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一所に複数の時代の足跡が残っている場所ほど面白い。まるで歴史が凝縮された博物館のようです。<br /><br />市川はそのような場所のひとつです。市川には縄文時代から現代までの数千年の歴史が残されています。<br />今回、真間の手児奈霊堂から弘法寺を経て、国府台を歩きました。国府台からは江戸川越しにスカイツリーと富士山が望め、夕日が沈もうとしていました。

市川を歩く(2) ―国府台から見た夕日に映えるスカイツリーと富士―

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2013/01/04 - 2013/01/04

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traveldog

traveldogさん

一所に複数の時代の足跡が残っている場所ほど面白い。まるで歴史が凝縮された博物館のようです。

市川はそのような場所のひとつです。市川には縄文時代から現代までの数千年の歴史が残されています。
今回、真間の手児奈霊堂から弘法寺を経て、国府台を歩きました。国府台からは江戸川越しにスカイツリーと富士山が望め、夕日が沈もうとしていました。

一人あたり費用
1万円未満

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  • 今日一日のコースです。<br /><br />市川駅―真間商店街―入江橋―真間の継橋―手児奈霊堂―弘法寺―国府台公園―東京医科歯科大学構内「法皇塚古墳」―里見公園―手児奈橋―市川駅<br /><br />うっかり見忘れ有りです。手児奈霊堂まで行ったのに、亀井院の真間の井を見忘れました。真間の井で手児奈が水を汲んだという伝説があります。次回の楽しみに取っておきます。

    今日一日のコースです。

    市川駅―真間商店街―入江橋―真間の継橋―手児奈霊堂―弘法寺―国府台公園―東京医科歯科大学構内「法皇塚古墳」―里見公園―手児奈橋―市川駅

    うっかり見忘れ有りです。手児奈霊堂まで行ったのに、亀井院の真間の井を見忘れました。真間の井で手児奈が水を汲んだという伝説があります。次回の楽しみに取っておきます。

  • 真間山弘法寺(ぐほうじ)参道入口から出発しました。<br /><br />国府台に至る大門通りと真間大門会という商店街が続いています。京成電車の踏切を越え、真間川を入江橋で渡ると弘法寺の石段下に出ます。<br />途中の民家の塀に展示された万葉集のパネルが続いています。

    真間山弘法寺(ぐほうじ)参道入口から出発しました。

    国府台に至る大門通りと真間大門会という商店街が続いています。京成電車の踏切を越え、真間川を入江橋で渡ると弘法寺の石段下に出ます。
    途中の民家の塀に展示された万葉集のパネルが続いています。

  • 真間川に架かる入江橋を渡りました。かつての真間の入江を思わせる名がついていました。<br /><br />市川には松が多い。そう思い込んでいる節があるので、つい松を探して、松があると「ああ市川に来た」と思う。<br /><br />昔は砂州だったので、松しか育たないという地元の人の話を聞きました。<br /><br />勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ (山部赤人)

    真間川に架かる入江橋を渡りました。かつての真間の入江を思わせる名がついていました。

    市川には松が多い。そう思い込んでいる節があるので、つい松を探して、松があると「ああ市川に来た」と思う。

    昔は砂州だったので、松しか育たないという地元の人の話を聞きました。

    勝鹿の真間の入江に打ち靡く玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ (山部赤人)

  • 真間川を渡ると手児奈霊堂は、間近かにあります。その入口手前に「真間の継橋」がありました。<br /><br />足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ (万葉集)<br /><br />国府台と砂州の間に真間の入江が深く入りこんでいて、開口部に当たるこの辺りに板橋を何枚もつないだ継橋が架けられていました。国府台にある国府に至る道でした。<br />

    真間川を渡ると手児奈霊堂は、間近かにあります。その入口手前に「真間の継橋」がありました。

    足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ (万葉集)

    国府台と砂州の間に真間の入江が深く入りこんでいて、開口部に当たるこの辺りに板橋を何枚もつないだ継橋が架けられていました。国府台にある国府に至る道でした。

    国府台駅

  • 手児奈霊堂です。身投げした手児奈の霊を弔うために建てられました。<br /><br />手児奈は、麻布をまとい、髪に櫛を入れることもない質素な姿でしたが、満月のような顔立ちに花のような笑みを浮かべる美人でした。<br />多くの男性から求婚された手児奈は、自分のために男たちが争うのを嫌ってか、とうとう「波の音の騒く湊」に身を投げてしまいました。<br /><br />堂の隣にいかにもと思わせる静かな池がありました。<br /><br />手児奈の伝説はすでに都にも伝わっていたらしく、この地を通りかかった山部赤人は、やっとのことで手児奈の墓を探し尋ねました。そこは真木の葉が茂り、松の根が生えて、墓は見あたらずで、手児奈の話は遠い昔のことでした。<br /><br />我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ<br /><br />という歌を赤人は残しました。<br /><br />都に帰ったら、手児奈の墓のことをみんなに話したいな(山部赤人)<br /><br />

    手児奈霊堂です。身投げした手児奈の霊を弔うために建てられました。

    手児奈は、麻布をまとい、髪に櫛を入れることもない質素な姿でしたが、満月のような顔立ちに花のような笑みを浮かべる美人でした。
    多くの男性から求婚された手児奈は、自分のために男たちが争うのを嫌ってか、とうとう「波の音の騒く湊」に身を投げてしまいました。

    堂の隣にいかにもと思わせる静かな池がありました。

    手児奈の伝説はすでに都にも伝わっていたらしく、この地を通りかかった山部赤人は、やっとのことで手児奈の墓を探し尋ねました。そこは真木の葉が茂り、松の根が生えて、墓は見あたらずで、手児奈の話は遠い昔のことでした。

    我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手兒名が奥津城ところ

    という歌を赤人は残しました。

    都に帰ったら、手児奈の墓のことをみんなに話したいな(山部赤人)

  • 手児奈霊堂のとなりに真間稲荷神社がありました。神様は豊受姫命、伊勢神宮の外宮に祭られている食物の神様です。<br /><br />前回の市川散歩では、市川には公衆トイレがないので困りましたが、今回はありました。手児奈霊堂、弘法寺境内、国府台公園、里見公園に公衆トイレ有です。助かります。

    手児奈霊堂のとなりに真間稲荷神社がありました。神様は豊受姫命、伊勢神宮の外宮に祭られている食物の神様です。

    前回の市川散歩では、市川には公衆トイレがないので困りましたが、今回はありました。手児奈霊堂、弘法寺境内、国府台公園、里見公園に公衆トイレ有です。助かります。

    国府台駅

  • 正月なので石段下に「謹賀新年」の垂れ幕が掛けてありました。100段以上はある弘法寺(ぐほうじ)の石段を登りました。

    正月なので石段下に「謹賀新年」の垂れ幕が掛けてありました。100段以上はある弘法寺(ぐほうじ)の石段を登りました。

  • 石段を登り切り、弘法寺(ぐほうじ)の仁王門に着きました。<br /><br />奈良時代からの歴史がある寺です。案内板によると<br /><br />①行基が手児奈を弔うために求法寺を建てたのが、始まりで、<br />②弘法大師が七堂を建立し、真間山弘法寺となり、<br />③その後、天台宗を経て、<br />④鎌倉時代1275年に、この寺の住職了性が中山法華経寺の日常と問答で負けて日蓮宗に転じて、日常の子日頂を初代貫主に迎えた(法論に勝ったのは日頂という説もある)<br /><br />と時代とともに歩んできたそうです。<br />

    石段を登り切り、弘法寺(ぐほうじ)の仁王門に着きました。

    奈良時代からの歴史がある寺です。案内板によると

    ①行基が手児奈を弔うために求法寺を建てたのが、始まりで、
    ②弘法大師が七堂を建立し、真間山弘法寺となり、
    ③その後、天台宗を経て、
    ④鎌倉時代1275年に、この寺の住職了性が中山法華経寺の日常と問答で負けて日蓮宗に転じて、日常の子日頂を初代貫主に迎えた(法論に勝ったのは日頂という説もある)

    と時代とともに歩んできたそうです。

  • 仁王門の金剛力士像は運慶作と伝えられています。<br /><br />その他見どころは、一茶の句碑「真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉」、伏姫桜という枝垂れ桜、弘法寺古墳、太刀大黒尊天堂、袴腰の鐘楼など。<br /><br />

    仁王門の金剛力士像は運慶作と伝えられています。

    その他見どころは、一茶の句碑「真間寺で斯う拾ひしよ散紅葉」、伏姫桜という枝垂れ桜、弘法寺古墳、太刀大黒尊天堂、袴腰の鐘楼など。

  • 左上 袴腰の鐘楼<br />右上 太刀大黒尊天堂<br />左下 伏姫桜の枝垂れ桜<br />右下 仁王門、手前は一茶の句<br /><br />

    左上 袴腰の鐘楼
    右上 太刀大黒尊天堂
    左下 伏姫桜の枝垂れ桜
    右下 仁王門、手前は一茶の句

  • 弘法寺からは市川一帯が眺められます。遠くのマンションは、市川アイリンクタウンで45階に無料の展望施設があります。

    弘法寺からは市川一帯が眺められます。遠くのマンションは、市川アイリンクタウンで45階に無料の展望施設があります。

  • 弘法寺境内に弘法寺古墳があるはず。さんざん探して、境内の西はずれに見つけました。<br /><br />全長43mの前方後円墳、6世紀後半から7世紀前半の築造とのこと。<br /><br />崖際にあるため、かなり崩れています。

    弘法寺境内に弘法寺古墳があるはず。さんざん探して、境内の西はずれに見つけました。

    全長43mの前方後円墳、6世紀後半から7世紀前半の築造とのこと。

    崖際にあるため、かなり崩れています。

  • 弘法寺古墳です。左側(南側)は崖で前方後円墳の一部が崩れています。<br />どちらが前方で、どっちが後円でしょうか。よくわかりません。<br /><br />この他に鐘楼近くに真間山古墳という円墳があるとのことですが、盛り上がった築土があるだけで、看板もなく古墳とは全くわかりません。<br /><br />

    弘法寺古墳です。左側(南側)は崖で前方後円墳の一部が崩れています。
    どちらが前方で、どっちが後円でしょうか。よくわかりません。

    この他に鐘楼近くに真間山古墳という円墳があるとのことですが、盛り上がった築土があるだけで、看板もなく古墳とは全くわかりません。

    弘法寺 寺・神社・教会

    弘法寺だが日蓮宗 by traveldogさん
  • 弘法寺古墳の傍らに展望スペースが確保されていました。アイリンクタウンが見えます。

    弘法寺古墳の傍らに展望スペースが確保されていました。アイリンクタウンが見えます。

  • 弘法寺を後にして、国府台公園への道を辿りました。ちょっと歩きましたが、国府台公園のスポーツセンターに着きました。下総国府の所在地です。<br /><br />治承4(1180)年9月17日、下総の千葉常胤とその子息が下総国府において源頼朝に参会し、従軍300余騎に及んだとのこと。これ以後、頼朝の軍は勢いを増していきました。9月19日には上総の千葉広常が2万騎を率いて駆けつけ、隅田川辺の頼朝に参会しています。<br />そんなわけで国府台の地は、日本の歴史を動かした重要な場所でした。

    弘法寺を後にして、国府台公園への道を辿りました。ちょっと歩きましたが、国府台公園のスポーツセンターに着きました。下総国府の所在地です。

    治承4(1180)年9月17日、下総の千葉常胤とその子息が下総国府において源頼朝に参会し、従軍300余騎に及んだとのこと。これ以後、頼朝の軍は勢いを増していきました。9月19日には上総の千葉広常が2万騎を率いて駆けつけ、隅田川辺の頼朝に参会しています。
    そんなわけで国府台の地は、日本の歴史を動かした重要な場所でした。

    国府台駅

  • スポーツセンターのある国府台公園が国府の所在地と云われています。野球場と陸上競技場の間に六所神社跡がありました。<br /><br />六所神社は、国司が国内の有力神社を参拝して周るのが大変なので、平安時代に一か所に祭ったのが起源だそうです。<br /><br />明治に入ると国府台が陸軍用地となったために明治19年に須和田に移り、その跡地には、しばらく六所の森という四角い森があったそうです。

    スポーツセンターのある国府台公園が国府の所在地と云われています。野球場と陸上競技場の間に六所神社跡がありました。

    六所神社は、国司が国内の有力神社を参拝して周るのが大変なので、平安時代に一か所に祭ったのが起源だそうです。

    明治に入ると国府台が陸軍用地となったために明治19年に須和田に移り、その跡地には、しばらく六所の森という四角い森があったそうです。

    国府台駅

  • 東京医科歯科大学構内にある法皇塚古墳。<br /><br />大学構内なので勇気を出して不審者でないという自信をもって入りました。<br /><br />古墳の場所は、こんもりした森になっていて、案内板もありで、すぐわかります。<br /><br />法皇塚古墳 現存全長58m(54.5mと書かれたものもある)の前方後円墳ですが、もともとは65mほどあったとのことです。<br /><br />横穴式石室から出土した馬の飾り金具は、畿内的なデザインで、大和朝廷と交流があった勢力がいて、そのことがここに国府が置かれることにつながったのではないかと考えられています。<br /><br />大塚初重さん講演<br />http://ibs.city.ichikawa.chiba.jp/ibsweb/topPage.do?id=562#

    東京医科歯科大学構内にある法皇塚古墳。

    大学構内なので勇気を出して不審者でないという自信をもって入りました。

    古墳の場所は、こんもりした森になっていて、案内板もありで、すぐわかります。

    法皇塚古墳 現存全長58m(54.5mと書かれたものもある)の前方後円墳ですが、もともとは65mほどあったとのことです。

    横穴式石室から出土した馬の飾り金具は、畿内的なデザインで、大和朝廷と交流があった勢力がいて、そのことがここに国府が置かれることにつながったのではないかと考えられています。

    大塚初重さん講演
    http://ibs.city.ichikawa.chiba.jp/ibsweb/topPage.do?id=562#

  • 大学構内に熟成した柿を実らした柿木があり、いろいろな鳥がやってきて柿の実を啄んでいました。<br /><br />誰も取らずに、鳥の糧に残しているとは、さすが懐の大きな大学です。

    大学構内に熟成した柿を実らした柿木があり、いろいろな鳥がやってきて柿の実を啄んでいました。

    誰も取らずに、鳥の糧に残しているとは、さすが懐の大きな大学です。

  • 里見公園に着きました。国府台の北側の公園は、里見公園と呼ばれています。ここにあった城が国府台城です。<br /><br />北原白秋が大正5年から1年間住んでいた小岩の「紫煙草舎」と名づけられた住居で、国府台のこの地に移築されました。<br /><br />白秋は、真間の亀井院に住んでいて、市川とは縁の深い文人です。

    里見公園に着きました。国府台の北側の公園は、里見公園と呼ばれています。ここにあった城が国府台城です。

    北原白秋が大正5年から1年間住んでいた小岩の「紫煙草舎」と名づけられた住居で、国府台のこの地に移築されました。

    白秋は、真間の亀井院に住んでいて、市川とは縁の深い文人です。

    国府台駅

  • 明戸古墳の石棺2基。<br /><br />石棺のふたがありません。<br />ひとつは公園内の「夜泣き石」の基盤に使われているとのこと。<br />もうひとつは、江戸名所図会によると持国坂を下り、国分寺の行く途中の平川に架かる石橋に使われていたそうです。

    明戸古墳の石棺2基。

    石棺のふたがありません。
    ひとつは公園内の「夜泣き石」の基盤に使われているとのこと。
    もうひとつは、江戸名所図会によると持国坂を下り、国分寺の行く途中の平川に架かる石橋に使われていたそうです。

    国分寺 寺・神社・教会

  • 明戸古墳からは国府台城の土塁が連なって見えます。<br /><br />国府台城は、関東に覇権を広げつつある北条氏とそれを阻止しようとする安房の里見氏等が天文7(1538)年と永禄6(1563)〜7(1564)年に2回戦った舞台です。いずれも里見側の敗走に終わりました。

    明戸古墳からは国府台城の土塁が連なって見えます。

    国府台城は、関東に覇権を広げつつある北条氏とそれを阻止しようとする安房の里見氏等が天文7(1538)年と永禄6(1563)〜7(1564)年に2回戦った舞台です。いずれも里見側の敗走に終わりました。

    国府台駅

  • 永禄7(1564)年に里見義弘率いる里見軍と北条氏康の軍とがこの国府台で戦い、里見方は敗北し、多くの戦死者を出しました。<br /><br />左が「夜泣き石」です。この石の基盤に置かれている石が明戸古墳石棺のふたです。<br />戦死した里見弘次の娘が父を尋ねて、この地にやってきて死んでしまうが、毎夜、この石からすすり泣く声が聞こえたという。<br />後ろの三基の墓は、左から里見諸士群亡塚、里見諸将霊墓、里見広(弘)次侯廟です。

    永禄7(1564)年に里見義弘率いる里見軍と北条氏康の軍とがこの国府台で戦い、里見方は敗北し、多くの戦死者を出しました。

    左が「夜泣き石」です。この石の基盤に置かれている石が明戸古墳石棺のふたです。
    戦死した里見弘次の娘が父を尋ねて、この地にやってきて死んでしまうが、毎夜、この石からすすり泣く声が聞こえたという。
    後ろの三基の墓は、左から里見諸士群亡塚、里見諸将霊墓、里見広(弘)次侯廟です。

    国府台駅

  • 国府台からの景色は素晴らしいです。スカイツリーができてからは、夕景をながめに多くの人が訪れています。<br /><br />この日も江戸川の向こうにスカイツリーが、右手の方に富士山が見えました。もう少し日が沈むと富士山のシルエットが浮かび上がります。<br />左の方にはビルの間に東京タワーも見えました(かなり小さいですが)<br /><br />国府台で会った写真好きの地元の人の話では、<br />立冬と立春の頃は、夕日が富士山に沈むとのことです。いわゆるダイヤモンド富士です。春分の日からは夕日が木立に隠れて見えなくなるが、秋から半年間は夕景を楽しめますとのこと。

    国府台からの景色は素晴らしいです。スカイツリーができてからは、夕景をながめに多くの人が訪れています。

    この日も江戸川の向こうにスカイツリーが、右手の方に富士山が見えました。もう少し日が沈むと富士山のシルエットが浮かび上がります。
    左の方にはビルの間に東京タワーも見えました(かなり小さいですが)

    国府台で会った写真好きの地元の人の話では、
    立冬と立春の頃は、夕日が富士山に沈むとのことです。いわゆるダイヤモンド富士です。春分の日からは夕日が木立に隠れて見えなくなるが、秋から半年間は夕景を楽しめますとのこと。

    国府台駅

  • 里見公園から江戸川の方に下った場所にある羅漢の井戸です。

    里見公園から江戸川の方に下った場所にある羅漢の井戸です。

  • 江戸川の岸辺近くに下りました。そこからも夕日に染まるスカイツリーと富士山がよく見えました。人工物と自然とのコンビネーションが何とも言えません。<br /><br />来て良かったなあ。得々気分です。<br /><br />

    江戸川の岸辺近くに下りました。そこからも夕日に染まるスカイツリーと富士山がよく見えました。人工物と自然とのコンビネーションが何とも言えません。

    来て良かったなあ。得々気分です。

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