2013/10/26 - 2013/10/26
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chiaki-kさん
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1.終戦と壁の誕生
1945年5月8日、ドイツ軍は連合国に対して無条件降伏し、欧州戦線における第二次世界大戦は終了する。終戦後、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4ヶ国によって分割占領され、首都ベルリンも分割された。1948年、米英仏占領地域が独自に通貨改革を行うと、これに対抗したソ連がベルリンの米英仏占領地区へ繋がる陸路を完全に遮断(ベルリン封鎖)する。アメリカはこれに対して食料物資を空輸することで封鎖を崩し、ソ連もすぐに封鎖を解いたが、両者の溝は埋まることはなかった。
1949年5月、米英仏占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立、これを受けて10月には、ソ連占領地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツは東西に分断された。当初、東西間の行き来は自由だったが、経済格差や政治体制の不満などにより西ベルリンへ脱出する東ドイツ人が増加、このままでは国家存続の危機に陥るとして、1961年8月13日に東ドイツによりベルリンの壁が建設された。
2.壁の崩壊と東西ドイツ統一
1980年頃から始まったポーランド民主化運動は、1985年にはハンガリーに飛び火し、翌年ハンガリーとオーストリア国境が解放され、多くの東ドイツ市民はハンガリー・オーストリアを経由して西ドイツに行けるのではないかと考え始めるようになった。1989年8月、ハンガリー・オーストリア国境地帯に属するショプロンで汎ヨーロッパ・ピクニックが開かれ、東ドイツ市民もおよそ1000人詰め掛けたが、代表挨拶が終わらない内に、参加者は続々と国境を越え始めた。これに対してハンガリーの国境警備隊は黙認するどころか、手助けする者も現れ、越境は成功する。秋になると、東ドイツ国内でもライプツィヒやベルリンなどで、旅行の自由化、民主化を求めるデモが頻発した。高齢のホーネッカーに事態を収拾出来る力は無く、同年10月にホーネッカーは退陣に追い込まれ、1989年11月9日ベルリンの壁は崩壊する。
そしてベルリンの壁崩壊から1年も経たない1990年10月3日、東西ドイツの統一も実現した。10月3日の統一式典では、ベルリンの旧帝国議会議事堂に「黒・紅・金の三色旗」が揚げられ、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。
3.壁崩壊から20年後に
2009年10月31日に、ジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)、ゴルバチョフ、コールの3人がベルリンで再会した。このときの3人の発言は、以下の通りである。
コール:「誰も信じていなかった統一を成し遂げたのは誇りだ。」 父ブッシュ:「壁崩壊とドイツ統一は、冷戦を終わらせただけでなく、2回の世界大戦の傷跡を消し去った。」 ゴルバチョフ:「政治家ではなく、国民が英雄だった。」 (Wikipedia及び地球の歩き方参照)
写真はブランデンブルク門近くに残る”壁”の跡。
2024/03/01 一部修正
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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6:30
ベルリン・エストレルホテルの朝食。この旅行で一番豪華な朝食だった。 -
ホテルの外観。添乗員さんの話ではベルリンで2番目に大きなホテルとのこと。
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8:30 ホテルから徒歩3分ほどにあったNettoという名のスーパーへ朝から買いだしに。月~土まで7:00~22:00まで営業、ドイツ人って働き者だね。
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地元市民用の店といった感じで、それほど大きくは無いが、品数は充分で野菜、果物、乳製品、コーヒー、菓子、ワインなどを結構安く販売していた。なお、入口手前にあるカートには1Eコインの差し込み口があり、元へ戻すとコインは帰ってくる仕組み。
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09:00 市内巡りスタート、ベルリン中心部を流れるシュプレー川沿いにも壁は建てられたが、そのうち1.3kmがイーストサイドギャラリーとして残されドイツ内外のアーチストの画が描かれている。
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壁は2重構造となっており、壁の間には武装した兵士が巡回し、シュプレー川には警備艇が浮かんでいた。なお、ぞろぞろいるのはスペインの団体さん。団体ツアーは日本だけじゃない。
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壁アート1 キリストかな
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壁アート2 ベルリン 何故か左にNEWYORK、右にTOKYOが。
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シュプレー川、昔は警備艇が、今は観光船が行き交う平和な川になった。
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壁アート3 ソ連のブレジネフ書記長と東ドイツのホーネッカー議長との「兄弟のキス」、有名な画だ。なお、このキスシーンは創作では無く実際にあったもので、映像も残っている。
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壁の前にこんな車が止まっていた。1958年から33年間モデルチェンジされなかった東ドイツ製のトラバント(愛称トラビ、写真はステーションワゴン・タイプ)だ。
直列2気筒2サイクル594cc、FF、4MT(ノンシンクロ)、4人乗りの小型乗用車だが、ボディの一部はFRP製で車重は600kg程度、末期には物資不足によりボディ材料の繊維がボール紙となった。1991年に製造中止となっているが、かつての東ドイツを懐かしむ人や、マニアの間では人気がある。 -
イーストサイドギャラリーを後にシュプレー川を渡ると
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工事だらけのベルリンの街。
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この青い管は工事に伴う地下水を流すもので、ピンク色のものもある。
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東側から見るブランデンブルク門。ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により1791年に竣工している。もともとはベルリンを取り囲む14箇所の門の一つだったが、他は取り壊され、この門だけが残った。
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クアドリガと呼ばれる4馬立ての馬車の上に勝利の女神が乗っているのだが、ナポレオンに持って行かれたり、鉄十字の杖のかわりにオリーブの枝を持たされたり(東ドイツ時代)した歴史がある。
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門の東側からはウンター・デン・リンデン(菩提樹の下)通りが始まる。なお、緑色の屋根を持つ建物はホテル・アドロン。1907年創業でベルリンの迎賓館的名門ホテル。
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ブランデンブルク門から、はるか西にはデンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争の勝利を顕彰する戦勝記念塔ジーゲスゾイレが見える。
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徒歩でやってきたのはドイツ連邦議会議事堂、かつての帝国議会議事堂。1933年ナチスの陰謀により放火されてからドイツ再統一まで使用されなかった建物。
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予約すれば入場もできるのだが予約WEBもなかなか繋がらないらしい。
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議事堂の向かい側にある公園では菩提樹(セイヨウボダイジュ)の黄葉がまっさかりだった。
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菩提樹の葉を踏みしめて公園を横切る。
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近代的なトイレ(有料・50セント)
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ソ連が建てた戦勝記念碑
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ロマ犠牲者記念碑もあった。
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交差点の向こう側にあるたくさんの石碑のようなものがユダヤ人犠牲者記念碑
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走るバスからの説明だったのではっきりしないが、この辺にヒトラーが1945年4月29日に自殺した総統地下壕があったらしい。
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ウンター・デン・リンデン東端にあるフリードリッヒ大王の騎馬像。
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ウンター・デン・リンデンは目下Uバーン(地下鉄)工事中。
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シュプレー川の中州にある世界遺産、博物館島へやってきた。旧博物館、新博物館、旧ナショナルギャラリー、ベルガモン博物館、ボーテ博物館、そしてベルリン大聖堂などがある。全部見る時間は無いのでベルガモン博物館に入場する。
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新博物館の柱に残る弾痕、大戦末期ベルリンでは市街戦が展開されたが、修復せずに、そのまま残してある。
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ペルガモン博物館はこちら。
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古代ギリシャ・ペルガモン(現トルコ、ベルガマ)で発掘されたゼウスの大祭壇。
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模型もあったが、祭壇を囲む壁にほどこされた彫刻がすばらしい。
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たとえばこの彫刻だが
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想像図はこんな感じ
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これは
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こうなる
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右側の何もない箇所には
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ポセイドンがいる。
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続いてミレトスの市場門
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古代ローマ5賢帝の一人トラヤヌス。ローマの属州であるエスパーニャ出身。
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同じくハドリアヌス。2人ともローマ世界を守るため辺境の地域の警備を強化した皇帝で知られる。
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古代バビロニアのイシュタール門。
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12:00 とある中華料理屋で昼食。ロンドンに続いて残念なお味だったので料理の写真は無し。写真は注文したデュンケル(黒ビール)、確か3Eほどだったが、これぞ麦!という味。ドイツではどこで、なにを飲んでも、ビールがうまい。
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博物館から出て再びウンター・デン・リンデン通りに出る。
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並木道はクリスマス・イルミネーションの準備中。ドイツのクリスマスは世界的に有名。ちなみにクリスマスツリーを発明したのはドイツ人。
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お、トラビだ! しかも、ヒョウ柄。前にはピンクのトラビ・ワゴン。たぶんTV番組で見たトラビ・ツアーの車では。
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ベルリン・フィルの本拠地、フィルハーモニー・コンサートホール。
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大使館通りにあった日本大使館、イタリア大使館もすぐ隣に。
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ドイツ帝国(第2帝国)を築き上げた宰相ビスマルクの像。
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戦勝記念塔ジーゲスゾイレ。1864年の対デンマーク戦争、1866年の対オーストリア戦争、1871年の対フランス戦争の勝利を記念して建てられたもの。ちなみに、上まで登れるらしい。
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黄葉した菩提樹の森が囲むアウトバーン115号線を南西へ40分ほど走ると、
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14:00 ポツダムの町に到着、車窓の赤レンガの建物はオランダ人街。18世紀にユグノー(プロテスタント)のオランダ人たちが住み着いた町。
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サンスーシー宮殿。サンスーシーとはフランス語で「無憂宮」という意味で、プロイセン王のフリードリヒ2世(大王)が夏の離宮として建てた宮殿。
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宮殿前には階段状のぶどう園があり、一番下には噴水も。
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この辺が一番良い撮影ポイントなのだが観光客多すぎ。
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ぶどう園にはこのようなぶどう棚が作られていたが、寒い土地でのぶどう栽培はどうだったのだろう。
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観光客が見ているのはフリードリヒ大王の墓。大王の墓は教会→岩塩坑→城などを転々としていたが1991年8月にここに落ち着いた模様。
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ドイツにジャガイモを広めた王様として知られているので、お墓にはいつもジャガイモが供えられている。ちなみにドイツではジャガイモが主食。あとはソーセージとザワークラウト(発酵したキャベツ)とビールがあれば完璧。
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サンスーシー宮殿を後にツェツィーリエンホーフ宮殿へ向かうが、途中にこんな建物発見。
現地ガイドさんの話では戦後ポツダムはソ連の管理下におかれたが、これはKGB(ソ連国家保安委員会)の建物だそうだ、まるでピンクの御殿のようだが一体誰の負担でこんなものを建てたのだろう。 -
15:30 ツェツィーリエンホーフ宮殿は1917年、最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が皇太子の為に建てた館で、ツェツィーリエンホーフという舌を噛みそうな名は皇太子妃の名前。イギリス田舎屋風の建物は皇太子夫妻の好み。第2次境大戦末期に戦後処理をめぐる米、英、ソの首脳会談(ポツダム会談)が開かれた所として有名。
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この門を入ると
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中庭がある。よくTVなどに出てくる庭。なお、花壇中央の星形の赤い花はソ連を表しているらしい。
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入場料は6Eだが、その他に撮影料3Eが必要(ただし、ノーフラッシュ)。撮影料を払うとこのリストバンドがもらえる。買わない人が8割以上なので現地ガイドさんも説明のやりがいがあって良いかも。
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ポツダム会談(ポツダムかいだん)は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日~8月2日、ドイツベルリン郊外のポツダムに、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談。第二次世界大戦の連合国三大国の首脳会談が行われたのはこれで3度目であり、最後となった。会議の最後にはポツダム協定が策定された。
ちなみに第1回は1943年のテヘラン会談、第2回は1945年のヤルタ会談。写真は左から英国首相チャーチル、米国大統領トルーマン、ソ連共産党書記長ヨシフ・スターリン。 -
イギリスは国内経済が破綻しつつあったことと、アメリカ軍がヨーロッパから早くも撤退を始めていたこと、さらにソビエト軍のヨーロッパにおける勢力拡大が主たる関心事項であった。アメリカが望んでいたのは対日戦(太平洋戦争)へのソ連参戦であり、早い段階のヨーロッパ駐屯アメリカ軍の本国帰還であった。ソ連の主たる関心は自国の安全保障であり、傀儡となる共産主義政権を東欧に設置することで自国を守ろうとしていた(衛星国)。さらにドイツからの賠償獲得と、中東からアフリカへの進出も要求していた。
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会談が行われた会議室。円卓の上には米、英、ソの旗が。
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特に紛糾した三つの問題、ポーランド問題、賠償問題、旧枢軸国に成立した各政府の扱いをめぐってイギリスとソ連は強く対立した。写真は会談の様子だが、当時としてはめずらしいカラー写真。
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これはポツダム会談以前の写真だが、なんとなく笑顔も不自然な気がする。チャーチルにはきっとこの先が読めていたのだろう。
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7月30日、ジェームズ・F・バーンズ国務長官は協定を成立させるため、英ソの外相に働きかけてアメリカ側の三条件を策定し、これに合意が見られない場合にはアメリカが8月1日に会議を離脱すると通告した。この文書では「ポーランド国境」「ドイツの賠償」「イタリア・ブルガリア・フィンランド・ルーマニア・ハンガリー各政府の状態」について触れられている。この「バーンズ提案」を三国が受け入れたことにより会議は決裂を免れ、占領下ドイツの経済問題に討議の主題は移った。
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チャーチル首相と娘。チャーチルには娘が4人いた。
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トルーマン大統領
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スターリン書記長
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7月15日、会議の始まる前の正午ごろ、トルーマンはスターリンから対日戦参加の確約を得た。しかし翌日には原子爆弾実験の成功が伝えられ、トルーマンはソ連の参戦がかならずしも必要ではないと考えるようになった。また、日本のソ連を仲介とした和平工作が進展中であるという情報を得たスチムソンは、対日降伏勧告をこの会議で行い、ソ連の懐に日本が飛び込むことを防ごうとした。バーンズはこの段階での声明は時期尚早であると反対したものの、ウィリアム・リーヒ最高司令官付参謀長が支持し、トルーマンもこの意見に同意した。
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宣言は三人委員会の案をベースとして修正作業が行われ、24日にはトルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明の準備を行うとともに原爆投下を承認した。7月26日、「ポツダム宣言」が発表された。当時日本と抗戦していなかったソ連側の介入はほとんど無かった。宣言文に署名した蒋介石など中華民国関係者は宣言文策定や発表の場に参加しておらず、チャーチルも一時帰国していたため、宣言発表時にポツダムにいた署名者はトルーマンのみであった。(Wikipedia参照)
写真はチャーチルの部屋にあったもの。広島の原爆投下写真がある。 -
ベルリンで行われた戦勝パレード。敗戦国となったドイツ国民はどう思っただろう。
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パレードの後に焼け落ちた建物や、かろうじて焼け残ったブランデンブルク門が見える。
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そして1989年11月、ベルリンの壁の崩壊した写真が。
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宮殿の庭園
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何もなかったような黄葉が美しい。
17:00 ツェツィーリエンホーフ宮殿を後にベルリンへ戻り、ホテル内のレストランで夕食、夕食後、朝にも行ったスーパーNettoでショッピングして本日は終了。
これで「2012年 ドイツ旅行記 2:分断と統一の街」は終了です。重い内容になってしまいましたが、最後までご覧頂きありがとうございました。
2020/07/14 修正済み、2024/03/01 一部修正
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この旅行記へのコメント (5)
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- わんぱく大将さん 2014/04/02 09:32:44
- 歴史の一幕
- chiaki-kさん
ぎょえ〜、もう、出発されてしまったようで。なんのアドバイスもできずすみません。服装の件も遅すぎた〜。すんません。
歴史の一こま、一幕を見せていただきました。 歴史上の懐かし顔ぶれが。
クリスマスの飾り付けは当然ドイツから始まったそうですが、どの種族だったか忘れてしまいました。
大将
- chiaki-kさん からの返信 2014/04/02 17:26:59
- RE: 歴史の一幕
- 大将さん、こんにちは。ドイツ旅行記に投票ありがとうございます。
ドイツの歴史を考えると日本は国土を分断されずに幸運だったなぁ、って思います。まあ、北方領土をはじめ、領土問題は残っていますがドイツに比べれば・・・です。
今、訳あって成田空港T1カードラウンジでお返事を書き込んででいます。当初予定された羽田発のルフトハンザ航空がストライキ!!!でキャンセルとなり、急遽成田発のターキッシュ(トルコ)航空に変更になってしまったので暇つぶしちうです。(^^;; 半日滞在時間が消えてしまったのでおそらく自由時間は消滅と思われますが、残念です。
服装の件了解です。ヤフーの天気予報では現地は雨っぽいので傘の用意もしました。まあ、お天気だけは神様の領分ですから、我々はそれに従ってバルセロナを、そしてスペインの旅を楽しんできます。
では、また。
chiaki-k
- わんぱく大将さん からの返信 2014/04/03 07:52:05
- RE: RE: 歴史の一幕
- > 大将さん、こんにちは。ドイツ旅行記に投票ありがとうございます。
>
> ドイツの歴史を考えると日本は国土を分断されずに幸運だったなぁ、って思います。まあ、北方領土をはじめ、領土問題は残っていますがドイツに比べれば・・・です。
>
> 今、訳あって成田空港T1カードラウンジでお返事を書き込んででいます。当初予定された羽田発のルフトハンザ航空がストライキ!!!でキャンセルとなり、急遽成田発のターキッシュ(トルコ)航空に変更になってしまったので暇つぶしちうです。(^^;; 半日滞在時間が消えてしまったのでおそらく自由時間は消滅と思われますが、残念です。
>
> 服装の件了解です。ヤフーの天気予報では現地は雨っぽいので傘の用意もしました。まあ、お天気だけは神様の領分ですから、我々はそれに従ってバルセロナを、そしてスペインの旅を楽しんできます。
>
> では、また。
>
> chiaki-k
chiaki-kさん
いきなりやられましたね。それにしても LH,急になんておかしいですね。まあ、兎に角、トルコの方が、機内食おいしかったのでは? ドイツはもうひとつでしたので。 お気をつけて回られてください。大将
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- frau.himmelさん 2013/11/09 10:17:38
- すばらしい旅行記に拍手!
- chiaki-kさんはじめまして。
とっても詳細に調べられたベルリン旅行記に拍手拍手!です。
特にツェツィーリエンホーフ宮殿のポツダム会議の模様は、よくぞあんな詳しい説明をと感動いたしました。
私も5月にベルリンに行き、あの宮殿にも行きまして、これから旅行記をアップするところです。
その前にあんな立派な旅行記を発表されたら立つ瀬がない・・(笑)。
なんて、実はラッキーと思っています。
私の旅行記作成の参考にさせていただきたいと思って・・。
よろしくお願いいたします。
次の「「破壊と再生」編も楽しみにしています。
himmel
- chiaki-kさん からの返信 2013/11/09 16:56:41
- ありがとうございます
- himmelさん、はじめまして。ドイツ旅行記に投票ありがとうございます。
> とっても詳細に調べられたベルリン旅行記に拍手拍手!です。
こちらこそ、最大のおほめの言葉をいただき、感激です。ありがとうございます。
> その前にあんな立派な旅行記を発表されたら立つ瀬がない・・(笑)。
とんでもありません、ご覧のとおり、Wikiを参照させてもらっただけの内容ですから、
あまりほめられると逆に困ってしまいます。
himmelさんは、himmelさんなりのスタンスで表現されれば良いと思いますよ。
> 次の「「破壊と再生」編も楽しみにしています。
プレッシャー、ありがとうございます(^^;;
内容はhimmelさんもUPされているドレスデンです。原文はほぼ出来たんですが
10日〜11日、泊まりで出かける用事がありまして、4トラへのUPは12日お昼ころ
を予定しています。UPしたら、また見てやってください。
chiaki-k
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