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ご訪問をありがとうございます。<br /><br />敦賀港は1920年にポーランド孤児が、1940年には杉原千畝氏が発給した命のビザを持ったユダヤ人難民が上陸した、日本で唯一の港です。<br />古くから大陸への玄関口として栄えた敦賀港は、その昔「人道の港」でもありました。 <br /><br />

人道の港・敦賀 ~ 杉原千畝ビザを持ったユダヤ人難民や ポーランド孤児たちが上陸した港 ~

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2011/10/04 - 2011/10/04

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ホーミン

ホーミンさん

ご訪問をありがとうございます。

敦賀港は1920年にポーランド孤児が、1940年には杉原千畝氏が発給した命のビザを持ったユダヤ人難民が上陸した、日本で唯一の港です。
古くから大陸への玄関口として栄えた敦賀港は、その昔「人道の港」でもありました。

同行者
カップル・夫婦
交通手段
自家用車

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  • 日野山に登った後、敦賀の金ヶ崎を訪れた。<br /><br />ポーランド孤児の事もユダヤ人難民の事も知っていたけれど、彼らが入港した港が敦賀だと知ったのはつい最近のこと。<br />彼らが見た港がどのような所か自分の目で見たくて寄ってみた。<br />何度も訪れている敦賀の街が、この日は違ったものに見えた。<br />

    日野山に登った後、敦賀の金ヶ崎を訪れた。

    ポーランド孤児の事もユダヤ人難民の事も知っていたけれど、彼らが入港した港が敦賀だと知ったのはつい最近のこと。
    彼らが見た港がどのような所か自分の目で見たくて寄ってみた。
    何度も訪れている敦賀の街が、この日は違ったものに見えた。

  • 海と陸の交通の要衝であった敦賀港は、1902年から1941年にかけて、ヨーロッパとの交通の拠点であった。

    海と陸の交通の要衝であった敦賀港は、1902年から1941年にかけて、ヨーロッパとの交通の拠点であった。

  • 今は緑地公園となっていて、旧港はこの地図上の右手にあったものと思われる。<br />現在のコンテナヤードは、左手(西)に1?ほど行った所にある。

    今は緑地公園となっていて、旧港はこの地図上の右手にあったものと思われる。
    現在のコンテナヤードは、左手(西)に1?ほど行った所にある。

  • 旧国鉄敦賀港駅の駅舎。<br />1913年に建てられた欧亜国際列車の発着駅である金ヶ崎駅(後の敦賀港駅)を再現しもの。<br />今の建物は敦賀港開港100周年を記念して1999年に建てられたもので、現在は資料館になっている。

    旧国鉄敦賀港駅の駅舎。
    1913年に建てられた欧亜国際列車の発着駅である金ヶ崎駅(後の敦賀港駅)を再現しもの。
    今の建物は敦賀港開港100周年を記念して1999年に建てられたもので、現在は資料館になっている。

  • 館内は撮影禁止。<br />天井と、<br /><br />

    館内は撮影禁止。
    天井と、

  • 階段と、

    階段と、

  • 窓から見える景色だけを撮らせてもらった。

    窓から見える景色だけを撮らせてもらった。

  • 資料館内の展示品の一部。<br />パンフレットの写真。

    資料館内の展示品の一部。
    パンフレットの写真。

  • 資料館内の展示品の一部。<br />パンフレットの写真。

    資料館内の展示品の一部。
    パンフレットの写真。

  • 1911(明治44)年6月に鳳山丸で敦賀港に上陸した、ロシア観光団一行。<br />77名。<br />パンフレットの写真。

    1911(明治44)年6月に鳳山丸で敦賀港に上陸した、ロシア観光団一行。
    77名。
    パンフレットの写真。

  • 緑地公園のそばには、赤レンガ倉庫もある。<br />

    緑地公園のそばには、赤レンガ倉庫もある。

  • ニューヨーク・スタンダード石油会社の石油貯蔵倉庫で、県内最大級のレンガ建築。

    ニューヨーク・スタンダード石油会社の石油貯蔵倉庫で、県内最大級のレンガ建築。

  • 1905年に外国人技師の設計によって、フィート単位で建てられた。<br />

    1905年に外国人技師の設計によって、フィート単位で建てられた。

  • 石油貯蔵庫として使われた後、日本軍の備品倉庫となり、戦後は昆布貯蔵庫としても使用。<br />

    石油貯蔵庫として使われた後、日本軍の備品倉庫となり、戦後は昆布貯蔵庫としても使用。

  • 次に訪れたのはムゼウム。<br />ムゼウムは、ポーランド語で資料館という意味。<br />

    次に訪れたのはムゼウム。
    ムゼウムは、ポーランド語で資料館という意味。

  • ここにはポーランド孤児たちや、杉原千畝氏、そして彼に助けられたユダヤ人難民たちの資料が展示されている。<br /><br />館内は撮影禁止。<br />以下の写真は、パンフレットから撮影した。

    ここにはポーランド孤児たちや、杉原千畝氏、そして彼に助けられたユダヤ人難民たちの資料が展示されている。

    館内は撮影禁止。
    以下の写真は、パンフレットから撮影した。

  • 二階に上る階段の壁を利用した、欧亜国際列車のコーナー。

    二階に上る階段の壁を利用した、欧亜国際列車のコーナー。

  • ポーランド孤児のコーナー。

    ポーランド孤児のコーナー。

  • 1920(大正9)年7月23日、ウラジオストクから陸軍の輸送船筑前丸が、敦賀港に入港した。<br />乗船していたのはポーランド人の孤児たち。<br />当時シベリアには、ロシアに祖国を滅ぼされたポーランドの政治犯やその家族たち、15万〜20万人が避難していた。<br />敦賀に来たのは、過酷な避難生活で親を亡くした子どもたちだ。<br /><br /><br />写真は、孤児たちが上陸した頃の敦賀港。

    1920(大正9)年7月23日、ウラジオストクから陸軍の輸送船筑前丸が、敦賀港に入港した。
    乗船していたのはポーランド人の孤児たち。
    当時シベリアには、ロシアに祖国を滅ぼされたポーランドの政治犯やその家族たち、15万〜20万人が避難していた。
    敦賀に来たのは、過酷な避難生活で親を亡くした子どもたちだ。


    写真は、孤児たちが上陸した頃の敦賀港。

  • 子どもたちは粗末な服を着て、哀れなほどやせ細り、青白い顔をしていた。<br />その多くは腸チフス、感冒や百日咳などの病気にかかっており、すぐに治療が必要だった。<br /><br />子どもたちが敦賀に滞在したのは数時間だったが、敦賀の人たちは食べ物や玩具などを差し入れし、休憩する場所も提供した。<br />

    子どもたちは粗末な服を着て、哀れなほどやせ細り、青白い顔をしていた。
    その多くは腸チフス、感冒や百日咳などの病気にかかっており、すぐに治療が必要だった。

    子どもたちが敦賀に滞在したのは数時間だったが、敦賀の人たちは食べ物や玩具などを差し入れし、休憩する場所も提供した。

  • その後子どもたちは列車で東京に送られ、日本赤十字社が衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、食事を与え、治療もほどこした。<br /><br />この後も上陸は続き、計5回にわたり375名の孤児たちが日本にやってきた。<br />

    その後子どもたちは列車で東京に送られ、日本赤十字社が衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、食事を与え、治療もほどこした。

    この後も上陸は続き、計5回にわたり375名の孤児たちが日本にやってきた。

  • なぜ孤児たちが敦賀にやってきたのか・・・<br /><br />1919年(大正8)年10月、アンナ・ビルケウィッチ女史を中心に、ウラジオストクで「波蘭児童救済会」が組織された。<br />頼みとしていた米国などの赤十字社は、軍隊のシベリア撤退と共に本国へ引揚げ、援助が断ち切れてしまっていた。<br />委員会は日本政府に救援を求め、政府はこの窮状に深く同情するとすぐさま日本赤十字社に指示をした。<br />日赤の行動は早く、受入れ体制を整えると同時に、シベリア派遣の日本軍の協力を取りつけ、救助活動に入った。<br /><br />写真中央が女史。<br /><br />

    なぜ孤児たちが敦賀にやってきたのか・・・

    1919年(大正8)年10月、アンナ・ビルケウィッチ女史を中心に、ウラジオストクで「波蘭児童救済会」が組織された。
    頼みとしていた米国などの赤十字社は、軍隊のシベリア撤退と共に本国へ引揚げ、援助が断ち切れてしまっていた。
    委員会は日本政府に救援を求め、政府はこの窮状に深く同情するとすぐさま日本赤十字社に指示をした。
    日赤の行動は早く、受入れ体制を整えると同時に、シベリア派遣の日本軍の協力を取りつけ、救助活動に入った。

    写真中央が女史。

  • 日本ではあまり知られていないこの出来事も、ポーランドでは殆どの人が知っている。<br />ポーランド人に親日家が多いのも、このことが大きく影響しているから。<br /><br />東日本大震災の後ポーランド国民が援助してくれたことに対し、友人のシモンにお礼を言ったところ、彼はこの孤児たちの話を持ち出して、その時のお返しだと言った。<br />私たちの先祖が立派な行いをして下さったおかげで、今生きている私たちが恩恵を受けられていることに感謝した。<br /><br />写真は、シモンが送ってきてくれた、ポーランドで売られているショパンのCD。<br />売り上げの一部が、義援金になっている。<br /><br /><br /><br />

    日本ではあまり知られていないこの出来事も、ポーランドでは殆どの人が知っている。
    ポーランド人に親日家が多いのも、このことが大きく影響しているから。

    東日本大震災の後ポーランド国民が援助してくれたことに対し、友人のシモンにお礼を言ったところ、彼はこの孤児たちの話を持ち出して、その時のお返しだと言った。
    私たちの先祖が立派な行いをして下さったおかげで、今生きている私たちが恩恵を受けられていることに感謝した。

    写真は、シモンが送ってきてくれた、ポーランドで売られているショパンのCD。
    売り上げの一部が、義援金になっている。



  • 杉原千畝氏のコーナー。<br />

    杉原千畝氏のコーナー。

  • 1940(昭和15)年7月18日木曜日の早朝、リトアニアのカウナスにある日本領事館前に大勢のユダヤ人難民が押しかけた。<br />杉原領事代理は群衆から代表者5名を選ばせて用件を聞いたところ、日本通過のビザ発給を求めてきたことがわかった。<br />

    1940(昭和15)年7月18日木曜日の早朝、リトアニアのカウナスにある日本領事館前に大勢のユダヤ人難民が押しかけた。
    杉原領事代理は群衆から代表者5名を選ばせて用件を聞いたところ、日本通過のビザ発給を求めてきたことがわかった。

  • しかし大量のビザ発給は本国の許可が必要で、外務省に判断を求めたところ返事はノーだった。<br />悩んだ末に彼は、自分自身や家族への危険、訓令違反の処分も覚悟して、ビザ発給を決断。

    しかし大量のビザ発給は本国の許可が必要で、外務省に判断を求めたところ返事はノーだった。
    悩んだ末に彼は、自分自身や家族への危険、訓令違反の処分も覚悟して、ビザ発給を決断。

  • カナウスの領事館前に集まったユダヤ人たち。

    カナウスの領事館前に集まったユダヤ人たち。

  • 彼らが集団で敦賀港に上陸するのは、1940年9月29日から。<br />その後も難民の上陸が続くが、翌年の6月にはドイツがソ連と結んでいた独ソ不可侵条約を破り、ソ連を攻撃。<br />これによりシベリア鉄道を使った欧亜連絡が途絶え、同月の河南丸入港を最後に、ユダヤ人難民の敦賀上陸も終わりとなった。<br /><br />写真は、上陸を待つユダヤ人難民たち。

    彼らが集団で敦賀港に上陸するのは、1940年9月29日から。
    その後も難民の上陸が続くが、翌年の6月にはドイツがソ連と結んでいた独ソ不可侵条約を破り、ソ連を攻撃。
    これによりシベリア鉄道を使った欧亜連絡が途絶え、同月の河南丸入港を最後に、ユダヤ人難民の敦賀上陸も終わりとなった。

    写真は、上陸を待つユダヤ人難民たち。

  • ユダヤ人難民のコーナー。<br /><br />

    ユダヤ人難民のコーナー。

  • ユダヤ人難民たちが入港したころの敦賀港。<br /><br />

    ユダヤ人難民たちが入港したころの敦賀港。

  • 右端の幼い子どもが、ビザの持ち主の一人、マルセル・シャグリン氏。<br />現在はイスラエルに住んでいる。<br />彼ら一家はナチスの手から逃れるため、1940年7月30日にカウナスの日本領事館で、杉原千畝氏から1枚の日本通過ビザをもらい、両親と姉と一緒に敦賀に上陸。<br />彼が4歳の時だ。<br />その後、日本を離れた一家は上海へと渡ることとなる。

    右端の幼い子どもが、ビザの持ち主の一人、マルセル・シャグリン氏。
    現在はイスラエルに住んでいる。
    彼ら一家はナチスの手から逃れるため、1940年7月30日にカウナスの日本領事館で、杉原千畝氏から1枚の日本通過ビザをもらい、両親と姉と一緒に敦賀に上陸。
    彼が4歳の時だ。
    その後、日本を離れた一家は上海へと渡ることとなる。

  • 難民たちはシベリア鉄道の道中でも、強制連行や強奪などの憂き目にあった。<br />過酷な状況を乗り越え、敦賀に上陸。<br /><br />敦賀では、市民との間には心温まるエピソードが残っている。<br /><br />駅前の時計店の主人は、彼らが空の財布を見せながら空腹を訴えたため気の毒に思い、彼らの所持していた時計や指輪などを買い取り、台所にある食べ物を渡した。<br /><br />

    難民たちはシベリア鉄道の道中でも、強制連行や強奪などの憂き目にあった。
    過酷な状況を乗り越え、敦賀に上陸。

    敦賀では、市民との間には心温まるエピソードが残っている。

    駅前の時計店の主人は、彼らが空の財布を見せながら空腹を訴えたため気の毒に思い、彼らの所持していた時計や指輪などを買い取り、台所にある食べ物を渡した。

  • これがその時計。<br />その後、持ち主に返還されている。

    これがその時計。
    その後、持ち主に返還されている。

  • またひとりの少年が難民に果物の入った籠を持って難民に近づき、無償で置いて行ったことも。<br />言葉の通じない外国人に近付くのは、勇気が要ったことだろう。<br />そうしなければいられなかった少年の心中が察せられる。<br /><br />また港に近い銭湯の主人は、銭場を無料で開放した。<br /><br />今も昔も変わらぬ、困っている人を助けようとするあたたかい心は、日本人の心の財産であり誇りでもある。<br /><br />写真は、難民たちが歩いた気比神宮前の神楽通り。

    またひとりの少年が難民に果物の入った籠を持って難民に近づき、無償で置いて行ったことも。
    言葉の通じない外国人に近付くのは、勇気が要ったことだろう。
    そうしなければいられなかった少年の心中が察せられる。

    また港に近い銭湯の主人は、銭場を無料で開放した。

    今も昔も変わらぬ、困っている人を助けようとするあたたかい心は、日本人の心の財産であり誇りでもある。

    写真は、難民たちが歩いた気比神宮前の神楽通り。

  • ユダヤ人難民が乗車した敦賀駅。<br />ここから次の地へ向かった。

    ユダヤ人難民が乗車した敦賀駅。
    ここから次の地へ向かった。

  • 杉原千畝氏が発給した、日本通過ビザ。<br /><br />杉原ビザを持って敦賀に上陸した難民の数は、正確な統計がないため諸説ある。<br />5855人とも3832人とも、また6000人とも言われている。

    杉原千畝氏が発給した、日本通過ビザ。

    杉原ビザを持って敦賀に上陸した難民の数は、正確な統計がないため諸説ある。
    5855人とも3832人とも、また6000人とも言われている。

  • 彼らが見た、敦賀の海と山々。<br />彼らの目に敦賀の街がどう映ったのか、記録が残されている。

    彼らが見た、敦賀の海と山々。
    彼らの目に敦賀の街がどう映ったのか、記録が残されている。

  • 「山に雪が積もっていて・・・敦賀は悪夢から覚めた楽園のようでした。」<br /><br />     ドラ・グリーンバーグ氏

    「山に雪が積もっていて・・・敦賀は悪夢から覚めた楽園のようでした。」

         ドラ・グリーンバーグ氏

  • 「あの瞬間敦賀の街が天国にみえました。」<br /><br />     ベンジャミン・フィショッフ氏

    「あの瞬間敦賀の街が天国にみえました。」

         ベンジャミン・フィショッフ氏

  • 「戦争も差別もない。人々は親切で自由に街を歩くことが出来た。天国です。」<br /><br />     サミュエル・マンスキー氏<br /><br /><br />

    「戦争も差別もない。人々は親切で自由に街を歩くことが出来た。天国です。」

         サミュエル・マンスキー氏


  • しかしこの後、日本も戦争の嵐に巻き込まれることとなる。

    しかしこの後、日本も戦争の嵐に巻き込まれることとなる。

  • 敦賀市の花、萩。<br /><br />ユダヤ人たちもポーランド孤児たちも、敦賀の萩を見て心を和ませたことだろう。<br />これから私も萩の花を見たら、敦賀の港のことを思い出す事だろう。

    敦賀市の花、萩。

    ユダヤ人たちもポーランド孤児たちも、敦賀の萩を見て心を和ませたことだろう。
    これから私も萩の花を見たら、敦賀の港のことを思い出す事だろう。

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この旅行記へのコメント (13)

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  • koikeiさん 2011/11/03 01:22:42
    こんばんは
    ホーミンさん

    敦賀のことをこのように分かりやすくレポートしてくださってありがとうございます。
    敦賀のムゼウムに行ったのは3年前のことで、ちょうど杉原千畝氏のことをドラマでやっていて、すごい人がいたのだと知ってはいたのですが、確かにここに来て敦賀だったのだと改めて認識したのを覚えています。でも、撮影禁止で、旅行記に書こうと思うこともなく終わっていました。ああ、このように旅行記にしてくださると、敦賀の結局は福井のいいところを紹介してくださっているのだと本当に感謝しています。


    ちょっと話は違うのですが、助けたということでは福井には次のようなこともあったようです。
    敦賀から海沿いに河野というところがあるのですが、その海岸には特務艦関東遭難慰霊碑公園というのがあります。日本人同士ですし軍人を助けるということから、その当時は当たり前だったのかもしれませんが、遭難している人たちを、男たちは自分たちの危険をも顧みずに救助し、女たちは自分の体で兵士たちを温め助けたのだそうです。
    http://www.michi-eki-kouno.com/miru/tokumukan.htm
    私はそのことを聞いた当初はロシアの人たちを助けたと思い込んでいてすごいことだと思っていましたので、外国人を助けたというとそれを思い出しました。ちょっと調べたら勘違いでしたが、ホーミンさんのおかげでそれがわかりました。ありがとうございます。でも、やっぱり自分を顧みず助けるという行為はすごいことですよね。

    また、福井県は最近のことでは、三国で起きたナホトカ号重油流出事故があり、全国からたくさんの方に助けていただました。本当に今では、全くその跡形もなくなっているように見えます。ただ、詳しい方によるとまだ、少し海岸の土を掘ると重油が出てくるらしいです。しかし、本当にたくさんの方々に助けていただいたので、今のように元に戻っているのだと思います。本当に感謝いたします。

    とりとめもなく書いてしまってごめんなさい。
    また、ホーミンさんの旅行記でいろいろなことを教えていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

       koikei

    ホーミン

    ホーミンさん からの返信 2011/11/03 11:16:58
    RE: こんばんは
    koikeiさま

    こんにちは。
    敦賀の旅行記を読んでくださってありがとうございます。
    書き込みと投票もありがとうございます。

    > 敦賀のムゼウムに行ったのは3年前のことで、ちょうど杉原千畝氏のことをドラマでやっていて・・・・

    全部ではないのですが、私もそのドラマは部分的に見ました。
    もう三年になるのですね?
    その時は入港したのが敦賀とも知らず、今回知った次第です。

    あの辺りは、特にきれいに整備されていますね。
    海あり山あり芝生あり、そして歴史あり。

    敦賀にこの様な魅力があったとは。

    > 敦賀から海沿いに河野というところがあるのですが、その海岸には特務艦関東遭難慰霊碑公園というのがあります。・・・

    その話は全然知りませんでした。
    教えて下さってありがとうございます。

    >女たちは自分の体で兵士たちを温め助けたのだそうです。

    今でもなかなか出来ない行為ですね。
    当時でしたら更に勇気が要ったことでしょう。

    今度行く機会があったら是非立ち寄ってみたいです。
    越前河野しおかぜラインという道路も、車で走ると気持ち良さそうですね。

    同様の事故が小浜でもありませんでしたか?
    韓国の船でしたか・・・ちょっと記憶が曖昧です。

    >自分を顧みず助けるという行為はすごいことですよね。

    しかも他人や外国人ですからね。
    自分を顧みずに救助に向かえるとしたら、それは自分の子ども(せいぜい親や家族)でしかないと頭では思っていました。
    目の前で死にそうになっている人を見たら、人間は思わず動いてしまうのでしょうか。
    ん〜〜、経験がないので、私にはまだわかりません。

    三国には数年前に行きました。
    海はきれいになっており、もうあの事故は過去のことかと思っていましたが、掘るとまだ出てくるのですか。
    いったん汚れると、なかなか元には戻らないのですね。
    福島もどうなることか・・・。
    先が長いですね。

    > また、ホーミンさんの旅行記でいろいろなことを教えていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

    うはぁ〜〜〜、そんなそんなヾ(-д-;)
    こちらが教えていただく方です!
    こちらこそよろしくお願いいたします。

    ところで26日は参加されますか?

    koikei

    koikeiさん からの返信 2011/11/03 15:18:46
    RE: RE: こんばんは
    朝、ここにお返事を書いたつもりでしたが、載っていないので再度書き込みますね。もし、重複していたらごめんなさい。

    > 同様の事故が小浜でもありませんでしたか?
    > 韓国の船でしたか・・・ちょっと記憶が曖昧です。
    >
    そうなんですか。全く知りませんでした。いつになるかは分かりませんが、調べてみたいと思います。

    > しかも他人や外国人ですからね。
    > 自分を顧みずに救助に向かえるとしたら、それは自分の子ども(せいぜい親や家族)でしかないと頭では思っていました。
    > 目の前で死にそうになっている人を見たら、人間は思わず動いてしまうのでしょうか。
    > ん〜〜、経験がないので、私にはまだわかりません。

    私も分かりません。

    > いったん汚れると、なかなか元には戻らないのですね。
    > 福島もどうなることか・・・。
    > 先が長いですね。

    本当に他人ごとではないだけに心配です。
    >
    >
    > ところで26日は参加されますか?

    実は26日はだめなんです。ご提案いただいていた日の中でこの日だけは仕事の関係で抜けられない用事があり、出席できません。本当に残念です。

    ホーミンさんは行かれるならまた旅行記で教えてくださいね。よろしくお願いいたします。

    次の機会にはどうぞご一緒できますように…

      koikei
  • ぽぽんさん 2011/10/25 23:34:10
    はじめまして
    ホーミンさん、はじめまして。

    私は戦争の軌跡にとても興味があるのですが、
    福井県には海水浴でちょこちょこ行っているのに、
    ここは、全く知りませんでしたし、そんな史実があったなんて。

    ぜひ、一度行きたいと思います。




    ホーミン

    ホーミンさん からの返信 2011/10/26 08:10:10
    RE: はじめまして
    ぽぽんさま

    はじめまして、おはようございます。
    この度は私の拙い旅行記を読んでくださってありがとうございます。
    書き込みと投票もありがとうございます。

    > 私は戦争の軌跡にとても興味があるのですが、
    > 福井県には海水浴でちょこちょこ行っているのに、
    > ここは、全く知りませんでしたし、そんな史実があったなんて。

    私は滋賀県に住んでいて、敦賀には何かとよく行きます。
    そのほとんどは通過なのですが。
    敦賀と言えば海と原発をまず思い出します。
    港と言っても、フェリーの発着くらいしか知識がありません。

    しかし調べてみると、この様に興味深い歴史が。

    今度海水浴に行かれた帰りにでも寄ってみて下さい。
    緑地公園もきれいに整備されており、静かで良い所です。
  • zzr-cさん 2011/10/18 15:53:27
    悲劇の国
    ホーミンさま こんにちは!

    ポーランドは大戦の時にソ連に占領されていたんですか!

    ドイツから激しく攻撃されたのは知ってましたが、
    ソ連からもとは…

    ナチスのユダヤ人迫害は相当酷かったと聞きますから
    何とか逃れようと必死だったんですね。

    杉原さんの事はドラマとかになってますから知ってましたが
    ソ連経由で逃れて来ていたんですね。

    戦争って本当に怖いものですね。

    当時の事を覚えていてくれて何かあった時には恩返しをする。
    日本だけでなくどの国もちゃんと覚えていてくれるんですね。

    我々の祖先が取った行動が返ってきたうれしい瞬間です。

    ホーミンさんは凄いですね。
    私なんて敦賀に行っても海辺で寝転がっていただけで
    こんな史実があるなんて全く知りませんでした^^;

    じぃ〜

    ホーミン

    ホーミンさん からの返信 2011/10/18 17:32:45
    RE: 悲劇の国
    じぃ〜さま

    こんにちは。
    いつも旅行記を読んでくださってありがとうございます。
    書き込みと投票もありがとうございます。

    先週は仕事が忙しく週末は山に登ったので、今日はいいお天気にもかかわらず、4トラと居眠りの繰り返しでした。

    > ポーランドは大戦の時にソ連に占領されていたんですか!

    私が学生時代に知っていたポーランドと言えば、キュリー夫人とショパンとポーランドの分割くらいなものでした。
    ポーランドの歴史も、かなり悲しいものです。
    18世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、ロシア、プロイセン、オーストリアがポーランドを分割。
    国はなくなってしまいます。
    第1次世界大戦やロシア革命で三国が揺らいだときに、アメリカのウィルソン大統領の提唱で国家は復活。
    でも第2次世界大戦で、またまたドイツとソ連に占領されます。

    > ドイツから激しく攻撃されたのは知ってましたが、
    > ソ連からもとは…

    強い国に囲まれ、攻撃しやすい平野ばかりの国なので、すぐに占領されてしまうのでしょうね。
    また信仰の篤い国で、もともと戦う民族ではなさそうに感じます。

    > 杉原さんの事はドラマとかになってますから知ってましたが
    > ソ連経由で逃れて来ていたんですね。

    私も知りませんでした。
    多分多くの人はアメリカを目指したのだと思います。
    そうなら大西洋を渡った方が早い。
    でも日本通過ビザを持っていたのだから、日本に一回は来ているはず。
    どうもその辺の思考力が、完全に私から抜けていたようです。

    > 戦争って本当に怖いものですね。

    怖いですね。
    何処までも深みにはまって、人命と財産が無駄に大量に消えていく。
    いい事なんて一つもないです。

    > 我々の祖先が取った行動が返ってきたうれしい瞬間です。

    本当です。
    名前も顔も知らない先人たちの行動が、今の日本に恩返しされてかえってきてるのですから。

    > ホーミンさんは凄いですね。
    > 私なんて敦賀に行っても海辺で寝転がっていただけで
    > こんな史実があるなんて全く知りませんでした^^;
     
    凄くなってないですよぉ〜。
    この歳になるまで知らなかったのですから。
    東日本大震災がなかったら、一生知らずにいたかも。
  • たらよろさん 2011/10/17 19:12:22
    涙で画面が滲みました。。。
    こんばんは〜ホーミンさん。

    杉原千畝氏が自分たちの危険を顧みず、
    ビザを発給し続けたことは有名なお話ですが、
    その難民たちが敦賀に受け入れられていたとは全然知りませんでした。

    そして、敦賀にこんなに立派な赤レンガ資料館や、
    当時の様子をつづった資料館があることも
    全く知りませんでした。
    ついでに言うなら、歴史的にすごい役割を果たした港があることも、、、

    当時の素晴らしい日本人の行いが
    今の窮地にある日本人を助けてくれているんですね〜〜

    以前、和歌山の港でたくさんの外国人を助けた話も知りましたが、
    日本人が知らない日本の先人の素晴らしい行いを
    外国の方が今でもずっと語り継いでくださっているのは本当に喜ばしいこと。

    涙で画面が滲む中、そんな先人に感謝して
    これからの日本を少しでも素敵な国に、、、そして素敵な日本人であり続けたいなぁ〜って思いました。

    今度、機会があれば、ぜひ資料館に訪れてみたいです。
    そして、ショパンのCDも心温まる素晴らしいCDで嬉しいですね。

       たらよろ

    ホーミン

    ホーミンさん からの返信 2011/10/18 10:05:18
    RE: 涙で画面が滲みました。。。
    たらよろさま

    こんにちは。
    いつも旅行記を読んでくださってありがとうございます。
    書き込みと投票もありがとうございます。

    > その難民たちが敦賀に受け入れられていたとは全然知りませんでした。

    私も最近知ったのです。
    敦賀港には何度も行ったし、敦賀のインターを利用するので、食事をするのによく立ち寄ります。
    でも知らなかった・・・。

    難民たちは敦賀から神戸港や横浜港に向かったそうなので、旧国鉄の東海道線を列車で通ったものと思われます。
    私たちが今住んでいる所のすぐ近くですね。

    > ついでに言うなら、歴史的にすごい役割を果たした港があることも、、、

    敦賀港って、神戸や浜、函館や長崎ほど有名ではないですよね。
    でもおっしゃるように、大きい役割を果たしていたんですね。
    知られていない日本各地の港にも、驚くような歴史があるのかもしれません。

    > 当時の素晴らしい日本人の行いが
    > 今の窮地にある日本人を助けてくれているんですね〜〜

    「情けは人のためならず」と言いますが、本当にそうだなと思わされました。
    たとえ自分に返ってくることはなくても、時を置いて子孫に返ってくる事もあるのですから。

    > 以前、和歌山の港でたくさんの外国人を助けた話も知りましたが、

    エルトゥールル号遭難事件ですね?

    > 日本人が知らない日本の先人の素晴らしい行いを
    > 外国の方が今でもずっと語り継いでくださっているのは本当に喜ばしいこと。

    トルコ人に親日家が多いのも、このとき日本人が救難活動をしたからなんですよね。
    1985年のイラン・イラク戦争の時、窮地に陥ったイラン国内の日本人215人全員を助けてくれたのもトルコでしたよね。

    > 涙で画面が滲む中、そんな先人に感謝して
    > これからの日本を少しでも素敵な国に、、、そして素敵な日本人であり続けたいなぁ〜って思いました。

    さすが、たらよろさん。
    こういう事には敏感ですね。
    ずっと誇れる日本であってほしいですね。
    私個人には力がありませんが、忘れずにいることなら出来そうです。

  • bettyさん 2011/10/17 17:03:38
    初めて知りました
    ホーミンさま〜またお邪魔いたします(^^)

    ホーミンさんからは本当に色々と教えていただき勉強になります。

    敦賀へはそんなに行かないせいか、それとも勉強不足なのか、
    今まで知らないでおります。

    敦賀港がポーランドの孤児、ユダヤ人難民のための「人道の港」
    であったこと・・・

    そして、こういう時代の日本人は今の日本人と違い、
    心豊かであったことを知り、そのおかげで震災の時に
    復興に協力してくれたこと・・・

    もし、福井へ行くことがあれば、敦賀へ寄ってみようと思います。

    それから、koikeiさんにも会えてよかったですね(*^_^*)



    betty

    ホーミン

    ホーミンさん からの返信 2011/10/18 09:35:19
    RE: 初めて知りました
    こちらも読んで下さってありがとうございます。

    今返事を書き、さあ送信しようとして、消してしまいました〜〜
    (ToT)

    > 敦賀へはそんなに行かないせいか、それとも勉強不足なのか、
    > 今まで知らないでおります。

    私など敦賀には年に10回は行っているのに、それでも最近まで知りませんでした。

    > そして、こういう時代の日本人は今の日本人と違い、
    > 心豊かであったことを知り、そのおかげで震災の時に
    > 復興に協力してくれたこと・・・

    困っている人が目の前にいると、じっとしていられなかったのでしょうね。
    「情けは人のためならず」と言いますが、本当にゆくゆくは自分(もしくは子孫)に帰ってくるのだなぁと、改めて実感しました。
    それにしても古い話を、外国の人はよく覚えてくれているものです。

    > もし、福井へ行くことがあれば、敦賀へ寄ってみようと思います。

    この他にも紙わらべ資料館や気比の松原、敦賀市立博物館や五木ひろしさんの洋鐘というものまであるそうです。
    お魚も美味しそうだし、行ってみてね。

    > それから、koikeiさんにも会えてよかったですね(*^_^*)

    あの日だったから会えたのですよ〜。
    登ったのがあの日以外だったら・・・多分会えていません。
    記念写真も撮りましたが、koikeiさんの職業が公になりかねないので、載せるのは止めました。

    今度はコピーしてから送信するぞ!
  • churros さん 2011/10/17 08:29:30
    ご無沙汰です!
    ホーミンさん、おはようございます。

    先日、某国営放送で杉原千畝のドラマ仕立ての放送を見ました、米国に渡ったユダヤ人のお孫さんがレポートされていて、子供の頃に敦賀で過ごし米国に渡った女性が、今学校でその時の経験談を授業で話されているそうです。

    今日、朝に4トラを開けてホーミンさんの旅行記を読んで涙が止まりませんでした、遠くポーランドから極東の日本まで逃れて来るユダヤ人たちの不安を考えると、心が締め付けられる思いがします。

    敦賀に着いて日本人の心温まるもてなしを70年近く経った今でも忘れずに、遠き極東の日本を語り継いでくれている人が、世界の何処かに居ると思うと日本人として誇らしく、難民の持ち物まで奪う様なロシア人のさもしさに呆れてしまいます。

    ロシア・支那・朝鮮とハイエナの様な国に囲まれた日本は、アジアでは特殊な国なのか?タイ・シンガポール・ビルマ・ベトナム・フィリピンの様に日本と同じく穏やかな国々と違い、ロシア・支那・朝鮮(韓国)などが特殊なのか?

                                churros     

    ホーミン

    ホーミンさん からの返信 2011/10/17 09:17:29
    RE: ご無沙汰です!
    churros ひらたさま

    おはようございます。
    こちらこそご無沙汰しております。
    敦賀の旅行記を読んでくださってありがとうございます。
    書き込みと投票もありがとうございます。

    > 先日、某国営放送で杉原千畝のドラマ仕立ての放送を見ました、米国に渡ったユダヤ人のお孫さんがレポートされていて、子供の頃に敦賀で過ごし米国に渡った女性が、今学校でその時の経験談を授業で話されているそうです。

    1〜2年前にドラマがあったような記憶がありますが、最近もあったのですね?
    日本領事館に行ってビザを申請したユダヤ人たちは、機転が利いたのですね。
    その時のとっさの行動で、一家が助かったのですから。
    何が生死を分けるかわかりません。
    アメリカで経験談を放されている女性も、杉原さんだけでなく敦賀の人々や、何よりビザを申請しに行ってアメリカまで連れて逃げさせてくれたご両親に感謝されていることでしょう。

    > 今日、朝に4トラを開けてホーミンさんの旅行記を読んで涙が止まりませんでした、遠くポーランドから極東の日本まで逃れて来るユダヤ人たちの不安を考えると、心が締め付けられる思いがします。

    シベリア鉄道は、今でも危険が多いと聞きます。
    当時は今とは比べようもないくらいに危険だったことでしょう。
    泣いて下さったのですか?
    それを聞いて私も感激します。

    > ロシア・支那・朝鮮とハイエナの様な国に囲まれた日本は、アジアでは特殊な国なのか?タイ・シンガポール・ビルマ・ベトナム・フィリピンの様に日本と同じく穏やかな国々と違い、ロシア・支那・朝鮮(韓国)などが特殊なのか?

    中国や韓国がお嫌いだとは知っておりましたが、ロシアもお嫌いだったんですね?
    ひらたさんの東南アジア観も、今日初めて伺いました。
                                   

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