2010/12/28 - 2010/12/28
7位(同エリア417件中)
横浜臨海公園さん
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中世安土桃山時代末期に覇権を誇った織田信長(おだ のぶなが)(天文3年(1543年)6月23日〜天正10年(1582年)7月1日)は、京都上洛中に不幸にも明智光秀(あけち みつひで)(享禄元年?(1528年?)〜天正10年(1582年)7月2日)に依る本能寺ノ変(天正10年(1582年)7月1日)で襲撃を受け惨死した。
然るに、信長の子弟は性格能力共に父親に似ず概ね凡庸だったが、次男信雄(おだ のぶかつ)(永禄元年(1558年)〜寛永7年(1630年)6月10日)は豊臣家の食客として残存し、大坂冬ノ陣(慶長19年(1614年)で徳川家康(とくがわ いえやす)(天文11年(1543年)1月31日〜元和2年(1616年)5月22日)側に組した功績を以って元和元年(1615年)に大和國宇陀松山藩5万石を拝領し、信雄の4男の信良(おだ のぶよし)(天正12年(1584年)〜寛永3年(1626年)7月10日)が元和3年(1617年)に宇陀松山本家から分知し初代織田上野國小幡藩の国主格2万石の小藩大名として任ぜられ、信雄は死去まで隠居として君臨したが、元より産業らしい産業が存在しない小幡に於いて藩士達に養蚕を奨励したのは先見の明が有ったと言える。
以後、第7代信邦(おだ のぶくに)(延亭2年(1745年)〜天明3年(1783年)3月1日)が藩主の時に、藩上席家老 吉田玄蕃(よしだ げんぱん)を初め数名の藩士が山県大弐(やまがた だいに)(享保10年(1725年)〜明和4年(1767年)9月14日)事件に連座した罪状が原因で信邦は隠居。且つ、蟄居処分させられ、第8代信浮(おだ のぶちか)(宝暦元年(1751年)9月28日〜文政元年(1818年)12月16日)が跡を継ぎ出羽國高畠に懲罰転封されるまで152年間存続した。
宝暦3年(1753年)改易時の織田家家臣は、
士分 143名
茶坊主 11名
隠居 2名
無役 2名
足軽 61名
計 219名
だった。
冊封された甘楽郡小幡は小盆地たる山奥の亦山中と云う地で、且つ、台地上に存在する為に水利は乏しく井戸を掘っても自ずから供給量に限界が有り、織田家冊封以前は人が住める環境などには程遠く当然の事ながら藩内使用の水の問題が浮上する。
此の為に、雄川が遥か20m下を流れ此処から取水の為に雄川堰が構築され街中縦横に用水路が設置された。
2万石大名格では城垣を構築は分不相応として幕府の認める処では無かったが、陣屋(じんや)と称する平城様式の藩主居住屋敷を中心に武士団屋敷の街並みが成立し、奇跡的にも、浅間山大噴火(あさまやま だいふんか)(天明3年(1783年)8月5日)を初めとする自然災害や戦災被害遭わずに済んだ為に、街並み自体が恰も時代が止まったかの如き印象を与える。
日本名水百選選定
表紙の写真は雄川大堰
http://www.town.kanra.gunma.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1081
http://www.joshin-dentetsu.co.jp/index.htm
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
雄川大堰(おがわ おおぜき)
松澤邸前
甘楽町小幡71
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定定員制)小幡下町停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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松澤邸(まつざわ てい)
養蚕蔵群
明治期以降失業士族対策から養蚕が盛んになり現地に群立する。
甘楽町小幡71
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡下町停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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梅澤邸(うめざわ てい)
養蚕蔵群
甘楽町小幡66
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡下町停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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松澤邸
門構
甘楽町小幡71
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡下町停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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梅澤邸
水車矢羽
雄川大堰で動力源として使用された。
甘楽町小幡71
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡中町停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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松浦邸(まつうら てい)
養蚕蔵群
甘楽町小幡60
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡下町停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
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小幡八幡宮(おばた はちまんぐう)
小幡織田家第3代織田信昌(寛永2年(1625年)〜慶安3年(1650年)8月6日)藩主時代に織田家の守護神として創建
祭神は
菅原道真公
旧村社格
徳川時代は第3代将軍徳川家光に7石拝領。
明治42年(1909年)1月29日近郷の神社を統合し小波多神社として成立。
昭和25年(1950年)12月28日、神社庁本庁承認に依り小幡八幡宮に改称。
平成4年(1992年)5月15日、甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡40
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡中町停留所降車 徒歩3分上州福島駅 駅
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小幡八幡神社
境内狛犬
昭和7年(1932年)奉納
昭和期の狛犬としては表情が異端。
甘楽町小幡40
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡中町停留所降車 徒歩3分上州福島駅 駅
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宝泉寺(ほうせんじ)
七福神恵比寿神を祀る
甘楽町小幡352
?: 0274−74−4736
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡中町停留所降車 徒歩3分 -
石造薬師像群(いしづくり やくしぞうぐん)
昭和51年(1976年)甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡352
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡中町停留所降車 徒歩3分上州福島駅 駅
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熊井戸邸(くまいど てい)
母屋
甘楽町小幡472
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡中町停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
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熊井戸邸
復元井戸
甘楽町小幡472
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡中町停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
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雄川大堰
熊井戸邸前
甘楽町小幡472
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡中町停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
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雄川大堰
信濃屋前
甘楽町小幡7
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
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信濃屋(しなのや)
甘楽町小幡7
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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旧信濃屋
現在営業休止
右書表記に注意
甘楽町小幡7
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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茂木旅館(もてぎ りょかん)
小幡中心地に於ける唯一の宿泊設備だったが現在は廃業
甘楽町小幡6
?: 0274−74−2011
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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雄川大堰
茂木旅館前
甘楽町小幡6
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族博物館前停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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甘楽町歴史民族資料館(かんらまち れきしみんぞくしりょうかん)
旧甘楽社組合製糸小幡組繭倉庫
大正15年(1926年)1月25日建築
煉瓦積構造
昭和59年、保存を目的に甘楽町が購入
昭和61年(1986年)8月6日 甘楽町指定重要文化財
昭和62年(1987年)5月1日 甘楽町歴史民族資料館開館
甘楽町小幡852−1
?: 0274−74−5957
9:00〜16:30
月曜、及び、年末年始定休
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩30秒上州福島駅 駅
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甘楽町歴史民族資料館
展示品
小幡八幡宮神輿
元禄年間製作
甘楽町小幡852−1
?: 0274−74−5957
9:00〜16:30
月曜、及び、年末年始定休
上信電鉄上州福島駅 上州合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩30秒上州福島駅 駅
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大正天皇御成婚記念碑(たいしょうてんのう ごせいこん きねんひ)
小幡村青年団寄贈
石碑の存在は忘却されている。
甘楽町小幡852−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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旧大手門礎石(きゅう おおてもん そせき)
幕藩時代、該地に大手門が存在
甘楽町小幡854−2
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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旧大手門礎石
拡大
甘楽町小幡854−2
上信電鉄上州福島駅 上信バス歴史民族資料館前停留所降車 徒歩1分上州福島駅 駅
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中小路(なかこうじ)
甘楽郡小幡827
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩5分上州福島駅 駅
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高橋邸屋敷(たかはしてい やしき)
門構と中小路
小幡松平藩勘定奉行だった高橋家は小幡に於ける武家屋敷群中、原型状態を濃厚に残存。
平成22年(2010年)3月26日、甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡827
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩5分上州福島駅 駅
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高橋邸屋敷
門構正面
平成22年(2010年)3月26日、甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡827
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩5分上州福島駅 駅
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高橋邸屋敷
冊封直後に植樹された樫の木と庭園
小幡に於ける上級格の武家屋敷
平成22年(2010年)3月26日、甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡827
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩5分上州福島駅 駅
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中小路(なかこうじ)
歴代藩主の通路
大正期以降、小堰上が封鎖埋立られ道路化された。
甘楽町小幡837
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩6分上州福島駅 駅
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旧吉田邸屋敷門前跡(きゅう よしだてい やしきもんざんあと)
吉田家は小幡織田家家臣で山県大弐事件の際の上席家老職吉田玄藩(よしだ げんぱん)を輩出した家柄
甘楽町小幡630
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩6分上州福島駅 駅
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旧吉田邸屋敷跡
明治期以降小幡を離村し現在は跡地のみ残存
手前は雄川小堰
甘楽町小幡630
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩6分上州福島駅 駅
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飯塚邸屋敷(いいづかてい やしき)
飯塚家は小幡織田藩が明和事件で出羽國高畠に懲罰的転封させられた後に冊封した松平家家臣末裔
甘楽町小幡827
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩6分上州福島駅 駅
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飯塚邸屋敷
松平家大奥
大奥と称しても小藩故に正室と腰元数名の存在。
甘楽町指定名勝
甘楽町小幡827
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩6分上州福島駅 駅
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飯塚邸屋敷
松平家大奥
甘楽町指定名勝
甘楽町小幡827
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩6分上州福島駅 駅
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山田邸屋敷(やまだてい やしき)
喰違い郭
石垣積を交互に組合せ内部望見が困難
平成22年(2010年)3月26日、甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡632−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩7分上州福島駅 駅
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山田邸屋敷
喰違い郭(くいちがい ぐるわ)
戦闘発生時に敵側攻撃を攪乱困難させる特異な構造
平成22年(2010年)3月26日、甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡632−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩7分上州福島駅 駅
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山田邸屋敷
喰違い郭
一説には、下級武士が上級武士との邂逅を避ける為との説も存在するが、大藩なら兎も角、小幡藩の如き2万石程度であれば藩士は全員顔見知りであり、相互に避ける理由は何ら存在しない。
横浜臨海公園は明治期以降に現出した俗説に過ぎぬと推定。
平成22年(2010年)3月26日、甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡532−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩7分上州福島駅 駅
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山田邸屋敷
石積塀
矢羽積(やばね つみ)
石は緑色片岩(りょくしょく へんがん)
平成22年(2010年)3月26日、甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡632−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)民族歴史資料館前停留所降車 徒歩7分上州福島駅 駅
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甘楽町立第2中学校塀
元織田家陣屋所在地
板塀は復元
石積塀は原形
甘楽町小幡684−1
?: 0274−74−2019
上信電鉄上州福島駅 上州合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩6分上州福島駅 駅
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松島邸屋敷
石塀
甘楽町小幡632−3
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩7分上州福島駅 駅
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国名勝 楽山園(くにめいしょう らくさんえん)
初代 織田信雄(おだ のぶかつ)は冊封直後に着手したのが陣屋内に於ける築庭だった
甘楽町小幡463−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所 徒歩10分上州福島駅 駅
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国名勝 楽山園
約7年の歳月と巨額な経費を要して建庭
甘楽町小幡463−1
上信電鉄上州福島駅上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所 徒歩10分上州福島駅 駅
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国名勝 楽山園
池泉回遊式庭園が残存し往時の大名式庭園様式が窺える
地方に於ける池泉回遊式大名庭園は、常陸徳川家偕楽園、加賀前田家兼六園、備前池田家後楽園、安芸浅野家縮景園、讃岐松平家栗林園、肥後細川家成趣園、等々が現存する。
平成12年(2000年)国名勝指定
甘楽町小幡463−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館停留所降車 徒歩10分 -
国名勝 楽山園
園内の雄川小堰
甘楽町小幡463−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所降車 徒歩10分上州福島駅 駅
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国名勝 楽山園
群馬県内で旧大名庭園が現存するのは楽山園のみ
現在復元工事を鋭意施工中
平成23年(2011年)完成予定
甘楽町小幡463−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)歴史民族資料館前停留所 徒歩10分上州福島駅 駅
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矢羽橋(やばねばし)
厄除鬼門
甘楽町小幡799−7
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩6分上州福島駅 駅
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矢羽橋
全景
甘楽町小幡799−7
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩6分上州福島駅 駅
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矢羽橋分水路
橋西側に分水嶺が存在し北側家臣屋敷群に引水の為に設置
平成22年(2010年)3月26日、甘楽町師弟重要文化財
甘楽町小幡799−7
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩6分上州福島駅 駅
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雄川小堰
雄川大堰から分水し陣屋内家臣屋敷に給水する為に設置した幅30〜50センチの用水路
平成22年(2010年)3月26日、甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡799−7
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩6分上州福島駅 駅
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松浦宅屋敷
江戸後期に小幡藩武家屋敷として建築
昭和53年(1978年)まで住居
甘楽町小幡734−1
上信電鉄上州福島駅、上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩7分 -
松浦宅屋敷
平成9年(1997年)3月28日、群馬県指定史跡
甘楽町小幡734−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合公園入口停留所降車 徒歩7分上州福島駅 駅
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松浦宅屋敷
小堰を川に見立て背景を借景にした庭園
甘楽町小幡734−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩7分上州福島駅 駅
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松浦宅屋敷
甘楽町小幡734−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩7分上州福島駅 駅
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仏洞院橋(ほうどういん ばし)
雄川に架かる吊橋
雄川本流下流側
甘楽町小幡730−6
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩5分上州福島駅 駅
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長巖寺(ちょうごんじ)
七福神毘沙門天を祀る
甘楽町小幡1928
?: 027−74−2051
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩15分上州福島駅 駅
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長巖寺
境内に入る際は木魚を3回たたき鳴らす
甘楽町小幡1928
?: 027−74−2051
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩15分上州福島駅 駅
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長巖寺
天狗岩(てんぐいわ)
甘楽町小幡1928
?: 027−74−2051
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩15分上州福島駅 駅
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長巖寺
天狗岩
甘楽町小幡1928
?: 027−74−2051
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩15分上州福島駅 駅
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長巖寺
石垣は矢羽積
甘楽郡小幡1928
?: 027−74−2051
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩15分上州福島駅 駅
-
雄川本流(おがわ ほんりゅう)
雄川本流と台地上の甘楽町小幡地区とは最大約20メートルの段差が存在
甘楽郡小幡1928
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)総合運動公園入口停留所降車 徒歩15分上州福島駅 駅
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雄川堰大口(おがわぜき おおぐち)
取水口
甘楽町小幡1820−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)轟松井停留所降車 徒歩2分 -
雄川堰大口
昭和17年(1942年)4月内務省改築碑
大東亜戦争中の工事竣工記念碑は珍しい
甘楽町小幡1820−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)轟松井停留所降車 徒歩2分 -
雄川大堰
甘楽町小幡1874−2
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小島田停留所降車 徒歩5分上州福島駅 駅
-
雄川大堰
吹上の石樋(ふきあげの いしどい)
甘楽町小幡1880
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小島田停留所降車 徒歩3分 -
雄川大堰
吹上の石樋
河川改修で下を流れる川と立体交差させる為に慶応元年(1865年)に7ヶ月と250人の助郷に依り完成。
甘楽町小幡1880
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小島田停留所降車 徒歩3分 -
雄川大堰
吹上の石樋
長さ6メートル、幅1メートルの巨大岩をくり貫いて組合せた。
平成22年3月26日、甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡1880
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小島田停留所降車 徒歩3分 -
崇福寺(そうふくじ)
小幡織田家菩提寺
織田家は小幡冊封後、当初は宝積寺を菩提寺にしていたが、住職交代時に、宴席で小幡氏、檀家総代の次席を与えられた第3代信久は無礼を激怒し、当時廃寺となっていた崇服寺を3年余の歳月をかけ再興し改めて織田家の菩提寺とした。
甘楽町小幡1416
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)町屋停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
-
崇福寺
織田信雄(天正12年(1584年)〜享保3年(1626年)7月10日)の墓石
甘楽町小幡1416
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)町屋停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
-
崇福寺
小幡織田家歴代藩主墓石
昭和38年(1963年)6月0日、甘楽町指定重要文化財
甘楽町小幡1416
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)町屋停留所 徒歩2分上州福島駅 駅
-
崇福寺
以下、墓石順位、
初代 信良(おだ のぶよし)(天正12年(1584年)〜寛永3年(1626年)7月10日)
2代 信昌(おだ のぶまさ)(寛永2年(1625年)〜慶安3年(1650年)8月6日)
3代 信久(おだ のぶひさ)(寛永20年(1645年)〜正徳4年(1714年)8月17日)
4代 信就(おだ のぶなり)(寛文元年(1661年)〜享保16年(1731年)7月13日)
5代 信右(おだ のぶすけ)(正徳3年(1713年)〜宝暦12年(1762年)10月5日
6代 信富(おだ のぶよし)(宝暦7年(1757年)〜明和元年(1764年)7月5日)
甘楽町小幡1416
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)町屋停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
-
崇福寺
焼損墓石
宝暦8年(1758年)3月に火災に見舞われ寺本堂は全焼したが墓石群は無事。
甘楽町小幡1416
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)町屋停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
-
崇福寺
赤く変色した墓石
明治4年(1871年)の2度目の火災の際の被災焼損跡。
此の火災で崇福寺は人別帳や過去帳などの貴重な資料類が焼失し烏有に帰したが、歴代織田家の位牌は村民が持出し現在も本堂横の位牌蔵で保存。
甘楽町小幡1416
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)町屋停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
-
崇福寺
旧境内敷地
2度目の火災後は農地転換。
甘楽町小幡1416
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)町屋停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
-
雄川大堰
第1番口取水口
1升枡口径
甘楽町小幡1097−3
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)赤城神社口停留所降車 徒歩3分上州福島駅 駅
-
雄川大堰
第1番口取水口
甘楽町小幡1097−3
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)赤城神社口停留所降車 徒歩3分上州福島駅 駅
-
雄川大堰
第2番口取水口
5合枡口径
甘楽町小幡166−4
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)赤城神社口停留所降車 徒歩3分上州福島駅 駅
-
龍門寺(りゅうもんじ)
織田家の後に冊封した松平家に拠り創建
甘楽町小幡1097−3
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)赤城神社口停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
-
雄川大堰
第3番口取水口
3合枡口径
写真中央部が取水口
甘楽町小幡845−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)赤城神社口停留所降車 徒歩5分上州福島駅 駅
-
雄川大堰
第3番口取水口
甘楽町小幡845−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)赤城神社口停留所降車 徒歩5分上州福島駅 駅
-
雄川堰
小堰
甘楽町小幡945−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)赤城神社口停留所降車 徒歩5分 -
薬師堂石仏(やくしどう せきぶつ)
外観
甘楽町小幡883
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)城町停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
-
薬師堂石仏
薬師如来、観音菩薩、地蔵菩薩一体は室町時代から安土桃山時代の造作
昭和52年(1977年)6月13日、甘楽町重要文化財指定
甘楽町小幡883
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)城町停留所降車 徒歩2分上州福島駅 駅
-
松井家屋敷
江戸期に名字帯刀を許さされいた旧名主松井家住居を移築復元
北関東に於ける典型的豪農家建築
甘楽町小川地区から移築
甘楽町物産センター敷地内
?: 0274−74−5445
3〜9月: 9:00〜19:00
10〜2月: 9:00〜18:00
入場無料
甘楽町小幡444
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡中町停留所降車 徒歩3分
http://www.town.kanra.gunma.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_oid=icityv2::Contents::1181&WIT_template=AC020000 -
松井家屋敷
木造平屋建寄棟造草葺屋根
甘楽町小幡444−1
上信電鉄上州福島駅 上信合同タクシー(乗車定員制)小幡中町停留所降車 徒歩3分
http://www.town.kanra.gunma.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_oid=icityv2::Contents::1181&WIT_template=AC020000
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この旅行記へのコメント (21)
-
- tadさん 2020/12/18 09:09:59
- 久し振りに発見!
- 渋い旅行記を発見!もう、殆どいいねを押しているはずなので、久しぶりに未踏の地を発見した気分です。これは、また、渋い上州の田舎に織田の名残があったとは。。養蚕業は、昔からこの地方はあったんですね。明治維新後、その伝統が活かされました。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2020/12/22 15:03:11
- 拝復
- tadさま、こんにちは。
拙稿に投票と掲示板へのコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
10年前の習作時代の旅行記ですが、小幡の地は現在でも地元群馬県人ですらご存知の方が極めて少数なのに驚かされます。
小幡は本当に江戸時代にタイムスリップした様な町並みでした。
あれから拙稿を見て小幡を訪れたと言う方が来られたとかで、関東の方にでももう少し見知って頂きたいと思います。
横浜臨海公園
-
- やさしい寅さん 2011/03/01 22:05:36
- 300,000回アクセス・・おめでとうございます!?
- 横浜臨海公園さん
ブログ・アクセス300,000回とは・・ほんとに凄いですね!
ブログを拝見すると、写真も綺麗だし解説もこまめに書き込まれています
47都道府県を廻られているのも凄いです
ファンの方も多いようですね・・羨ましいです
「横浜臨海公園」とのことですが、私は江戸川区葛西・臨海公園の近くに5年ほど住んでいました・・大きな観覧車を思い出します、懐かしいですね
これからもブログを楽しみしています
・・・・私のブログも時々は観てください! やさしい寅
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/03/01 22:36:47
- 拝復
- やさしい寅さま、こんばんは。
過分なるお言葉のメッセージを賜りまして誠に有難うございます。
昨今の会員の旅行記やクチコミなどを拝見しておりまして、粗製濫造としか思えぬ旅行記やクチコミが散見され興醒めなのも事実です。
小生、旅行記の作成は遅速ですが自分で納得しながら資料としても活用可能である事を心掛けております。
何卒、宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園
-
- 潮来メジロさん 2011/02/16 02:06:46
- 訪問回数250回目、ありがとうございました。ヾ(^o^)
- 横浜臨海公園さん、こんばんは! ヾ(^o^)
毎度、訪問ありがとうございました。
昨日、横浜臨海公園さんの訪問回数が、250回目となっておりました。
拙いブログなのに、度々訪問して戴きありがとうございました。m(..)m
織田信長の子孫が、小藩ながら江戸時代も続いていたとは知りませんでした。
水利の悪い土地を、苦労して開墾した人々の苦労が偲ばれます。
ではまた・・・。(^o^)/~~~
(潮来メジロ)
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/02/19 05:57:34
- 拝復
- 潮来メジロさま、おはようございます。
メッセージを賜りまして誠に有難うございます。
何時も拙稿にお立寄りを賜りまして誠に有難うございます。
潮来メジロさまの旅行記こそ、毎度拝見させて頂きまして気分が和まされ癒されます。
また宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園
-
- 吉備津彦さん 2011/01/07 02:20:29
- 狛犬に 今日も魅せられ 初詣
- メッセージありがとう御座います。
-
- 空さん 2011/01/03 23:30:40
- 年賀
- 横浜臨海公園様
☆☆★明けましておめでとうございます
九州 今年は雪で見る分には素敵な景色のお正月でした。
なれない、九州の雪は大変ですね('_')です
ところで〜織田信長公末裔ゆかりの陣屋
織田信長公末裔の城下町が存続していたとは
スケートの織田選手が末裔だとはきいておりましたけど…
そこに 歴史があり、 今も面影が残っている…
凄いですね〜
日本のあちこちも再発見の連続です…
〜〜昨年来 いろんな方と旅を通してご縁があり
私も還暦を過ぎて〜若返った気分です(*^_^*)
♪☆♪ ご縁があり 今後ともよろしくお願い申し上げます〜〜
… 空
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/01/07 05:32:00
- 有難うございました
- 空さま、明けましておめでとうございます。
メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
元旦に約2300通、本日まで1日1600通前後メールの着信があり返信に抹殺されております。
九州の大雪のニュースは映像と共に驚かされております。
> ところで〜織田信長公末裔ゆかりの陣屋
> 織田信長公末裔の城下町が存続していたとは
> スケートの織田選手が末裔だとはきいておりましたけど…
> そこに 歴史があり、 今も面影が残っている…
> 凄いですね〜
→小幡は火災、自然災害、及び、空襲の被害を直接受けず、その為に、町全体が江戸時代そのままの状態で取り残されております。
> 日本のあちこちも再発見の連続です…
→観光客が来ない穴場、まだまだ沢山ございます。
> 〜〜昨年来 いろんな方と旅を通してご縁があり
> 私も還暦を過ぎて〜若返った気分です(*^_^*)
>
> ♪☆♪ ご縁があり 今後ともよろしくお願い申し上げます〜〜
→小生こそ、宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園
-
- 鴨川の夕立!さん 2011/01/03 08:46:21
- 松浦宅!
- 横浜臨海公園様
新年おめでとうございます。
織田家の歴史など面白いですね。
松浦家の写真を見たとき
私が中学時代に立て替える前の昔の実家を思い出し
良く似た作りでびっくりしました。
今年も京都を歩きまわります
宜しくお願いいいたします(:D)┓ペコリ
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/01/06 08:12:31
- 拝復
- 鴨川の夕立!(Shower of Kamogawa)さま、おはようございます。
メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
仰せの通り、松浦家屋敷は今から40年ほど前なら地方に行けば大体目に付いたものでしたが、現在では幻的存在となってしまいました。
織田信雄は小幡に於いて都、即ち、強烈に京都を意識していたものと思われます。
その後、火災、自然災害、及び、戦災に無縁な存在だった故に現在まで面影を色濃く残しているのは奇跡に近いものです。
小生こそ何卒宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園
-
- SHARKさめさん 2011/01/01 22:54:22
- 明けましておめでとうございます
- 明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します。
織田信雄の血筋が続いて
こうやって現代にも残っているわけですから
やっぱり嬉しいですね。
豊臣秀吉は三法師丸を担いで政権奪取をしましたが
その中でも信雄は尾張伊勢百万石を維持できていたわけですし
思われているほど凡庸な人物ではなかったかもしれませんね。
まああの頃は少しでも立ち振る舞いを間違えると
命取りだったでしょうし。
家を伝えることも大名の義務のひとつと考えれば
維新後に華族に列せられたわけですから
信雄はある意味成功者だったと思います。
水利が悪い所にこれだけの用水路を築いて
不便がないようにしたのはすごいですね。
失礼?ですがあんなに立派な庭園があるとは。
上信電鉄はいつかは乗ってみたい路線ですが
行けたら是非とも信雄の遺構も訪ねてみたいと思います。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/01/05 09:18:37
- 拝復
- SHARKさめさま、新年明けましておめでとうございます。
メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
群馬県に織田藩が存在していた事は存じておりましたが、こんなに痕跡が残されているとは信じ難い印象でした。
小幡は交通こそ不便極まりない所ですが訪れる価値は充分あると思います。
本年も亦何卒宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園
-
- たけしさん 2011/01/01 14:33:35
- 謹賀新年
- 横浜臨海公園さん、新年あけましておめでとうごまします!
旅は新しい発見と感動がもらえますよね(楽)
ご多幸な一年でありますよう心からお祈り申し上げます。
たけし
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/01/01 22:20:37
- 明けましておめでとうございます
- たけしさま、明けましておめでとうございます。
早速の新年のお言葉を賜りまして誠に有難うございます。
本年も亦何卒宜敷くお願い申します。
横浜臨海公園
-
- zzr-cさん 2010/12/30 10:50:56
- 織田家も
- 横浜臨界公園さま こんにちは!
長男が本能寺の変で亡くなっていなければ
また、歴史は変わっていたかも知れませんね。
二男三男には荷が重すぎたようですが、
しっかり家を残す事が出来てたんですね。
じぃ〜
- 横浜臨海公園さん からの返信 2010/12/31 04:41:44
- RE: 織田家も
- zzr-cさま、おはようございます。
拙稿旅行記にメッセージと投票と賜りまして誠に有難うございました。
> 長男が本能寺の変で亡くなっていなければ
> また、歴史は変わっていたかも知れませんね。
>
> 二男三男には荷が重すぎたようですが、
→本能寺の変以後、豊臣秀吉が実権を掌握する中で、秀吉が織田一族を意図的に排除させようとする傾向が強まります。
信雄はバックに徳川家康がいた為に生き残れたようなもので、家康がいなければ殺害されていた公算が高かった可能性があります。
運がよかったのか、したたかな性格だったと見てよいでしょう。
横浜臨海公園
-
- 吉備津彦さん 2010/12/29 18:27:01
- 織田家は
- 徳川家ほど繁栄できませんでしたがそれでも江戸幕藩体制の中をしぶとく生き残り、信長の血を伝えていますね。
それに比べて豊臣家は・・・
- 横浜臨海公園さん からの返信 2010/12/30 13:03:16
- RE: 織田家は
- 吉備津彦さま、こんにちは。
メッセージと旅行記への投票を賜りまして誠に有難うございました。
織田家は最終的に幕末の時点で大和高田藩と出羽天童藩が存続して明治維新を迎えます。
出羽天童は正しく甘楽小幡が転封させられた所で、転封後は武士も収入を得る為に手内職で将棋の駒を作る様になり、現在でも天童の駒と言えば此れが発端になったそうです。
> それに比べて豊臣家は・・・
→それでも、親類が豊後國木下日出藩として存続したので傍流とは申せ何とか明治維新以降も残っております。
横浜臨海公園
- 吉備津彦さん からの返信 2011/01/07 03:42:26
- RE: 織田家は
- > 徳川家ほど繁栄できませんでしたがそれでも江戸幕藩体制の中をしぶとく生き残り、信長の血を伝えていますね。
>
> それに比べて豊臣家は・・・
北政所の実家木下家は備中足守藩、豊後日出藩で徳川時代を外様大名として生き残りますがいずれも北政所の兄の子孫なので秀吉の縁戚ではありますが血脈を直接は受け継いでおりません。
しかし、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次の弟である秀勝(秀吉の姉ともの子)は、徳川秀忠の正室お江与の方が秀忠に嫁ぐ前に結婚していた人物であり、この秀勝とお江与の間には一人娘の豊臣完子(さだこ)がいる。お江与の方は旦那様であった秀勝が朝鮮出兵中に陣没してしまい、徳川秀忠へ再嫁しますが、完子自身はその後も秀吉側室でお江与の姉である淀の方に養育され、最終的には公家で関白になる九条忠栄(後、幸家)に嫁ぎ。その後、忠栄との間には数人の子供が生まれ、子供の九条道房から連綿と繋がっていき、最終的には今上天皇まで繋がっている。
豊臣完子−九条道房−九条侍姫(道房娘:九条兼晴室)−九条輔実−九条幸教−二条宗基−二条治孝−九条尚忠− 九条道孝−貞明皇后−昭和天皇−今上天皇
- 横浜臨海公園さん からの返信 2011/01/10 10:16:40
- 拝復
- 吉備津彦さま、おはようございます。
メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。
仰せの通り、豊臣完子は秀吉の甥の子です。
然し、公家衆に嫁した完子の血が連綿と続き、明治期になり皇室に入るあたりは、小生、不覚にも存じておりませんでした。
ご教示を賜り厚謝しております。
またご指摘の如き事例がございましたら御教示を賜れば幸甚でございます。
横浜臨海公園
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