2014/08/14 - 2014/08/14
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KOJI Takeさん
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前回までのおはなし
>>>【2014北の国のその北へ…】(3)稚泊航路でサハリンへ
http://4travel.jp/travelogue/10924580
昨日、北海道からサハリンへ渡り、いよいよロシアの旅がスタートする。
今日一日は、ユジノサハリンスクと、そこから足を伸ばせる範囲へ行こう。
ここサハリンは、歴史をたどれば複雑だ。
もともとはアイヌの人々をはじめ、いくつかの民族が住んでいた。そこへ、日本やロシアの人々が移住してきて、いわゆる日露雑居の島となった。
明治8年(1875)、樺太千島交換条約が調印されたことによって、日本は樺太を放棄、そのかわりに千島列島の領有権等を獲得した。
明治37年(1904)、日露戦争が勃発。翌年のポーツマス条約で北緯50度以南の樺太が日本領となる。
今のユジノサハリンスクは、当時は豊原と呼ばれ、樺太庁が置かれた。この頃、定期航路も開設され42万人もの日本人が生活していたという。
そして、第2次世界大戦。終戦後、サハリンは再び、ソ連の領土となり、多くの日本人はこの地を離れた。
今は、すっかりヨーロッパの街並みのようだけれども、日本の名残を見つけることはできるのだろうか。
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ユジノサハリンスクで2泊した「モネロンホテル」
部屋はまあまあ綺麗だが、トイレは共同。 -
朝食付。
スープ美味しい。 -
ペリメニという、シベリア風水餃子。
ネパールのモモを思い出す。 -
ユジノサハリンスクの駅前広場。
台風の後だからなのか、普段からなのか。
走っている車もかなり砂埃をかぶっていて、整備の悪い車も少なくない。 -
駅のすぐ近くには、鉄道歴史博物館があります。
ただ入口がよくわからなかったのと、博物館の中もロシア語しかなさそうなので入らずじまいでしたが、外から車両展示は見られます。
日本から寄贈された、キハ58というディーゼルカーもいました。だいぶ、錆ついて痛々しい様子でしたが… -
ガガーリン記念文化公園
公園内には、ミニ遊園地のような一角もあるが、ほとんど動いていない。 -
なんと公園内に鉄道が走っている。
これ、ロシア各所にある「子供鉄道」といわれるもの。なんだ、遊園地の列車か…なんてあなどってはいけない。 -
10代の青少年が、鉄道の運営システムを体験するための教育施設で、一般の人も乗ることができる。
改札も運転士も全て子供だけれども、本格的な軽便鉄道。
で、乗ってみたかったのだが、お客さん誰もいなくて、発車する様子も全くないのでやめた(笑)
こんなんで成り立っているのかな? -
ロシア正教会
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ユジノサハリンスクは、駅から東に碁盤の目のように縦横が区画整理された町並みが広がっている。これは、日本の豊原時代に作られたもので札幌を模しているとか。でも今はどこかのヨーロッパの町並みにしか思えないほど、日本の名残は感じられなかった。(いくつかの日本時代の建物は残っている)
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日本時代に創建された樺太神社の跡があるということで訪れようと探した。
どうやら、ここが参道の跡らしい気がするが、この先に行っても見当たらない。
他の旅行記を見ても、分かりにくい場所にあって、連れてってもらわなければ分からなかったと書いてあった。
ついに見つけることができず断念。 -
もしかして、この先の林を抜けていくのかもしれないが、怖いのでやめた(^^;
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「山の空気展望台」というのがあって、ロープウェイで登れるらしいとあるので、乗り場らしき場所まで行ってみた。
が、見当たらない。場所はここでいいはずなのだが…
冬はスキー場のようだが、夏は運休していることも多いとか。
だめもとで来たが、やはりだめでした(笑)
まあ、天気もそんなに良くないしあきらめます。 -
とまあ、ここまで、歩き回るわりには目的果たせずな結果ばかりだけれども、このあと街歩きを楽しみましょう。
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いかにもロシア、なアパート。
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ここサハリンも台風の被害を受け、街路樹が何本もなぎ倒されている。
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日本食レストラン。その名も「にほんみたい」だって。
”みたい”ってなんだよ?って思わず突っ込まずにいられなかったので、入ってみた(笑)
中には、回転寿司の設備もあるが動いておらず。(夜動かすのかな)
それほどお腹もすいていなかったので、軽くサラダでも頂いておきました。 -
自由市場。
屋外の雑多なマーケット。
こういうあたり、アジアっぽい。 -
ショッピングセンターが隣にありました。
都会といえば都会? -
サハリン州立郷土博物館
日本時代の「樺太庁博物館」が引き継がれたもの。
建物も、樺太の建造物の多くを手掛けた貝塚良雄の設計によるもの。
建物の前の噴水、なんだか落ち着きますね。 -
博物館の展示は、自然から民族、歴史までさまざま。
ヒグマがお出迎え。 -
豊原市街の地図。
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北緯50度線上の日露国境に置かれていた標石。
「大日本帝国 境界」と刻まれている。
ちなみに裏は、キリル文字で「ロシア 境界」となっている。 -
豊原時代の生活を物語る品々も展示されている。
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駅方面へ戻ってきた。
この通りの広さが、やはり欧州っぽいなぁと。 -
どこに行ってもお馴染みのレーニン像
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駅前公園。奥に見えるのが駅舎。
「вокзал」というのが、ロシア語で「駅」
ということは、駅舎に「駅」って書いてあるだけだ。
いくつも近くに駅があるわけではないので、それが「ユジノサハリンスク駅」であることは当たり前ということなのだろう。 -
ユジノサハリンスクの市街も小さいもので、大体歩き回ってしまった。
というわけで、少し遠くへ行こうと、バスのチケット売り場へ。
みごとにロシア語しか表記がなく撃沈。そして混んで並んでいるので、筆談で時間かけて交渉することが許されるような雰囲気でもない。 -
ただ、幸いバスには系統番号がある。
そして「地球の歩き方」にも、主要路線の系統番号は乗っている。
516番のホルムスク行きのバスが発車しようとしていたのを見つけ、それに乗る。
チケット買ってないけど、運転手に聞いたら乗れと。
そして直接、運賃を払った。 -
ホルムスクまでは、バスで約2時間弱。
途中、ちょっとした山越え路線だ。
容赦なく飛ばす飛ばす。 -
ホルムスクの港町にやってきました。
ここがメインストリートかな。 -
戦争が終わって69年。ここ真岡でも、あまり知られていない物語がある。
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真岡郵便局「9人の乙女の物語」
太平洋戦争が終わった8月15日以降もソ連軍と日本軍の戦闘は続いていた。
樺太でも北海道への緊急疎開が始まったものの、本土との通信連絡網の確保という重要な任務にあたっていた郵便局にいる電話交換手の女性たちは、ソ連軍が上陸する最後まで仕事を全うした。
9万人弱もの人が北海道へ脱出したともいわれているが、彼女達の通信網確保がなければ成り立っていなかったであろう。
いよいよソ連軍が上陸し、もはやこれまで、と悟った際に、本土に向けて最後のメッセージを送った。
「皆さんこれが最後です。さようなら、さようなら」
そして全員、手にした薬包紙に包まれた青酸カリを一斉に口にした。
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この舞台の跡地には、現在はアパートらしき建物になっていて、1階に銀行と郵便局があった。
郵便局の中に入ってみたが、他のロシアの郵便局と変わらず、狭いカウンターに人が並びごった返していた。 -
当時を偲び、想像するのは困難なほどに町の様子は変わっている。
でも、海に目を向ければ、そこには当時と変わらないタタール海峡(間宮海峡)がそびえている。
日の沈むころまではいられなかったが、タタール海峡に沈む夕陽は美しいという。その風景は当時も今もきっと同じなのであろう。 -
再びバスでユジノサハリンスクに戻る。
稚内での足止めがなければ、本当はここから船でロシア本土のワニノという町へ渡る予定だった。
次回こそは・・・と言いたいところだが、さすがに、ここへ2回目の旅に来ることはしばらくないと思います(^^; -
夜のユジノサハリンスク駅前の公園。
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ここでは、なぜか地元のカラオケ大会が催れていて、サハリンの夜空に歌声が響きわたっていた。(こういう田舎らしさが、またいいなぁと)
https://www.youtube.com/watch?v=-1Hqt5e92l4
つづく
>>>【2014北の国のその北へ…】(5)アムール川に沈む夕陽
http://4travel.jp/travelogue/10927130
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