2011/03/06 - 2011/03/19
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カメちゃんさん
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きょうは期待の蘇州へ行くというので、期待は大きかったです。
蘇州と言えば渡辺はま子さんの「蘇州夜曲」が思い出されますが、私自身は数度聴いたことがあっただけで好きにもなれず、口ずさんだこともありませんでした。
蘇州についてはそれだけの「知識」しかなかったのですが(何処でもそうなんですけどね)、4トラの皆さんの旅行記を拝見して、「水と運河のまち」という感じを持つようになりました。
蘇州。それは何となく心に響くものがありますね。
それと、きょうは中国の新幹線に乗るというのです。鉄系の血がわずかに流れている私ですから、これはもう楽しみでしたよ。中国で列車に乗るのは、これが3度目!(^^)! 嬉しいじゃないですか!!
きょうは早めに目が開いてしまいましたので、長江の眺めを楽しみました。早めの食事で体調を整えて、出掛けて行ったのでありました。
なお、この旅行記を書くにあたって、
「中国の水郷都市」鹿島出版会
「中国の名庭 蘇州古典園林」劉敦〓(りゅう とんてい)/著 小学館。
「中国の都城−4 蘇州 杭州物語」村上哲見著 集英社
ほか多くの資料・案内書・旅行記を参照させて頂きました。
また、本文中でご紹介しています様々なものの場所等は、Google mapの「航空写真」にてご覧下さい。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 観光バス 船
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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-
只今は午前5時33分。
別に早起きをしようとしたわけではありませんが、目が開いてしまったのです。
私みたいに身体の弱い人間は(心も弱いけど・・(-_-;))、睡眠をしっかりとることが大事なのに、こんな時間に目が開いてしまうのは困ったモンです。
そこで、ちょっとカーテンを開けて風景を眺めてみましたら、何となんと!!お隣のコンテナ埠頭はこんなに賑やかになっていましたよ!!
船が数隻も接岸していて、活気に満ちていました。昨日まで、こんな感じがしなかったモンですから、ホントビックリでした。
★↓は揚州港到着時のコンテナ埠頭のようです。全体にガラガラでした。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/26666221/src.html -
ここでも船が接岸して荷役をやっているようですね。
昨日、个園や瘦西湖の観光に出掛けた時、途中でたくさんの工場を見ました。外国資本もだいぶ進出しているようです。ですから、原材料や製品の流れがあるのは当然ですね。
それに、揚州は何と言ってもかなり早い時代から国際港となっていて、活発な交易が行われていたところのようですね。
現在では、5〜6万トン級の貨物船が入港出来る設備を持ち、世界はもちろん、日本の主要港との交易も盛んなようです。
★揚州港の位置を再々掲しておきますね。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=32.2733,119.44801&spn=0.003438,0.002983 -
さぁ、朝食ですよ〜。
これは私が取ってきたもの(朝食はバイキングですからね)。 -
こっちはカミさんです。
もっとも、これだけでは終わらないですけど・・(~o~) -
現在時刻は6時40分。
早朝にもかかわらず、こんなにたくさんの船が行き来しているんですね。
これが「川」だなんて、しかも河口から約300Kmも上流だなんて、ホントに考えられませんね。
大小さまざまな船が入り交じって、一晩中航行してきたわけなんですけど、良くまぁ衝突しないモンだと感心します。 -
大きな船から数珠繋ぎになっている小さな船まで、さまざまな船まで賑やかですね。
こんな光景を見ていますと、やっぱり「川」であることを忘れてしまいますよね〜。 -
蘇州に向けて、まずはバスに乗り込みました。
火力発電所の冷却塔が近くに見えました。
あの冷却塔を見て、原発か!?と迷ってしまったことが恥ずかしいです。
揚州には南と北の2ヶ所に火力発電所があるんですね。 -
「瓜洲古鎮」と大書した石碑がありますが、この詳しいことは分かりません。
でも、この付近には「瓜洲村」とか「瓜洲鎮」といった地名がありますから、歴史的な街があるようですね。
左側に小さく「国際旅遊度暇区」と書いてありますが、確かに暇な人たちが来るところですね(^o^)
もう一つ面白いのは、左側の東屋です。
当初、東屋が二つ並んで建っていると思ったのですが、よ〜く見ますと二つが繋がって一つになっているんですね。これはビックリです。中国にも、こんなことを考える暇な人がいるってことですね(^o^)
この東屋の詳しいことは分かりません(-_-;) -
このあたりは山が殆ど無く、広大な平地が続いています。
-
これから行く方向に「润扬长江大桥(潤揚長江大橋)」が見えてきました。長江の中洲(世業鎮)から鎮江市へ渡る橋の支柱間の距離が、世界第4位だそうす(第3位という記事もあります。ちなみに第一位は明石海峡大橋とのことです)。
中国って世界第何位とか、中国で何番目とか割と良く聞きますね。日本でもそう言うのは聞きますが、中国の方では高位の順位を強調する気持ちが強いように思いますね。 -
「润扬长江大桥」の北半分を渡って中洲が見えてきました。
この中洲は「世業鎮」と言われるところで、写真に見えるビルは鎮江市世業鎮大橋公園にある「金陵潤揚大橋酒店」です。
このホテルに泊まったら、長江の眺めを存分に楽しめるかもね? -
長江の南岸、鎮江市側にある造船所です。
九江市あたりから、海洋型の大型船の建造が見られましたけど、下流に来るほど増えて来ますね。 -
今走っている道路は、「長江路」通りです。
あの東屋と白壁の家が面白くて撮影したのですが、そこにちょうど「泌尿科」の看板が写っていました。
よく見ますと「男人去了都説好」と書いてあります。どういう意味なんでしょうかね?
「男人去了・・」なんて書いてあると、男性の去勢かしらん?なんて思ってしまいましたが、どうやらそうではなさそうでした(^O^) -
こういう古い建物が時々見られます。
これだけ大きいと「東屋」とは言われないでしょうか?
「亭」とか「楼」とか「閣」とかは、どのように区分けされているのか?なんてことを考えてしまいました(~o~) けど、詳しいことは分からないです。 -
こちらは、「芙蓉楼」のようです。
この「芙蓉楼」の名は、中国・唐代中期の詩人・王 昌齢(おう しょうれい)のしに因んで付けられたと言われるのですが、その詩は「芙蓉不及美人粧」を指すのでしょうかね? 「女性の装いに勝るものはない」という詩ですが、洒落た詩ですね(^^)
この近くの長江河畔ににある「金山」という小さい山が、長江の「一輪の芙蓉」と喩えられていたこととも関係があるかも知れませんね。
この芙蓉楼は、もともとは長江を見下ろすところにあったようですが、現在は低いところにあって、長江を見下ろすなんてことは出来ないですね。
「感動大陸」のHPの記事によれば、「鎮江が巨額の資本を投資してこの地を整備したこともあり、芙蓉楼、百花州、などの名所が造られ、水と陸地の連なる詩画の世界のような景観を造り出した」とあります。
これを読みますと、近代(現代?)になって、もともとの場所・姿(史実)を変更して「名所が造られ」「景観を造りだした」のか??という風に理解することも出来ますね。
あの「黄鶴楼」も、清代のものより大きく造っていますからね(-_-;)。
★芙蓉楼の場所は↓にて。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=32.215263,119.404977&spn=0.002862,0.003031&iwloc=0004d2fddfc82479454c2 -
「あれにチラリと見えてきたのは、慈寿塔(金山塔)でございます(^^)」
金山寺境内にある7階で8角形の塔で、建物の高さとしては30mもあるそうです。建設されたのは1400年ほど前のことで、当初は「薦慈塔」と「薦寿塔」のツインタワーだったようです(~o~)
ところが、明代に倒れてしまったというのです(理由は分かりません)。 それを清代末期になって、両江総督の劉坤一が1900年(光緒二十六年)に慈禧皇太后(西太后)の誕生日を祝賀するために、塔を再建したというのです。そして、慈寿塔と名付けたという話があります。 -
「金山」と書かれた額のかかった建物が見えました。急いでシャッターを切ったのがこれでした。ヒョッとして、金山への入り口なのかも??と思いますが、如何でしょうか??」
金山というのは、高さ44mほどの小高い山の名です(ズッと昔は格心山とか龍遊山と呼ばれていたそうです)。↑にもふれましように、金山は長江沿いの「一輪の芙蓉」とも形容されていたようです。
そこに、4世紀頃(東晋のころ)お寺が建てられ、当初は「格心寺」とか「竜山寺」とか言われていたようですが、唐代の頃から『金山寺』と呼ばれるようになったとのことです。
金山寺は日本とも関係が深く、弘法大師の空海がここで修行していたこともあったとのこと。画家の雪舟も、ここ金山寺で絵と禅の修行をしたそうです。日本との縁の深いお寺なんですね。
対岸の揚州にも、日本に渡来した鑑真和尚の大明寺がありましたね。 -
金山寺を振り返って撮影したものです。
小高い丘程度の山にあるのですね。
金山寺は鎮江市でもっとも有名な観光地だそうです。
★金山寺の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=32.216797,119.411336&spn=0.002051,0.001942&iwloc=0004d1d6203aed4a19e31
★鎮江市の詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E6%B1%9F%E5%B8%82 -
鎮江市内の住宅街です。
薄茶色のビルは壊されるのでしょうか??
手前の低棟の住宅は取り壊されていく運命にありますね。
こうした荒廃した都市景観は、中国の殆どの都市で見られる言ってよいです。
こんなところにまで城中村が?? それは分かりませんが、どうしてこうなってしまうのか?改めて知りたいと思いますね。 -
鎮江駅に着きました。
中国の新駅は本当に大きく広く造ってありますね。
私たちが乗るのは上から2番目に表示されている「G7059・上海行き」です。9:02分発車です。他に、先頭に“D”のついた列車もありますね。
“G”のつく列車は、大都市を結ぶ高速列車で、最高速度は350Km/hだそうです(2011年7月の、あの追突事故以来300km/hに抑えられているようです)。
“D”のつく列車は、時速200km/h以上で運行される列車で、区間によっては250km/hで走ると言われている列車のようです。
ドイツの「ICE型」や日本の「はやて型」はどの種別に属するのか? 個別の性能で分けられるのか?そこまでは分かりません。「はやて型」の「CRH1」は300km/h出せないけど、「CRH2」は350Km/hで走っていた(事故以前だと思います)という話もあります。
9時台には上下線を含めて全部で合計6本の列車が当駅を発車するようですね。
DとかGという記号ではなく、日本のように「のぞみ」とか「ひかり」といった愛称は未だにないのでしょうかね?
★↓は杭州駅での改札案内です。記号式ですね。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/12999538/src.html
(Nさんご提供の御写真です) -
中国の鉄道の高速車両は、全て「和諧号」となっています。これも確かに愛称ですが、列車タイプごとに、愛称があると良いですね。
私たちが杭州へ行った時に乗った列車も和諧号でした。この時の最高速度は170Km/hでした。トイレは中国式でした。日本や欧州から導入した新型電車では洋式トイレも用意されているようです。
★は上海南駅での和諧号です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/12995371/src.html
★CRH2型電車の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%89%84%E9%81%93CRH2%E5%9E%8B%E9%9B%BB%E8%BB%8A -
プラットホームへやってきました。
広い駅ですね〜。
プラットホームも広く造ってあります。
追い抜き用の線路もあるところを見ると、この鎮江駅は全列車が停車するわけではないみたいですね。
武漢駅では追い抜き専用の線路はないかも知れませんよ。 -
実際にホーム上に降りてみますと、こんなに広いプラットホームです。
フランスやドイツなどで鉄道を利用したことがありますが、こんなに広いプラットホームは見たことがないですね。プラットホームの数の割に駅の造りが広いことも特徴的です。
★↓は鎮江駅のあるところです。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=32.199111,119.427491&spn=0.004104,0.005397&iwloc=0004ac6a2d95bdece9a09
★↓は武漢駅です。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=30.610136,114.419727&spn=0.004174,0.005397&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3,0004b5c7727f5c74f19f9,,,0,-31 -
中国では、高速鉄道の駅が街の中心街から離れたところにあることが多いのですが(そのため、高速鉄道から在来線への乗換が不便)、ここでは旧来の駅に併設されているようですね。好かったですね(^^)
ところがね、鎮江市でも高速鉄道用の「鎮江南駅」があるんです。現在は営業されているようです。この駅で降りた場合、鎮江市の街に出るにも、他の鉄道路線に乗り換えるにも不便ですね。
高速列車による鎮江駅と鎮江南駅との使い分けがどうなるのか?その辺も興味あるところですね。
★↓は鎮江市南駅のあるところです。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=32.153838,119.418753&spn=0.004165,0.004179&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3,0004d33736db84d8b5c85,,,0,-31 -
高速鉄道部分の建物構造です。
本当に大がかりですね〜。大イベント会場とかを想い起こさせますね。
私たちが杭州へ行った時、上海南駅から乗りましたけど空港かな?と思ったほどでしたよ。
★↓は上海南駅の構内です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/12995364/src.html
★上海南駅の場所は↓にて
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004723d29d3371df2b8a&msa=0&ll=31.15303,121.425083&spn=0.0083,0.008411
(Nさんご提供の御写真です) -
通過列車が行きました。
この列車はJR東日本と川崎重工が、中国に車両と部品の輸出と技術移転契約をした新幹線車両をベースにしたものですね。形を見るとJR東日本のE2系新幹線電車にそっくりですね。
2006年3月1日に車両が、つづいて部品が、日本から輸出開始したばかりだというのに、その二年半後の2008年8月には、北京⇔天津間で350Km/Hの営業運転をしたというのですから、驚きですね(JR東日本や川重からの抗議を受けて、他線区に回されたとのことです。
その後独自に、CRH380Aを中国メーカーに生産させ、2009年12月26日に350Km/Hでの営業運転をしたというのです。
安全ということを前提にすれば、ちょっと考えられないほどのスピードへの拘り、世界一への拘りがありますね。
★中国の高速鉄道の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%89%84%E9%81%93#cite_note-31
★中国CRH380A型電車の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%89%84%E9%81%93CRH380A%E5%9E%8B%E9%9B%BB%E8%BB%8A
(Nさんご提供の御写真です) -
私たちの乗る列車がやってきました
この形はドイツの高速列車ICE3(インター・シティ・エクスプレス3)と殆ど同じですね。先ほどこの駅を通過した「はやて型」電車もそうですが、もともとの形をそのまま使っているのですね〜(^O^)
そう、ICEの先頭形状は、初代からズングリムックリの感じでした。私はICEによく乗りましたから、とっても懐かしいです!!
でもねぇ、車両形状が本国の形のままというのは、国際色豊というか、独創性がないというか、そんな感じがしますね。
★ICEの詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/ICE -
和諧号の車内です。
こちらは3人掛けシートです。日本の新幹線と同じですね。
日本の新幹線に較べますと窓が広いですね〜。
(Nさんご提供の御写真です) -
現在の速度は308Km/Hです(^-^)。
結局320Km/Hあたりまで速度を上げたのですよ。 高い所と速いことは大好きな私ですので、300Km/Hオーバーのスピードには正直言って大満足でしたね!!
ところが、このスピードが問題なんですね。
ドイツも日本も車両と技術を供与した時に、300Km/Hまでと約束していたのに、300Km/Hオーバーのスピードを営業運転で実施してしまったんです。詳しいことは↑のWikipediaの記事を参照して頂きたいのですが、とにかく次々にスピードを求める行動を起こして来たことには、呆れる一方恐ろしくもなりましたね。
ま、そんなことを何にも知らずにスピードを楽しんじゃったのですから、無事故で帰って来られたことに感謝しないとね。 -
蘇州駅に到着です。
乗車時間は50分少々でした。
「こだま号」の名古屋→京都間の所要時間とほぼ同じですね。
この蘇州市でも、「蘇州北駅」という高速鉄道用の駅があるんですね。ここで降りた場合も、街へ出たり乗り換えたりするのが不便ですね。
中国の高速鉄道の特徴のひとつに、都市の郊外にあって、街に出るのも、他の鉄道路線に乗り換えるのも不便な駅が少なくないことですね。
これでは、折角のスピードとそれによる時間短縮の利点が、これによって一定程度損なわれてしまうワケで、スピードと利便性とが整合していないことが多いようです。
★蘇州駅の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.331462,120.60747&spn=0.004183,0.003905&iwloc=0004d270525b5909932e7
★蘇州北駅の場所は↓にて。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.423037,120.639099&spn=0.004198,0.004179&iwloc=lyrftr:msid:215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3,0004d418e0e3e594a892f,31.42339,120.639496,0,-32 -
車両のつなぎ目のカバーは日本の700系新幹線車両とほぼ同じ形ですね。
-
パンタグラフです。
パンタグラフからの騒音を拡散させないためのカバーがないですね。ドイツ仕様そのままということでしょうか。 -
蘇州駅のプラットホームの屋根です。
複数のプラットホームを覆う大きな屋根です。
日本の新幹線では雪国は別として、プラットホームごとに屋根が付けられていますね。
★名古屋駅を航空写真でご覧下さい。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.000471a3ac99cac3ffa0d&msa=0&ll=35.169844,136.882986&spn=0.008007,0.007811&iwloc=000473cf71524e224249e
(Nさんご提供の御写真です) -
バスに乗りました。
蘇州駅の周辺は、目下整備中のようです。
ここでも、駅の周辺で大規模な再開発が行われているようです。
Google mapで見ますと、駅周辺で広大な400〜500ヘクタールほどとも察せられる広大な住宅地?市街地?が更地にされています。
人々の暮らしと営業がここでも追われているかと思いますと、ちょっと辛いですね。
市街地にしても、駅周辺にしても、これまであった市街地・住宅地を破壊して再開発をするなんて、市民の生活を軽く見過ぎているんではないかと言いたくなりますね(=_=)
(Nさんご提供の御写真です) -
今日の現地ガイドさんです。
日中間がちょっと緊張してしまっているいま、日本からの中国旅行が減っているようですね。
こんな時、日本語ガイド・通訳さんは本来の仕事が減っているかも?なんて心配になってしまいます。 -
そらく「蘇駅東路」を走ってきたと思いますが、斉門外大街へ右折する前の橋を渡っているところだと思います。
すぐ向こうには、真ん中が高くなった古い橋が見え、その向こうには山型の屋根と白い壁の妻面の古い家々が残っています。
★この地点は↓にて(予想地点です。↓の斉門橋から500mほど北の橋から見た展望です)。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.339054,120.621648&spn=0.004183,0.007161 -
現在、斉門橋を渡っています。
この斉門橋は蘇州城の8つの城門(最終的には9〜10ヶ所になったようです)のうちの1つで、昔はここにどっしりとした城門があったといわれています。
斉門橋の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.331515,120.622745&spn=0.002092,0.003581&iwloc=0004d34f80e2c93dd477d -
窓から見た軒瓦です。
模様のついた瓦は、やっぱり高価なんでしょうね。
上側の瓦の左から3列目の瓦は、左右の縁取りがなく、丸い模様の途中で切り取ったような感じですね。型にはめて同じ模様のモノを量産しているものと思うのですけど、その辺がちょっと気になってしまいましたね。
それと、こちらの軒瓦はおしゃれです。
上の円弧状の形をしている瓦と、下の舌(ベロ)を出したような形をしている瓦とが二枚でセットになっている感じですね。あの揚州の个園の建物の軒瓦も、こんな感じでした。
重慶の磁器口の場合は、下のベロ上の瓦がなかったですね。
★↓は磁器口の屋根と軒瓦です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/22898020/src.html -
車道を横断するお嬢さんです。
私たちには、中国で車道の横断なんてとても出来ませんよ(^O^) なんせ、車優先ですからね(^_^;)
12年前に北京へ行った時、片側4車線の交通量の多い道路を、このようにして上・下8車線を渡っていく人々の姿を見ましたけど、なかなか上手なモンでしたね(^o^)
日本人では、ついつい走ってしまうので車側と息が合わず、はねられてしまうこと請け合いのように思いますけどね。
「中国の車道横断ツアー」なんかでもやってみたら、面白いと思いますよ〜。途中ではねられた人には死亡保険を、無事に渡れたらご褒美が出るとかしてね(~o~) -
蘇州市内(蘇州城内)を移動中の光景です。
写真の右側中段あたりに水面が見えますけど,あれは「外城河(城壁の外側の川)」だと思います。 -
あの建物の下がり棟の下端の飾り瓦(鬼の面ではないけど、鬼瓦?)が面白いです。
右側がよく見えますから、それを見ますと桃の実のようなものが三つおかれているような形をしています。
よく見られるのは、普通は獅子とか狛犬の顔とかですが。ちょっと違いますね。 -
ここには太湖石が置いてありますね。
この時は、おそらく平斉路を走っていると思います。平斉路と外城河との間は大体が公園になっているようです。 -
「おかあさん あれを見てよ!!」
これは何じゃ?? 橋の上に家が建ってるよ!!
ちょっとビックリですねぇ〜。橋の歩道部分に屋根がついているよ〜(^^)
屋根付きの橋(^^) ちょっと豪華ではありませんか?
手前の歩道あたりから屋根を付けたらもっと良いのにと思いますが、そこは融通が利かず(~o~)、橋の上だけに屋根が付いているというのも面白いです(~o~)
ところで、この橋は「平門橋」だと思います。違っていたらごめんなさいね。
この橋が「平門橋」だとしますと、ここにも蘇州城の城門があったのですよ。いまじゃ、その面影もありませんから、淋しいですね。
【注】「おかあさん」とは、母のことではなくカミさん(*^_^*)のことであります。
★参考までに、↓の城門をご覧下さい。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/album/10631278/
★平門橋の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.329668,120.61254&spn=0.002092,0.002122&iwloc=0004d34fbe273743de7ea -
これは、電話ボックスですね。
中国らしい形に、感動です(^^)
もうチョット屋根が長いと、雨の日でも傘を差さずに電話が出来るのにね〜(^^;)。
それでも、日本の四角な電話ボックスよりも愛嬌がありますね。 -
節賀橋バス停です。昔、橋があったのかも知れませんね。
橋の話が出たついでに触れますと、蘇州城内には運河が実に細かく建設されていました。城内の物流は水運だったといっても過言ではないでしょう。当然のように、実にたくさんの橋が掛けられていたようです。
その運河は宋代の頃?から徐々に埋め戻されるようになり、現在残っているのは当初の1/4にも及ばないでしょう。いま、観光客誘致のために、運河の再建が課題になっているという話もあります。
★節賀橋の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.31804,120.617158&spn=0.002129,0.003304&iwloc=0004d2ffc159545e02649 -
大通りが見えてきました。
だいぶ大がかりな工事をしているようです。都市中心部でも大がかりな都市改造工事をしているのは、中国の特徴的な光景でもありますね。
けれども、ここは蘇州城内なんですね。ヨーロッパであれば「旧市街」として再生したり保存したりしていることが多いですけど、中国では旧城郭内と言えども、保存に足る美観を持った街が少なく、多くのところで今風のビルがどんどん建てられたり、高層ビルがあったりるするのが見られますね。 -
街の中で雲墻(うんしょう・龍の身体のような波打つ塀)を見るのは珍しいです。
このような塀は庭園とか、広い庭園を持つ博物館や美術館・公園でたまに見ますね。 自転車置き場があるところを見ますと、やっぱり何かの施設かも知れません。
★豫園にある写真の壁(写真左の壁)は、「龍壁」いわれているようです。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/12966166/src.html -
今度はこんな建物がありました。
右側の壁には、「蘇州市婦幼保健所」「蘇州市計画生育指導中心」「蘇州市生殖健康中心」などと書いてあります。
その中の「蘇州市生殖健康中心」の「生殖」という表現が、どうも理科の生物を扱う言葉ような感じがして、いただけませんね。ホント「生殖」じゃあ、「愛」も何にも感じないモンね(>_<)(*_*)。
★「蘇州市婦幼保健所」の建物の場所は↓にて。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.302902,120.618355&spn=0.003956,0.005853&iwloc=0004d2feb962946eac3fa -
生殖センターから帰る若夫婦??でしょうか?
そして、こんなところにも赤い幌を付けた3輪タクシーが客待ちしているんですね〜。
観光ばかりではなく、市民の足としても活躍していると言えるでしょうか。 -
この時点では、「道前街」を西に向かって進行中です。
蘇州人民大会堂の文字が見えました。
人民大会堂なんて、北京市の天安門広場のところにあるのみだと思っていたのですけど、各省にもあるんですね。ここでは蘇州の人民代表大会が開かれると思いますが、どれくらいの人数が集まるんでしょうか?
私は「人民代表大会」という言葉自体は好きです。
形式化してしまっては、元も子もありませんが、文字通りに人々の代表が集まって(市民参加)、時間を惜しまず自由に発言し合って、市民合意の自治体運営が出来るといいですね。
民主主義を自らの血と汗で築いてきた経験が非常に浅い日本や中国では、形ばかりが強調されて、議会や行政過程への市民参加は非常に乏しいですね。
★蘇州市の詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%B7%9E%E5%B8%82
★↓は重慶人民大会堂です。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.00049cdfd36f42da20e4b&msa=0&ll=29.564221,106.550767&spn=0.002139,0.002189&iwloc=00049f77f1befa92c62a7 -
この建物は何だろ?
このあとすぐ、「蘇州市会議中心」という表示が出てきました。
あっちが蘇州市人民大会堂で、こっちが蘇州市会議中心って会議場が2つもあるって感じですね。詳しいことは分かりませんので、使用目的や方法・事務内容が違うのでしょうかね?
こういう公の建物なんかは、伝統的な形で建設されるといいですね。重慶市の人民大会堂の外観は、中国の伝統的な形ですね。
★↓は蘇州人民大会堂のあるところです。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.303284,120.614567&spn=0.001978,0.002926&iwloc=0004d2fe78f8b8e5d2652 -
面白いことに↑の2つの議会施設と一体となって、「蘇州中心大酒店」があるんですね。
ホテルが議会施設と一体になってるって、このホテルの運営主体は蘇州市なんですかね?
蘇州というところは、水も豊かで農産物も豊かで、昔から絹の生産も多かったところのようで紡績も発達し、水運にも恵まれ、昔から経済的には恵まれていたようです。
春秋時代の呉がここに都を置いたこともあって、知的水準も他地域に較べて豊かだったようです。多くの文化人も訪ねてきましたね。
610年に京杭大運河の完成もあって、流通でも一大中心地となり、「ふれあい中国」のサイトによれば、明代(1368〜1662年)には100万人の都市となっていたようで(城郭内だけでなく、城郭外周辺で都市化した部分も含まれていると思います)、中国内外で有数の大都市になっていたとのことです。
元代にはマルコポーロも蘇州を訪れたと言われていますよ。
そうそう、昨日観光した揚州もかなりの規模に発展したようです。 -
オオー!! 城郭のようなモノが見えてきましたよ。
蘇州といえば水の都。
運河を行き交う船の光景しかアタマになかったモンですから、これにはビックリ!!
こんなところに荊州のような城郭があって、都市と城があったなんてね〜。驚き桃の木山椒の木だったのでした!!
蘇州城には8つの門があったそうですが、これはその1つです。 -
色々な記事や本を読んでみますと、蘇州城(当初は“姑蘇城”と呼ばれた)の城門は1つしか残っていないという話が多いです(35年ほど前のころ)。その1つというのは、蘇州城の南西端にある「盤門」のことで、この胥門(しょもん)ではなさそうです。
私たちが今見ているこの「胥門」は、最近の35年の間に復元・再建されたようです。そうなると、大きさや形・位置などが、事実にどの程度忠実に造ってあるかが気になるところです。
あの黄鶴楼も、清代のサイズより大きく造っていますからね。
それはそうと、門の出入り口のところにブーケを持った花嫁さんがいますね。本当の花嫁さんか、雑誌なんかのモデルさんか分かりませんけど(おそらくはモデルさんかと思いますけど)。
★胥門の場所は↓にてご覧下さい。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.299109,120.608224&spn=0.002079,0.002478&iwloc=0004ac6a30cf27dbf997b -
↑の位置から右手の方の様子です。
おそらくは再建された城壁だと思いますが、城壁に使われている石の色や形が3色もあるなんて珍しいですね。それに、石と石の間に詰めるコンクリートとか漆喰なども使われていたりいなかったりして、ちょっと変な感じがします(城壁自体は戦争などで破壊され、何度も修復されてきましたから、石の積み方等が変わったりすることもあり得ますかね)。昔の城郭の忠実な再現だったかどうかは、このあたりからも微かな疑問を感じますね。
ところで、蘇州城が造られたのは紀元前514年といわれています。かなり古いですね。
蘇州に城を建設するようにに命じたのは、当時(春秋時代)の呉王だった闔閭(こうりょ)とのことです。当時の呉の都は建業(=今の南京)でしたが、闔閭は側近の伍子胥(ごししょ)に命じて蘇州に都を造営させたとのことです(都を建業から移動させた事情は分かりません)。
都城の大きさは現在の外城河に囲まれた範囲とほぼ同じで、周囲17Kmほどもある大きなものでした。造営された当時は、「姑蘇城」と言っていたようです。
この門の名称「胥門」は、伍子胥の「胥」に由来するという話があるようですが、正確なところは分かりません。
★蘇州城の範囲は↓の地図にて(ここのみ、航空写真ではなく“地図”でご覧下さい))
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.307888,120.636406&spn=0.067466,0.078278&iwloc=0004d36899d3d1f5fcd36 -
蘇州城の城門ですが、過去には10ヶ所ほどあったようです。
現在、形としてみられるのは盤門と胥門だけのようです。
私たちは北の斉門から入って、外城河沿いに平門方向へ行き、そこから「人民路」を南下し、「道前街」を西進して、外城河の内側をなんかして、胥門へ到達したようです。
この蘇州城の大きさですが、三国志で有名な荊州城よりは大きく、荊州城の北にあった紀南城とほぼ同じ大きさと言えるでしょう。北京城とか長安(後の西安)城などは、これらより遙かに大きな城郭を持っていたようです。
(Google mapを写真に撮って、文字を追加しました。) -
これは城門をくぐって外城河サイドから見た胥門です。
春秋時代の呉の都には城壁がなかったようで、姑蘇城造営によって城壁のある都をもったワケです。城壁が有ると無いとでは、戦の作戦に大きな違いがありますね。
このあたりの土は、もともと城壁づくりに適していなかったのか、「蘇城探訪」によれば、伍子胥は鎮江市あたりの土を運ばせて、これを突き固めて城壁を造ったという話があります。
ですから、初期の蘇州城の城壁は石積みの頑丈なものではなくて、土を台形状に積んだ土塁(土壁)だったようです。とは言え、城門は大理石系の石を使っていたようです(この時代には鉄器が使われはじめていたとか)。
いずれにしても、周囲17Kmもある城壁用の土を鎮江市あたりのどこかから運び、それを突き固めながら城壁を造ったなんて大変なことですね。
余計な話をしますと、この城の建設を指揮した伍子胥は聡明な人でしたが、闔閭の後に王となった息子の夫差(ふさ)に頭の良さゆえに疎まれ、伍子胥の真剣な諌言も鬱陶しく思われて自害を命じられてしまいます。そればかりか、夫差は呉の公子慶忌も殺してしまいます。
誠実な忠臣からの諌言を嫌い、結局は自らを破滅させ、呉国をも崩壊させた夫差でしたが、このような事例は中国史に(世界史にも)たくさんありますけど、21世紀の今でも巷に溢れていますね。
上で「呉」の話をしましたが、三国志時代の“呉”ではありません。一般に“呉”といいますと、三国志の時代(黄巾の乱〈紀元184年〉から、西晋による中国再統一〈280年〉まで)の呉のことばかりが出てきますので、ご注意下さいね。
★伍子胥の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8D%E5%AD%90%E8%83%A5
★夫差の詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%B7%AE -
伍子胥が築いた蘇州城の平面図を、「中国の水郷都市」の図をお借りして、見てみましょう。運河部分を塗色してありますが、濃い青色が城内運河で、一番外側のみ薄い青色が城壁の外の「外城河」です。
蘇州を「水の都」と言うのは簡単ですけど、外城河(日本のお堀に相当)を掘るだけでなく、道路と、船が通航できる水路を、都城の内外にくまなく行き渡らせることは大変なことですね。そのことが先ず想い浮かんでしまいます。
運河を建設するには、道路と違って先ずは運河とするところを掘って、一定の幅と深さを確保した上で両側にしっかりとした石垣を積み、橋の形と高さも船が通航できるように造らなければなりません。そのためには莫大な費用と材料、技術、手間暇を掛けねばなりません。
たとえ、周囲が水郷地帯であって運河が発達していても、蘇州城内でなぜこれほど細かく運河網を造ったのか? これについての詳しいことは分かりません。
ただ、蘇州周辺では物流の多くが船によって行われていることから、城内にも運河や水運があって当たり前というこの地の「常識」が、城内に運河を張り巡らせた事情となっていたような気がします。
【※】この地図は、「中国の水郷都市」の図をお借りして写真に撮り、色彩を追加したものです。 -
運河クルーズの船内です。
片側に一人ずつの座席なので、これは助かります。
雨天の場合はこれでいいのですけど、お天気のいい時は屋上に出られる嬉しいんですけどね。
狭いし橋も低いので、屋上の観覧席は無理なのかも??
★↓は屋上にも席のあるテンダーボートです。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/14325373/src.html -
いろいろな形の遊覧船がたくさんありますね〜。
屋根の形が中国らしくて、感じがいいですね。
一番左の船には、お客さんが乗ってますよ〜(^^) -
こちらにもたくさんの遊覧船がお客さんを待っていますよ〜。
船尾の大きなエアコンに気合いを感じます!(^^)! -
白い綺麗な館が見えてきました。
「貴松閣公館」って書いてあるようですね。料亭なんでしょうか? -
この橋は胥門前から船に乗って100mちょっとのところにある「万年橋」だと思います。
↑の「貴松閣公館」の橋からですと北に10mほどのところにあります。
橋の形はアーチ型の穴が3つありますから、「拱形(きょうがた)3孔橋」とでも言えるのでしょうか?
写真左手は蘇州城とは外城河を挟んで反対側(西側)になります。
★万年橋の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.299895,120.607433&spn=0.002079,0.002478&iwloc=0004d29e8ff21d9b0bd6e
(Nさんご提供の御写真です) -
手前の水面は外城河で、この街の風景は外城河の西側です。
写真右の高いビルは商工銀行のようです。 -
これも西外城河の西岸です。川岸には、个園の秋の景に積まれていたような茶色の石が積まれて、公園のようになっていますね。
そのすぐ後ろはアパート街となって、さらにその後ろには高層のツインビルが建っています。
(この撮影地点は、先ほどの万年橋から北へ400m余のところです) -
このような東屋があるというのは、中国にとってはごく普通の光景ですね
公園や広場に造って、日除けや休憩・雨宿りの場所にもなって、本当によいものだと思いますね。
最近私が感じるのは、街や公園にちょっと腰を下ろせる場が少ないことです。このような少休憩の出来るところを街のあちこちに造るといいですね。もちろん、トイレも一緒にね。
(Nさんご提供の御写真です) -
千将橋の下をくぐります。
千将西路に掛かる橋です。
広い大きな道に架かる橋なので、その昔城門でもあったかと思ってしまいますが、そのようなことはないようです。
★千将橋の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.306479,120.605228&spn=0.002079,0.002478&iwloc=0004d29deefeddc5fdeb2 -
これはアパート街です。
ベランダのないアパートですが、綺麗な感じです。 -
岸辺に積まれた石は何でしょうか??
護岸の補強用にも思えないし、公園で人目を楽しませるための造形物なのでしょうか?
このような感じで、河原のあちこちに石が積んであったり置いてあったりするんですね。
この意味をご存知の方がおられましたら、教えて下さいね。
(Nさんご提供の御写真です) -
これからくぐる橋は「愛河橋」です。
高く聳えるビルは「ホリデイ・イン・ジャスミン蘇州」というホテルのようです。
このあたりは、昔は京杭運河をやってくる船や遠く外国からの船で賑わい、商業が盛んになった地域のようです。
いまは商工業・観光などで賑わっていますから、このようなホテルに泊まる人も多いことでしょう。
ちなみに、経済規模で言いますと、重慶市とほぼ同じですね。一人あたりGDPでは、重慶市の約3倍です。 重慶ほど華やかではないけど、そう言うことですね。
【※】京杭運河・・北京と杭州を結ぶ大運河です。詳しいことは↓にて。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%9D%AD%E5%A4%A7%E9%81%8B%E6%B2%B3
(Nさんご提供の御写真です) -
この橋からは、石垣の上に綺麗な白壁が続きます。
-
白壁が長々と続きます。
このあたりの白壁は、よそで見るような汚れが垂れていることも少なくて、割合に綺麗ですね。左の方のアパートの色は冴えませんが・・(^_^;) -
旗が見えましたので、撮ってみました。
旗には「中国鉄建」と書いてありました。これは鉄道建設が中心のインフラ整備を業務とする会社ですね。
この会社がどうして蘇州に?と思いますが、「中国の都市交通事情:王鋭 (WANG Rui) のブログ」によれば、蘇州では東西2本、南北2本の総延長が141Kmに及ぶ大規模な地下鉄建設が計画されているんですよ。
1号線が2012年を開通目標になっていますから、もう開通しているかも?ですね。
こういうことであれば、鉄道建設やインフラ整備の会社が事務所を置くのも当然ですね。
余計な話ですが、上記「王鋭 (WANG Rui) のブログ」によれば、北京では地下鉄総延長が336Kmもあるんですね(2010年9月)。上海では424Kmも有るそうです(同)。しかも、両市とも延伸中とのことです。あまりにも急速な地下鉄建設にビックリですね。 -
このあたりは、高級住宅街?のようにも見えますね。
-
さして広くもない庭?に太湖石?を置いています。
かなりのお値段だったと思います。
これも、狭いながら「庭園」?かもですね(^^) -
こちらのお宅には、あの赤っぽい石が置いてありました。
左側の白っぽい石の上には、猿の彫り物が載っています。
自宅の庭に太湖石とか○△石を置くというのは、中国に人にとってはちょっとした贅沢や誇りでもあるのでしょうね。 -
なんじゃ?これは??
直近を通るので、最初全体像が分からなかったんですけど、なんか変ですね〜。
家のような感じです。 -
通り過ぎてみると、なんと台船に載っている家ではないですか(~o~)
窓には「茶」と書いてありますけど、喫茶店でしょうかね?
2階がお店で、一階が住居??
これって、住所はどうなるんでしょうかね?固定資産税は?なんてことも考えちゃいますよね?? 台船もそんなに新しいわけでもなし、いつまで使えるのか心配になってきます(~o~)
そして、護岸の上には中国では珍しい鷲の像が置いてありますね。 -
中国で久々に見る黄色の壁です。
中国では黄色の壁の“黄色”というのは、「良い色」とのことです。
これも中国らしい光景ですね。
この建物はお寺さんなのかも知れません。
★↓は、杭州・霊隠寺の黄色の壁です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/12996205/ -
「おかあさん あのにも屋根が付いているよ」
これで二度目にみる橋ですけど、よそでは見たことないですから、とにかく珍しいです。
こういう橋のことを「廊橋(ろうきょう)」と言うそうです。意味は「屋根付きの橋」とか「廊下のような橋」と言うことらしいです。お城か御殿のような、大きな屋根の付いた橋もあるようです。 また、庭園内とか城郭内の小さな橋には、屋根付きの橋である「廊橋」がしばしば見られるようです。
廊橋を造る理由は、もちろん雨除けもあるのでしょうが、一説によれば「橋の腐食」を防ぐ為のようです。ついでに、そこを利用して店を置き商売をしてしまうと言うこともあるようです。
また、庭園では「飾り」の意味もあると思いますね。
日本にもこのような橋はあるのでしょうかね?
ところで、この橋の名は「虹橋」だと思います。 -
↑の橋の西側たもとのすぐ南に、また東屋がありました。
蘇州という街自体が2500年以上もの歴史ある街ですから、このような東屋があちこちにあってもおかしくないですね。 -
先ほどの廊橋ですが、修繕中のようですね。
このような廊橋が蘇州城を造営した時点から造られていたのか?については、詳しいことは分かりません。ただ、7世紀頃には既に存在していたような記事もあります。宋代にも造られているようですが、明・清代になって多く作られているようです。
この虹橋を東に渡って外城河沿いに南に下りますと、姑蘇城時代からの城門であった「閶門」があります(現在の閶門は復元された門です)。
姑蘇城の西側には私たちが船に乗った胥門と、この閶門の2つの門があったと言われています。胥門は船が通れないように塞がれてしまったとのことですが、こちらの閶門は船が城内に入れたようです。
蘇州城の内部に網の目のように張り巡らされた運河の水は、この閶門あたりから取水していたとのことです。他の説では胥門あたりからと言うのもあり、確定的なことまでは言えないです。
お暇のある方には、是非!!「廊橋 画像」で検索されてみて下さい。さまざまな廊橋が現れてきて本当に楽しいですよ!!
それにしても,中国は面白いですね。
★虹橋の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.316649,120.600384&spn=0.002197,0.001749&iwloc=0004d2fad27849938ba77
★閶門の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.317208,120.601698&spn=0.002124,0.002199&iwloc=0004d29de4400a220cb2d -
虹橋をくぐり抜けたら、ちょっと雰囲気の違った建物が現れてきました。右端には3重の塔みたいな建物があります。
-
↑の写真で右端に見えていた楼が正面に見えてきました。
どっしりとした印象の楼ですが、この塔は「七里山塘塔楼」と言われているようです。この塔楼は、「白居易纪念苑」の中にあって威容を誇っているのですが、あの黄鶴楼で出会った白居易が、どうしてこんなところにと思いますよね。
白居易と言えば中国史の中でも有名な詩人ですが、「白楽天」とも言われています。彼は政治にも関心があり、社会を批判する詩も作っていたようです。
そればかりではなく、蘇州などの長官(日本の知事のような地位)にもなりたかったようです。それがなんと!50代で自ら願い出て蘇州の長官になったというのです(後に杭州の長官にもなりました)。
白居易は蘇州の長官時代に、虎丘近くの水路に砂がたまって水が流れなくなっているのを知り、その打開のる為に山塘河を建設したようです。
これが、結果的に灌漑や水運・商業の発展に貢献したようです。それで、彼の遺徳を記念して「白居易纪念苑」が造られたようですね。
当時といわず、中国では王や貴族達も、政治姿勢などを詩を通して表すこともありました。
それはさておき、白居易や杜甫、李白、王維などの有名な詩人も左拾遺(天子の傍に仕えて、天子の失政を指摘し補う官職とのこと)や翰林学士や文部郎中(文部次官)などの官職や、宮中専属の詩人という官職を得ることがあったようですね。
白居易も進士・左拾遺・蘇州の知事・刑部侍郎・太子少傅・刑部尚書などの資格・官職を得たようですね。
あの黄鶴楼で出会った詩人たちと、蘇州で再び出会うなんて面白いものです。
★↓は黄鶴楼に掲げられていた白居易の姿です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/25173535/
★↓は王維・李白たちです。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/25173537/
★↓は「七里山塘塔楼(白居易纪念苑)」の場所です。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.317437,120.600124&spn=0.002124,0.002473&iwloc=0004d39eb02bb75736d74 -
私たちの船は、これまで外城河を北の方へのぼってきましたが、ここで外城河から山塘河の方へと進路を変えていきます。そうです、白居易が造った運河である「山塘河」を行くのです。
-
こちらの橋の方がカッコいいのですが、こちらへは行きません。
あの橋の方へ行きますと、外城河をさらに進んで蘇州城の外周を右回りで回ることになります(途中で接続する運河や河もありますが)。 -
これまでと違って,狭い運河に入っていきます。
左手の建物は、1階部分が運河の方に向かって一枚ガラスの洒落た造りをしていますね。
ということは、こちら側からもお客さんを迎えるということでしょうかね。
(Nさんご提供の御写真です) -
すぐ前に、運河の左右の家を結ぶ廊橋が見えてきました。
いや〜、街の中を流れる運河って面白いですね。
これまでとは、全く変わった雰囲気になってきました(^^)
家と家を繋いでいると言うよりも、結局道路と繋っているわけですよね。
船から見ている限りでは、その辺りが非常に分かりにくいです。
このような廊橋はGoogle mapで見てもなかなか分からないんですよ(-_-) -
住宅の下の石垣です。
これまで、石垣のことは殆ど気にもしてこなかったのですが、山塘河に入ってから間近に石垣が見えるようになりますと、ちょっと気になりますね。
似たような厚さの石が整然?と積まれているものの、石の隙間が結構あって小石なんかを挟んで凌いでいるような感じですね〜(^^;) また、石の劣化の原因になる草なんかが生えてしまってますし、大丈夫かな〜と思ってしまいますね。
それとパイプが2本走っていますが、水道と電気?なんでしょうか?
なんでもいいけど、あんまり綺麗な配管・配線ではないですね(^^;)
(Nさんご提供の御写真です) -
閶門のところでも花嫁衣装のモデルさんがいましがけど、ここでもモデルさんの撮影をやっています。
ブライダルや服飾デザインなどの仕事が増えているのでしょうか? それとも、結婚衣装の前撮り?なんて考えてしまう風景ですね。
(Nさんご提供の御写真です) -
私たちは↑の図にあるような城内の運河(かなり埋められたとは言え、今も多くの運河が残っています)を、気づかないままに蘇州城内を去ってしまいました。今にしてみれば残念なことでした。
上の話の続きですが、「中国の水郷都市」によれば、蘇州城内の運河には小さな船しか入れなかったようです。
京杭運河でやってきた大きな船は、長江沿岸でやや小さい船に荷を積み替えて蘇州城外まで来て、ここで再度小さい船に荷を積み替えて城内運河に入ったとのことです。
その為かどうか確定的なことは言えませんが、荷を積み替えるところに船も人も集まりますから、そこ(城門の外)で商売が活発になることはありますね。
また、「中国の水郷都市」によれば、荷を積み替えて城内の狭くて浅い運河に入っていくよりも、水面も広くて水深の深い外城河で荷を降ろして、そこで取引(商活動)をしてしまう方が、積み替えの手間もなく、手っ取り早く商いが出来てしまうことから、城門付近で町が発展したようです。
蘇州城では胥門と閶門付近に商業地域が発展したようです。
★↓は昼間の七里山塘街クルーズです。
http://www.youtube.com/watch?v=5P80h7d4v6s -
船がちょっと渋滞気味ですね(^o^)
先ほどまでの「廊橋」と違って、石積みの橋が見えてきました。
このような橋の形を「拱形単孔橋」と言うそうです。
手前の橋は、おそらく「通貫橋」だと思います。向こうの橋は、多分「新民橋」かと思います。
このあたりから、提灯が目立ってきました。こちら側は家にとって言わば「裏口」になる方ですので、提灯の意味が分かりません。 しかし、Google mapに貼り付けられている写真をクリックしますと、家の表側になる道路側では、土産物屋とか食堂・レストラン・画廊骨董品屋など結構賑やかな街になっています。
★通貫橋の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.319387,120.59915&spn=0.002129,0.003862&iwloc=0004d3015aa4b59b25765
★新民橋の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.320492,120.598042&spn=0.002129,0.003862&iwloc=0004d29ef40b72c66b986 -
こちらのお店には5〜6人ほどの若者達がくつろいでいますね。
私たちがいま乗っているコースには、ナイトクルーズもあるようです。
白壁の綺麗な家々をライトアップしてるようです。
★↓は、夜の山塘街散策の様子です。
http://www.youtube.com/watch?v=F-Jo_W6fiY0
★↓は夜のクルーズです。
http://www.youtube.com/watch?v=-HzvEK6riRE -
「尚品茶餐廳」
だんだんと賑やかになってきましたね。
「尚品茶餐廳」の意味は分かりませんが、レストランのようなものかも知れませんね。
(Nさんご提供の御写真です) -
こちらのお店には「ROYAL GARDEN INN」と書いてあります。
たくさんの船が泊まっていますから、船で来るお客さんもあるかも知れませんね。
ホテルなのか、レストランなのか分かりませんが、とても賑やかな感じです。
何と言っても洋風化されていないところがいいですね。
↑でも述べましたが、この運河は閶門から闔閭の墓のある「虎丘」とを結ぶのが主な目的で造られたようです。
こんな言い方をしてもよいのかどうか?分かりませんが、この運河沿いは一種の門前町?みたいなものかも知れませんね。実際、城内の人々は時期折々の祭りや行事の日に、自宅の裏から小船に乗って閶門を通り抜け、この山塘河を通って山塘河に遊びに出掛けたようです。
閶門の外側付近は↑に述べましたように商業の発展したところですから、船の混雑も酷かったようです。 -
建物はかなりオンボロの感じですが、提灯の飾りはしっかりしています(^o^)
このあたりの建物は(城内運河地域でもそうですが)道路側が家の玄関側で、玄関を入ってズッと奥に進んでいくと裏口が運河側になっているという造りの家が多いそうです。
宅地が道路や運河に直角に且つ細長くなっているところが多いそうです。
山塘街がなぜこんなに歓楽的で賑やかなのか?
9世紀に白居易が山塘河を開鑿してから交通(水運)の便が良くなり、もともと蘇州城に近いことから物資が集積するようになって、栄えたというのです。栄枯盛衰を経ながらも文化も経済も発展してきたようです。もちろん歓楽街も・・。
また、近代になって外城河と新民橋の間を観光地として整備したことも、今日の賑わいにつながっているようです。
ちょっと余計な話ですが、山塘河と京杭大運河との関係はよく分かりませんが、人も物資も集まるようになってきたということは、京杭大運河と接続していたのではないか?と思いますね(私の勝手な想像です)。 昔は京杭大運河が蘇州城内を通り抜けていたというのですから、そんな感じがします。
それに、虎丘の下で行き止まりの運河であったら、堆積していた砂を流すことは出来ませんし、船も行き止まりの運河をピストンで行き来することになりますから、やっぱり京杭大運河とつながっていたと考えたいですね。
(この項は、詳しいことが分かった時に書き直したいと思います) -
↑の建物の正面入り口(運河用入口?)を見ますと、「山塘崑曲館」という立派な額がありました。
「崑曲」というのは演劇のようで、Wikipediaによれば、「中国の古典的な舞台演劇である戯曲の一形式あるいは戯曲に使われる声腔の一形式」と言われているものです。
また「講談視察」関係サイトの記事によれば、崑曲は京劇などの基礎となった演劇で、蘇州近郊の崑山で500年以上前におこり、中国全体に広まったと言う話です。
パッと見たところ、京劇に似た衣装を纏っていますね。
「崑曲」は、現在世界無形遺産に登録されているようです。
★崑曲の詳しいことは↓にて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%91%E6%9B%B2
★↓は崑曲の様子です。
http://www.youtube.com/watch?v=1xcDb2-DNhc -
裏口から河へ降りる階段が面白です。
外城河では、個人宅から河へ降りる階段はあまり見かけなかったのですが、山塘河では至るところで見られます。暮らしや営業と運河との繋がりがそれだけ強いのですね。
運河が交通手段としても使われてきたという証しのようなものですね。手摺りも何もないですから、ウッカリしていると運河に落ちそうですね(^^;)
この石の階段は、石垣を作る時点で家の出入り口が分かっていて造られたのか。家を造ってから、石垣の石を長い石に交換したのか?なんて、要らぬことを考えてしまいました。
それと、水の色ですけどあんまり綺麗ではありませんね。私は鼻が鈍感(耳も鈍感・舌も鈍感・アタマも鈍感ですけど(-_-;))なので、匂いの方は分かりませんでしたが、ちょっと心配ですね。 -
家庭の排水が運河に流れ出ているところです(-_-;)
蘇州の運河クルーズと言えば、先ずは山塘河といわれるほどの観光地なのに、家庭排水をまだ流し込んでいるなんて、問題ですね〜。
そういう当家も、浄化槽を通じて川に流してるモンですから、大きな声では言えません(あと数年で下水工事が始まるそうです)。
この辺では、あの提灯がないですね。歓楽的な雰囲気は先ほどの「山塘崑曲館」あたりで終わってしまったのかも知れませんね。
★↓は名古屋港付近の海水の色です。あんまり綺麗ではないです(=_=)
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/22681504/src.html -
あらまぁ、お洗濯をしておられます。
お水がちょっと汚いのが気になりますね。私の実家の方でも、東京オリンピックの頃までは川で洗濯をしていましたが、水は綺麗でしたよ。
★↓は石宝寨付近での洗濯風景です。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/23132428/src.html -
ここでは、階段の利用を止めて、ベランダ風にしてしまいましたね(~o~)
でも、階段となっていた石の強度は大丈夫でしょうかねぇ。
そして、先ほどから気になっているあの線は何でしょうかね。
この家にも配水管があの青いホースを入れて3本見られますが、排水が出ているようでもあり、出ていないようにも見えますね。「中国の水郷都市(1993年発行)」によれば、上下水道の普及が進んでいるようです。
それ以前では、家の中庭に井戸があって、それを生活用水につかっていたようです。
また、昔の運河の水は割と綺麗であって、その水で生活していたというのです。
「人民中国」サイトの記事によれば、1960年代には運河の水で米をとぎ野菜も洗ったとか。それが70年代では、運河で洗濯をし、灌漑用水にもつかったとのことです。
80年代には水質が悪くなって、90年代には心身に害を受けるようになったとのことです。
歩んだ道は違うけど、時代の変化が私の実家付近の様子に似ています。
60年代には川で洗濯をし、70年代には洗濯機が田舎まで普及して、その排水を川に流すようになりました。下流地域では、上水道取水口付近の川で石鹸水による泡立ちが問題になりました。
その後、トイレなど家庭排水の浄化槽が普及したものの、半汚水を川に流すようになり、石鹸水の問題と併せて川はさらに濁り、川の生物が激減しました。田舎でも2010年を過ぎてようやく下水道整備が始まり、川の再生に希望が持てるようになってきたところです。
下流の大都市で早くから下水道整備されてきても、上流の田舎ではこんなことでしたね。
蘇州市の環状運河で、小魚の復活が見られるようになってきたというのですから、私たちの地域と似たような道筋を歩ん出来たことがよく分かります。
それでも、今なお川で洗濯をし、排水を川に流す人がいるのですね。長い年月の内に人々の心の奥底に沈殿している生活意識というのは、目先の生活費との兼ね合いもあって、そう簡単に変わるものではないですね。 -
こちらでは、階段の踊り場をこんな風にして造っています。
それにしても、コンクリート板を渡しているだけの簡単な作り方。大丈夫かなぁ〜?と思ってしましたね(^_^;) -
こちらのお宅では、家の壁を凹ませて運河に降りる階段のスペースを確保しています。
ホント、創意工夫の世界ですね!(^^)! -
こりゃまた、スゴイ景観ですね。
2階のガラス窓は割れたまま放置され、化粧壁が剥がれてレンガがムキ出しになっています(-_-;) 運河への降り口の左側では、レンガが抜け落ちてしまっています。これはもう、空き屋なっているかも知れませんね。
このあたりでは、石垣の高さがあんまり高くないですね。 -
あの橋をくぐって、さらに北進します。
赤提灯もすっかり無くなって、静かな感じの街が続きます。
あの橋は、ヒョッとして普済橋かも知れません。
★普済橋の場所は↓にて
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.329409,120.582681&spn=0.002016,0.002154&iwloc=0004d29ebe74e5a4792f9 -
ここでも、駕篭や湯桶のようなものを洗っています。
右で立っている人は順番待ちでしょうか。
昔の私たちの暮らしでもそうでしたが、一方で排水があり他方で洗濯や物洗いをしているんですね。 -
こちらもドアから専用階段が付いていますね。
このような階段をたくさん見てきましたが、この階段は「河橋」と言われているそうです。
橋でもなく、階段なのに「橋」なんですね。
他所様の裏口を拝見させていただくというのは、ちょっとだけ申し訳ない感じがします。 -
生活感溢れる光景です(^^)
洗濯物が風で飛んだら運河に沈んでしまいますから、洗濯物はちゃんと止めておかなければなりませんね(^_^;)
ところで、運河の水は結構汚れていますが、汚れのもう一つの原因は水の流れが停滞していることもあるようです。城内の運河もその点では同じようです。
水の流れが停滞した要因としては、昔あったたくさんの運河を埋めてしまったために流れが滞ってしまったこともあげられるようです。もう一つの要因は「人民中国」によれば、昔は京杭運河が蘇州城内を貫いていたのに、汚染や騒がしさのために京杭運河の経路を変えて、城の外側を通るようにしてしまったことがあるようです。
水が綺麗であるためには、何より汚さないこと、流れがあること、大気中の空気を取り入れることなんかが大事かも知れませんね。 -
正面に虎丘塔が見えてきました。
この山塘河も該当するかも知れませんが、川や運河の深さの方も、何らかの形で色々な物が堆積して浅くなってきますよね。そこで、運河を浚渫してくれる方々がおられるんですよ(^-^)
その方々というのは周囲の農民の皆さんで、運河の底を浚ってくれるんですね。そうして取った泥は田畑に運んでいって、肥料として利用するんだそうです。運河の維持と清掃が、豊かな実りに役立つなんて、とてもいい考えですよね(^^)
似た話は、日本の江戸時代にもありましたね。街から出る人の排泄物を、周辺の農家がやってきて買い取って集めてくれていたようですね。そう、農家にとって貴重な肥料となっていたからね。お蔭で、中世の日本の都市は他国に例のない清潔な都市だったと言われていますね。排泄物を自然に戻す考えは東洋的なのもので、同じ時代のヨーロッパでは道路等に投げ捨てていたようですね。
トイレで用足しをしてお金がもらえるなんて、なんて良い時代だったんでしょうかね(~o~) ちょっと話が飛躍してしまいましたね(~o~)
★↓は、その話です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8E%E5%B0%BF -
また赤提灯が見えてきました。
ところどころに茶店なんかがあるようですね。
赤提灯が懐かしいですね。
半世紀近くも昔には、駅の近くとか会社の寮の近くに赤提灯の屋台が並んでいましたねぇ。そこでの焼きそばとか焼き肉とかラーメンは意外と美味しかったモンです。
私は滅多なことでは赤提灯の屋台に入ることはなかったのですが、独身時代に数回程度友人と入ったことがあります。
そのうちの一人は私より一つ若かったですが、早くに出世しました。会社のある会議で私を訓練の場に推薦しようとした時、彼以外の上司全員が「あんな奴が・・」と否定的な意見を述べたそうです。そんな中で彼一人だけが私を推したのです。
そんな彼だったのですが、定年して間もなくこの世を去ってしまいました。赤提灯を見るたび、その彼を思い出します。 -
私たちが手を振ったら、おじさんも手を振って応えてくれました(^_^)v
このおじさんは、骨董趣味でもあるのか? 又は古物商でもやっているのか分かりませんが、とにかく古物・小物がたくさんありますよ〜。
山塘河沿いには、いろいろな商売がありますね(^^)
古物商であれば、お店は道路側にあるんではないでしょうか? -
親しみのある風景です(^^)
右側の3つの服は、子供用ですね。 -
これは倉庫でしょうか?
壁の汚れがだんだんと目立ってきて、本来の中国らしい??光景になってきました(^^;) -
生活丸出しの様子を拝見する(^^;)
覗き見しているようで面白くもあり、申し訳なくもありって感じですm(_ _)m -
化粧壁が剥がれ落ちている中での暮らしの現実・・
見るほどに「ウ〜ン」と唸ってしまいます。
右側のお宅では、発泡スチロールの箱で家庭菜園をやってますね〜(^^) -
こんなところに雲墻(上端が波形になっている壁。先頭に龍の顔のあることが多いです)がありましたね。
あの丸い出入り口のところまで道路が来ているようですね。車などに対する通行止の役割もあるかも知れませんね。
中国では、これまでもたくさんの丸い出入り口を見てきましたが、この丸い形は「縁起」を担いでいるとのことです。中国の方にとって「丸」は「丸い気=円満」ということらしいです。
そうですね、なんでも丸くいきましょう!! -
今日はお天気が良いのか(日差しはあんまり強くないですけどね)、洗濯物がたくさん出ています。
中国では洗濯物を竿に通すということは、あんまりしないみたいですね。 -
ここでも、奥さんが何かを洗っていますね。
-
こちらは中庭に洗濯物?が干してあります。
ピンクや赤で、柄も良いですね。
でも、中庭にも、運河側の階段周辺にもゴミが目立ちます。
家の壁も壊れて、排水の流れた跡も目立ちます(-_-) -
空き屋??のような家ですが、扉が開いていましたので炊事場?がちょっと見えました。
水道の蛇口に四角な流し台、そして流し台を支えるコンクリートの塊・・
これも私たちが子供の頃の実家の炊事場にちょっと似ていました。
実家では流し台はタイルで、水道ではなくて井戸のポンプから短いパイプを通して流し台へ引いていましたね。もちろんこんなに傾いていません。そしてその奥(井戸の右手)にかまどがあったものです。それは60年前のことですけどね。
化粧壁が剥がれ落ちている中での暮らしの現実・・
見るほどに「ウ〜ン」と唸ってしまいます。
右側のお宅では、発泡スチロールの箱で家庭菜園をやってますね〜(^^) -
この家は使われているのかいないのか?なんて思っちゃいますが、ドアの外には箒のようなものが掛けてあり、煉瓦を積んだ上には鉢植えの花がたくさん飾ってありますから、住人が居るようにも思えますね。
ドアの下、窓の下にはど根性の野草が生えているのは、気になるところです。 -
お寺か?何なのか?分からないのですが、なんだか重厚にして勇壮・しっかり作り込んであるその姿に特別な関心をそそられました。建物には「安瀾普慶」という浮き文字が彫ってあります。
それなのに、建物名も場所も残念ながら分かりません(-_-;)
ご存知の方、教えて下さいね。 -
この辺では珍しい一戸建ての住宅です。
これまでは長屋的な建物が多かったので、あんまり気にもしなかったのですが、このような一戸建て住宅を見ますと、中国での「大家族制」のことが思い出されます。
「一人っ子政策」が言われてきた中、このような一戸建て住宅ではどういう家族構成になっているの?興味の湧くところですね。そう言えば、一人っ子政策の廃止の動きがあるようですね。
2階のエアコンが、目立ちます(^^) -
トンネルに入りました(道路のトンネルだと思います)。
昔の蘇州の絵かも知れませんね。
この運河はだいぶ広いですから、おそらくは外城河の光景でしょう。
大型船と小型船との違いがこの絵から分かりますね。 -
ピンぼけになってしまいましたが、これは蘇州城内の様子を描いたんではないかと勝手に推量しております。右端に大きな城門がありますね。
-
これまた、ピンぼけですけど、左上の仏塔は虎丘塔かも知れませんね。
虎丘塔は「雲岩寺塔」とも言われるように、虎丘山の雲岩寺にある仏塔です。虎丘塔は961年に造られたのですが、7層8角形の木造部分が焼け落ちて、塔の心棒部分にあった磚(せん=焼成煉瓦)構造のところが焼け残って立っているとのことです。
それが、だんだんと傾いてきて人気を呼び、「中国版ピサの斜塔」と言われて、観光客が訪れているとのことです。
しかし、中国の人にとっては、虎丘塔はピサの斜塔より400年以上も早く完成しているのだから(完成年比較)、ピサの斜塔こそ「イタリア版虎丘塔」だと言いたいわけです(^o^)
「中国版ピサの斜塔」などと言われてしまったのも、中国人をはじめ私たち東洋人のヨーロッパ進出が、西洋人の東洋進出に大きく遅れを取ってしまったからなのかも知れませんね(それ以外の要因もありますけどね)。 -
「武丘寺路」という題名の、白居易の詩ですね。
武丘寺というのは標高40m弱の虎丘山にある寺(現在はの虎丘寺と言われています)。この虎丘山には呉王の夫差が先王で父親の闔閭(こうりょ)を埋葬した墓があるとのことです。私は白居易のこの歌は読めませんが、虎丘河の往来の様子が書いてあるようですね。
この山塘河は虎丘山の麓を通過するため、その虎丘山にある武丘寺(武丘报恩寺)への参詣のに都合が良かったため、武丘寺への参詣の船で賑わったという話もあります。 -
この家は木の杭を打ち込んで、家を運河の方にはみ出して建設していますね。
太い杭もありますが、細いのもあります(-_-) よ〜く見ると、ちょっと心配になってくる状態ですけど、大丈夫なんでしょうかね??
河橋(石段)のところでは、おばちゃんが腕カバーをして洗濯をしています。 -
生活感に溢れた楽しい光景ですね。
-
水の都!!て感じですね(~o~)
ここも、木の杭で支えられている家が多いですね。
でも家々の外壁が汚くなってきました(-_-;)
★こちらにも、木などを足場に使っている家々があります。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/pict/16674368/src.html -
あれまぁ、おじさんがこんなところで釣りをしているよ(^^)
それも、竿を2本も使っていますよ〜〜(^-^)
水がこんなに汚いのに、釣れる魚がいるんですね〜(~o~)
釣果は今夜のおかずにする? 晩酌のおつまみかな?!(^^)!
でも、自宅の庭で釣りが出来るなんて、とっても優雅な生活ですね!! -
オイオイ!!
お父ちゃんのパンツが干してあるよ!!(*^_^*)
お父ちゃんとお兄ちゃんのやつかも知れないね?(^O^)
大切なところを、ちゃんと日光に当てて日光消毒をする!(^^)!
これこそは、「正しい干し方」ですね(^O^) -
橋が崩れ落ちたような感じの光景ですね。
それも最近のことのようで、まだ片付けられていません。
向こうに見える高架橋は鉄道路線です。
(Nさんご提供の御写真です) -
これまで運河の護岸幅いっぱいに、または迫り出すように家々が建っていたのに、このあたりから護岸河が道路に変わってきました。
これが普通の景色ですね〜。 -
カッコいい橋が見えてきました(^^)
橋の形は「拱形3孔橋」とでも言うのでしょうかね?
この橋はおそらく「普済橋」だと思います(違っていたら教えて下さいね)。
この橋は宋代に建設されたとのことで、400年の歴史がありますね。山塘河に掛かる橋としては一番大きいとのことです(現代の高速道路とか鉄道線の橋は別として)。
↑の方で「拱形単孔橋」をご覧いただきましたが、船が通るということを条件とすれば、真ん中を高くするのは当たり前のことですね。
蘇州は「東洋のベニス」と言われていますが、ベニスの橋も船が通れるように橋の中央が高くなっていますね。なかには、蘇州の橋とそっくりの橋もあるとか書いてるサイトもありますよ。
中国の方に言わせれば、「東洋のベニス」は面白くないです。蘇州の方がベニスよりおおよそ1000年も先なんですからね。ベニスは「西洋の蘇州」だというわけです。その気持ちは大いに分かりますね。
★↓は普済橋のあるところです。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.32934,120.582614&spn=0.002124,0.002049&iwloc=0004d29ebe74e5a4792f9 -
ここでも釣りをしています。
この水で、どんな魚が釣れるのか?
見てみたいモンですね。
しかし、こういう水質でも魚を釣るってのは、趣味か?生活のためか? 先ほどは軽く考えていましたが、ホント真面目に考えてしまいました。 -
ここに「白公橋遺址」という碑がありますが、場所の特定が出来ません(-_-;)
白公というのは、白居易のことだと思います。彼に関わる橋の遺跡があったようですね。 -
ここにも、このような東屋ががありました。
ここだけでなくて、これまでに何カ所か見てきましたね。 -
ここには門のような物がありますが(写真右)、詳しいことは分かりません。
ご存知の方がおられましたら教えて下さいね。 -
「五人墓 葛成墓」と書いた碑がありました。
ちょっと調べてきますと、五人墓というのは、「中国・蘇州市の住宅地形成の研究」ほかのサイトの記事によれば、明時代の末期にこの地域の織物職人らが権力者の圧政に対して抵抗闘争を指導した5人の義士を称える墓とのことで、蘇州史上初の抵抗闘争だったとのことです。
五人墓は、それぞれの墓と、「五人之墓」と大書した大きな石碑もあるんですよ!!
「葛成」というのは人の名で、上記の抵抗闘争を指導した人のようです。2000人余の人たちが力を合わせて闘い、杭州担当の権力者を追放し、減税を勝ち取るという成功に導いたとのことです。
その後、自ら名乗って自首したものの、後に釈放され、多くの人々から尊敬されたとのことです。
この時代(明代後期)には、圧政に耐えかねた闘いが各地で頻発したようですね。
日本でも農民一揆などが江戸時代にありましたが、この時代に働いた人々は本当に大変でしたよね〜。
この時代は世界のどこでもそうですが、やむにやまれず立ち上がれば指導者は命を奪われるんですからね。先人の命をかけた努力に学びたいですね。
★↓は五人墓のあるところです(だいたいの位置です)。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.331054,120.58134&spn=0.002124,0.002049&iwloc=0004d29f4f8eba5d9a3b6 -
このお寺は宋の時代に造られたそうです。
このお寺は中国の小説「紅楼夢」の幾つかの場面のモデルになったと言われています。結構有名なお寺さんですね。
それがなんと!! 1958年の大躍進政策の時に破壊されたとのことです(>_<) 2009年に再建されたとのことです。そのため内部は新しい感じがするとのことです。
★↓は普福禅寺のあるところです(だいたいの位置です)。
https://maps.google.co.jp/maps/ms?msid=215057171961161454984.0004ac69971fc58f392d3&msa=0&ll=31.331799,120.579865&spn=0.002124,0.002049&iwloc=0004d29f3a150b2aa0c5a -
このあたりはかなり古い町ですね。
-
と思えば、こちらは独特の形をしたの家々が並んでいますねぇ。
-
「澤被東南」と書いた牌楼ですが、ここがどういうところか分かりません(-_-;)
ご存知の方、教えて下さいね。 -
どうやら終点に来たようです。
たった一度の旅で、あれもこれも見たいというのは過度な欲求ですけど、蘇州城内の運河を見たかったですね。それは、また??」の機会に・・。
また、隅田川クルーズも是非体験したいものと思います。 -
振り返ってみますと、観光船が続々とやってきます。
蘇州城内にもたくさんの運河がありますが、蘇州市内のクルーズと言いますと、外城河の閶門から出てからこの外城河を見るコースが多いようです。
船の一番前の座席に陣取れたら良かったのですが、幅の狭い山塘河では窓越しに見る光景があまりに近すぎて、運河沿いに並ぶ家々の様子を広めに撮ることが出来ませんでいた。
出来れば、「通貫橋」「新民橋」などの橋の上からも、そして街中の街路からも街の様子を捉えたかったですね。
こんな希望は、叶えられないんですけどね(-_-;) -
船を下りて、バスで昼食会場へ移動中です。
あの虎丘塔がこんなに近くになってきました。 -
どうやらレストランに到着のようです。
今日の午前中は長江を南に渡って、水の都・蘇州の運河クルーズを楽しみました。
日本流に言えばお堀に当たる外城河と、隅田川のように街の中を行く山塘河をクルーズしました。このコースは割とポピュラーなクルーズコースのようで、ネット上にも旅行記にも、たくさんの写真が掲載されています。
このクルーズの特徴は、蘇州の皆さんのお勝手口とか裏口を拝見する感じでしたね。道路側が玄関で、運河側が裏口というわけですね。これは、街の中を通る運河の特徴かも知れません。
ですが、蘇州城の特徴でもある城郭内の運河を、クルーズでなくても5分間でもバスを降りて見てみたかったですね。
お昼をいただたら、中国4大名園の一つと言われている「拙政園」へ行きます。
その話は、(その21)にて。
http://4travel.jp/traveler/2egatsrofsu/album/10762481/
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