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JR常磐線北小金駅下車徒歩約15分、小田原北条氏が得意とする珍しい堀(畝堀・障子堀)が施された小金城(こがねじょう、千葉県松戸市大谷口)を訪問しました。<br /><br />築城者は千葉氏重臣で小弓城主原氏の家老職高城胤吉(たかぎ・たねよし、1501~1565)で築城開始から7年後の天文6年(1537)に根木内城から転居し当城を本拠地としました。<br /><br />高城氏はもともと原氏と共に千葉氏の有力家臣でしたが鎌倉御家人だった頃のかつての勢いは既になく、千葉氏の凋落ぶりはいかんともしがたくこれを機に離反・独立を果たし、最盛期には現在の松戸を中心に市川・船橋・鎌ヶ谷・柏・我孫子等の葛飾郡東部周辺に所領を広げます。やがて小田原より北上進出する北条氏の支配下に入り臣従し、小金城は西下総における拠点の位置付けとなります。<br /><br />永禄3年(1560)越後上杉謙信(うえすぎ・けんしん、1530~1578)が古河公方である足利藤氏(あしかが・ふじうじ、生誕不詳~1566?)を奉じて関東進出、古河城に滞陣の際、近隣の関宿城に在城していた足利義氏は小金城に身を移しますが高城胤吉は所領安堵を引き換えに主を変えて謙信に服従します。<br /><br />以降謙信が越後に帰りますと一転直ちに主を北条氏に戻す中、江戸湾の覇権を争うべく安房里見義弘(さとみ・よしひろ、1530~1578)らとの第二次国府台合戦で北条氏康軍に協力して敵に大打撃を与えることとなります。<br /><br />天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原城討伐では、当主の胤則(たねのり、1571~1603)とその息子は他の有力武将と共に小田原城籠城、胤則は小田原勢の劣勢を認識し今後の展開を有利に運ぶため密使を通じ小金城の開城を在番重臣に命じます。<br /><br />結果小田原城開城、4代目当主北条氏政・次弟氏照は切腹、5代目氏直は高野山追放を以って滅亡しますが、他方高城胤則は蒲生氏預りとなり高城氏の支配は終り、一時的に徳川信吉の入封を経て水戸城に移ると廃城となります。<br /><br />地勢的には起伏のある丘陵地に東西800m、南北に600m、高低差15mの大城郭だったそうで説明地図が示すところでは北小金駅構内まで及ぶ程の大規模敷地でありましたが、宅地開発により市街化がかなり進み現在残っているのはわずかに外郭の金杉口・達磨口だけとなっているのは大変残念です。<br /><br />歴史公園として発掘・保全をする中で歴史公園化されていましてポイント毎の説明版は丁寧でよく理解できます。更に特筆すべきは畝堀・障子堀と言った珍しく貴重な遺構が残っており、自分としては新しい発見として勉強になりました。<br /><br /><br />2022年4月8日追記<br /><br />説明板には下記の通り喜寿されています。<br /><br />「 小金城跡<br /><br />戦国時代の豪族で、東葛地方に勢力のあった高城氏の居城跡です。城の完成は天文6年(1537)とされています。自然地形を巧みに利用した、県下でも有数の規模をもつ城廓です。高城氏は、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めの際、北条方に加わったため小金城も秀吉方の武将浅野長政の軍に攻められ落城します、<br /><br />現在は城のある台地上も宅地化が進み、往時の姿を思い浮かべることも困難になりましたが、大勝院の西側にある大谷口歴史公園内に土塁、空堀(畝堀、障子堀)などの遺構を一部復元し、公開しています。<br /><br />  平成10年3月<br />                  松戸市教育委員会 」

下総松戸 凋落の千葉氏より独立し下総西部を支配したがいわゆる秀吉の小田原征伐にて従属していた小田原北条氏共々没落した高城氏本拠『小金城』訪問

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2011/11/22 - 2011/11/22

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR常磐線北小金駅下車徒歩約15分、小田原北条氏が得意とする珍しい堀(畝堀・障子堀)が施された小金城(こがねじょう、千葉県松戸市大谷口)を訪問しました。

築城者は千葉氏重臣で小弓城主原氏の家老職高城胤吉(たかぎ・たねよし、1501~1565)で築城開始から7年後の天文6年(1537)に根木内城から転居し当城を本拠地としました。

高城氏はもともと原氏と共に千葉氏の有力家臣でしたが鎌倉御家人だった頃のかつての勢いは既になく、千葉氏の凋落ぶりはいかんともしがたくこれを機に離反・独立を果たし、最盛期には現在の松戸を中心に市川・船橋・鎌ヶ谷・柏・我孫子等の葛飾郡東部周辺に所領を広げます。やがて小田原より北上進出する北条氏の支配下に入り臣従し、小金城は西下総における拠点の位置付けとなります。

永禄3年(1560)越後上杉謙信(うえすぎ・けんしん、1530~1578)が古河公方である足利藤氏(あしかが・ふじうじ、生誕不詳~1566?)を奉じて関東進出、古河城に滞陣の際、近隣の関宿城に在城していた足利義氏は小金城に身を移しますが高城胤吉は所領安堵を引き換えに主を変えて謙信に服従します。

以降謙信が越後に帰りますと一転直ちに主を北条氏に戻す中、江戸湾の覇権を争うべく安房里見義弘(さとみ・よしひろ、1530~1578)らとの第二次国府台合戦で北条氏康軍に協力して敵に大打撃を与えることとなります。

天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原城討伐では、当主の胤則(たねのり、1571~1603)とその息子は他の有力武将と共に小田原城籠城、胤則は小田原勢の劣勢を認識し今後の展開を有利に運ぶため密使を通じ小金城の開城を在番重臣に命じます。

結果小田原城開城、4代目当主北条氏政・次弟氏照は切腹、5代目氏直は高野山追放を以って滅亡しますが、他方高城胤則は蒲生氏預りとなり高城氏の支配は終り、一時的に徳川信吉の入封を経て水戸城に移ると廃城となります。

地勢的には起伏のある丘陵地に東西800m、南北に600m、高低差15mの大城郭だったそうで説明地図が示すところでは北小金駅構内まで及ぶ程の大規模敷地でありましたが、宅地開発により市街化がかなり進み現在残っているのはわずかに外郭の金杉口・達磨口だけとなっているのは大変残念です。

歴史公園として発掘・保全をする中で歴史公園化されていましてポイント毎の説明版は丁寧でよく理解できます。更に特筆すべきは畝堀・障子堀と言った珍しく貴重な遺構が残っており、自分としては新しい発見として勉強になりました。


2022年4月8日追記

説明板には下記の通り喜寿されています。

「 小金城跡

戦国時代の豪族で、東葛地方に勢力のあった高城氏の居城跡です。城の完成は天文6年(1537)とされています。自然地形を巧みに利用した、県下でも有数の規模をもつ城廓です。高城氏は、天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めの際、北条方に加わったため小金城も秀吉方の武将浅野長政の軍に攻められ落城します、

現在は城のある台地上も宅地化が進み、往時の姿を思い浮かべることも困難になりましたが、大勝院の西側にある大谷口歴史公園内に土塁、空堀(畝堀、障子堀)などの遺構を一部復元し、公開しています。

  平成10年3月
                  松戸市教育委員会 」

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • JR北小金駅西口風景

    JR北小金駅西口風景

  • 案内板<br /><br />大谷口歴史公園まで800mと表示されてます。

    案内板

    大谷口歴史公園まで800mと表示されてます。

  • 大谷口歴史公園石碑

    大谷口歴史公園石碑

  • 公園設置の石碑

    公園設置の石碑

  • 虎口門・障子堀案内板

    虎口門・障子堀案内板

  • 登城口<br /><br />長い階段を登ります。

    登城口

    長い階段を登ります。

  • 畝堀・障子堀案内板

    畝堀・障子堀案内板

  • 金杉口・擬似門<br /><br />金杉口と呼ばれる小金城の4門の内の北口だそうです。

    金杉口・擬似門

    金杉口と呼ばれる小金城の4門の内の北口だそうです。

  • 金杉口跡・説明板<br /><br />他の虎口は大手口(東)、達磨口(北東)、大谷口(南)となっています。

    金杉口跡・説明板

    他の虎口は大手口(東)、達磨口(北東)、大谷口(南)となっています。

  • 金口跡・復元図

    金口跡・復元図

  • 土塁

    土塁

  • 障子堀・説明板<br /><br />「 堀(障子堀)<br /><br />中世城郭の特徴は、自然地形を巧みに利用していることにありますが、金杉口では、さらに自然の斜面と削って急傾斜とし、その下部に幅4m以上、深さ約2.5mの空堀が作られています。<br /><br />この空堀は、虎口から約2mの間仕切り(障子)が造られて、堀底を侵入してきた敵をその壁で遮る構造となっています。このような構造のものを「障子堀」と呼んでいます。また、この空堀は、砂地を掘り下げて造られているため底・壁共に砂質で、非常に水はけは良くなっています。<br />                     松戸市<br />                     松戸市教育委員会<br />                     平成9年4月  」<br />

    障子堀・説明板

    「 堀(障子堀)

    中世城郭の特徴は、自然地形を巧みに利用していることにありますが、金杉口では、さらに自然の斜面と削って急傾斜とし、その下部に幅4m以上、深さ約2.5mの空堀が作られています。

    この空堀は、虎口から約2mの間仕切り(障子)が造られて、堀底を侵入してきた敵をその壁で遮る構造となっています。このような構造のものを「障子堀」と呼んでいます。また、この空堀は、砂地を掘り下げて造られているため底・壁共に砂質で、非常に水はけは良くなっています。
                         松戸市
                         松戸市教育委員会
                         平成9年4月  」

  • 障子堀・拡大図<br /><br />発掘調査時の写真でしょうか。

    障子堀・拡大図

    発掘調査時の写真でしょうか。

  • 障子堀<br /><br />発掘調査の後は埋め戻されているため現状では確認はできません。

    イチオシ

    障子堀

    発掘調査の後は埋め戻されているため現状では確認はできません。

  • 主郭に繋がる階段

    主郭に繋がる階段

  • 主郭<br /><br />外的から攻撃を防ぐために土塁が周辺を取り囲んでいます。

    主郭

    外的から攻撃を防ぐために土塁が周辺を取り囲んでいます。

  • 土塁

    土塁

  • 土塁

    土塁

  • 土塁の説明

    土塁の説明

  • 発掘時の土塁構造(拡大写真)

    イチオシ

    発掘時の土塁構造(拡大写真)

  • 小金城石碑<br /><br />

    小金城石碑

  • 小金城説明

    小金城説明

  • 城郭の規模比較

    城郭の規模比較

  • 主郭と土塁

    主郭と土塁

  • 畝堀説明<br /><br />進入してきた敵が堀底の小溝に足を捕られ、横への移動が困難になりその敵を討つ事が可能になります。

    畝堀説明

    進入してきた敵が堀底の小溝に足を捕られ、横への移動が困難になりその敵を討つ事が可能になります。

  • 畝堀写真<br /><br />発掘時の畝堀の姿ですが、堀底に別の加工が施しているのが北条氏の軍事的勢力下にあった事が窺えます。

    畝堀写真

    発掘時の畝堀の姿ですが、堀底に別の加工が施しているのが北条氏の軍事的勢力下にあった事が窺えます。

  • 畝堀の現状<br /><br />微かに筋が残っていますが殆ど崩れてわかりません。

    イチオシ

    畝堀の現状

    微かに筋が残っていますが殆ど崩れてわかりません。

  • 主郭と土塁

    主郭と土塁

  • 土塁からの展望<br /><br />薮のすぐ下は住居が立ち並んでいます。

    土塁からの展望

    薮のすぐ下は住居が立ち並んでいます。

  • マンホール蓋<br /><br />「松戸市・矢切の渡し」となっています。

    マンホール蓋

    「松戸市・矢切の渡し」となっています。

  • 慶林寺<br /><br />曹洞宗熊耳山慶林寺。<br />小金城主高城胤吉が1565年(永禄8年)没しますと妻は胤吉の菩提を弔うため髪を下ろし桂林尼と称しこの地に庵を建てます。<br />桂林尼の死後、息子の胤辰(たねたつ)が庵のあった所に母の霊を弔うために寺を建立したのが慶林寺の始まりです。<br />尚胤吉の妻は千葉宗家の千葉勝胤(ちば・かつたね)の娘であります。

    慶林寺

    曹洞宗熊耳山慶林寺。
    小金城主高城胤吉が1565年(永禄8年)没しますと妻は胤吉の菩提を弔うため髪を下ろし桂林尼と称しこの地に庵を建てます。
    桂林尼の死後、息子の胤辰(たねたつ)が庵のあった所に母の霊を弔うために寺を建立したのが慶林寺の始まりです。
    尚胤吉の妻は千葉宗家の千葉勝胤(ちば・かつたね)の娘であります。

  • 慶林寺説明

    慶林寺説明

  • 慶林寺拝殿

    慶林寺拝殿

  • 大谷口歴史公園・大勝院案内板

    大谷口歴史公園・大勝院案内板

  • 大勝院全景

    大勝院全景

  • 大勝院由緒1/3

    大勝院由緒1/3

  • 大勝院由緒2/3

    大勝院由緒2/3

  • 大勝院由緒3/3

    大勝院由緒3/3

  • 大勝院説明<br /><br />当寺は1530年(享禄3年)小金城(大谷口城)建設の際、当城三の丸に1537年(天文6年)根木内城より移転した由で、その後北条氏滅亡と共に当城も焼失、大勝院も焼失しています。

    大勝院説明

    当寺は1530年(享禄3年)小金城(大谷口城)建設の際、当城三の丸に1537年(天文6年)根木内城より移転した由で、その後北条氏滅亡と共に当城も焼失、大勝院も焼失しています。

  • 大勝院説明1/2

    大勝院説明1/2

  • 大勝院説明2/2

    大勝院説明2/2

  • 大勝院拝殿全景<br /><br />当然ながら当時の小金城跡の城郭(三の丸)に位置付けられています。<br />

    大勝院拝殿全景

    当然ながら当時の小金城跡の城郭(三の丸)に位置付けられています。

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