気にコーディネートされてます。2014年から安曇野アートラインの参加美術館の一員となり、人気急上昇中です。<br />因みに、「ビンサンチ」とは、ご主人の名前の「敏」さんを文字って「敏さん家=ビンサンチ」です。レオナルド・ダ・ヴィンチやビザンチン文化由来かと思いましたが、これは読み過ぎのようでした。<br />

    安曇野ビンサンチ美術館
    1993年、北山夫妻が安曇野に移住し、森の中にウェスタンレッドシダー・ログハウスのアトリエを建てたのが始まりです。2000年、アトリエを開放した「アトリエ美術館ビンサンチ」を開館。2012年には、森の自然から生まれた作品を森に返し、展示するための屋外ハーブガーデンが造成され、「安曇野ビンサンチ美術館」としてリニューアルオープン。カナダ風のログハウスと癒しのシダーの香りに包まれたアトリエを美術館として開放し、古民家を彷彿とさせる設いの内装も魅力いっぱいで、絵画の雰囲気にコーディネートされてます。2014年から安曇野アートラインの参加美術館の一員となり、人気急上昇中です。
    因みに、「ビンサンチ」とは、ご主人の名前の「敏」さんを文字って「敏さん家=ビンサンチ」です。レオナルド・ダ・ヴィンチやビザンチン文化由来かと思いましたが、これは読み過ぎのようでした。

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />夫婦でコラボされた作品を中心に展示されています。フクロウの絵やミクロの世界、愛犬セラちゃんをモデルにした食いしん坊セラちゃんと季節の植物の絵など、ほのぼのとしたやさしい気持ちになれる作品が目白押しです。<br />森林から発せられるマイナスイオンと相俟って心身ともに癒してくれます。また、アーティストや主婦、子どもたちとビンサンチとでコラボした作品も展示されています。<br />尚、館内やテラスで野いちごのティー、ダージリン・ティーやコーヒーがいただけ、居心地のよい寛ぎの空間です。自家製のハーブ・クッキーまでご馳走になりました。これで入館料300円は、ありえません。趣味と実益を兼ねてというスタンツのようですが、「今だけ価格」なのかもしれません。

    安曇野ビンサンチ美術館
    夫婦でコラボされた作品を中心に展示されています。フクロウの絵やミクロの世界、愛犬セラちゃんをモデルにした食いしん坊セラちゃんと季節の植物の絵など、ほのぼのとしたやさしい気持ちになれる作品が目白押しです。
    森林から発せられるマイナスイオンと相俟って心身ともに癒してくれます。また、アーティストや主婦、子どもたちとビンサンチとでコラボした作品も展示されています。
    尚、館内やテラスで野いちごのティー、ダージリン・ティーやコーヒーがいただけ、居心地のよい寛ぎの空間です。自家製のハーブ・クッキーまでご馳走になりました。これで入館料300円は、ありえません。趣味と実益を兼ねてというスタンツのようですが、「今だけ価格」なのかもしれません。

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />作品制作の合間をぬって、ご主人が親切に種々のアートの説明をしてくださいました。<br />この時計塔に配置された沢山の小さな人形たちは、ご主人が丹念に手作りされたものだそうです。手先も器用なのですね!

    安曇野ビンサンチ美術館
    作品制作の合間をぬって、ご主人が親切に種々のアートの説明をしてくださいました。
    この時計塔に配置された沢山の小さな人形たちは、ご主人が丹念に手作りされたものだそうです。手先も器用なのですね!

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />ここの「ミクロアート」は、身近なコーヒーやビールを偏光顕微鏡で覗いた、自然が織り成すミクロの世界を使ったデザインです。主宰の北山敏氏は、学習院大学環境科学研究所主任研究員として毒性生態学者という異色の経歴を持つCG作家です。アメリカのレオナルド誌に「偏光顕微鏡の科学と芸術」の論文を発表して脚光を浴び、その後国際アートビエンナーレに作品を出展されています。<br />植物や動物の細胞や鉱物を偏光顕微鏡で覗くと、今まで見たこともない、異次元の世界に迷い込んでしまったようなめくるめく幻想的な世界が開けます。これを利用し、20世紀中頃から欧米でアートの観点から美を追求する芸術活動が進められてきました。一定方向にだけ振動を許す偏光によって光学的性質を解析する偏光顕微鏡は、普通の顕微鏡に2枚の偏光レンズを加えただけなのですが、魔法をかけように見え方が劇的に変わります。多結晶の造形と組織と干渉色の鮮やかさの妙が、科学者を芸術家に変貌させるきっかけとなったのです。複屈折量、薄片の厚みに応じて色が変わり、光学異方性の化合物はその光学軸の方向によって想像を絶するような色調を創り出します。色彩や形(模様)を創り出すための法則性を見いだせないため、科学ではなく偶然性を追求するデザインあるいはアートとして確立されています。<br />

    安曇野ビンサンチ美術館
    ここの「ミクロアート」は、身近なコーヒーやビールを偏光顕微鏡で覗いた、自然が織り成すミクロの世界を使ったデザインです。主宰の北山敏氏は、学習院大学環境科学研究所主任研究員として毒性生態学者という異色の経歴を持つCG作家です。アメリカのレオナルド誌に「偏光顕微鏡の科学と芸術」の論文を発表して脚光を浴び、その後国際アートビエンナーレに作品を出展されています。
    植物や動物の細胞や鉱物を偏光顕微鏡で覗くと、今まで見たこともない、異次元の世界に迷い込んでしまったようなめくるめく幻想的な世界が開けます。これを利用し、20世紀中頃から欧米でアートの観点から美を追求する芸術活動が進められてきました。一定方向にだけ振動を許す偏光によって光学的性質を解析する偏光顕微鏡は、普通の顕微鏡に2枚の偏光レンズを加えただけなのですが、魔法をかけように見え方が劇的に変わります。多結晶の造形と組織と干渉色の鮮やかさの妙が、科学者を芸術家に変貌させるきっかけとなったのです。複屈折量、薄片の厚みに応じて色が変わり、光学異方性の化合物はその光学軸の方向によって想像を絶するような色調を創り出します。色彩や形(模様)を創り出すための法則性を見いだせないため、科学ではなく偶然性を追求するデザインあるいはアートとして確立されています。

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />右側に立っているのがお面屋のおばあさん。<br />中央にあるネコのお面のブローチを販売するために作られたユニットだそうです。<br />子供のころに抱いた夢がいっぱい詰め込まれ、見ているとワクワクした気分になります。

    安曇野ビンサンチ美術館
    右側に立っているのがお面屋のおばあさん。
    中央にあるネコのお面のブローチを販売するために作られたユニットだそうです。
    子供のころに抱いた夢がいっぱい詰め込まれ、見ているとワクワクした気分になります。

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />ビンさんのアトリエの看板です。

    安曇野ビンサンチ美術館
    ビンさんのアトリエの看板です。

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />屋外にあるハーブガーデン。<br />HPにもあるフクロウとの定番のショットです。<br />カナダ風ログハウスもギャラリーとして開放されています。

    安曇野ビンサンチ美術館
    屋外にあるハーブガーデン。
    HPにもあるフクロウとの定番のショットです。
    カナダ風ログハウスもギャラリーとして開放されています。

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />「食いしん坊セラちゃん…」の絵のモデルとなっている愛犬セラちゃんです。<br />勝手にもう少し小さな犬をイメージしていたので、初対面の時はびっくりしてしまいました。<br />ごねんなさいね!

    安曇野ビンサンチ美術館
    「食いしん坊セラちゃん…」の絵のモデルとなっている愛犬セラちゃんです。
    勝手にもう少し小さな犬をイメージしていたので、初対面の時はびっくりしてしまいました。
    ごねんなさいね!

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />このように、広いハーブガーデンのここかしこに絵が掲げられ、不思議な空間を創り出しています。<br />一枚ずつじっくり観て回ると、相当な時間を要します。

    安曇野ビンサンチ美術館
    このように、広いハーブガーデンのここかしこに絵が掲げられ、不思議な空間を創り出しています。
    一枚ずつじっくり観て回ると、相当な時間を要します。

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />ハーブガーデン側から見たログハウスです。

    安曇野ビンサンチ美術館
    ハーブガーデン側から見たログハウスです。

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />テラスに何気なく置かれていた細長いオブジェです。<br />想像力を働かせると「キツツキ!?」に見えてきました。<br />アートとは、こうした感性が支配する世界なんですね!!<br /><br />こんな空間で寛いでいると時間を忘れてしまうのですが、長居は無用です。1時間ほどで後ろ髪を引かれつつアトリエを後にします。

    安曇野ビンサンチ美術館
    テラスに何気なく置かれていた細長いオブジェです。
    想像力を働かせると「キツツキ!?」に見えてきました。
    アートとは、こうした感性が支配する世界なんですね!!

    こんな空間で寛いでいると時間を忘れてしまうのですが、長居は無用です。1時間ほどで後ろ髪を引かれつつアトリエを後にします。

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />安曇野アートロードのパンフレットに掲載されている割引券でポストカードが1枚/1人いただけます。<br />右上のものは、レセプションに置いてあった自由に持ち帰りできるポストカードです。<br />

    安曇野ビンサンチ美術館
    安曇野アートロードのパンフレットに掲載されている割引券でポストカードが1枚/1人いただけます。
    右上のものは、レセプションに置いてあった自由に持ち帰りできるポストカードです。

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />ネコのお面のブローチの説明を聞いていたら、欲しくなってしましました。<br />聞くとストアの中で販売していました。ただし、引出しの中にあるので訊ねないとゲットすることは困難です。縦横各15mmほどの大きさです。<br />どれもこれも可愛らしくて迷ってしまいましたが、「困った」顔をしたこれに決めました。

    安曇野ビンサンチ美術館
    ネコのお面のブローチの説明を聞いていたら、欲しくなってしましました。
    聞くとストアの中で販売していました。ただし、引出しの中にあるので訊ねないとゲットすることは困難です。縦横各15mmほどの大きさです。
    どれもこれも可愛らしくて迷ってしまいましたが、「困った」顔をしたこれに決めました。

  • 安曇野ビンサンチ美術館<br />作品群の中から2枚のポストカードを購入しました。

    安曇野ビンサンチ美術館
    作品群の中から2枚のポストカードを購入しました。

  • 安曇野絵本館<br />安曇野の山麓線沿いの森の小径を上って行くと、少し開けた場所に忽然と姿を現すお洒落な三角屋根の建物。大人のための小さな絵本美術館「安曇野絵本館」が佇むこの静謐な空間は、葉っぱが風に揺れる音に驚かされます。自然の風景と一体になった美術館たちは、建物自体がまるでひとつのアートのように馴染んでいます。爽やかな風を感じながら美術館巡りを楽しんでみましょう。<br />単に絵本の原画を展示するだけでなく、自然の中で絵本の舞台を実感したり、空間絵本とも言うような不思議な世界を演出したりと、まるでアミューズメントパークのような愉しさも併せ持つギャラリーです。<br />この美術館は、廣瀬オーナーが東欧の異彩絵本画家スタシス・エイドリゲビチェスに惹かれて開館された拘りの絵本館です。絵本の絵を子供の領域から解放する場、大人になってしまった人たちがかつては子供だったことを再認識する場として、落ち着ける空間を提供したいとの想いが込められています。<br />因みに、絵本館の建物の設計者は、清里をベースに活動されているアトリエ・プラス・ゼロの建築士 春日裕昭氏だそうです。<br />

    安曇野絵本館
    安曇野の山麓線沿いの森の小径を上って行くと、少し開けた場所に忽然と姿を現すお洒落な三角屋根の建物。大人のための小さな絵本美術館「安曇野絵本館」が佇むこの静謐な空間は、葉っぱが風に揺れる音に驚かされます。自然の風景と一体になった美術館たちは、建物自体がまるでひとつのアートのように馴染んでいます。爽やかな風を感じながら美術館巡りを楽しんでみましょう。
    単に絵本の原画を展示するだけでなく、自然の中で絵本の舞台を実感したり、空間絵本とも言うような不思議な世界を演出したりと、まるでアミューズメントパークのような愉しさも併せ持つギャラリーです。
    この美術館は、廣瀬オーナーが東欧の異彩絵本画家スタシス・エイドリゲビチェスに惹かれて開館された拘りの絵本館です。絵本の絵を子供の領域から解放する場、大人になってしまった人たちがかつては子供だったことを再認識する場として、落ち着ける空間を提供したいとの想いが込められています。
    因みに、絵本館の建物の設計者は、清里をベースに活動されているアトリエ・プラス・ゼロの建築士 春日裕昭氏だそうです。

  • 安曇野絵本館<br />ひとつのアートとの予期せぬ出会いが、その人の人生までも変えてしまったという典型例です。アートが持つ醍醐味であり、ある意味コワイ側面でもあります。スタシスは、1949年にリトアニアのメディニシュキで出生。油絵・テンペラ画・グラフィックデザインの各分野で、リトアニアと文化交流のあるポーランドの両国で活躍されています。1986年にカタロニア賞グランプリを受賞。邦訳した絵本には『スノー・クイーン』『ながいおはなのハンス』などがあります。画集『MASK』は、この絵本館から出版されています。現在はワルシャワ在住。<br />彼の作品は、シュールレアリスト(ダリ、キリコ、マグリットなど)と近い感覚で迫ってきます。しかし、生命や自身の意識の深層からインスピレーションを直接引き出しているという点で一線を画しているように思います。周囲の世界に敏感に反応し、無限のイメージを創生しています。大人の目では子どもたちが関心を示しそうに思えない作風なのですが、実は子どもたちも食い入るように眼をキラキラ輝かせて彼の絵を見つめているそうです。<br />彼の作品を展示している美術館には、小淵沢に「森フィリア美術館」、小樽に「森ヒロコ・スタシス美術館」があります。<br />

    安曇野絵本館
    ひとつのアートとの予期せぬ出会いが、その人の人生までも変えてしまったという典型例です。アートが持つ醍醐味であり、ある意味コワイ側面でもあります。スタシスは、1949年にリトアニアのメディニシュキで出生。油絵・テンペラ画・グラフィックデザインの各分野で、リトアニアと文化交流のあるポーランドの両国で活躍されています。1986年にカタロニア賞グランプリを受賞。邦訳した絵本には『スノー・クイーン』『ながいおはなのハンス』などがあります。画集『MASK』は、この絵本館から出版されています。現在はワルシャワ在住。
    彼の作品は、シュールレアリスト(ダリ、キリコ、マグリットなど)と近い感覚で迫ってきます。しかし、生命や自身の意識の深層からインスピレーションを直接引き出しているという点で一線を画しているように思います。周囲の世界に敏感に反応し、無限のイメージを創生しています。大人の目では子どもたちが関心を示しそうに思えない作風なのですが、実は子どもたちも食い入るように眼をキラキラ輝かせて彼の絵を見つめているそうです。
    彼の作品を展示している美術館には、小淵沢に「森フィリア美術館」、小樽に「森ヒロコ・スタシス美術館」があります。

  • 安曇野絵本館<br />エントランスでは、絵本館のシンボルの「ウサギウマ」の看板が出迎えてくれます。子供っぽさのない、飾り気のない落ち着いた雰囲気の作品が絵本館のコンセプトにとても似合っています。<br />廣瀬オーナーの旧友である松本市郊外の工房「PERSONA STUDIO(ペルソナスタジオ)」を主宰する木工デザイナー 三谷龍二氏の作品です。イラストレータ 和田誠氏が描いた週刊文集の表紙画にこのチャーミングな「ウサギウマ」が使われたことがあります。<br />松本では彼のアトリエ兼ギャラリーの10cmにも寄りました。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=35586527<br />三谷龍二氏のショップ「10cm」のHPです。<br />http://10cm.biz/html/top.html<br />

    安曇野絵本館
    エントランスでは、絵本館のシンボルの「ウサギウマ」の看板が出迎えてくれます。子供っぽさのない、飾り気のない落ち着いた雰囲気の作品が絵本館のコンセプトにとても似合っています。
    廣瀬オーナーの旧友である松本市郊外の工房「PERSONA STUDIO(ペルソナスタジオ)」を主宰する木工デザイナー 三谷龍二氏の作品です。イラストレータ 和田誠氏が描いた週刊文集の表紙画にこのチャーミングな「ウサギウマ」が使われたことがあります。
    松本では彼のアトリエ兼ギャラリーの10cmにも寄りました。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=35586527
    三谷龍二氏のショップ「10cm」のHPです。
    http://10cm.biz/html/top.html

  • 安曇野絵本館<br />エントランスに掲げられる看板にはフランス語で「Musee(美術館)de Livres(本)d’Images(絵、イメージ)d’Azumino」と書かれています。フランス語で絵本は「イメージの本」となります。<br />この美術館のコンセプトは、「大人のための大人向けにつくられた絵本館。内なる子供、内なる自然をテーマに『心の養生』を目的とした空間」です。子供の頃に目にした美しい色彩と心なごませる話の中にどっぷり浸れる寛ぎの空間です。その為、未就学児と20名以上の団体お断りの施設となります。お子さんの入館は、静かに鑑賞できるなら入館可能のようです。<br /><br />今回は時間の関係で外観だけの見学です。次回のお楽しみにとっておくつもりです。

    安曇野絵本館
    エントランスに掲げられる看板にはフランス語で「Musee(美術館)de Livres(本)d’Images(絵、イメージ)d’Azumino」と書かれています。フランス語で絵本は「イメージの本」となります。
    この美術館のコンセプトは、「大人のための大人向けにつくられた絵本館。内なる子供、内なる自然をテーマに『心の養生』を目的とした空間」です。子供の頃に目にした美しい色彩と心なごませる話の中にどっぷり浸れる寛ぎの空間です。その為、未就学児と20名以上の団体お断りの施設となります。お子さんの入館は、静かに鑑賞できるなら入館可能のようです。

    今回は時間の関係で外観だけの見学です。次回のお楽しみにとっておくつもりです。

  • 安曇野絵本館<br />カフェ・スペースで入場券の半券を見せると、コーヒー、野イチゴの紅茶、グレープジュースなど季節に合わせたメニューの中からドリンクを提供していただけるそうです。<br />吹き抜けになったログハウス風の館内は開放感たっぷり。大人向けの上質なファンタジーの余韻に浸りつつ、甘い香りの野イチゴ紅茶を森の空気といっしょにいただくのは極上の贅沢と言えます。絵本好きな人なら、一度訪れてみる価値はあると思います。数々の絵本関連の著名作家がプライベートで訪れるというのも納得です。 <br />

    安曇野絵本館
    カフェ・スペースで入場券の半券を見せると、コーヒー、野イチゴの紅茶、グレープジュースなど季節に合わせたメニューの中からドリンクを提供していただけるそうです。
    吹き抜けになったログハウス風の館内は開放感たっぷり。大人向けの上質なファンタジーの余韻に浸りつつ、甘い香りの野イチゴ紅茶を森の空気といっしょにいただくのは極上の贅沢と言えます。絵本好きな人なら、一度訪れてみる価値はあると思います。数々の絵本関連の著名作家がプライベートで訪れるというのも納得です。

  • 鐘の鳴る丘集会所 (市指定有形文化財)<br />ご年配の方であれば、一世を風靡した「とんがり帽子の時計台…♪」という歌をご存知と思います。GHQの指示で劇作家 菊田一夫氏が制作した、戦災孤児の救済に情熱を注ぐ若者と孤児たちが困難を乗り越える姿を描いたNKH連続ラジオドラマや映画「鐘の鳴る丘」の舞台になった場所です。 <br />建物の歴史は、1905年(明治38年)に善光寺門前町に建てられた3階建ての遊郭が始まりです。それを旧有明村の名士らが買い取り、1919年(大正8年)に今の有明高原寮の場所に移築。大正時代には有明温泉の名で賑わった温泉旅館だったそうです。鐘付き時計台はこの時代に増設されました。しかし、湯のぬるさが不評で1926年(昭和元年)に廃業。その後、松本市の篤志家が買い取り、時計台や痛んだ3階を外して2階建てに改装し、少年保護施設「松本少年学院」を開設。本土の戦災孤児だけでも3万人いた時代で、同じ頃に各地に民間の少年保護施設が設置されています。松本少年学院は3年足らずで買収され、国所管の有明高原寮になっています。1980年に老朽化した建物を旧穂高町が譲り受けて松尾寺公園内に移築し、「鐘の鳴る丘集会所」として5度目の人生をスタートさせています。<br />中央屋根に時計台を配し、シンメトリックの和洋折衷の和モダンな建物です。毎日午前10時、正午、午後3時に「とんがり帽子…♪」のメロディーが流され、現在は青少年の研修施設として利用されています。<br />松本少年学院時代には、少年たちが地域の人たちの農作業を手伝い、お礼に食糧を受け取ることもあったそうです。有明高原寮となっても全国で唯一塀のない少年院のまま、地域社会が一緒になって少年たちの更生を応援するDNAは受け継がれています。ここを「戦後の日本を象徴する建物」と称される方も多いようです。悲惨な戦争体験を風化させないためにも、この建物に詰まった歴史を連綿と語り継いでいかねばならないと思います。<br />

    鐘の鳴る丘集会所 (市指定有形文化財)
    ご年配の方であれば、一世を風靡した「とんがり帽子の時計台…♪」という歌をご存知と思います。GHQの指示で劇作家 菊田一夫氏が制作した、戦災孤児の救済に情熱を注ぐ若者と孤児たちが困難を乗り越える姿を描いたNKH連続ラジオドラマや映画「鐘の鳴る丘」の舞台になった場所です。
    建物の歴史は、1905年(明治38年)に善光寺門前町に建てられた3階建ての遊郭が始まりです。それを旧有明村の名士らが買い取り、1919年(大正8年)に今の有明高原寮の場所に移築。大正時代には有明温泉の名で賑わった温泉旅館だったそうです。鐘付き時計台はこの時代に増設されました。しかし、湯のぬるさが不評で1926年(昭和元年)に廃業。その後、松本市の篤志家が買い取り、時計台や痛んだ3階を外して2階建てに改装し、少年保護施設「松本少年学院」を開設。本土の戦災孤児だけでも3万人いた時代で、同じ頃に各地に民間の少年保護施設が設置されています。松本少年学院は3年足らずで買収され、国所管の有明高原寮になっています。1980年に老朽化した建物を旧穂高町が譲り受けて松尾寺公園内に移築し、「鐘の鳴る丘集会所」として5度目の人生をスタートさせています。
    中央屋根に時計台を配し、シンメトリックの和洋折衷の和モダンな建物です。毎日午前10時、正午、午後3時に「とんがり帽子…♪」のメロディーが流され、現在は青少年の研修施設として利用されています。
    松本少年学院時代には、少年たちが地域の人たちの農作業を手伝い、お礼に食糧を受け取ることもあったそうです。有明高原寮となっても全国で唯一塀のない少年院のまま、地域社会が一緒になって少年たちの更生を応援するDNAは受け継がれています。 ここを「戦後の日本を象徴する建物」と称される方も多いようです。悲惨な戦争体験を風化させないためにも、この建物に詰まった歴史を連綿と語り継いでいかねばならないと思います。

  • 有明山神社 一の鳥居<br />鐘の鳴る丘集会所の先で主人とは別行動になります。主人は、有明山神社に向けて急な坂を息を切らせながら上って行きます。当方は、一足先に「安曇野ちひろ美術館」へ向かいます。ここから先は、元トンボ玉美術館辺りまでズ〜ッと下り坂が続き、自転車のペダルを回す必要は全くありません。ほとんど信号もありません。<br /><br />きつい坂道を上り、有明山神社の標識を右に折れると一の鳥居がお出迎えです。<br />ここの鳥居は、自動車でそのまま潜り抜けることができます。<br />

    有明山神社 一の鳥居
    鐘の鳴る丘集会所の先で主人とは別行動になります。主人は、有明山神社に向けて急な坂を息を切らせながら上って行きます。当方は、一足先に「安曇野ちひろ美術館」へ向かいます。ここから先は、元トンボ玉美術館辺りまでズ〜ッと下り坂が続き、自転車のペダルを回す必要は全くありません。ほとんど信号もありません。

    きつい坂道を上り、有明山神社の標識を右に折れると一の鳥居がお出迎えです。
    ここの鳥居は、自動車でそのまま潜り抜けることができます。

  • 有明山神社 二の鳥居<br />二の鳥居の先は、黒松並木13本が続く参道となっています。<br /><br />有明山麓の宮城(みやしろ)集落の高台に鎮座するのが「有明山神社」。有明山をご神体とする山岳信仰の神社です。安曇野から眺めると北アルプスの美しい山々を覆い隠すかのように聳える標高2268mの有明山は「信濃富士」とも呼ばれ、「北アルプスの賽神」として古来より安曇野の人々に親しまれ、霊山として崇められてきました。手力雄命(たちからおのみこと)が天岩戸を引き放ち、辺りに光が射したことから、有明山と名付けられています。西行法師が「信濃なる 有明山を 西に見て 心細野の 道を行くなり」と、藤原定家が「てりかはる 紅葉をみねの 光にて まつ月細き 有明山」と詠んでいます。<br />穂高神社同様に本宮(里宮)の他、有明山山頂(中岳・南岳・北岳)には奥大宮があります。ご祭神には、戸隠神社同様に記紀神話の天岩戸伝説のフルキャストを中心に、天岩戸をこじ開けた力の神:手力雄命、岩戸前で宴会させた知恵の神:八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、岩戸前で踊った芸能の女神:天鈿女命(あめのうずめのみこと)、他数柱を祀っています。

    有明山神社 二の鳥居
    二の鳥居の先は、黒松並木13本が続く参道となっています。

    有明山麓の宮城(みやしろ)集落の高台に鎮座するのが「有明山神社」。有明山をご神体とする山岳信仰の神社です。安曇野から眺めると北アルプスの美しい山々を覆い隠すかのように聳える標高2268mの有明山は「信濃富士」とも呼ばれ、「北アルプスの賽神」として古来より安曇野の人々に親しまれ、霊山として崇められてきました。手力雄命(たちからおのみこと)が天岩戸を引き放ち、辺りに光が射したことから、有明山と名付けられています。西行法師が「信濃なる 有明山を 西に見て 心細野の 道を行くなり」と、藤原定家が「てりかはる 紅葉をみねの 光にて まつ月細き 有明山」と詠んでいます。
    穂高神社同様に本宮(里宮)の他、有明山山頂(中岳・南岳・北岳)には奥大宮があります。ご祭神には、戸隠神社同様に記紀神話の天岩戸伝説のフルキャストを中心に、天岩戸をこじ開けた力の神:手力雄命、岩戸前で宴会させた知恵の神:八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)、岩戸前で踊った芸能の女神:天鈿女命(あめのうずめのみこと)、他数柱を祀っています。

  • 有明山神社 二の鳥居<br />よく観ると、鳥居に掲げられている社号額『有明山神社』の「明」の文字の部首が「日」ではなくて「目」となっています。「明」の異体字だと思われます。「明」は、元々会意文字でもあり、組合せた文字の意味を合体させて新しい意味を表します。しかし「窓と月」の組合せは見たことがありますが、「目と月」は初めてです。因みに、「窓と月」の方は有明山神社のご朱印に使われています。<br />「日と月」による強い明るさではなく、目に映るうつろな「月光」に照らされた幽玄な世界という意味でしょうか?<br />あるいは、天岩戸を引き放ち、辺りに光が射したことからご神体の有明山が命名されたということですので、目にも眩しい閃光のような光という意味でしょうか?<br />いずれにしても味わい深い文字と言えます。<br />

    有明山神社 二の鳥居
    よく観ると、鳥居に掲げられている社号額『有明山神社』の「明」の文字の部首が「日」ではなくて「目」となっています。「明」の異体字だと思われます。「明」は、元々会意文字でもあり、組合せた文字の意味を合体させて新しい意味を表します。しかし「窓と月」の組合せは見たことがありますが、「目と月」は初めてです。因みに、「窓と月」の方は有明山神社のご朱印に使われています。
    「日と月」による強い明るさではなく、目に映るうつろな「月光」に照らされた幽玄な世界という意味でしょうか?
    あるいは、天岩戸を引き放ち、辺りに光が射したことからご神体の有明山が命名されたということですので、目にも眩しい閃光のような光という意味でしょうか?
    いずれにしても味わい深い文字と言えます。

  • 有明山神社 手水舎(市指定文化財)<br />飛騨の匠 山口権之正が1902年に建造した美しい手水舎です。造りの端麗さもさることながら、これほどまでに良好な状態で保存されていることに、地元の方々の深い愛着が感じられます。<br />山口権之正は、有明山神社の神門「裕明門」のデザイン・コンペで清水虎吉と最後まで競った人物です。この手水舎は、極めてハイレベルな名職人同士の矜持のぶつかり合いの賜物と言えます。負けた悔しさをぶつけた作品と言っても良いのでは…。「試合に負けて、勝負に勝つ」の見本と言えるかも…。<br />

    有明山神社 手水舎(市指定文化財)
    飛騨の匠 山口権之正が1902年に建造した美しい手水舎です。造りの端麗さもさることながら、これほどまでに良好な状態で保存されていることに、地元の方々の深い愛着が感じられます。
    山口権之正は、有明山神社の神門「裕明門」のデザイン・コンペで清水虎吉と最後まで競った人物です。この手水舎は、極めてハイレベルな名職人同士の矜持のぶつかり合いの賜物と言えます。負けた悔しさをぶつけた作品と言っても良いのでは…。「試合に負けて、勝負に勝つ」の見本と言えるかも…。

  • 有明山神社 手水舎 鬼瓦<br />棟の両端の隙間から侵入する雨あるいは雪から守る役目が鬼瓦。神の姿を「人間と違う」という概念でとらえて「鬼」とも言い、鬼瓦はこちらの意味からの由来です。古来より日本では屋根の棟端は神聖な霊所として崇められてきました。家内安全・無病息災・災害回避、そういった願いを屋根に託したシンボルが鬼瓦です。屋根に載っている装飾瓦や蔵の鏝絵に描かれている虎には、強靭な力で魔物を寄せつけないということから、疫病除けの意味があるそうです。<br />ここの鬼瓦は、家紋に当たる「元」の紋所を中央に配し、その両側に菊水、その下に波をあしらっています。更に、竹林の中の虎を意匠した浮き彫りが加わり、全体の調和が図られています。鬼瓦の超豪華版と讃えてもよいのではないでしょうか?<br />「いぶし銀」と形容される鬼瓦の落ち着いた色彩と造形には、味わい深いものが多々見られます。<br />作者不詳とされていますが、有明山神社の建築に携わった職人の名前が記録されており、瓦葺職人として東川手村 増沢長次郎の名があったそうです。そこから、長次郎が営む瓦屋には三河鬼師 神谷房吉が出入りしていたことより、有明山神社の飾り瓦も房吉の作であると推定されています。<br />

    有明山神社 手水舎 鬼瓦
    棟の両端の隙間から侵入する雨あるいは雪から守る役目が鬼瓦。神の姿を「人間と違う」という概念でとらえて「鬼」とも言い、鬼瓦はこちらの意味からの由来です。古来より日本では屋根の棟端は神聖な霊所として崇められてきました。家内安全・無病息災・災害回避、そういった願いを屋根に託したシンボルが鬼瓦です。屋根に載っている装飾瓦や蔵の鏝絵に描かれている虎には、強靭な力で魔物を寄せつけないということから、疫病除けの意味があるそうです。
    ここの鬼瓦は、家紋に当たる「元」の紋所を中央に配し、その両側に菊水、その下に波をあしらっています。更に、竹林の中の虎を意匠した浮き彫りが加わり、全体の調和が図られています。鬼瓦の超豪華版と讃えてもよいのではないでしょうか?
    「いぶし銀」と形容される鬼瓦の落ち着いた色彩と造形には、味わい深いものが多々見られます。
    作者不詳とされていますが、有明山神社の建築に携わった職人の名前が記録されており、瓦葺職人として東川手村 増沢長次郎の名があったそうです。そこから、長次郎が営む瓦屋には三河鬼師 神谷房吉が出入りしていたことより、有明山神社の飾り瓦も房吉の作であると推定されています。

  • 有明山神社 手水舎<br />手水舎の屋根(裏面)には、珍しい「浦島太郎」の飾り瓦が置かれています。<br />龍宮城から戻った太郎がお土産の玉手箱を開ける前の喜びに満ちた表情と、開けた途端一瞬にして年老いた姿に変わった様子を表現した手の込んだ瓦です。<br /><br />

    有明山神社 手水舎
    手水舎の屋根(裏面)には、珍しい「浦島太郎」の飾り瓦が置かれています。
    龍宮城から戻った太郎がお土産の玉手箱を開ける前の喜びに満ちた表情と、開けた途端一瞬にして年老いた姿に変わった様子を表現した手の込んだ瓦です。

  • 有明山神社 手水舎<br />玉手箱を開けてしまった瞬間です。<br />自分の変身ぶりが判らないため、にこやかな表情をしています。

    有明山神社 手水舎
    玉手箱を開けてしまった瞬間です。
    自分の変身ぶりが判らないため、にこやかな表情をしています。

  • 有明山神社 手水舎<br />側面から見ると、髪や髭、眉毛が伸び、背も丸まり、一気に年老いた細かい描写がなされていて吃驚します。

    有明山神社 手水舎
    側面から見ると、髪や髭、眉毛が伸び、背も丸まり、一気に年老いた細かい描写がなされていて吃驚します。

  • 有明山神社 手水舎<br />他にも、孔子と孟子、狛犬、鯱も鎮座しており、一説には三河の鬼師 神谷房吉の作品とも伝えられています。<br /><br />鳩が足元に配されていることから孔子ではないかと思われます。<br />「鳩に三枝の礼あり、烏に反哺の孝あり」という孔子の格言からの推察です。<br />「小鳩は親鳩より三本下の枝に止まるという礼をわきまえ、烏は養育してもらった親の恩に報いるために年老いた親烏の口に餌を含ませる」という意味です。<br />

    有明山神社 手水舎
    他にも、孔子と孟子、狛犬、鯱も鎮座しており、一説には三河の鬼師 神谷房吉の作品とも伝えられています。

    鳩が足元に配されていることから孔子ではないかと思われます。
    「鳩に三枝の礼あり、烏に反哺の孝あり」という孔子の格言からの推察です。
    「小鳩は親鳩より三本下の枝に止まるという礼をわきまえ、烏は養育してもらった親の恩に報いるために年老いた親烏の口に餌を含ませる」という意味です。

  • 有明山神社 手水舎<br />消去法で、こちらが孟子。<br />教育には環境の影響が大きく、環境を選ぶことが大切という「孟母三遷の教え」(墓所の近くに住むと葬式のまねをして遊ぶので市中に引っ越した。今度は商売の真似するので学校のそばに引っ越した。すると礼儀作法を真似たのでそこに居を定めたという故事)、あるいは「断機の戒め」(織りかけの機の糸を断ち切り、学業を中途で放棄することはこのようなものであると戒めたという故事)の母の下で大成した孟子の姿を表しているように思えます。<br />

    有明山神社 手水舎
    消去法で、こちらが孟子。
    教育には環境の影響が大きく、環境を選ぶことが大切という「孟母三遷の教え」(墓所の近くに住むと葬式のまねをして遊ぶので市中に引っ越した。今度は商売の真似するので学校のそばに引っ越した。すると礼儀作法を真似たのでそこに居を定めたという故事)、あるいは「断機の戒め」(織りかけの機の糸を断ち切り、学業を中途で放棄することはこのようなものであると戒めたという故事)の母の下で大成した孟子の姿を表しているように思えます。

  • 有明山神社 手水舎<br />それでは彫刻群をじっくり堪能していただきましょう。<br /><br />正面左には麒麟。<br />日光東照宮の手水舎も立派ですが、陽明門を模したと言う裕明門同様に手水舎まで張り合ったのでしょう。スケールこそ裕明門には及びませんが、その造り、彫刻の見事さは引けを取りません。重厚な屋根を支える華奢な4脚が踏ん張ったフォルムは簡素美を醸し、虹梁の欄間部分には麒麟や鳳凰、龍、虎、獅子、鷹などが彫られ、木鼻には唐獅子、下魚や破風部分にもふんだんに彫刻が施され、その勢いに圧倒されます。

    有明山神社 手水舎
    それでは彫刻群をじっくり堪能していただきましょう。

    正面左には麒麟。
    日光東照宮の手水舎も立派ですが、陽明門を模したと言う裕明門同様に手水舎まで張り合ったのでしょう。スケールこそ裕明門には及びませんが、その造り、彫刻の見事さは引けを取りません。重厚な屋根を支える華奢な4脚が踏ん張ったフォルムは簡素美を醸し、虹梁の欄間部分には麒麟や鳳凰、龍、虎、獅子、鷹などが彫られ、木鼻には唐獅子、下魚や破風部分にもふんだんに彫刻が施され、その勢いに圧倒されます。

  • 有明山神社 手水舎<br />正面右には鳳凰。

    有明山神社 手水舎
    正面右には鳳凰。

  • 有明山神社 手水舎<br />右の妻側にある鶴。その下には葡萄とリスでしょうか?

    有明山神社 手水舎
    右の妻側にある鶴。その下には葡萄とリスでしょうか?

  • 有明山神社 手水舎<br />右側面には牡丹と唐獅子。

    有明山神社 手水舎
    右側面には牡丹と唐獅子。

  • 有明山神社 手水舎<br />裏面左には松と鷹。

    有明山神社 手水舎
    裏面左には松と鷹。

  • 有明山神社 手水舎<br />背面右には竹と虎。<br />日本最古の「竹と虎」の図相は、法隆寺にある飛鳥時代の作とされる玉虫厨子の須弥座に描かれる「捨身飼虎図」に見られます。「捨身飼虎」はインド由来の『金光明経』の中で語られたもので、この経典がルーツだと考えられています。<br />昔、薩捶王子が園林に出かけた時、2匹の仔を持つ虎と出会いました。しかし親虎はここ数日間、獲物を猟ることができず痩せ衰え、今にも可愛がっている仔を食べんかの如くでした。世の中で最も悲惨な場面に遭遇した王子は、衣服を脱いで虎の前に横たわりました。しかし、虎は何もしません。王子は、「虎は痩せ衰え、身体に力がない。そのために自分を食べることができない」と考えました。そこで王子は、崖の上に登り、裂けた竹の先で首を切り、血を流して虎の食欲を自分に向くように促し、崖の上から飛び降りて虎の前に身を投げ出しました。その時、大地は震動し、天から華が雨のごとく降り注ぎました。この王子は、お釈迦さまの前世の姿であったと説かれています。<br />

    有明山神社 手水舎
    背面右には竹と虎。
    日本最古の「竹と虎」の図相は、法隆寺にある飛鳥時代の作とされる玉虫厨子の須弥座に描かれる「捨身飼虎図」に見られます。「捨身飼虎」はインド由来の『金光明経』の中で語られたもので、この経典がルーツだと考えられています。
    昔、薩捶王子が園林に出かけた時、2匹の仔を持つ虎と出会いました。しかし親虎はここ数日間、獲物を猟ることができず痩せ衰え、今にも可愛がっている仔を食べんかの如くでした。世の中で最も悲惨な場面に遭遇した王子は、衣服を脱いで虎の前に横たわりました。しかし、虎は何もしません。王子は、「虎は痩せ衰え、身体に力がない。そのために自分を食べることができない」と考えました。そこで王子は、崖の上に登り、裂けた竹の先で首を切り、血を流して虎の食欲を自分に向くように促し、崖の上から飛び降りて虎の前に身を投げ出しました。その時、大地は震動し、天から華が雨のごとく降り注ぎました。この王子は、お釈迦さまの前世の姿であったと説かれています。

  • 有明山神社 手水舎<br />左妻側には飛龍。

    有明山神社 手水舎
    左妻側には飛龍。

  • 有明山神社 手水舎<br />左側面には龍。

    有明山神社 手水舎
    左側面には龍。

  • 有明山神社 手水舎<br />手水の流れ口にある龍のブロンズ像は、するどい爪の細部までリアルに表現されています。<br />手水鉢も立派なものです。天然石の趣があります。<br />

    有明山神社 手水舎
    手水の流れ口にある龍のブロンズ像は、するどい爪の細部までリアルに表現されています。
    手水鉢も立派なものです。天然石の趣があります。

  • 有明山神社 手水舎<br />つい見落としがちなのが、天井にある欅の1枚板に彫られた見事な龍です。<br />口の中が赤く彩色され、猛々しく参拝者を見下ろすかのようで圧巻です。<br /><br /><br />

    有明山神社 手水舎
    つい見落としがちなのが、天井にある欅の1枚板に彫られた見事な龍です。
    口の中が赤く彩色され、猛々しく参拝者を見下ろすかのようで圧巻です。


  • 有明山神社 手水舎<br />落款には「山口権之守」と刻まれています。<br />

    有明山神社 手水舎
    落款には「山口権之守」と刻まれています。

  • 有明山神社 神門「裕明門」(市指定文化財)<br />別名「信濃日光裕明門」とも称され、彫刻がとても繊細巧妙で壮麗な佇まいを見せる神門です。<br />1902年に日光東照宮「陽明門」を模して建てられ、和様に唐楼を混ぜた精巧美麗を極めています。切妻造軒唐破風付8脚門、銅瓦葺は大工棟梁 佐々木喜十、内外部の彫刻は眼猫や十二支図、二十四孝図などを諏訪立川流彫刻師で立川東渓を号した清水虎吉が彫り、40枚におよぶ格天井絵は京都の画家 村田香谷が描いています。見事なコラボレーションの傑作と言えます。<br />軒下には脚部を取り巻くように、鉄拐・蝦蟇などの仙人図、二十四孝図(唐夫人、郭巨、老萊子、楊香)など立川流の最も得意とした人物彫刻と十二支図や唐獅子、龍など霊獣彫刻が刻まれています。スケールといい風格といい、この裕明門こそ清水虎吉の最高傑作と称されるのも頷けます。

    有明山神社 神門「裕明門」(市指定文化財)
    別名「信濃日光裕明門」とも称され、彫刻がとても繊細巧妙で壮麗な佇まいを見せる神門です。
    1902年に日光東照宮「陽明門」を模して建てられ、和様に唐楼を混ぜた精巧美麗を極めています。切妻造軒唐破風付8脚門、銅瓦葺は大工棟梁 佐々木喜十、内外部の彫刻は眼猫や十二支図、二十四孝図などを諏訪立川流彫刻師で立川東渓を号した清水虎吉が彫り、40枚におよぶ格天井絵は京都の画家 村田香谷が描いています。見事なコラボレーションの傑作と言えます。
    軒下には脚部を取り巻くように、鉄拐・蝦蟇などの仙人図、二十四孝図(唐夫人、郭巨、老萊子、楊香)など立川流の最も得意とした人物彫刻と十二支図や唐獅子、龍など霊獣彫刻が刻まれています。スケールといい風格といい、この裕明門こそ清水虎吉の最高傑作と称されるのも頷けます。

  • 有明山神社 裕明門<br />唐破風の拝懸魚には鳳凰の彫り物があります。<br />よく見ると瓦には「有」をデフォルメした文字が入れられています。<br />

    有明山神社 裕明門
    唐破風の拝懸魚には鳳凰の彫り物があります。
    よく見ると瓦には「有」をデフォルメした文字が入れられています。

  • 有明山神社 裕明門<br />正面戸口には、「玉持親子龍」の上に「粟穂に鶉(うずら)」が彫られています。<br />立川流彫刻の真骨頂と言えば、この「粟穂に鶉」。粟穂は一粒万倍、鶉は子沢山と言うことで子孫繁栄という意味があり、吉兆の組合せ図相です。<br />

    有明山神社 裕明門
    正面戸口には、「玉持親子龍」の上に「粟穂に鶉(うずら)」が彫られています。
    立川流彫刻の真骨頂と言えば、この「粟穂に鶉」。粟穂は一粒万倍、鶉は子沢山と言うことで子孫繁栄という意味があり、吉兆の組合せ図相です。

  • 有明山神社 裕明門<br />正面右側の上段には竹と虎。

    有明山神社 裕明門
    正面右側の上段には竹と虎。

  • 有明山神社 裕明門<br />正面右側の下段には牡丹の花と授乳中の狛犬の親子。

    有明山神社 裕明門
    正面右側の下段には牡丹の花と授乳中の狛犬の親子。

  • 有明山神社 裕明門<br />正面角の木鼻狛犬。<br />この木鼻の狛犬も門の先に安置されている石像の狛犬同様に強面です。

    有明山神社 裕明門
    正面角の木鼻狛犬。
    この木鼻の狛犬も門の先に安置されている石像の狛犬同様に強面です。

  • 有明山神社 裕明門<br />驚くのは、この籠に入れられた鞠が透かし彫りされていることです。<br />つまり、鞠が籠の中で動くように彫られています。

    有明山神社 裕明門
    驚くのは、この籠に入れられた鞠が透かし彫りされていることです。
    つまり、鞠が籠の中で動くように彫られています。

  • 有明山神社 裕明門<br />粟穂に鶉(うずら)<br />鶉は、尾が短く、身体が丸いキジ科の鳥です。古来より世界各地に棲息し、紀元前3000年頃のエジプトの遺跡には、網を使って鶉を捕獲する様子が彫刻されているそうです。また、象形文字にも鶉が用いられていたようです。日本でも鶉は古くから親しみ深い鳥のひとつで、万葉集にも鶉を詠んだ和歌が見受けられます。秋に渡来し、草原や稲田などの平地に群れをなして棲む鶉は、秋の情景を表し、「鶉鳴く」は「古りにし里」にかかる枕詞として用いられます。そのため鶉をモチーフとした意匠としては、穂が実った粟や菊の花など秋の植物と組み合わせた図相が多いそうです。鶉は室町時代から武家や大名の間で飼われはじめたようです。かわいらしい姿はもちろんのこと、その鳴き声が「御吉兆(ゴキッチョー)」と聞こえることから、縁起の良い鳥と珍重され、戦国時代には出陣前の縁起担ぎに用いられたようです。江戸時代には、鶉の飼育が庶民の間にも流行し、鶉籠と呼ばれる鶉を入れる籠も多く作られ、金細工を施したものまで登場したそうです。また、武家を中心に鶉の鳴き声を競う「鶉合わせ」も流行したようです。往時、鶉は鳴き声だけではなく、姿形の良いものは高額で取引され、時には賄賂として用いられ、鶉の飼育は大正時代頃まで盛んに行われていたようです。<br />

    有明山神社 裕明門
    粟穂に鶉(うずら)
    鶉は、尾が短く、身体が丸いキジ科の鳥です。古来より世界各地に棲息し、紀元前3000年頃のエジプトの遺跡には、網を使って鶉を捕獲する様子が彫刻されているそうです。また、象形文字にも鶉が用いられていたようです。 日本でも鶉は古くから親しみ深い鳥のひとつで、万葉集にも鶉を詠んだ和歌が見受けられます。秋に渡来し、草原や稲田などの平地に群れをなして棲む鶉は、秋の情景を表し、「鶉鳴く」は「古りにし里」にかかる枕詞として用いられます。そのため鶉をモチーフとした意匠としては、穂が実った粟や菊の花など秋の植物と組み合わせた図相が多いそうです。 鶉は室町時代から武家や大名の間で飼われはじめたようです。かわいらしい姿はもちろんのこと、その鳴き声が「御吉兆(ゴキッチョー)」と聞こえることから、縁起の良い鳥と珍重され、戦国時代には出陣前の縁起担ぎに用いられたようです。 江戸時代には、鶉の飼育が庶民の間にも流行し、鶉籠と呼ばれる鶉を入れる籠も多く作られ、金細工を施したものまで登場したそうです。また、武家を中心に鶉の鳴き声を競う「鶉合わせ」も流行したようです。往時、鶉は鳴き声だけではなく、姿形の良いものは高額で取引され、時には賄賂として用いられ、鶉の飼育は大正時代頃まで盛んに行われていたようです。

  • 有明山神社 裕明門<br />左側面の上段には「木賊(とくさ)に兎」。<br />「木賊に兎」は、古来からの兎の文様の組合わせ図相です。<br />夫木(ふぼく)和歌集で源 仲正が詠った「木賊刈る 薗原山の 木の間より みがきいでぬる 秋の夜の月」に因むそうです。老翁が我が子と生き別れになったのは、信州園原という木賊が生い茂る場所でした。この地は月の名所としても知られていました。<br />「木賊を刈る」は俳句の季語で「秋」を表し、ここから「木賊」(秋)→秋の風物「満月」。月のクレーターの影は兎の形に喩えられますから、「満月」→「兎」へとつながり、『木賊に兎』という文様に発展したと言うのが定説です。木賊は研草とも書き、昔はサンドペーパーとして使われたため、月が磨いたように美しい様からの繋がりという話もあり、更には兎の印象的な前歯も硬い物を噛んで磨かなければ伸びてしまうらしいので、木賊と兎が結び付いたとも言われています。現実的なものより、ロマンのある解釈を贔屓したいですね。

    有明山神社 裕明門
    左側面の上段には「木賊(とくさ)に兎」。
    「木賊に兎」は、古来からの兎の文様の組合わせ図相です。
    夫木(ふぼく)和歌集で源 仲正が詠った「木賊刈る 薗原山の 木の間より みがきいでぬる 秋の夜の月」に因むそうです。老翁が我が子と生き別れになったのは、信州園原という木賊が生い茂る場所でした。この地は月の名所としても知られていました。
    「木賊を刈る」は俳句の季語で「秋」を表し、ここから「木賊」(秋)→秋の風物「満月」。月のクレーターの影は兎の形に喩えられますから、「満月」→「兎」へとつながり、『木賊に兎』という文様に発展したと言うのが定説です。 木賊は研草とも書き、昔はサンドペーパーとして使われたため、月が磨いたように美しい様からの繋がりという話もあり、更には兎の印象的な前歯も硬い物を噛んで磨かなければ伸びてしまうらしいので、木賊と兎が結び付いたとも言われています。現実的なものより、ロマンのある解釈を贔屓したいですね。

  • 有明山神社 裕明門<br />唐夫人<br />老婆が乳を吸わせてもらっています。それを見て、右横にいる子供がビックリ仰天している図相です。<br />姑の長孫夫人の歯がすべて抜け落ちたため、孝行者の夫人は自分の乳を飲ませました。おかげで姑は穀物を食べることなく数年間を健康に暮らせました。ある日、姑が病に倒れた折、集まった一族の前で、これまでの夫人の恩に報いるべく「願えることなら孫子の代まで夫人のようにして欲しい」と言いました<br />親孝行すれば、やがて恩が報われ、将来繁栄するという言い伝えです。<br /><br />「二十四孝」とは、元代の郭居敬が、家庭教育や児童教育を目的として、24人の孝行者の物語を書物としてまとめたものです。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目としていました。江戸時代には寺子屋の教科書として使われ、こうして寺の欄干などにも逸話の場面を表した彫像が残されています。つまり、キリスト教会で言うところの聖書の教えを描いたステンドグラスと同じ役割です。文盲の人でも教えが分かるように、ビジュアライズされたものです。

    有明山神社 裕明門
    唐夫人
    老婆が乳を吸わせてもらっています。それを見て、右横にいる子供がビックリ仰天している図相です。
    姑の長孫夫人の歯がすべて抜け落ちたため、孝行者の夫人は自分の乳を飲ませました。おかげで姑は穀物を食べることなく数年間を健康に暮らせました。ある日、姑が病に倒れた折、集まった一族の前で、これまでの夫人の恩に報いるべく「願えることなら孫子の代まで夫人のようにして欲しい」と言いました
    親孝行すれば、やがて恩が報われ、将来繁栄するという言い伝えです。

    「二十四孝」とは、元代の郭居敬が、家庭教育や児童教育を目的として、24人の孝行者の物語を書物としてまとめたものです。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目としていました。江戸時代には寺子屋の教科書として使われ、こうして寺の欄干などにも逸話の場面を表した彫像が残されています。つまり、キリスト教会で言うところの聖書の教えを描いたステンドグラスと同じ役割です。文盲の人でも教えが分かるように、ビジュアライズされたものです。

  • 有明山神社 裕明門<br />老莱子(ろうらいし)<br />老いた両親を喜ばせている、老莱子の姿を描いています。<br />老莱子は70歳にもなりましたが、年老いた両親は健在でした。親を喜ばせようと、綺麗な衣を着て、幼児の姿となって愚かに舞い戯れました。さらに親に給仕しようとして、わざと転んで子どものように泣きじゃくりました。<br />何故こんな稚拙な振る舞いをしたかと言うと、自分の老いた姿を見たら親が悲しく思うだろうと心配したからです。さらに両親が自身の老いを自覚しないようにとの配慮から、このような振る舞いをしたのだそうです。<br />

    有明山神社 裕明門
    老莱子(ろうらいし)
    老いた両親を喜ばせている、老莱子の姿を描いています。
    老莱子は70歳にもなりましたが、年老いた両親は健在でした。親を喜ばせようと、綺麗な衣を着て、幼児の姿となって愚かに舞い戯れました。さらに親に給仕しようとして、わざと転んで子どものように泣きじゃくりました。
    何故こんな稚拙な振る舞いをしたかと言うと、自分の老いた姿を見たら親が悲しく思うだろうと心配したからです。さらに両親が自身の老いを自覚しないようにとの配慮から、このような振る舞いをしたのだそうです。

  • 有明山神社 裕明門<br />郭巨<br />親子が金の延べ棒を掘り出して喜んでいる様子です。<br />郭巨は、貧しい家で慎ましく暮らしていました。郭巨の母は3歳の孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えました。郭巨は女房に、「我が家は貧しく母の食事さえも足りない。それなのに孫に分けていては命が持たない。子はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。この子を埋めて母を養おう」と諭しました。女房は悲嘆に暮れましたが、夫の命には従う他なく、泣く泣く子を埋めに行きました。郭巨が涙を流しながら地面を掘ると黄金一釜が出てきて、その釜に文字が書いてありました。「孝行な郭巨に天からこれを授ける。他人は盗ってはならない」とありました。郭巨と女房は黄金をいただいて喜び、子と一緒に家に戻り、さらに母親に孝行を尽くしたと言うことです。<br />

    有明山神社 裕明門
    郭巨
    親子が金の延べ棒を掘り出して喜んでいる様子です。
    郭巨は、貧しい家で慎ましく暮らしていました。郭巨の母は3歳の孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えました。郭巨は女房に、「我が家は貧しく母の食事さえも足りない。それなのに孫に分けていては命が持たない。子はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。この子を埋めて母を養おう」と諭しました。女房は悲嘆に暮れましたが、夫の命には従う他なく、泣く泣く子を埋めに行きました。郭巨が涙を流しながら地面を掘ると黄金一釜が出てきて、その釜に文字が書いてありました。「孝行な郭巨に天からこれを授ける。他人は盗ってはならない」とありました。郭巨と女房は黄金をいただいて喜び、子と一緒に家に戻り、さらに母親に孝行を尽くしたと言うことです。

  • 有明山神社 裕明門<br />楊香(よ うこう)<br />ある日、楊香が父と共に山に行った際、突然虎が躍り出て今にも2人を食べようとしました。楊香は虎が立ち去ることを願いました。しかし、それが叶わないと知ると、父が食べられないように「天の神よ、どうか私だけを食べ、父を助けて下さいませ」と懸命に祈りました。すると、それまで猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて退散し、父子共に命が助かったと言うことです。<br />

    有明山神社 裕明門
    楊香(よ うこう)
    ある日、楊香が父と共に山に行った際、突然虎が躍り出て今にも2人を食べようとしました。楊香は虎が立ち去ることを願いました。しかし、それが叶わないと知ると、父が食べられないように「天の神よ、どうか私だけを食べ、父を助けて下さいませ」と懸命に祈りました。すると、それまで猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて退散し、父子共に命が助かったと言うことです。

  • 有明山神社 裕明門<br />虎吉の手で錫杖紋が虹梁の下場に彫られています。立川流は、このように芽と芽の間に少し彫り目を入れるのが特徴だそうです。<br />錫杖は、僧や修行者が持つ金属性の頭部がある杖です。杖の頭は塔婆形に作り、数個の環を付けて振り鳴らします。元々はインドで旅行者が猛獣や毒蛇などを追い払うのに用い、後に修行者の法具となりました。日本にも古くから渡来し、正倉院の御物にもあります。錫杖紋は、現在は津軽氏の紋となっていますが、一説には坂上田村麻呂が陣中で用いたとされています。<br /><br />と言うことは、この彫刻は田村麻呂由来なのかもしれません。

    有明山神社 裕明門
    虎吉の手で錫杖紋が虹梁の下場に彫られています。立川流は、このように芽と芽の間に少し彫り目を入れるのが特徴だそうです。
    錫杖は、僧や修行者が持つ金属性の頭部がある杖です。杖の頭は塔婆形に作り、数個の環を付けて振り鳴らします。元々はインドで旅行者が猛獣や毒蛇などを追い払うのに用い、後に修行者の法具となりました。日本にも古くから渡来し、正倉院の御物にもあります。錫杖紋は、現在は津軽氏の紋となっていますが、一説には坂上田村麻呂が陣中で用いたとされています。

    と言うことは、この彫刻は田村麻呂由来なのかもしれません。

  • 有明山神社 裕明門<br />まだ充分綺麗な彩色を留め、それぞれの動植物が生き生きとしています。<br />格天井絵が全部で40枚あり、京都の画家 村田香谷70余才の最高傑作と誉れ高い作品群です。<br />

    有明山神社 裕明門
    まだ充分綺麗な彩色を留め、それぞれの動植物が生き生きとしています。
    格天井絵が全部で40枚あり、京都の画家 村田香谷70余才の最高傑作と誉れ高い作品群です。

  • 有明山神社 裕明門<br />中央下の「白狐」は、どことなく愛着が湧く絵です。<br /><br />因みに、神楽殿にも素晴らしい天井絵があります。普段は公開されていないのですが、まさに「安曇野の宝」と呼ぶに相応しい天井絵で、31人の日本画家により、目を瞠るような81枚の板絵作品がゴージャスに組まれています。<br />「椿」「石楠花」「夕顔」「柿」などの植物や木の実など、艶やかな極彩色で個性的な魅力を醸し出しています。見る者に迫りくる、高尚優美な格天井です。中央に堂々と飾られる1枚には、橋本雅邦による「2羽のカラス」の絵が描かれています。雅邦は横山大観、菱田春草、川合玉堂といった近代日本画の巨匠たちの師匠格であり、明治の日本を代表する大家でもありました。

    有明山神社 裕明門
    中央下の「白狐」は、どことなく愛着が湧く絵です。

    因みに、神楽殿にも素晴らしい天井絵があります。普段は公開されていないのですが、まさに「安曇野の宝」と呼ぶに相応しい天井絵で、31人の日本画家により、目を瞠るような81枚の板絵作品がゴージャスに組まれています。
    「椿」「石楠花」「夕顔」「柿」などの植物や木の実など、艶やかな極彩色で個性的な魅力を醸し出しています。見る者に迫りくる、高尚優美な格天井です。中央に堂々と飾られる1枚には、橋本雅邦による「2羽のカラス」の絵が描かれています。雅邦は横山大観、菱田春草、川合玉堂といった近代日本画の巨匠たちの師匠格であり、明治の日本を代表する大家でもありました。

  • 有明山神社 裕明門<br />山門と言えば仁王像がポピュラーですが、神社ゆえ表面を随神、裏面を御神馬が守ります。<br />随神が安置されているのは日光東照宮「陽明門」と同じです。裏面は、狛犬に対して馬と異なりますが…。<br />随神は、矢大神(やだいしん)・左大神(さだいしん)という俗称で呼ばれることもあります。左右2柱共、弓と矢を携え剣を帯びていますが、これはその昔、武装して貴人の護衛にあたった近衛府の舎人の姿で、彼らは「随身」と呼ばれていました。 その随身が転じて、主神に従い守護するという意味で随神となったと言われています。 <br /><br />因みに、右大臣、左大臣は、神様(本殿)から向かって左右となるそうで、参拝の際は向かって右が左大臣となるようです。偉いのは左大臣。「赤いお顔の右大臣♪」の歌の歌詞にあるように、うっかり飲み過ぎてしまう方は階級が下なのも頷けます。

    有明山神社 裕明門
    山門と言えば仁王像がポピュラーですが、神社ゆえ表面を随神、裏面を御神馬が守ります。
    随神が安置されているのは日光東照宮「陽明門」と同じです。裏面は、狛犬に対して馬と異なりますが…。
    随神は、矢大神(やだいしん)・左大神(さだいしん)という俗称で呼ばれることもあります。左右2柱共、弓と矢を携え剣を帯びていますが、これはその昔、武装して貴人の護衛にあたった近衛府の舎人の姿で、彼らは「随身」と呼ばれていました。 その随身が転じて、主神に従い守護するという意味で随神となったと言われています。

    因みに、右大臣、左大臣は、神様(本殿)から向かって左右となるそうで、参拝の際は向かって右が左大臣となるようです。偉いのは左大臣。「赤いお顔の右大臣♪」の歌の歌詞にあるように、うっかり飲み過ぎてしまう方は階級が下なのも頷けます。

  • 有明山神社 裕明門<br />背面です。<br />熱心に彫刻の写真を撮っておられる方が写り込んでいます。

    有明山神社 裕明門
    背面です。
    熱心に彫刻の写真を撮っておられる方が写り込んでいます。

  • 有明山神社 裕明門<br />蝦蟇仙人(がませんにん)<br />中国の仙人で青蛙神を従えて蝦蟇の妖術を使うとされ、三国時代の呉の葛玄、もしくは五代十国時代後梁の劉海蟾がモデルと言われています。官職を辞して狂人の真似をしながら仙人になろうと努力しました。蝦蟇の化身のようなグロテスクな顔をした仙人の体には数多くの蟇がまとわりつき、不老長寿を示す桃を持ち、肩に大きな白蟾を載せています。<br />古来より多くの画材となり、社寺の彫刻のモチーフともなっている馴染み深い仙人ですが、出自は不明で定説がありません。尚、中国道教の八仙人には蝦蟇仙人を含みませんが、立川流派が彫った八仙人には蝦蟇仙人と鉄拐仙人が含まれます。往時は七福神も定まっておらず、同様に日本の八仙人は特定されていなかったようです。中国の八仙人の概念だけが取り入れられ、そこに様々な仙人を当て嵌めていったようです。蝦蟇仙人と鉄拐仙人が含まれる八仙人が画かれ、何らかの理由で蝦蟇仙人と鉄拐仙人のコンビが選ばれて組合わさったようです。<br />

    有明山神社 裕明門
    蝦蟇仙人(がませんにん)
    中国の仙人で青蛙神を従えて蝦蟇の妖術を使うとされ、三国時代の呉の葛玄、もしくは五代十国時代後梁の劉海蟾がモデルと言われています。官職を辞して狂人の真似をしながら仙人になろうと努力しました。蝦蟇の化身のようなグロテスクな顔をした仙人の体には数多くの蟇がまとわりつき、不老長寿を示す桃を持ち、肩に大きな白蟾を載せています。
    古来より多くの画材となり、社寺の彫刻のモチーフともなっている馴染み深い仙人ですが、出自は不明で定説がありません。尚、中国道教の八仙人には蝦蟇仙人を含みませんが、立川流派が彫った八仙人には蝦蟇仙人と鉄拐仙人が含まれます。往時は七福神も定まっておらず、同様に日本の八仙人は特定されていなかったようです。中国の八仙人の概念だけが取り入れられ、そこに様々な仙人を当て嵌めていったようです。蝦蟇仙人と鉄拐仙人が含まれる八仙人が画かれ、何らかの理由で蝦蟇仙人と鉄拐仙人のコンビが選ばれて組合わさったようです。

  • 有明山神社 裕明門<br />鉄拐仙人(てっかいせんにん)<br />魂を吹き出した息の先に、仙人の小さな分身が彫られています。元の体は脱け殻となって死色を帯び、硬直し始めている様子を表しています。<br />李鉄拐とも呼ばれ、元々は体格の良い仙人でした。ある日、華山で老君に会うために体を置いて魂だけ出かけて行きました。弟子に体の番をさせ、「7日経って帰ってこなければ体を焼いてもよい」と言い置きました。ところが6日目に弟子の母親が亡くなり、仕方なく家に帰るために鉄拐の体を焼いてしまいました。7日目に帰ってきた鉄拐は、戻る体が無くて困っていました。そんな折、道端で乞食が飢えて倒れていました。止むを得ずその乞食の体に入ってやっと再生できたというお話です。<br />

    有明山神社 裕明門
    鉄拐仙人(てっかいせんにん)
    魂を吹き出した息の先に、仙人の小さな分身が彫られています。元の体は脱け殻となって死色を帯び、硬直し始めている様子を表しています。
    李鉄拐とも呼ばれ、元々は体格の良い仙人でした。ある日、華山で老君に会うために体を置いて魂だけ出かけて行きました。弟子に体の番をさせ、「7日経って帰ってこなければ体を焼いてもよい」と言い置きました。ところが6日目に弟子の母親が亡くなり、仕方なく家に帰るために鉄拐の体を焼いてしまいました。7日目に帰ってきた鉄拐は、戻る体が無くて困っていました。そんな折、道端で乞食が飢えて倒れていました。止むを得ずその乞食の体に入ってやっと再生できたというお話です。

  • 有明山神社 裕明門<br />神門の背面を守る御神馬です。

    有明山神社 裕明門
    神門の背面を守る御神馬です。

  • 有明山神社 狛犬<br />参道の両側には、一対の狛犬が、見下ろすように鎮座しています。<br />1890年(明治23年)、松本町の石工 伊藤幸太郎が制作したものです。<br />幸太郎は無名だったようですが、この異様な狛犬の放つ禍々しいオーラには凄まじい迫力が漲っています。<br />

    有明山神社 狛犬
    参道の両側には、一対の狛犬が、見下ろすように鎮座しています。
    1890年(明治23年)、松本町の石工 伊藤幸太郎が制作したものです。
    幸太郎は無名だったようですが、この異様な狛犬の放つ禍々しいオーラには凄まじい迫力が漲っています。

  • 有明山神社 狛犬<br />夕暮れ時ならもっと凄みが増すことでしょうね!<br />

    有明山神社 狛犬
    夕暮れ時ならもっと凄みが増すことでしょうね!

  • 有明山神社 開運招福の石<br />この記念碑は、1891年(明治24年)に全国から集められた短歌が神社の社宝とされ、2003年に『残月集』の発刊を記念して制作されたモニュメントです。<br />東面には、『吾唯足知』。<br />「吾れ唯だ足るを知る」と読み下し、「自分はどのような境涯にあっても満足するすべを知っている」という意味です。京都 竜安寺の蹲踞に刻まれている言葉として有名です。

    有明山神社 開運招福の石
    この記念碑は、1891年(明治24年)に全国から集められた短歌が神社の社宝とされ、2003年に『残月集』の発刊を記念して制作されたモニュメントです。
    東面には、『吾唯足知』。
    「吾れ唯だ足るを知る」と読み下し、「自分はどのような境涯にあっても満足するすべを知っている」という意味です。京都 竜安寺の蹲踞に刻まれている言葉として有名です。

  • 有明山神社 開運招福の石<br />西面には、『吉呼員和』。<br />「吉を呼んでかず和す」と読み下し、「良い知らせや事柄を呼び込んで、みんなが和やかになる」という意味です。<br />石は、直径1.55m、厚さ0.3m、質量2.4トンもある巨大なものだそうです。世界にひとつしかない開運招福の石の四角部を潜り抜けて吉運を集めて下さい。

    有明山神社 開運招福の石
    西面には、『吉呼員和』。
    「吉を呼んでかず和す」と読み下し、「良い知らせや事柄を呼び込んで、みんなが和やかになる」という意味です。
    石は、直径1.55m、厚さ0.3m、質量2.4トンもある巨大なものだそうです。世界にひとつしかない開運招福の石の四角部を潜り抜けて吉運を集めて下さい。

  • 有明山神社 拝殿<br />天照大神の籠った岩戸を手力雄命が力ずくでこじ開け、この地に投げ飛ばしたのが戸放ヶ岳とか有明山と呼ばれる霊峰と伝えられます。この地に第8代孝元天皇の5年に造営されたのが戸放権現で、有明山神社の前身となりました。<br />拝殿の奥に神殿はなく、ガラス窓の先にあるご神体の有明山を遥拝する様式になっています。 <br /><br />805年、東夷東征の途上で坂上田村麻呂が有明山麓の妖賊 八面大王討伐を行った際、この戸放権現に戦勝祈願して刀剣を奉納し、見事に征伐したと伝えています。<br />古代には安曇氏、中世には仁科氏の崇敬を受け、江戸時代には一時衰微しましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により神社として独立し、敬神家で豊科寺所出身の岡村卓一氏が再興に尽力されたそうです。<br />後鳥羽上皇が領主仁科氏に国家隆盛を祈願させ、刀と「かたしきの 衣手寒く 時雨れつつ 有明山に かかる白雲」という歌を奉納しています。<br />

    有明山神社 拝殿
    天照大神の籠った岩戸を手力雄命が力ずくでこじ開け、この地に投げ飛ばしたのが戸放ヶ岳とか有明山と呼ばれる霊峰と伝えられます。この地に第8代孝元天皇の5年に造営されたのが戸放権現で、有明山神社の前身となりました。
    拝殿の奥に神殿はなく、ガラス窓の先にあるご神体の有明山を遥拝する様式になっています。

    805年、東夷東征の途上で坂上田村麻呂が有明山麓の妖賊 八面大王討伐を行った際、この戸放権現に戦勝祈願して刀剣を奉納し、見事に征伐したと伝えています。
    古代には安曇氏、中世には仁科氏の崇敬を受け、江戸時代には一時衰微しましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により神社として独立し、敬神家で豊科寺所出身の岡村卓一氏が再興に尽力されたそうです。
    後鳥羽上皇が領主仁科氏に国家隆盛を祈願させ、刀と「かたしきの 衣手寒く 時雨れつつ 有明山に かかる白雲」という歌を奉納しています。

  • 有明山神社 拝殿<br />拝殿前に掲げられた額に描かれているのは、記紀神話の中の『天孫降臨』のシーンです。<br />ご祭神 天鈿女命が天の八衢に立つ国津神 猿田彦命(天狗のように描かれています)に誰であるかを尋ねている場面のようです。こうして猿田彦命は天孫降臨の地へ道案内を遂げ、その後2人は夫婦になっています。<br />

    有明山神社 拝殿
    拝殿前に掲げられた額に描かれているのは、記紀神話の中の『天孫降臨』のシーンです。
    ご祭神 天鈿女命が天の八衢に立つ国津神 猿田彦命(天狗のように描かれています)に誰であるかを尋ねている場面のようです。こうして猿田彦命は天孫降臨の地へ道案内を遂げ、その後2人は夫婦になっています。

  • 有明山神社 妙見 里の瀧<br />境内の右手奥には小瀧があります。<br />瀧の上には注連縄と紙垂が張られ、その奥には御神石と思われる磐座が祀られ、厳かな雰囲気を醸しています。<br />

    有明山神社 妙見 里の瀧
    境内の右手奥には小瀧があります。
    瀧の上には注連縄と紙垂が張られ、その奥には御神石と思われる磐座が祀られ、厳かな雰囲気を醸しています。

  • 魏石鬼岩窟へ通じる小径<br />有明山神社を後にし、正福寺不動尊を経由して魏石鬼岩窟へと向かいます。<br />道祖神で有名な安曇野ですが、旧街道やお寺の境内などの路傍に黙して佇む石仏にも心を癒されることがしばしばあります。ここは熊が出没すると言われる小径ですので、石仏にすがるしかありません。<br />魏石鬼岩窟に通じる静謐な小径には、このように点々と石仏群が安置されています。どれひとつとして同じ姿はなく、それぞれが素朴でやさしい表情をなされています。<br /><br />正福寺は、かつて五竜山明王院高山寺と号する古刹でした。不動明王を本尊とするため、宮城不動尊とも呼ばれ、京から善光寺に詣でる道筋に立地していたこともあり、多くの参詣者で賑わったそうです。日本初の文筆で自活した『東海道中膝栗毛』の作者 十返舎一九もこの寺を訪れたひとりだそうです。しかし、明治時代の廃仏毀釈で1871年に廃寺となり、1892年に正福寺として再興されたものの、現在は無住職、常夜灯のみの廃寺となっているのは寂しいばかりです。

    魏石鬼岩窟へ通じる小径
    有明山神社を後にし、正福寺不動尊を経由して魏石鬼岩窟へと向かいます。
    道祖神で有名な安曇野ですが、旧街道やお寺の境内などの路傍に黙して佇む石仏にも心を癒されることがしばしばあります。ここは熊が出没すると言われる小径ですので、石仏にすがるしかありません。
    魏石鬼岩窟に通じる静謐な小径には、このように点々と石仏群が安置されています。どれひとつとして同じ姿はなく、それぞれが素朴でやさしい表情をなされています。

    正福寺は、かつて五竜山明王院高山寺と号する古刹でした。不動明王を本尊とするため、宮城不動尊とも呼ばれ、京から善光寺に詣でる道筋に立地していたこともあり、多くの参詣者で賑わったそうです。日本初の文筆で自活した『東海道中膝栗毛』の作者 十返舎一九もこの寺を訪れたひとりだそうです。しかし、明治時代の廃仏毀釈で1871年に廃寺となり、1892年に正福寺として再興されたものの、現在は無住職、常夜灯のみの廃寺となっているのは寂しいばかりです。

  • 魏石鬼岩窟へ通じる小径<br />正福寺不動尊から岩窟までの500mに及ぶ小径には、親子熊出没情報の張り紙がなされています。<br />至近距離で鉢合わせない限り、熊はむやみに人を襲うことはないようですが、小熊を連れている場合は人間と同じで子を守るためになりふり構わず襲ってくることもあるそうです。ですから、お互いに接近してから気付かないように、「熊除け鈴」を持参されることをお勧めします。また、岩窟周辺で立ち止まる場合は、ラジオを付ける等で人がいることをアピールすれば近づいてくることはないようです。特に、春や秋は要注意シーズンです。今年のように団栗などの実が不作の場合は、民家周辺まで餌を求めて出没するようです。<br />人に危害を加えた熊は射殺される運命にあり、小さな配慮を怠ることがお互いの不幸を招きます。自然界と共存できるよう努めるのが我々人間の役割だと思います。里山を訪れる際は、自己責任でお願いいたします。<br />

    魏石鬼岩窟へ通じる小径
    正福寺不動尊から岩窟までの500mに及ぶ小径には、親子熊出没情報の張り紙がなされています。
    至近距離で鉢合わせない限り、熊はむやみに人を襲うことはないようですが、小熊を連れている場合は人間と同じで子を守るためになりふり構わず襲ってくることもあるそうです。ですから、お互いに接近してから気付かないように、「熊除け鈴」を持参されることをお勧めします。また、岩窟周辺で立ち止まる場合は、ラジオを付ける等で人がいることをアピールすれば近づいてくることはないようです。特に、春や秋は要注意シーズンです。今年のように団栗などの実が不作の場合は、民家周辺まで餌を求めて出没するようです。
    人に危害を加えた熊は射殺される運命にあり、小さな配慮を怠ることがお互いの不幸を招きます。自然界と共存できるよう努めるのが我々人間の役割だと思います。里山を訪れる際は、自己責任でお願いいたします。

  • 八面大王厄除観音堂<br />正福寺不動尊明王堂から、路傍に佇む石仏を見ながら東へ向かう山道を5分ほど進むと、観音堂が見えてきます。この堂宇が建つ巨岩の下に八面大王が立て籠もったと伝わる岩窟があります。<br /><br />岩窟の岩上には八面大王の魂を鎮める目的で八面大王厄除観音堂が建てられています。悪霊封じと言うことは、かつて大王が祟っていた証拠です。またこれは、祟られる側に「非」があり、祟る側に「正義」があったことの証左でもあります。<br />2通りの解釈の大王伝説が存在しましたが、どちらの伝説が歴史の勝者によって創作(改竄)されたものかこれで読み解くことができました。つまり、大和朝廷が日本を統一する際、服することのない逆賊を一掃することに全力を挙げ、特に前政権を担っていた九州王朝の残勢力については、執拗に勢力が回復することがないように壊滅を図ったということです。朝廷は、残勢力が悪行を働いたのでやむを得ず成敗したという物語を残すことにより、自分たちの極悪非道な行為を正当化したものと考えられます。<br />「現場に神宿る」と言われるように、真実を知るには現地・現物・現実の三現主義に徹することが重要だと改めて認識しました。『日本書紀』と同じ手口で、保身のために歴史の真実を闇に葬る必要があったということでしょう。<br />

    八面大王厄除観音堂
    正福寺不動尊明王堂から、路傍に佇む石仏を見ながら東へ向かう山道を5分ほど進むと、観音堂が見えてきます。この堂宇が建つ巨岩の下に八面大王が立て籠もったと伝わる岩窟があります。

    岩窟の岩上には八面大王の魂を鎮める目的で八面大王厄除観音堂が建てられています。悪霊封じと言うことは、かつて大王が祟っていた証拠です。またこれは、祟られる側に「非」があり、祟る側に「正義」があったことの証左でもあります。
    2通りの解釈の大王伝説が存在しましたが、どちらの伝説が歴史の勝者によって創作(改竄)されたものかこれで読み解くことができました。つまり、大和朝廷が日本を統一する際、服することのない逆賊を一掃することに全力を挙げ、特に前政権を担っていた九州王朝の残勢力については、執拗に勢力が回復することがないように壊滅を図ったということです。朝廷は、残勢力が悪行を働いたのでやむを得ず成敗したという物語を残すことにより、自分たちの極悪非道な行為を正当化したものと考えられます。
    「現場に神宿る」と言われるように、真実を知るには現地・現物・現実の三現主義に徹することが重要だと改めて認識しました。『日本書紀』と同じ手口で、保身のために歴史の真実を闇に葬る必要があったということでしょう。

  • 魏石鬼岩窟(ぎしきのいわや)<br />薄暗い森の中に2枚の大岩が覆いかぶさり、地面との間にぽっかりと口を開けています。鉄の扉に鉄の錠、アルミ製の紙垂、そして緑がかった岩肌を木の根が縦横無尽に這い、いかにも何か出現しそうな怪しい雰囲気を漂わせています。<br />考古学的には、巨石露岩の下に構築された珍しい様式の石室です。規模こそ小ぶりですが、天井に一枚の巨石を配した造りは、北九州 八女地方の古墳や蘇我馬子を葬った桃原墓と言われる石舞台と酷似しています。馬子は天皇を凌ぐ実力者として大和朝廷に君臨した人物ですが、安曇野の地にも同じような実力者が存在した証です。これで漸く、安曇野と飛鳥の時空のトンネルが繋がりました。<br />

    魏石鬼岩窟(ぎしきのいわや)
    薄暗い森の中に2枚の大岩が覆いかぶさり、地面との間にぽっかりと口を開けています。鉄の扉に鉄の錠、アルミ製の紙垂、そして緑がかった岩肌を木の根が縦横無尽に這い、いかにも何か出現しそうな怪しい雰囲気を漂わせています。
    考古学的には、巨石露岩の下に構築された珍しい様式の石室です。規模こそ小ぶりですが、天井に一枚の巨石を配した造りは、北九州 八女地方の古墳や蘇我馬子を葬った桃原墓と言われる石舞台と酷似しています。馬子は天皇を凌ぐ実力者として大和朝廷に君臨した人物ですが、安曇野の地にも同じような実力者が存在した証です。これで漸く、安曇野と飛鳥の時空のトンネルが繋がりました。

  • 魏石鬼岩窟<br />山岳修験者が籠もって護摩を焚きながら修行を行った所以で「魏石鬼(ぎしき)=儀式」を行った磐座からの命名でしょうか? 岩肌には観音像が数体刻まれています。 <br /><br />桓武天皇の時代、有明山に恐ろしい八面大王という鬼が住んでいました。魔力で雲を起し、霧を降らし、天地を飛び回って村人に悪さをしていました。それを聞きつけた大和朝廷は、征伐のために坂上田村麻呂を派遣しますが、八面大王は手強く、討つことができません。そんな折、夢枕で「33節のある山鳥の尾で作った矢を使えば退治できる」という託宣があり、矢助という若者が持ってきた山鳥の尾の矢で八面大王を退治することができました。しかし八面大王の生命力は凄まじく、田村麻呂は復活を恐れて体を切り刻んで各地に埋めました。それらは現在、耳は有明の耳塚、足は立足、首は松本筑摩神社、胴体は大王神社に残されていると伝えられています。<br />面白いことに、「善」と「悪」が入れ替わった伝承もあります。 全国統一を目指す大和朝廷が蝦夷討伐を行った際、信濃国を足がかりにしてその住民たちに無理難題を押し付け、住民たちは重圧に疲弊し切っていました。それを見かねた有明山の八面大王は、一念発起して坂上田村麻呂軍に一歩も引けを取らずに戦いました。しかし、とうとう八面大王は倒され、再び生き返ることのないように体を切り刻まれ、それぞれ分散して葬られました。 <br />後者の説を唱えているのが、大王わさび農場の解説です。このように地元では大王を英雄視する風潮が強いようです。<br />また、『仁科濫觴記』には、8世紀末に等々力玄蕃亮の4代目 田村守宮が朝廷から討伐命令が下ったことにより盗賊集団の大王を征伐したと記されています。それ故、田村と坂上田村麻呂が混同されて後世に伝わったとも考えられます。<br /><br />八面大王の伝説には、「矢村の矢助」という優しい心の若者が登場するものがあります。「ある日、村で罠にかかった山鳥が絞め殺されようとする場に出くわしました。矢助は、かわいそうに思い、銭を払って放してやりました。その年の暮、道に迷った娘が家にやって来たので矢助は泊めてやりました。やがて2人は夫婦になりました。<br />雪解の頃、また八面大王が暴れだし、都から坂上田村麻呂が派遣されて退治しようとします。ところが大王は強く、ただの弓矢では倒せませんでした。田村麻呂が満願寺に願をかけると、観音様が現れて告げました。「33節ある山鳥の尾羽で作った矢で射れば、大王を倒せます」。田村麻呂は、山鳥の尾を捜させました。すると、矢助の女房は、書き置きを遺して家を出ていきました。「私は、助けていただいた山鳥です。家宝にしてきた33節の尾を差し上げます。これでやっと恩返しができます」。田村麻呂がその尾で作った矢を射ると命中し、八面大王を倒すことができました。そして村には平和が訪れました。しかし矢助は、女房がいつか帰って来ると信じながらひとり寂しく暮らしたとさ…」。<br />朝廷方が住民からの非難を恐れて創作し、流布した言い伝えなのでしょう。『鶴の恩返し』を彷彿とさせる美談の最後に、「田村麻呂さえ来なければ幸せに暮らせたのに」という住民の正直な気持ちがそれとなく吐露され、朝廷に一矢報いているのは興味深いものがあります。<br />実体が伴わず円安不況が懸念されるアベノミクスにも、3本の矢以外に「33節の尾の矢」が必要かもしれませんね!9月の内閣改造の目玉は、安倍政権の長期安泰の火種消しという保身に尽きます。つまり、石破氏の更迭がこれに当たります。また、アピール要素が先行する女性登用では埒が明きません。将来の女性首相を匂わせる作戦ですが、本当に育てる意志がなければ足を引っ張りあうだけでしょう。また、挙党一致体制の布陣も保身ツールですが、谷垣氏の登用は消費税アップを睨んだ責任転嫁路線が自明です。一刻も早く託宣があることを願うばかりです。

    魏石鬼岩窟
    山岳修験者が籠もって護摩を焚きながら修行を行った所以で「魏石鬼(ぎしき)=儀式」を行った磐座からの命名でしょうか? 岩肌には観音像が数体刻まれています。

    桓武天皇の時代、有明山に恐ろしい八面大王という鬼が住んでいました。魔力で雲を起し、霧を降らし、天地を飛び回って村人に悪さをしていました。それを聞きつけた大和朝廷は、征伐のために坂上田村麻呂を派遣しますが、八面大王は手強く、討つことができません。そんな折、夢枕で「33節のある山鳥の尾で作った矢を使えば退治できる」という託宣があり、矢助という若者が持ってきた山鳥の尾の矢で八面大王を退治することができました。しかし八面大王の生命力は凄まじく、田村麻呂は復活を恐れて体を切り刻んで各地に埋めました。それらは現在、耳は有明の耳塚、足は立足、首は松本筑摩神社、胴体は大王神社に残されていると伝えられています。
    面白いことに、「善」と「悪」が入れ替わった伝承もあります。 全国統一を目指す大和朝廷が蝦夷討伐を行った際、信濃国を足がかりにしてその住民たちに無理難題を押し付け、住民たちは重圧に疲弊し切っていました。それを見かねた有明山の八面大王は、一念発起して坂上田村麻呂軍に一歩も引けを取らずに戦いました。しかし、とうとう八面大王は倒され、再び生き返ることのないように体を切り刻まれ、それぞれ分散して葬られました。
    後者の説を唱えているのが、大王わさび農場の解説です。このように地元では大王を英雄視する風潮が強いようです。
    また、『仁科濫觴記』には、8世紀末に等々力玄蕃亮の4代目 田村守宮が朝廷から討伐命令が下ったことにより盗賊集団の大王を征伐したと記されています。それ故、田村と坂上田村麻呂が混同されて後世に伝わったとも考えられます。

    八面大王の伝説には、「矢村の矢助」という優しい心の若者が登場するものがあります。 「ある日、村で罠にかかった山鳥が絞め殺されようとする場に出くわしました。矢助は、かわいそうに思い、銭を払って放してやりました。その年の暮、道に迷った娘が家にやって来たので矢助は泊めてやりました。やがて2人は夫婦になりました。
    雪解の頃、また八面大王が暴れだし、都から坂上田村麻呂が派遣されて退治しようとします。ところが大王は強く、ただの弓矢では倒せませんでした。田村麻呂が満願寺に願をかけると、観音様が現れて告げました。「33節ある山鳥の尾羽で作った矢で射れば、大王を倒せます」。田村麻呂は、山鳥の尾を捜させました。すると、矢助の女房は、書き置きを遺して家を出ていきました。「私は、助けていただいた山鳥です。家宝にしてきた33節の尾を差し上げます。これでやっと恩返しができます」。田村麻呂がその尾で作った矢を射ると命中し、八面大王を倒すことができました。そして村には平和が訪れました。しかし矢助は、女房がいつか帰って来ると信じながらひとり寂しく暮らしたとさ…」。
    朝廷方が住民からの非難を恐れて創作し、流布した言い伝えなのでしょう。『鶴の恩返し』を彷彿とさせる美談の最後に、「田村麻呂さえ来なければ幸せに暮らせたのに」という住民の正直な気持ちがそれとなく吐露され、朝廷に一矢報いているのは興味深いものがあります。
    実体が伴わず円安不況が懸念されるアベノミクスにも、3本の矢以外に「33節の尾の矢」が必要かもしれませんね!9月の内閣改造の目玉は、安倍政権の長期安泰の火種消しという保身に尽きます。つまり、石破氏の更迭がこれに当たります。また、アピール要素が先行する女性登用では埒が明きません。将来の女性首相を匂わせる作戦ですが、本当に育てる意志がなければ足を引っ張りあうだけでしょう。また、挙党一致体制の布陣も保身ツールですが、谷垣氏の登用は消費税アップを睨んだ責任転嫁路線が自明です。一刻も早く託宣があることを願うばかりです。

  • 魏石鬼岩窟<br />八面大王の名は、妖怪のように八つの頭を持っていたからではなく、八人の首領を戴くという意味で「八面」と言われたようです。 <br />日本神話や伝説にはこのように「八」をキーワードにしたものが少なくありません。大分県宇佐市の神功皇后を祀る宇佐神宮には八面鍛冶翁、大分県中津市や愛媛県宇和島市には八面山があり、高知県芸西村と夜須町の境にある「滝の平」には八面王(やつらお)という頭が八つの蛇の伝説も残っています。これらから、八面山(大分県)→八面鍛冶翁(宇佐神宮)→八面山(宇和島)→八大竜王社(葛城)==八面大王(安曇野)と中央構造線に添って伝承されているように思えます。葛城と安曇野が飛び地なのは、福岡県八女市に伝わる八女大王を信仰していた安曇族と磐井族が海を渡って安曇野に定着し、八面大王(=八女大君)と名乗ったと推定できます。

    魏石鬼岩窟
    八面大王の名は、妖怪のように八つの頭を持っていたからではなく、八人の首領を戴くという意味で「八面」と言われたようです。
    日本神話や伝説にはこのように「八」をキーワードにしたものが少なくありません。大分県宇佐市の神功皇后を祀る宇佐神宮には八面鍛冶翁、大分県中津市や愛媛県宇和島市には八面山があり、高知県芸西村と夜須町の境にある「滝の平」には八面王(やつらお)という頭が八つの蛇の伝説も残っています。これらから、八面山(大分県)→八面鍛冶翁(宇佐神宮)→八面山(宇和島)→八大竜王社(葛城)==八面大王(安曇野)と中央構造線に添って伝承されているように思えます。葛城と安曇野が飛び地なのは、福岡県八女市に伝わる八女大王を信仰していた安曇族と磐井族が海を渡って安曇野に定着し、八面大王(=八女大君)と名乗ったと推定できます。

  • 魏石鬼岩窟<br />一説には、八面大王は卑弥呼の後裔 八女大君(やめのおおきみ)の読み替えとも伝えられています。八女大君とは、527〜8年の磐井の乱で大和朝廷に滅ぼされた「倭の武王」の子孫 筑紫君磐井の息子「葛子」のことです。『日本書紀』では、新羅から賄賂を贈られ、大和朝廷の朝鮮半島南部への派兵を邪魔したために討たれたと記されています。しかし実際は、大和朝廷が強大化する九州王権を畏れ、また朝鮮半島との交流を支配しようと戦を仕掛けたとの説が有力です。往時、玄界灘から朝鮮半島までの制海権を握っていたのは、安曇・宗像・住吉の3海人族。中でも、安曇族は筑紫君磐井と深く繋がっていました。『筑後国風土記』では、「磐井は豊前方面へ逃れ山中で死んだが、大和はその姿を見失った」と記しています。筑紫を追われた磐井の一族が、安曇族と共に日本海を北上する運命を選んだものと考えられています。大和朝廷が執拗に追いかけたことから、卑弥呼の後裔を抹殺しようとの意図も垣間見ることができます。<br />因みに、筑前安曇族は平安末期までには仁科氏と坂上田村麻呂により滅ぼされています。<br />日本の古代史は、記録にないことが多く、また『記紀』のように意図的に歴史を改竄したものもあり、解釈も様々でロマン溢れる分野です。古代史をテーマに信濃を旅してみるのもお勧めです。

    魏石鬼岩窟
    一説には、八面大王は卑弥呼の後裔 八女大君(やめのおおきみ)の読み替えとも伝えられています。八女大君とは、527〜8年の磐井の乱で大和朝廷に滅ぼされた「倭の武王」の子孫 筑紫君磐井の息子「葛子」のことです。『日本書紀』では、新羅から賄賂を贈られ、大和朝廷の朝鮮半島南部への派兵を邪魔したために討たれたと記されています。しかし実際は、大和朝廷が強大化する九州王権を畏れ、また朝鮮半島との交流を支配しようと戦を仕掛けたとの説が有力です。往時、玄界灘から朝鮮半島までの制海権を握っていたのは、安曇・宗像・住吉の3海人族。中でも、安曇族は筑紫君磐井と深く繋がっていました。『筑後国風土記』では、「磐井は豊前方面へ逃れ山中で死んだが、大和はその姿を見失った」と記しています。筑紫を追われた磐井の一族が、安曇族と共に日本海を北上する運命を選んだものと考えられています。大和朝廷が執拗に追いかけたことから、卑弥呼の後裔を抹殺しようとの意図も垣間見ることができます。
    因みに、筑前安曇族は平安末期までには仁科氏と坂上田村麻呂により滅ぼされています。
    日本の古代史は、記録にないことが多く、また『記紀』のように意図的に歴史を改竄したものもあり、解釈も様々でロマン溢れる分野です。古代史をテーマに信濃を旅してみるのもお勧めです。

  • 魏石鬼岩窟<br />岩窟は、奥行き6・2m、幅2.4mmあり、奥は大人が立てるほどの天井の高さがあるそうです。内部は花崗岩を数段積み、その前に高さ1・5mほどの板状の石を壁のように立てています。1921年に考古学者 鳥居龍蔵が6世紀後半の日本では珍しい「ドルメン式古墳」 (平らな巨岩を組合わせた記念物的古墳)と発表し、後の調査で古墳時代後期の土器片や耳飾り、馬具などの破片が出土し、改めて古墳と立証されました。しかし同時に、この古墳は、築造後500年の平安時代末には開口され、中世には長年山岳修験者が籠もって護摩を焚きながら修行を行う場へと用途が変わってきたことも判ったそうです。馬子ほどではないにせよ、ここで安眠できた時間はそんなに長くはなかったようです。<br />この山麓の沢沿いには100基を越える古墳が築かれていたと推定され、そのほとんどが横穴式石室を持つ円墳で家族墓です。しかしこの魏石鬼岩窟は、山中の洞窟を利用して築かれた単独墳であること、石室の石の積み方が他の古墳とは異なるなど、謎多き古墳だと言われています。<br />

    魏石鬼岩窟
    岩窟は、奥行き6・2m、幅2.4mmあり、奥は大人が立てるほどの天井の高さがあるそうです。内部は花崗岩を数段積み、その前に高さ1・5mほどの板状の石を壁のように立てています。1921年に考古学者 鳥居龍蔵が6世紀後半の日本では珍しい「ドルメン式古墳」 (平らな巨岩を組合わせた記念物的古墳)と発表し、後の調査で古墳時代後期の土器片や耳飾り、馬具などの破片が出土し、改めて古墳と立証されました。しかし同時に、この古墳は、築造後500年の平安時代末には開口され、中世には長年山岳修験者が籠もって護摩を焚きながら修行を行う場へと用途が変わってきたことも判ったそうです。馬子ほどではないにせよ、ここで安眠できた時間はそんなに長くはなかったようです。
    この山麓の沢沿いには100基を越える古墳が築かれていたと推定され、そのほとんどが横穴式石室を持つ円墳で家族墓です。しかしこの魏石鬼岩窟は、山中の洞窟を利用して築かれた単独墳であること、石室の石の積み方が他の古墳とは異なるなど、謎多き古墳だと言われています。

  • 魏石鬼岩窟<br />「八岐大蛇」伝説は、舟の民族と馬の民族が出雲で戦った史実を暗喩で伝えたものと言われています。「八面大王」伝説は、この地でも同様の戦いがあった証拠ではないでしょうか?「八岐大蛇」では簸河(ひのかわ)の上流に棲む頭部が八つに分かれた大蛇をスサノオが退治したとしており、「八面大王」では有明山の麓 宮城に住んでいた大王を坂上田村麻呂が退治したとなっています。この鬼のような名前を付された大蛇や大王こそ舟の民 族の族長の象徴であり、温厚な舟の民族の中にも徹底抗戦する気概に溢れた大将もいたということでしょう。「歴史は勝者が創る」と言われるように、自分たちを正当化のために改竄されるのは歴史の常です。ゆえに征服者のスサノオや坂上田村麻呂が「英雄=善」となり、敗者の八岐大蛇や八面大王が「鬼=悪」になるのは必然と言えます。日本古代史の真相は、時の権力者によって常に隠蔽される宿命を背負っていたのです。

    魏石鬼岩窟
    「八岐大蛇」伝説は、舟の民族と馬の民族が出雲で戦った史実を暗喩で伝えたものと言われています。「八面大王」伝説は、この地でも同様の戦いがあった証拠ではないでしょうか?「八岐大蛇」では簸河(ひのかわ)の上流に棲む頭部が八つに分かれた大蛇をスサノオが退治したとしており、「八面大王」では有明山の麓 宮城に住んでいた大王を坂上田村麻呂が退治したとなっています。この鬼のような名前を付された大蛇や大王こそ舟の民 族の族長の象徴であり、温厚な舟の民族の中にも徹底抗戦する気概に溢れた大将もいたということでしょう。 「歴史は勝者が創る」と言われるように、自分たちを正当化のために改竄されるのは歴史の常です。ゆえに征服者のスサノオや坂上田村麻呂が「英雄=善」となり、敗者の八岐大蛇や八面大王が「鬼=悪」になるのは必然と言えます。日本古代史の真相は、時の権力者によって常に隠蔽される宿命を背負っていたのです。

  • 夫婦岩<br />有明山神社から山麓線までは急な下り坂となります。<br />「森の果樹園」の斜め向いの山麓線沿いには、大きな2つの岩が安置されています。<br />かつては神が住まう山と崇められ「安曇野 高天原伝説」の中心となった有明山の参道に位置する一対の大岩「夫婦岩」だったそうです。2つ並んだ大岩が中房川の流れにその仲を割かれて離れ離れになったのですが、幾年を経てこの地で再び巡り会えたという夫婦岩です。別名「めぐり愛の岩」とも呼ばれています。<br />月がこの岩の上空に掛かる時に愛を誓うなら、その愛は永遠に守られ、遠く離れ離れになっても何時か巡り合うことができるそうです。<br />ロマンチックな言い伝えが心身を癒してくれます。<br />

    夫婦岩
    有明山神社から山麓線までは急な下り坂となります。
    「森の果樹園」の斜め向いの山麓線沿いには、大きな2つの岩が安置されています。
    かつては神が住まう山と崇められ「安曇野 高天原伝説」の中心となった有明山の参道に位置する一対の大岩「夫婦岩」だったそうです。2つ並んだ大岩が中房川の流れにその仲を割かれて離れ離れになったのですが、幾年を経てこの地で再び巡り会えたという夫婦岩です。別名「めぐり愛の岩」とも呼ばれています。
    月がこの岩の上空に掛かる時に愛を誓うなら、その愛は永遠に守られ、遠く離れ離れになっても何時か巡り合うことができるそうです。
    ロマンチックな言い伝えが心身を癒してくれます。

  • 鼠石<br />松川村は、1500年ほど前に北九州「筑紫」の国から海を渡り、姫川を遡上してきた安曇族が最初に居を構えた地です。その地にある石に開いている穴を鼠穴と言い、ここの地名「鼠穴」の由来になっています。別の説では、戦国時代、この辺りの山上に仁科氏の城があり、見張り番が寝ずに見張りをした「不寝見(ねずみ)」が由来とも伝わります。<br />この穴は、遠く有明山山頂や遥か善光寺まで通じているとの話が残され、有明山の金明水・銀明水が湧き出すとも伝わっています。<br />他にも鼠石に関する興味深い民話があります。<br />石には穴が開いていますが、それは子供の拳が入るほどの小さな穴で、穴の住人は「鼠」でした。貧しい村人がいました。ある日、祭事がありましたが、まともな食器がありません。この石の前で嘆くと、翌日、穴の前に立派な食器が揃えてありました。その穴に住む鼠が揃えてくれたのでした。それを聞いた村人が頼むと、同じように食器が揃えてありました。ある日、食器を壊した村人が、お詫びもせずに黙って返すという事件が起きました。それ以来、二度と食器を貸してくれることはなかったそうです。<br />群馬県沼田市にある「吹割の滝」に伝わる「吹割伝説 竜宮の椀」にそっくりな話です。<br />http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=26179751<br />因みに、安曇族は皇室のお膳係りを勤め、また交易商人でもあったことから、村人には手に入らない様な家具や食器などを所有していたため、それを見た村人の驚きがこのような話として語り継がれたのでしょう。 <br />

    鼠石
    松川村は、1500年ほど前に北九州「筑紫」の国から海を渡り、姫川を遡上してきた安曇族が最初に居を構えた地です。その地にある石に開いている穴を鼠穴と言い、ここの地名「鼠穴」の由来になっています。別の説では、戦国時代、この辺りの山上に仁科氏の城があり、見張り番が寝ずに見張りをした「不寝見(ねずみ)」が由来とも伝わります。
    この穴は、遠く有明山山頂や遥か善光寺まで通じているとの話が残され、有明山の金明水・銀明水が湧き出すとも伝わっています。
    他にも鼠石に関する興味深い民話があります。
    石には穴が開いていますが、それは子供の拳が入るほどの小さな穴で、穴の住人は「鼠」でした。貧しい村人がいました。ある日、祭事がありましたが、まともな食器がありません。この石の前で嘆くと、翌日、穴の前に立派な食器が揃えてありました。その穴に住む鼠が揃えてくれたのでした。それを聞いた村人が頼むと、同じように食器が揃えてありました。ある日、食器を壊した村人が、お詫びもせずに黙って返すという事件が起きました。それ以来、二度と食器を貸してくれることはなかったそうです。
    群馬県沼田市にある「吹割の滝」に伝わる「吹割伝説 竜宮の椀」にそっくりな話です。
    http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=26179751
    因みに、安曇族は皇室のお膳係りを勤め、また交易商人でもあったことから、村人には手に入らない様な家具や食器などを所有していたため、それを見た村人の驚きがこのような話として語り継がれたのでしょう。

  • 鼠石<br />1743年に書かれた古文書にも鼠穴地区の始まりの伝説が記されています。「狩人が石の前を通ると、何百匹もの鼠が黄金を手にして楽しそうに踊っていた。狩人がそれを奪おうと手を伸ばすと、鼠たちは穴の中に潜ってしまい、二度と現れることはなかった」。<br />この鼠石も謎多き遺跡のひとつです。<br />因みに、仁科氏の地が、「信濃」の名の由来とも言われています。仁科=仁科野→「科野」と改名し、「科野」が後に「信濃」と変化して現在に至るとの説です。<br />

    鼠石
    1743年に書かれた古文書にも鼠穴地区の始まりの伝説が記されています。「狩人が石の前を通ると、何百匹もの鼠が黄金を手にして楽しそうに踊っていた。狩人がそれを奪おうと手を伸ばすと、鼠たちは穴の中に潜ってしまい、二度と現れることはなかった」。
    この鼠石も謎多き遺跡のひとつです。
    因みに、仁科氏の地が、「信濃」の名の由来とも言われています。仁科=仁科野→「科野」と改名し、「科野」が後に「信濃」と変化して現在に至るとの説です。

  • 山里の秋の情景が凝縮されています。

    山里の秋の情景が凝縮されています。

  • 安曇野ちひろ美術館<br />北アルプスの峰々に囲まれた風景は、どこか牧歌的でメルヘンチックな雰囲気を醸し出す癒しの空間です。シンプルな切り妻屋根の繰り返しでデザインされた美術館の建屋群は、北アルプスの山並みの稜線を象っているようにも映ります。<br />1997年、「ちひろ美術館 東京」の開館20周年を記念して開館しました。何故、安曇野かと言えば、ちひろさんの心の故郷だからです。実は、彼女の両親が松川村へ開拓農民として入植したこともあり、折に触れてこの地を訪れていました。<br />館内は絵本の原画やスケッチの他、絵本文化の歴史が分かる資料や世界の絵本画家の作品が展示されています。彼女の作品の背景にある自然観は、安曇野の自然が育んだものなのでしょう。周囲には36500平方mの安曇野ちひろ公園が広がり、北アルプスを源とする清流 乳川がその脇をたおやかに流れています。 <br />また、約3000冊の絵本が閲覧できる図書室もあり、木や布のおもちゃで遊べる「子どもの部屋」も人気で家族で愉しめる美術館です。<br />因みに、館長は黒柳徹子さん。財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長は映画監督 山田洋次氏です。前館長 松本猛氏は、彼女の一人息子で、幼い頃、絵のモデルだった方です。<br />

    安曇野ちひろ美術館
    北アルプスの峰々に囲まれた風景は、どこか牧歌的でメルヘンチックな雰囲気を醸し出す癒しの空間です。シンプルな切り妻屋根の繰り返しでデザインされた美術館の建屋群は、北アルプスの山並みの稜線を象っているようにも映ります。
    1997年、「ちひろ美術館 東京」の開館20周年を記念して開館しました。何故、安曇野かと言えば、ちひろさんの心の故郷だからです。実は、彼女の両親が松川村へ開拓農民として入植したこともあり、折に触れてこの地を訪れていました。
    館内は絵本の原画やスケッチの他、絵本文化の歴史が分かる資料や世界の絵本画家の作品が展示されています。彼女の作品の背景にある自然観は、安曇野の自然が育んだものなのでしょう。周囲には36500平方mの安曇野ちひろ公園が広がり、北アルプスを源とする清流 乳川がその脇をたおやかに流れています。
    また、約3000冊の絵本が閲覧できる図書室もあり、木や布のおもちゃで遊べる「子どもの部屋」も人気で家族で愉しめる美術館です。
    因みに、館長は黒柳徹子さん。財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長は映画監督 山田洋次氏です。前館長 松本猛氏は、彼女の一人息子で、幼い頃、絵のモデルだった方です。

  • 安曇野ちひろ美術館<br />建物は、日常生活から開放されてゆったりと寛ぎながら過ごせるように設計されています。館内には、落ち着いて絵との対話ができる5つの展示室、絵本の図書室や子どもの部屋、戸外にも出られるカフェ、オリジナルグッズが並んだミュージアムショップなどに加え、2001年にオープンした世界の絵本館には、お花畑と北アルプスを望む多目的ギャラリーが設けられています。<br />また、公園内には、復元された黒姫山荘やチェコの絵本作家クヴィエタ・パツォウスカー氏がデザインした池(2か所)や石のオブジェ(8体)が点在する「パツォウスカーの庭」、通路には原田和男氏の鉄の楽器などがあり、四季折々の表情を見せる花や木立の間を散策したり、川辺に降りることもできます。豊かな自然を満喫しながら、ゆっくりと憩える公園です。 <br />

    安曇野ちひろ美術館
    建物は、日常生活から開放されてゆったりと寛ぎながら過ごせるように設計されています。館内には、落ち着いて絵との対話ができる5つの展示室、絵本の図書室や子どもの部屋、戸外にも出られるカフェ、オリジナルグッズが並んだミュージアムショップなどに加え、2001年にオープンした世界の絵本館には、お花畑と北アルプスを望む多目的ギャラリーが設けられています。
    また、公園内には、復元された黒姫山荘やチェコの絵本作家クヴィエタ・パツォウスカー氏がデザインした池(2か所)や石のオブジェ(8体)が点在する「パツォウスカーの庭」、通路には原田和男氏の鉄の楽器などがあり、四季折々の表情を見せる花や木立の間を散策したり、川辺に降りることもできます。豊かな自然を満喫しながら、ゆっくりと憩える公園です。

  • 安曇野ちひろ美術館<br />安曇野の自然に溶け込む建物のデザインは、内藤廣氏によるものです。基本構造は鉄筋コンクリートですが、屋根の木造小屋組の印象が強烈で、間接照明も奏功して全体的に温かみのある空間に仕上がっていて居心地のいい美術館です。信州産カラマツが使われ、館内は木のぬくもりに溢れています。<br />ちひろさんの絵画が憩う場所に相応しい空間です。<br />

    安曇野ちひろ美術館
    安曇野の自然に溶け込む建物のデザインは、内藤廣氏によるものです。基本構造は鉄筋コンクリートですが、屋根の木造小屋組の印象が強烈で、間接照明も奏功して全体的に温かみのある空間に仕上がっていて居心地のいい美術館です。信州産カラマツが使われ、館内は木のぬくもりに溢れています。
    ちひろさんの絵画が憩う場所に相応しい空間です。

  • 安曇野ちひろ美術館<br />石のオブジェのある庭は、チェコの絵本画家 クヴィエタ・パツォウスカーのデザインした庭です。2つの池と8つの石のオブジェを配置した美術館へのアプローチを演出しています。<br />池は、タイル貼りの水深10cmほどの池です。安心して水遊びのできる、子供たちに大人気の池だそうです。<br />

    安曇野ちひろ美術館
    石のオブジェのある庭は、チェコの絵本画家 クヴィエタ・パツォウスカーのデザインした庭です。2つの池と8つの石のオブジェを配置した美術館へのアプローチを演出しています。
    池は、タイル貼りの水深10cmほどの池です。安心して水遊びのできる、子供たちに大人気の池だそうです。

  • 安曇野ちひろ美術館<br />ちひろさんの絵には、満面の笑みを浮かべた子どもはほとんどいません。子どもの気持ちや心をどう描くかに思いを砕いた結果だそうです。その子が今どんな気持ちなのかという心象風景が、絵から自然に伝わるにはどうすればいいのかを追求された方です。<br />例えば、「あめのひのおるすばん」に、お母さんを待って留守番をしている子どもの絵があります。輪郭がなく、絵の具が滲んだ絵です。お母さんの帰りが遅いと不安になった経験は、誰もがお持ちだと思います。その「不安な気持ち」を色の重ね方、ぼかし方、色の滲ませ方で表現しています。<br />また、「余白の美」と表現していますが、余白があることで彼女の世界が完成します。普通なら黒く塗らないと髪の毛に見えませんが、彼女の絵には髪の毛が白い子が多いです。白いところ、何もないところに、少女の思い詰めている気持ちが読み取れるのです。<br />苦しい体験をしている子どもたちを自分の体験に重ね合わせ、子どもたちが幸せということは大人も幸せということで、生涯をかけて「いのち」の象徴として子どもを描かれたのだと思います。<br /><br />最近は跋扈のように世界各地で紛争が勃発し、国内でも集団的自衛権行使容認を巡って世界情勢への不安が渦巻いています。愛らしい子どもを描く一方、ベトナム戦争の最中、「反戦の画家」と称された彼女が亡くなる前年に描いた『戦火の中の子どもたち』の母子像には、絵に込められた反戦平和への思いが直截に伝わってきます。今、彼女が生きていたら、どんなメッセージを描いて私たちに発信してくれるだろうかとの思いを巡らせてしまいました。

    安曇野ちひろ美術館
    ちひろさんの絵には、満面の笑みを浮かべた子どもはほとんどいません。子どもの気持ちや心をどう描くかに思いを砕いた結果だそうです。その子が今どんな気持ちなのかという心象風景が、絵から自然に伝わるにはどうすればいいのかを追求された方です。
    例えば、「あめのひのおるすばん」に、お母さんを待って留守番をしている子どもの絵があります。輪郭がなく、絵の具が滲んだ絵です。お母さんの帰りが遅いと不安になった経験は、誰もがお持ちだと思います。その「不安な気持ち」を色の重ね方、ぼかし方、色の滲ませ方で表現しています。
    また、「余白の美」と表現していますが、余白があることで彼女の世界が完成します。普通なら黒く塗らないと髪の毛に見えませんが、彼女の絵には髪の毛が白い子が多いです。白いところ、何もないところに、少女の思い詰めている気持ちが読み取れるのです。
    苦しい体験をしている子どもたちを自分の体験に重ね合わせ、子どもたちが幸せということは大人も幸せということで、生涯をかけて「いのち」の象徴として子どもを描かれたのだと思います。

    最近は跋扈のように世界各地で紛争が勃発し、国内でも集団的自衛権行使容認を巡って世界情勢への不安が渦巻いています。愛らしい子どもを描く一方、ベトナム戦争の最中、「反戦の画家」と称された彼女が亡くなる前年に描いた『戦火の中の子どもたち』の母子像には、絵に込められた反戦平和への思いが直截に伝わってきます。今、彼女が生きていたら、どんなメッセージを描いて私たちに発信してくれるだろうかとの思いを巡らせてしまいました。

  • 安曇野ちひろ美術館<br />この美術館の構造は、シンプルそのものです。雨樋兼用の桁梁を必要に応じて柱または壁で支えています。山形の垂木を連続して並べ、屋根荷重と負の風圧に対抗できる寸法の製材を選んでいます。トラスの下弦材には曲率を持たせた開き止めが淡々と繰り返され、それが繊細にして美麗な架構を構成した秀逸なデザインとなっています。<br />安曇野の地にあやかり、地元の蔵の架構の雰囲気をモチーフにデザインされたのでしょう。この地域の蔵の屋根架構は、このR部材を外すと大変よく似た構成になります。

    安曇野ちひろ美術館
    この美術館の構造は、シンプルそのものです。雨樋兼用の桁梁を必要に応じて柱または壁で支えています。山形の垂木を連続して並べ、屋根荷重と負の風圧に対抗できる寸法の製材を選んでいます。トラスの下弦材には曲率を持たせた開き止めが淡々と繰り返され、それが繊細にして美麗な架構を構成した秀逸なデザインとなっています。
    安曇野の地にあやかり、地元の蔵の架構の雰囲気をモチーフにデザインされたのでしょう。この地域の蔵の屋根架構は、このR部材を外すと大変よく似た構成になります。

  • 安曇野ちひろ美術館 子どもの部屋<br />お母さんが子供といっしょに座って絵本を読んだりする姿をイメージして造られたスペースだそうです。椅子は、形遊びのための曲線とは違い、親子をやさしく包み込むための曲線で優しい感じがします。<br />小さな7脚の椅子は「ななつなないす」と呼ばれ、中村好文氏がデザインされた椅子のミニチュア版です。全ての座面は一枚の板から作られており、7脚を正しく並べると木目が合うようになっています。お耳がピョコンと飛び出した椅子は、通称「うさぎいす」と呼ばれて子供たちに親しまれています。<br />

    安曇野ちひろ美術館 子どもの部屋
    お母さんが子供といっしょに座って絵本を読んだりする姿をイメージして造られたスペースだそうです。椅子は、形遊びのための曲線とは違い、親子をやさしく包み込むための曲線で優しい感じがします。
    小さな7脚の椅子は「ななつなないす」と呼ばれ、中村好文氏がデザインされた椅子のミニチュア版です。全ての座面は一枚の板から作られており、7脚を正しく並べると木目が合うようになっています。お耳がピョコンと飛び出した椅子は、通称「うさぎいす」と呼ばれて子供たちに親しまれています。

  • 安曇野ちひろ美術館 カフェ<br />カフェの椅子は大人と子供の中間のスケールに作られていて、大人が座ったらなんだかかわいらしい感じがする「ちひろ椅子」です。<br />意図的に大人には少し低めに作られており、子供の目線で体験して欲しいと言うコンセプトを体現しています。<br /><br />是非感触を味わっていただきたいのがこうした家具類です。拘りの家具のデザインは、中村好文氏によるものです。中村氏は人気のある建築家ですが、家具のデザインでも有名です。シンプルで愛らしいデザイン、肌触り、使い心地のよさ、その家具に対する愛情が伝わってくるような温かさが込められた作品が魅力です。<br />内藤氏も「建築は僕が造りましたが、内部の空気感は中村さんと僕の共同作業ではないかと考えています」と述べられているほどです。<br />

    安曇野ちひろ美術館 カフェ
    カフェの椅子は大人と子供の中間のスケールに作られていて、大人が座ったらなんだかかわいらしい感じがする「ちひろ椅子」です。
    意図的に大人には少し低めに作られており、子供の目線で体験して欲しいと言うコンセプトを体現しています。

    是非感触を味わっていただきたいのがこうした家具類です。拘りの家具のデザインは、中村好文氏によるものです。中村氏は人気のある建築家ですが、家具のデザインでも有名です。シンプルで愛らしいデザイン、肌触り、使い心地のよさ、その家具に対する愛情が伝わってくるような温かさが込められた作品が魅力です。
    内藤氏も「建築は僕が造りましたが、内部の空気感は中村さんと僕の共同作業ではないかと考えています」と述べられているほどです。

  • 安曇野ちひろ美術館 中庭<br />リラックスチェアで寛いでいるところを遅れて到着した主人に見つかり、「フライデー」されてしまいました。<br />展示室も多く、勿論ちひろさんの作品はメインで堪能できますが、海外絵本の原画を一万点近くも収蔵し、その一部を公開されています。<br />木の質感を生かした館内は温もりを感じさせ、こうした昼寝用のリラックスチェアや図書室があったり、周囲が広い公園とお花畑になっていたり、単なる美術館を越えた寛ぎの空間になっているのが嬉しいです。<br />

    安曇野ちひろ美術館 中庭
    リラックスチェアで寛いでいるところを遅れて到着した主人に見つかり、「フライデー」されてしまいました。
    展示室も多く、勿論ちひろさんの作品はメインで堪能できますが、海外絵本の原画を一万点近くも収蔵し、その一部を公開されています。
    木の質感を生かした館内は温もりを感じさせ、こうした昼寝用のリラックスチェアや図書室があったり、周囲が広い公園とお花畑になっていたり、単なる美術館を越えた寛ぎの空間になっているのが嬉しいです。

  • 安曇野ちひろ美術館 動物の楽隊(1995年)<br />様々なオブジェが並んでいましたが、こんな可愛くて幻想的な作品もありました。ポーランドの絵本作家ユゼフ・ヴィルコン氏が倒木を使って作った動物たちのオブジェです。<br />太鼓を抱えたカバ、鼻のラッパを吹き鳴らすゾウ、角のような形のホルンを持つサイなど、いずれも表情豊かで楽しく夢のあるファンタジー溢れる作品です。<br /><br />幼い頃からさまざまな動物たちと一緒に暮らしてきたポーランドの作家 ユゼフ・ヴィルコン氏の作品には、動物への親しみとユーモアが溢れています。氏は、ライフワークとして木や金属を用い、このような動物の立体作品も制作されています。安曇野ちひろ美術館では常時「天井を泳ぐ魚」や「動物の楽隊」が楽しめます。<br />

    安曇野ちひろ美術館 動物の楽隊(1995年)
    様々なオブジェが並んでいましたが、こんな可愛くて幻想的な作品もありました。ポーランドの絵本作家ユゼフ・ヴィルコン氏が倒木を使って作った動物たちのオブジェです。
    太鼓を抱えたカバ、鼻のラッパを吹き鳴らすゾウ、角のような形のホルンを持つサイなど、いずれも表情豊かで楽しく夢のあるファンタジー溢れる作品です。

    幼い頃からさまざまな動物たちと一緒に暮らしてきたポーランドの作家 ユゼフ・ヴィルコン氏の作品には、動物への親しみとユーモアが溢れています。氏は、ライフワークとして木や金属を用い、このような動物の立体作品も制作されています。安曇野ちひろ美術館では常時「天井を泳ぐ魚」や「動物の楽隊」が楽しめます。

  • 安曇野ちひろ美術館 天井を泳ぐ魚(1993〜5年)<br />これもユゼフ・ヴィルコン氏のユニークな作品です。<br />夢があるというか、想像力をかきたてられるオブジェだと思います。子供たちはこうした作品を目の当たりにして、どんなイマジネーションの世界に戯れているのでしょうか?考えただけでもワクワク・ドキドキしてしまいます。<br /><br />せっかくですのでひとつずつズームアップして紹介いたします。

    安曇野ちひろ美術館 天井を泳ぐ魚(1993〜5年)
    これもユゼフ・ヴィルコン氏のユニークな作品です。
    夢があるというか、想像力をかきたてられるオブジェだと思います。子供たちはこうした作品を目の当たりにして、どんなイマジネーションの世界に戯れているのでしょうか?考えただけでもワクワク・ドキドキしてしまいます。

    せっかくですのでひとつずつズームアップして紹介いたします。

  • ここでいわさきちひろさんの経歴を記しておきましょう。<br />彼女の苦労続きの波乱万丈の人生を知る人は意外に少ないようです。<br />キリスト教を信仰する一方、共産党員として社会や平和に常に目を向けた作家のひとりです。「鉄の心棒を真綿でくるんだような人」と形容されるように、絵は素朴で可愛らしいですが、苦難の人生の中で、決して諦めない固い意思を持ち、自分らしさを極めようとした芯の強い人だったそうです。<br />

    ここでいわさきちひろさんの経歴を記しておきましょう。
    彼女の苦労続きの波乱万丈の人生を知る人は意外に少ないようです。
    キリスト教を信仰する一方、共産党員として社会や平和に常に目を向けた作家のひとりです。「鉄の心棒を真綿でくるんだような人」と形容されるように、絵は素朴で可愛らしいですが、苦難の人生の中で、決して諦めない固い意思を持ち、自分らしさを極めようとした芯の強い人だったそうです。

  • 1918年、福井県武雄市で軍属建築技師の父と女学校教師の母との間に生まれた彼女は、父の転勤で東京に移住します。14歳でデッサンと油絵の勉強を始め、将来を嘱望されて美術学校への進学を望みますが、両親が勝手に見合い話を進め、20歳で無理やり結婚させられました。夫の転勤先の中国 大連に渡り、彼女は心も体も夫に開くことができず、2年が過ぎた頃、帰宅すると夫が首吊り自殺を図っていました。その後、帰国して書家を目指しますが、1945年には東京大空襲で家を焼かれ、長野県松川村へ疎開し、開拓農民として入植、その地で終戦を迎えます。しかし、戦時中、母親が満州に女性を「大陸の花嫁」として斡旋するなどしたため、親の立場もなく、バツイチ、職なしという三重苦の状態でした。しかし27歳の時、人生の転機が訪れました。絵の道で生きいくことを人生のどん底で決意したのです。自分が本当にやりたいのは絵を描くことだと気付き、画家になるため家出同然で上京します。丸木俊に師事し、日本美術会や日本童画会のメンバーとなって精力的に絵本を出版していきました。<br />

    1918年、福井県武雄市で軍属建築技師の父と女学校教師の母との間に生まれた彼女は、父の転勤で東京に移住します。14歳でデッサンと油絵の勉強を始め、将来を嘱望されて美術学校への進学を望みますが、両親が勝手に見合い話を進め、20歳で無理やり結婚させられました。夫の転勤先の中国 大連に渡り、彼女は心も体も夫に開くことができず、2年が過ぎた頃、帰宅すると夫が首吊り自殺を図っていました。その後、帰国して書家を目指しますが、1945年には東京大空襲で家を焼かれ、長野県松川村へ疎開し、開拓農民として入植、その地で終戦を迎えます。しかし、戦時中、母親が満州に女性を「大陸の花嫁」として斡旋するなどしたため、親の立場もなく、バツイチ、職なしという三重苦の状態でした。しかし27歳の時、人生の転機が訪れました。絵の道で生きいくことを人生のどん底で決意したのです。自分が本当にやりたいのは絵を描くことだと気付き、画家になるため家出同然で上京します。丸木俊に師事し、日本美術会や日本童画会のメンバーとなって精力的に絵本を出版していきました。

  • 第2の転機は息子との離別。31歳で松本善明氏と再婚。翌年、長男を出産。息子を両親に預け、1年間ほど松川村へ通う生活を続けました。というのも、丁度出産した頃、夫は司法試験の勉強の真っ最中で、彼女は絵筆1本で親子3人の生活を支えねばなりませんでした。生活に困窮し、泣く泣く息子を両親へ預けて東京で絵の仕事をし、お金が貯まると10時間以上かけて喜び勇んで松川村を訪ねました。子どもに会いたいという思いや愛を絵に託した結果、アーティストとしての深みを醸成し、不幸な境遇がかえって作風を高めることになったのです。<br />33歳で練馬区下石神井に家を建て、猛を引き取って3人で暮らし始めます。この地が「ちひろ美術館」になっています。<br />

    第2の転機は息子との離別。31歳で松本善明氏と再婚。翌年、長男を出産。息子を両親に預け、1年間ほど松川村へ通う生活を続けました。というのも、丁度出産した頃、夫は司法試験の勉強の真っ最中で、彼女は絵筆1本で親子3人の生活を支えねばなりませんでした。生活に困窮し、泣く泣く息子を両親へ預けて東京で絵の仕事をし、お金が貯まると10時間以上かけて喜び勇んで松川村を訪ねました。子どもに会いたいという思いや愛を絵に託した結果、アーティストとしての深みを醸成し、不幸な境遇がかえって作風を高めることになったのです。
    33歳で練馬区下石神井に家を建て、猛を引き取って3人で暮らし始めます。この地が「ちひろ美術館」になっています。

  • 1965年、ベトナム戦争が始まり、次第に反戦運動が高まる中、絵本「わたしがちいさかったとき」を出版。その後、画家の著作権問題にも一石を投じます。滲みの技法を用いて描いた絵本「あめのひのおするばん」を出版したのは49歳の時。この作品は社会に大きな衝撃を与え、輪郭を描かない描き方は水墨画に通じるもので見る人の想像力を駆り立てました。1971年には十二指腸潰瘍を患い、その後入退院を繰り返します。その苦しみの中で「戦火のなかの子どもたち」を描きました。そしてベトナム和平協定を見定めるかのように、1974年、原発性肝癌のため55歳の短い生涯を閉じました。彼女はベトナムの子どもたちの中に満州の子どもたちを重ねて見ていたのです。こうした彼女の反戦思想には、両親から受けた「反面教師」的な影響も否めず、戦時中の両親の行為への償いの気持ちもあったのかもしれません。<br />彼女の心の中には、自立しようともがき苦しむ、強い意志を持った女性の姿がありました。彼女の人生を辿ると激動の昭和史とも重なりますが、それは女性史の大切な1ページでもあったことを忘れないようにしたいものです。<br />

    1965年、ベトナム戦争が始まり、次第に反戦運動が高まる中、絵本「わたしがちいさかったとき」を出版。その後、画家の著作権問題にも一石を投じます。滲みの技法を用いて描いた絵本「あめのひのおするばん」を出版したのは49歳の時。この作品は社会に大きな衝撃を与え、輪郭を描かない描き方は水墨画に通じるもので見る人の想像力を駆り立てました。1971年には十二指腸潰瘍を患い、その後入退院を繰り返します。その苦しみの中で「戦火のなかの子どもたち」を描きました。そしてベトナム和平協定を見定めるかのように、1974年、原発性肝癌のため55歳の短い生涯を閉じました。彼女はベトナムの子どもたちの中に満州の子どもたちを重ねて見ていたのです。こうした彼女の反戦思想には、両親から受けた「反面教師」的な影響も否めず、戦時中の両親の行為への償いの気持ちもあったのかもしれません。
    彼女の心の中には、自立しようともがき苦しむ、強い意志を持った女性の姿がありました。彼女の人生を辿ると激動の昭和史とも重なりますが、それは女性史の大切な1ページでもあったことを忘れないようにしたいものです。

  • 安曇野ちひろ美術館 聖コージズキン(スズキコージ)の誘惑展 <br />奇想天外な発想とダイナミックな描写スタイル、独特の極彩色で人気のスズキコージ氏の企画展では、絵本原画やライブペイントで生まれた巨大な絵など、圧倒的な存在感を放つユニークな作品が所狭しと展示されています。<br />

    安曇野ちひろ美術館 聖コージズキン(スズキコージ)の誘惑展
    奇想天外な発想とダイナミックな描写スタイル、独特の極彩色で人気のスズキコージ氏の企画展では、絵本原画やライブペイントで生まれた巨大な絵など、圧倒的な存在感を放つユニークな作品が所狭しと展示されています。

  • 安曇野ちひろ美術館 聖コージズキンの誘惑展 <br />氏は、1948年に静岡県浜北市生まれ、物心がついた頃から絵を描き始めて現在に至るそうです。創作絵本、画集、マンガ、映画や演劇のポスター、舞台装置や衣装、店の看板やマッチ箱、壁画などで一度は目にされているのではないでしょうか?その才能は留まることを知らず、多くのマニアックなファンを持ち、近年は自ら出演もするライブもこなし、好評を博しているそうです。<br />

    安曇野ちひろ美術館 聖コージズキンの誘惑展
    氏は、1948年に静岡県浜北市生まれ、物心がついた頃から絵を描き始めて現在に至るそうです。創作絵本、画集、マンガ、映画や演劇のポスター、舞台装置や衣装、店の看板やマッチ箱、壁画などで一度は目にされているのではないでしょうか?その才能は留まることを知らず、多くのマニアックなファンを持ち、近年は自ら出演もするライブもこなし、好評を博しているそうです。

  • 安曇野ちひろ美術館 聖コージズキンの誘惑展 <br />即興で描くライブペインティングが行われたステージです。つなぎ姿のスズキさんがアトリエを再現した空間で、バックミュージックにあわせて巨大な布にアクリル絵の具で色をのせていくパフォーマンスを披露されたそうです。<br /><br />スズキコージ氏公認のホームページです。<br />http://www.zuking.com/info/<br />

    安曇野ちひろ美術館 聖コージズキンの誘惑展
    即興で描くライブペインティングが行われたステージです。つなぎ姿のスズキさんがアトリエを再現した空間で、バックミュージックにあわせて巨大な布にアクリル絵の具で色をのせていくパフォーマンスを披露されたそうです。

    スズキコージ氏公認のホームページです。
    http://www.zuking.com/info/

  • 安曇野ちひろ美術館 聖コージズキンの誘惑展 <br />どこかの国の民芸品にありそうな、奇抜なデザインです。

    安曇野ちひろ美術館 聖コージズキンの誘惑展
    どこかの国の民芸品にありそうな、奇抜なデザインです。

  • 安曇野ちひろ美術館 大花壇<br />美術館の裏手にある大花壇も必見です。<br />12000株のブルーサルビアが植えられ、鮮やかな青紫色に包まれています。北海道のラベンダー畑に迷い込んだように感じます。<br />「花が咲いている村づくりの会」や松川中学校の生徒さんが丹精込めて育てられています。<br />

    安曇野ちひろ美術館 大花壇
    美術館の裏手にある大花壇も必見です。
    12000株のブルーサルビアが植えられ、鮮やかな青紫色に包まれています。北海道のラベンダー畑に迷い込んだように感じます。
    「花が咲いている村づくりの会」や松川中学校の生徒さんが丹精込めて育てられています。

  • 安曇野ちひろ美術館 黒姫山荘<br />ちひろさんが奥村まこと氏の設計で長野県上水内郡信濃町の黒姫高原に建てた山荘を復元しています。4間4方のコンパクトなアトリエ兼住居は、杉板と漆喰という日本で最もポピュラーな素材で構成され、余分なものを削ぎ落とすことで素形美が宿っているように思えます。<br />野尻湖や建物を囲む美しい樹木を存分に愛でられるように、床の高さから大きく窓が取られ、少し高床になっているのは暮らしの中に周辺環境を取り込む工夫とも思われます。<br />

    安曇野ちひろ美術館 黒姫山荘
    ちひろさんが奥村まこと氏の設計で長野県上水内郡信濃町の黒姫高原に建てた山荘を復元しています。4間4方のコンパクトなアトリエ兼住居は、杉板と漆喰という日本で最もポピュラーな素材で構成され、余分なものを削ぎ落とすことで素形美が宿っているように思えます。
    野尻湖や建物を囲む美しい樹木を存分に愛でられるように、床の高さから大きく窓が取られ、少し高床になっているのは暮らしの中に周辺環境を取り込む工夫とも思われます。

  • 安曇野ちひろ美術館 <br />すっかり秋色に衣替えした木があります。<br />この1本だけが場違いのように赤く染まり、存在感を顕わにしています。

    安曇野ちひろ美術館
    すっかり秋色に衣替えした木があります。
    この1本だけが場違いのように赤く染まり、存在感を顕わにしています。

  • 安曇野ちひろ美術館<br />当方選りすぐりのポストカードです。

    安曇野ちひろ美術館
    当方選りすぐりのポストカードです。

  • 安曇野ちひろ美術館<br />レターセットです。<br />左下にあるのは入館証です。

    安曇野ちひろ美術館
    レターセットです。
    左下にあるのは入館証です。

  • D51483<br />大糸線JR細野駅より2kmほどの距離にある、「サンクラブ穂高」近くの田圃のど真ん中に置かれたD51です。有明山を借景に、山野を疾走していた現役時代を彷彿とさせる姿で青空展示されています。生涯長野の地を走る機会はなかったようですが、国鉄蒸気機関車運用の最終時期まで現役で活躍しました。<br />SLに上ったりすることはできませんが、北海道所属機の特徴の切り詰めデフや密閉式キャビン、大型スノーブロワも健在です。

    D51483
    大糸線JR細野駅より2kmほどの距離にある、「サンクラブ穂高」近くの田圃のど真ん中に置かれたD51です。有明山を借景に、山野を疾走していた現役時代を彷彿とさせる姿で青空展示されています。生涯長野の地を走る機会はなかったようですが、国鉄蒸気機関車運用の最終時期まで現役で活躍しました。
    SLに上ったりすることはできませんが、北海道所属機の特徴の切り詰めデフや密閉式キャビン、大型スノーブロワも健在です。

  • D51483<br />ここのD51のもうひとつの特徴は、被爆機関車であることです。<br />1940年(昭和15年)に北九州市 国鉄小倉工場で標準形として製造され、熊本から広島の機関区へ配属されて1945年(昭和20年)8月の原爆投下時に「死の灰」を浴びています。戦後は北海道岩見沢へ渡り、最後は滝川機関区に配属されて1976年(昭和51年)まで活躍しました。その間の累積走行距離は、約256万km、単純計算で地球を64周したことになります。<br />このD51が安曇野にやって来たのは引退の翌年。その後、一時は赤錆びて風前の灯状態だったこともあるそうです。しかし現在は、それを惜しんだひとりの少年の勇気とその声に呼応した地域の方々の想いが結実し、「あづみのD51保存会」の人たちの手によって大切に保存されています。<br />戦前、戦中、戦後にわたり日本各地で様々な歴史を見てきた生き証人が、風光明媚な安曇野の地に鎮座する姿は感動ものです。<br />

    D51483
    ここのD51のもうひとつの特徴は、被爆機関車であることです。
    1940年(昭和15年)に北九州市 国鉄小倉工場で標準形として製造され、熊本から広島の機関区へ配属されて1945年(昭和20年)8月の原爆投下時に「死の灰」を浴びています。戦後は北海道岩見沢へ渡り、最後は滝川機関区に配属されて1976年(昭和51年)まで活躍しました。その間の累積走行距離は、約256万km、単純計算で地球を64周したことになります。
    このD51が安曇野にやって来たのは引退の翌年。その後、一時は赤錆びて風前の灯状態だったこともあるそうです。しかし現在は、それを惜しんだひとりの少年の勇気とその声に呼応した地域の方々の想いが結実し、「あづみのD51保存会」の人たちの手によって大切に保存されています。
    戦前、戦中、戦後にわたり日本各地で様々な歴史を見てきた生き証人が、風光明媚な安曇野の地に鎮座する姿は感動ものです。

  • D51483<br />田圃の片隅に安置された、やさしいお顔の野の仏とのツーショットです。<br />気のせいか、微笑んでおられるような…。<br /><br />D51と言えば逞しい「鉄路の千両役者」と称されて大人から子供まで大人気のSLの代名詞でした。1936(昭和11)〜1945年(昭和20年)にかけ、延べ1115両製造された名機です。<br />日本国有鉄道の前身となる鉄道省が設計、製造した、単式2気筒、過熱式のテンダー式蒸気機関車の総称です。主に貨物輸送のために用いられていました。<br />

    D51483
    田圃の片隅に安置された、やさしいお顔の野の仏とのツーショットです。
    気のせいか、微笑んでおられるような…。

    D51と言えば逞しい「鉄路の千両役者」と称されて大人から子供まで大人気のSLの代名詞でした。1936(昭和11)〜1945年(昭和20年)にかけ、延べ1115両製造された名機です。
    日本国有鉄道の前身となる鉄道省が設計、製造した、単式2気筒、過熱式のテンダー式蒸気機関車の総称です。主に貨物輸送のために用いられていました。

  • スケッチロード ソバ畑<br />スケッチロードと呼ばれる交通量の少ない舗装道路を、右手には山並み、左手には田園風景を眺めながら颯爽と走り抜けます。河川付近のアップダウンを除き、ほぼ平坦な道ですので気分爽快です。<br /><br />畑一面、柔らかな白い絨毯に覆われたようになっています。<br />秋ソバが純白の可憐な花を付け、爽やかな風に揺られて秋を演出しています。

    スケッチロード ソバ畑
    スケッチロードと呼ばれる交通量の少ない舗装道路を、右手には山並み、左手には田園風景を眺めながら颯爽と走り抜けます。河川付近のアップダウンを除き、ほぼ平坦な道ですので気分爽快です。

    畑一面、柔らかな白い絨毯に覆われたようになっています。
    秋ソバが純白の可憐な花を付け、爽やかな風に揺られて秋を演出しています。

  • スケッチロード 有明山<br />心なしか西の空が靄っています。ひょっとしたら御嶽山の噴煙が流されてきたものなのかもしれません。<br />丁度この日の正午前に御嶽山で火山噴火が発生していました。それを知ったのは、松本駅で配られた「号外」でした。亡くなられた方々のご冥福と、負傷された方々の早期回復を祈念させていただきます。<br /><br />こうしてあっという間に安曇野逍遥は幕を降ろしてしまいました。<br />満足感と達成感で長距離サイクリングの疲れは微塵も感じません。(明日の朝はどうかは判りませんが…)<br />心が渇いたら、また安曇野へ来ようと思います。 <br /><br />明日は上高地へ移動し、穂高神社 奥宮のある明神池の散策を愉しみます。<br />この続きは、⑤上高地<前編>でお届けします。

    スケッチロード 有明山
    心なしか西の空が靄っています。ひょっとしたら御嶽山の噴煙が流されてきたものなのかもしれません。
    丁度この日の正午前に御嶽山で火山噴火が発生していました。それを知ったのは、松本駅で配られた「号外」でした。亡くなられた方々のご冥福と、負傷された方々の早期回復を祈念させていただきます。

    こうしてあっという間に安曇野逍遥は幕を降ろしてしまいました。
    満足感と達成感で長距離サイクリングの疲れは微塵も感じません。(明日の朝はどうかは判りませんが…)
    心が渇いたら、また安曇野へ来ようと思います。

    明日は上高地へ移動し、穂高神社 奥宮のある明神池の散策を愉しみます。
    この続きは、⑤上高地<前編>でお届けします。

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