2014/04/07 - 2014/04/07
35位(同エリア60件中)
滝山氏照さん
松岡城(まつおかじょう、茨城県高萩市下手綱)は元は竜子山(たつごやま)城と呼ばれ、築城時期や築城者については諸説がありはっきりしたことは判りませんが、もと多可郡大塚郷(現北茨城市磯原町大塚)の地頭で、応永年間(1394~1428)の末頃から慶長(1596~1615)年中まで竜子山城に居住していた大塚氏によって築かれたと考えられています。
その大塚氏は文明17年(1485)、岩城平地方を本拠とする岩城氏の攻撃を受けて降伏、以降高萩地方は岩城氏の支配地となります。
慶長元年(1596)大塚氏は折木に移り、慶長7年(1602)には岩城氏は改易となり、その後は出羽国角館から戸沢政盛(とざわ・まさもり、1585?1648)が4万石を以て入封します。
戸田氏は慶長11年から翌12年にかけて松岡城の改修拡張(現在の松岡小学校に当たる部分が拡張)し、これを機に竜子山城から松岡城と改称します。
元和8年(1622)、出羽国山形藩の最上氏の改易に伴い戸沢氏は再度出羽国新庄へ6万石で転封、翌9年に松岡城は水戸藩に引き継がれ後に2代中山家当主で水戸藩付家老である信正(のぶまさ、1593~1677)の所領地となり松岡を統治することになります。
宝永4年(1707)、6代当主信敏(のぶとし、1678~1711)の頃松岡から常陸太田へ知行替え、享和3年(1803)10代当主信敬(のぶたか、1757~1820)は太田の知行を返納し松岡へ戻る事を藩主に請願、これが認められ再び松岡に戻り中山氏の本拠として本格的に城郭(現松岡小学校校庭)とその周辺整備がなされます。
信敬による松岡城の整備は文化元年(1804)から開始され、主として侍屋敷や郭内の建屋の建設が行われます。
まず侍屋敷については大手橋から真南に向かう道路の両側や、大手橋の辺りから現在の松岡中学校に向かう道路の両側、或は現在の県道手綱通沿いに建てられます。
次に郭内については評定所、稽古場、御台所、稗倉そして重臣の家宅や長屋が造られ、その奥には水堀と土塁を土橋で渡った敷地に藩主居住する御殿が建てられます。
工事が完成した文化元年9月に信敬は松岡に20日ほど滞在、この時信敬は工事に格別の貢献した村役人などに酒代を下賜し、併せて領内の80歳以上の135人に対し総額50貫文を配分し敬老の意を表します。
信敬以降も中山氏は付家老として歴代藩主を補佐し、11代信情(のぶもと)、12代信守(のぶもり)、13代信宝(のぶとみ)そして14代信微(のぶあき)と続きます。
そもそも中山氏は武蔵七党の一つの丹党(宣化天皇の曾孫・多治比古王の後裔)加治氏の一族で、家勝(いえかつ、1514~1573)の代に武蔵国高麗郡中山に進出し居を定め中山姓を名乗ります。
家勝の子である家範(いえのり、1548~1590)は小田原北条氏の八王子城主氏照(うじてる、1540~1590)に仕える武将で天正18年(1590)の小田原合戦に伴う八王子城攻防では、中の丸を守り攻撃を加える豊臣秀吉派遣の北国軍(前田利家・上杉景勝)を脅かす働きをしますが武運なく自害し八王子城は落城します。
家範の活躍ぶりを伝え聞いた関東入封の徳川家康は長男照守(てるもり、1570~1634)と二男信吉(のぶよし、1577~1642)を召し抱え家臣とします。
長男照守は高麗八条流馬術の達人で寛永9年(1632)鑓奉行に昇任3千500石の大身旗本、孫の直張の三男直邦は外祖父黒田氏に養育され黒田姓を称しやがて将軍綱吉の側近として奏者番、社寺奉行を経て老中の地位まで昇ります。
二男信吉は慶長12年(1607)、水戸藩創設の折り家康の命により幼少の頼房を補佐する付家老となり、子信正の代に1万5千石の知行を得て常陸松岡に居城を置きます。
中山氏は代々水戸藩付家老の家柄として譜代大名と同格の待遇を受け、特に中山氏の知行地に限り独自に行政を行えるという「別高(べつだか)」が許されるようになります。
そして皮肉にも明治元年新政府の命により晴れて大名に取立てられ松岡藩が誕生するも翌2年の版籍奉還により藩知事を経て明治4年(1871)、廃藩置県により短命の松岡藩は松岡県として発足、同年11月に茨城県に編入されそれまでの中山氏統治は終わります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 3.5
- 交通
- 1.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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JR高萩駅舎
早朝6:20八王子発電車に乗り、上野駅で快速勝田行、水戸駅から高萩行に乗換し、高萩駅到着10:26と結構時間かかります -
高萩市観光地図
駅前に掲示されている観光案内地図が見えます。 -
高萩駅近郊地図
竜子山(=松岡)城跡の位置を確認します。現地までは11:05発千代田行に乗ります。(事前に観光協会に電話を入れて確認済み) -
高橋家門
JR高萩駅から千代田行バス10分、松岡公民館前下車して西進しますと道路沿いに高橋家門が見えます。説明では松岡中山家の東端に位置する武家屋敷跡で、ここから西方向に中山氏家臣の屋敷が並んでいたそうです。 -
高橋家門
横から見ますが住居には続かず門だけのようです。 -
高橋家門説明
高橋家の先祖は水戸藩政時代は松岡の郡奉行を務め、幕末の志士とも交流があったそうです。 -
松岡城跡入口
高橋家門から更に西進しますと分岐点があり、右方向には広場が確保され同時にベンチや手洗いなどの施設があえります。 -
松岡−城のふるさとづくり
広場の正面には「松岡-城のふるさとづくり」と刻された石碑が見えます。町興しの一環で歴史的遺跡を整備しているものと思われます。 -
御屋敷通り
カ−ブの通りは石畳風となっています。 -
松岡地区環境整備地区案内
今から渡る橋の傍らに金属板の案内地図があり、この通りを進みますと自分が目的とする竜子山城跡(=松岡城跡)の名前が刻されています。 -
関根川河畔
整備地区の最初は関根橋を渡ります。 -
関根川
この川が今から行く松岡城跡の外堀としての役割を果たしているようです。 -
関根川
橋から右手を一望します。 -
松岡地区整備地区町並み
指定地区として住宅街も一斉に古風な塀を造作しています。 -
古風な町並み
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保存された家屋
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民家の立派な門構えと塀
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松岡城大手道
この直進の道路がかつての大手道で事業整備の結果、その時代の雰囲気が幾分感じられます。 -
「大手橋」石柱
「大手橋」の名前から松岡小学校正門辺りが松岡城跡の大手門となります。 -
「竜子山川」石柱
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松岡小学校正門
松岡城時代の大手門に当たります。 -
土塁説明
松岡小学校正門の左傍らに説明板があり、土塁と共に竜子山城(=松岡城)に関する記事が出ています。 -
土塁
松岡小学校を囲む塀とその外側には土塁が見られますが整備後のものと思われます。 -
歴史観光案内板
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公園風景
松岡小学校を過ぎると整備された公園に入ります。桜並木の花満開が今が一番の見頃です。 -
松岡小学校を囲む塀
当小学校の周囲は塀で囲まれており城下町の雰囲気を醸し出しています。これほどまでに徹底して環境を保存している事例は初めてです。 -
桜並木
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桜並木
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公園絵図
公園はきれいに整備され、折から桜の開花に併せて幼児を連れた母親が周辺で遊んでいます。 -
松岡小学校駐車場入口
冠木門(かぶきもん)を設置するなどして城下町の雰囲気を醸し出す行政の真剣な対応ぶりは立派です。 -
旧丹生神社鳥居
水戸藩付家老職中山氏の氏神で、正保3年(1646)埼玉県飯能市出身で中山氏二代である中山信正(なかやま・のぶまさ、1594〜1677)が当地に所領を得て松岡城内に丹生神社を建立します。その後常陸太田へ移封に際し神社も移されますが、10代信敬(のぶたか、1765〜1820)代に再び当地領主となり文化2年(1805)現在地に丹生神社を建てます。 -
旧丹生神社拝殿
中山氏の祖は武蔵七党の丹党(たんとう)に属し秩父地方を南下し入間川左岸の現在の飯能市中山に勢力を得た一族で、その地名から中山と名のってきました。 -
旧丹生神社拝殿
中山氏氏神を祀る神社はその後丹生都比女命と天満宮、稲荷社を合祀して明治以降は「三神社」と改称され今日に至ります。 -
旧丹生神社境内風景
拝殿から境内一帯を振り返ります。 -
旧丹生神社参道風景
鳥居から長い参道を捉えます。 -
公園散歩道風景
今まで歩いてきた整備道路を捉えます。右側は桜並木と公園を、左側は松岡小学校の壁が連なっているのが見えます。 -
松岡城跡登城口
城跡登り口見当たらず地元の男性Kさん(60歳台)に尋ねると「判り辛いから案内してあげる」と言って案内してくれました。(公園まではしっかり整備されてますが、城跡については全く対応されず説明板はおろか案内板すらありません。当山が個人所有かどうか不知ですが何とかフォロ−していただきたいと思います) -
堀切
Kさんの案内で登りきった場所は狭くその先を見渡しますと堀切が確認されるも城郭のどの位置か判らないままです。 -
城郭跡風景
Kさんが下の郭に降りてゆき、自分も従います。降り切った場所は主郭と思われますがKさんからの説明はありません。 -
城郭跡風景
更に降りてゆきます。Kさんは「小さい時は毎日のようにここにきて遊んだもんです」と話してくれます。そのころは樹木も木立であったとも言ってます。 -
松岡城跡(竜子山城跡)古井戸跡柱標
案内標柱が立っています。 -
松岡城跡(竜子山城跡)古井戸跡
Kさんの話では「昔は柵などはなかった」と言ってましたが何時から柵が設置されたのかは不明でした。 -
崖下
古井戸の左側から下を見ると急峻な崖が控えています。 -
下山するKさん
山自体が整備されてないので、道なき道を歩くようです。また途中は樹木が倒れている場所か多数で、単独登山は控えたほうがいいと思います。 -
城郭跡風景
やや広めの郭が見渡せます。 -
下山道
登城道を振り返ります。 -
下山道
登城道を振り返ります。 -
下参道
登城道を振り返ります。ル−トは直進と左折ル−トがあります。 -
藩主居館跡
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古井戸跡内部
上の郭で見た古井戸と異なり柱材で四方が覆われています。内部はカンやビンは投げ込まれています。 -
水堀跡
右側は整備後の道路ですが、左側に見える手前から先に続く沼らしきものはかつては水堀であったと思われます。 -
水堀跡
左端に見るように住宅が迫っている中で、開発から取り残されている沼地が遠方に見える松岡中学校運動場まで続きます。 -
中山氏墓通路
城跡を離れ中山氏一族の墓があるという話を聞いて案内していただきます。案内のKさんの話では先祖は中山氏に仕えていたとのことで、案内先の中山氏の墓にはKさん先祖の墓があるそうです。 -
中山氏一族墓
バイパスを横断、南に入り一般墓地を右側に見ながら進みますと石段が現れ、この石段を上がった切削地に歴代最後の14代中山信微(なかやま・のぶあき)夫婦とその一族の墓があります。 -
中山家墓
中山氏一族の墓が見られます。 -
中山氏墓
鳥居の先に地震で倒壊の墓が見え修復されない状態です。 -
中山家墓
東日本地震の影響を受け墓石が見事に倒壊しています。 -
中山氏家紋
墓石に刻された「枡形の内側に月」の家紋が確認されます。 -
14代中山信微(のぶあき、1845〜1917)夫婦墓
歴代最後の水戸藩付家老で文久元年に先代信宝(のぶとみ、1843〜1861)の養子となり15歳で家督相続し付家老となります。病弱藩主慶篤(よしあつ、1832〜1868)を補佐し、天狗・諸生の乱や戊辰戦争など幕末の動乱期を乗り越えます。 -
中山信微墓
明治元年(1868)、明治政府の命により大名に取り立てられ、松岡藩が誕生、水戸藩主の要請によって水戸藩政治向き委任を受けて戊辰戦争などの動乱に対処します。翌年には版籍奉還により藩知事となって松岡藩の職制改革や財政立て直し等に努めます。明治4年(1871)、廃藩置県実施され松岡県誕生後は氷川神社、日光荒山神社の宮司などを務め大正6年(1917)に72歳で亡くなります。 -
信微夫人墓
信微氏墓の横には鶴子夫人の墓が並んでいます。 -
加藤氏夫人之墓
墓地中央に「祖加藤氏夫人之墓」と刻された大型墓が建立されています。家主の信微との関係が不明です。 -
中山氏家紋
加藤氏夫人墓の上部にも「枡形の内部に月」の中山氏家紋が刻されており、加藤家に嫁いだ中山氏の娘かと想像しています。 -
中山信綱之墓
東日本地震の影響を受け墓が倒れた状態です。 -
中山信継之墓
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中山氏一族の墓
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中山信実墓
「故正三位男爵中山信實墓」と刻されています。信微の長男で男爵を受けています。 -
亀趺墓(きふばか)
手前の加藤氏夫人墓の台座は亀の形をしている珍しい墓です。中国で昔から使用されていますが日本では江戸時代に伝播して大名家の墓に使われています。 -
中山氏一族墓
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長久保赤水像
JR高萩駅に戻ります。駅前銅像があります。江戸時代中期の地理学者で高浜市出身、長久保赤水(ながくぼ・せきすい、1717〜1801)の坐像です。 -
長久保赤水説明
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「改正日本輿地路程全図」
実測による地図作成ではないものの、安永3年(1774)に自ら作成した「日本輿地路程全図」に修正を加え安永8年(14779)に「改正日本輿地路程全図」を発行します。
当地図は伊能忠敬の地図より42年前に出版されますが、伊能忠敬作成地図が幕府の管理下に置かれていた事情もあって、赤水の地図は明治初期まで広く使用されたそうです。 -
竹島
地図に明確に載っていることから既に日本領土として認識がありました。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- ごまさん 2014/04/14 11:43:18
- こんにちは。
- 滝山氏照さんへ
いつも訪問と投票をありがとうございます。
いつも古い史跡の数々を興味深く読ませて頂いています。
東日本大震災以降〜あちこちの史跡が倒壊したままなのを見ると悲しくなります。
私の住んでいる土地もまだまだ傷跡が残ったままの場所が多く有ります。
まだ修復するまでの余裕がないのですよね。
こういう風に沢山の史跡が、時代と共に朽ちていくのも歴史なのでしょうか〜寂しい思いがしますね。
毎回知らなかった歴史を見る事ができてありがとうございます。
ごま
- 滝山氏照さん からの返信 2014/04/15 08:15:35
- 拝復
- ごまさん、おはようございます
小生の旅記事を見ていただきましてありがとうございます。
過日茨城県北部の高萩に行きましたが、同地でも地震の被害がひどく
墓石倒壊等に止まらず古い人家などにも被害が及び、市街を歩きますと
地震被害を受けて建替中と思われる風景がいくつか見られました。
因みに現地で案内してくれたKさん宅は地震の影響で窓が全面割られて
未だに雨戸を閉めた状態だとのことでした。
日本は地震列島とはいえ住居を替えるわけにもゆかず、直下型地震が
予想されている東京でも気になるところです。
滝山氏照
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