2013/01/03 - 2013/01/03
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traveldogさん
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今から200年以上前のことです。寛政3(1791)年9月に暴風雨が江戸の町を襲い甚大な被害をもたらしました。特に木場洲崎の被害は甚大で、吉祥寺門前の民家は住民とともに流れ去ったと伝えられています。
9月4日には、大風雨、海嘯有り。深川・霊巌島・築地芝浦等、瀕海の地は皆高潮上り、就中州崎の被害最も甚しく、吉祥寺門前の民家は住民と共に流亡す。市中の諸川また為に漲溢し、橋梁の損破少なからず。(『東京市史稿』)
被災後に、東西285間、南北30間の土地が、幕府により買い上げられ、その北東と北西の二カ所に波除碑(なみよけひ)が設置されました。その波除碑が、戦災などを経てかなり傷んでいますが、洲崎神社境内と平久橋西詰北側に現存しています。今回、二つの碑を見たいと思い、初詣を兼ねて散策しました。
コースは、木場駅から洲崎神社−平木橋−平野橋―汐見橋―東富橋−平久橋−平木橋でした。
- 一人あたり費用
- 1万円未満
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寛政3(1791)年9月に木場を襲った高潮被害の後に建てられた二基の波除碑です。右が洲崎神社境内、左が平久橋西詰北側にあるものです。
現存の高さは洲崎神社境内のもの160.1メートル、平久橋西詰のもの130.8メートルですが、かなり破損されていて、建造当時は地上6尺(180センチメートル)だったそうです。
二基の直線距離は約500メートルで、この間を大横川に沿って散歩しました。 -
木場周辺の大まかな地図です。東の方に洲崎神社、500メートルほど西に平久橋があります。高潮被害の後に幕府は、東西285間余(518m)、南北30間余(55m)の土地(5467坪)を買い上げ、空き地とし、北東と北西の角に二基の波除碑を建造しました。当時は海辺近かったので東西に長くなったのでしょう。
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永代通りからちょっと狭い路地に入ると可愛らしい赤い橋が見えます。新田橋と云うそうです。
大正時代に岐阜から上京し医院を開業した新田清三郎さんが不慮の事故でなくなった夫人の霊を慰めるために「橋供養」の意味を込めて、近所の人と協力して架けたものです。当初「新船橋」と名づけられたが、新田医師の人望厚かったため、いつのまにか「新田橋」と呼ばれるようになったとのことです。(案内板から)
人道橋なので車は通れません。 -
大横川に架かる平木橋から眺めた新田橋。行ってみたくなるような小さな赤い橋です。
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新田橋を渡ると洲崎神社の鳥居が見えました。初詣参拝者がちらほらといましたが、普段は貸切状態の静かな神社です。
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ありました。江戸時代の波除碑(なみよけひ)です。寛政6年頃の建造とのこと。
左側の石柱標識には「津波警告の碑」と書かれていますが、地震の津波ではなく、暴風による高潮です。 -
昔は洲崎弁財天社といい、今は廃寺となった吉祥寺が別当でした。境内の案内によると厳島神社の祭神市杵島比売を分霊して祀り、また本尊は弘法大師作の弁財天とのことです。市杵島比売と弁財天は同じものと思われていました。宮司さんの話ですと、明治維新後の廃仏毀釈により、弁天が取れて、洲崎神社に変ったとのこと。
弁天様はもともとインドの河の神様ですが、仏教とともに日本に入り、寺院にも安置され、民間信仰や神道とも結びついて、七福神の仲間入りもしている。複雑です。仏教と神様分けがたいところがあって、そういえば七福神の恵比寿様は日本の神様ですが、お寺に在ったりします。 -
やっぱりありました。弁天池に弁天島が。由緒ある弁天社が忘れられないのでしょうね。洲崎弁天社という響きがいいですね。江戸名所図会に描かれている洲崎弁天社には、料理屋、茶屋、海に向けて置かれた遠眼鏡に加えて、鳥居の外に波除碑が描かれています。
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神社の裏手にある大横川にかかる橋の名も弁天橋でした。
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神社の横手にあるトイレの壁画-広重の「銀世界東十二景」のうち「真崎の大雪」、隅田川岸の真崎の水神の森を描いたものです。洲崎を描いた「雪の朝州崎の日の出」では、朝日が昇る海が目の前に広がっています。当時は海岸の絶景の場所で江戸の人たちは潮干狩りや楼船を浮かべて楽しんだそうです。
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洲崎神社の玉垣を見ながら歩いていると、「はりせんぼん」という変わった玉垣がありました。最近テレビによく出る同名のお笑い二人組が寄進したのかなと思っていると・・・・
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向かい側に「はりせんぼん」という店が、どうやらお好み焼き店のようです。
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沢海橋付近から見た大横川。
洲崎神社の先で東西に流れていた大横川が大きく北にカーブして南北に流れるようになります。
下町の堀川に竪川(たてかわ)というのがあります。江戸城から見て縦に流れるので竪川(今は京葉道路の下を流れている)と言います。それと反対に大横川は江戸城から見て横に流れるのでこう名付けられたとのことです。
洲崎神社の先から名前の通り、江戸城に横向きに、南北に流れています。 -
沢海橋から大横川の北の方を望む。どんどん行くと北十間川にぶつかるはず、そこはスカイツリーの目の前です。
東京スカイツリー 名所・史跡
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木場駅付近の三つ目通りからスカイツリーが見えました。
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大横川に架かる平木橋から西方向に平野橋が見えました。この辺の橋は平の字がつくのが多い。平木橋、平野橋、平久橋です。平家とはまるで関係ないです(冗談)。「ひらきばし」、「ひらのはし」、最後の平久橋は「へいきゅうばし」と音読みで読みます。
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また、平野橋を渡り大横川を越えました。とにかく江東区は橋が多いです。下町の地理は橋の名で覚えるというタクシー運転手さんは大したものです。ちなみに山手は坂の名で覚えるとか。
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ここから汐見橋まで遊歩道になっています。下りて河岸を歩きました。
この先、大横川と平久川が交差する川の十字路があります。 -
横に流れるのが大横川、前後を流れるのが平久川(多分「へいきゅうがわ」というのでしょう)、ここが二つの河川の交差地点です。向こうにお目当ての波除碑(なみよけひ)がある平久橋が見えます。
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橋はこんな位置関係です。遊歩道にあるトイレ案内図ですが、実に役に立ちました。
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汐見橋---平久川に架かっています。
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横を流れる大横川、手前が平久川、ここで十字路に見えるかなと期待したけど、平久川が少し曲がっていて丁字路のようにしか見えませんでした。ちょっと残念です。
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東富橋---大横川に架かっています。
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東富橋からみた大横川。ここからの方が十字路になっているのが分ります。前方に大横川が流れて、左右に平久川が流れています。
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平久川に架かる平久橋に着きました。ここに寛政3年の高潮被災後に建てられた波除碑(なみよけひ)が残っています。
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寛政年間の波除碑がありました。
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近くに寄ってみるとかなり傷んでいるのが分ります。高さ130.8m、上部3分の2が失われています。
洲崎神社と平久橋の二つの波除碑を見たので目的は達成。そろそろ家路をたどりました。 -
この辺りの下町は海抜が低く、最近まで(といっても数十年も前のことですが)台風による浸水がありました。
これは、江東区が設置した東陽町駅近くの公園にある台風による高潮の高さを記した碑で、まさに現代の波除碑です。
これによると高潮は大正6年が何と4.21m、昭和24年キティ台風のときは3.15m、昭和54年の台風20号では3.3mでした。この付近は外部堤防6.5〜8mの護岸によって守られているらしい。普段の平均満潮位は2mで、堤防がないと人がすっぽり沈んでしまいます。防災の重要性を実感しました。東陽町駅 駅
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平久橋から木場駅に向かうと、平木橋近くに深川ギャザリアとイトーヨーカ堂があります。木場シネマ、飲食店、オフィス等が入っている一大商業ビジネス地区です。寒さの中を歩いたので、入って休憩したい気分です。
というわけで、最後は一気に現代に戻ってしまいました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- norisaさん 2013/01/11 20:48:40
- 残すべき遺産
- traveldogさん
はじめまして!
今回ご紹介いただいたような碑があるのですね!
先の大震災も過去の歴史を見れば予想できたそうな。
こうした歴史の遺産こそ伝えていきたいものです。
ありがとうございました!
norisa
- traveldogさん からの返信 2013/01/11 21:29:42
- RE: 残すべき遺産
- norisa様
おっしゃる通り、過去の経験を遺産として未来に伝えていくことが必要ですね。
ご意見大切にさせていただきます。こちらこそありがとうございました。
traveldog
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