2010/06/14 - 2010/06/14
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frau.himmelさん
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もう少し、ナチスドイツの歴史についての、私のつたない研究発表にお付き合いください。
ヴァンゼー会議場のあと、ドイツ抵抗記念館を訪ねました。
皆さん!「ワルキューレ」をご存知ですか?
そう、あのトム・クルーズが主演した映画の題名です。
トム・クルーズ、カッコ良かったですね。
と、そんなことは置いといて…。
あれは1944年に実際に起きたヒトラーの暗殺未遂事件の映画化なのです。
その記念館があると聞いてやってきました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
-
クーダムのバス停よりM29で「Gedenkstaette Deutsher Widerstand」で降ります。
バス停近くにこのベンドラー橋が架かっています。
今回、この「ベンドラー」という地名が重要なキーポイントになりました。
この橋を渡り…。 -
シュタウフェンベルク通りを進みます。
この付近は官公庁街らしく落ち着いた雰囲気です。 -
少し歩くと、左側にドイツ国防省のいかめしい門扉があります。
金色に輝く獰猛そうなワシの紋章、近寄りがたい鉄の扉…。
場所柄、身を固くして通り過ぎます。 -
この辺りはかってベンドラー・ブロックと呼ばれ、ナチスドイツ時代は陸軍最高司令部があったところです。
前の通りは、これから私達が訪問する英雄を記念してシュタウフェンベルク通りと呼ばれています。 -
この建物に現在はドイツ連邦国防相がおかれています。
その中の一部が「ドイツ抵抗記念館」となっているのです。
ここは、反ナチ、レジスタンス運動で犠牲になった人たちの、数多くの資料が置かれた記念館なのです。 -
いかめしい入口で、入るのに怯んでしまいます。
特に私達が訪れた時は観光客の姿は皆無、制服姿の関係者が一人だけ立っていました。
入っていいんですか? 近くにいたその制服姿の男性におずおずと聞くと…。
「OKだよ!」って。 -
中庭には、両手を縛られて裸で立っている青年の像。
ヒトラーの暗殺計画の首謀者、シュタウフェンベルクらを追悼する銅像なのです。
私達が中庭で写真をとってる間、かの制服姿の男性は、タバコを吸いながらこちらを監視(?)しています。
場所が場所だけにシュタージに見張られている感じ…(笑)。 -
中庭の壁には、ヒトラー暗殺に加わって、まさにこの場で射殺されたシュタウフェンベルクら5名の英雄を称える記念碑と追悼の花輪があります。
(追記:5人全員がこの場で亡くなった訳ではありません)
記念碑には、
「1944年7月20日、ドイツのためにここに死す」
ルートビッヒ・ベック上級大将、
フリードリヒ・オルブリヒト歩兵大将、
クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐、
アルブレヒト・クヴィルンハイム大佐、
ヴェルナー・フォン・ヘフテン中将 -
建物の中は記念館になっているようですが、入り辛い…!。
もう一度その男性に恐る恐る、中にも入っていいのかって聞きました。
すると、その男性が案内してくれる、と…。
旧式のエレベーターで上まで上がり(受付が何階か忘れました)ます。
とにかく、入館するのに躊躇する記念館です。
その証拠に、中では誰一人として他の観光客には出会いませんでした。 -
興味深かったのは、レジスタンス運動のパンフレット、反ナチ、反戦運動のパンフレット、あるいはプロパガンダとして使われたポスターでしょうか、が色々あったことです。
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この記念館ではさまざま形で、ナチスやヒトラーに抵抗した人、出来事を紹介しています。
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その中の一番のメインは、1944年7月20日、シュタウフェンベルク少佐ほかドイツの将校によって計画された「ヒトラーの暗殺未遂事件」です。
この部屋はシュタウフェンベルク少佐の執務室でした。
この部屋でヒトラーの暗殺を計画し、未遂に終わった後ここに戻った彼は拘束されます。
そして、中庭で銃殺されるのです。
今ここは勇気ある、ドイツの良心である彼を記念するために、一般に公開されています。
写真はシュタウフェンベルク。
トム・クルーズもいいけど、実物もカッコいい! -
7月20日のことが書かれた資料。
南ドイツの貴族の家に生まれたシュタウフェンベルクは、戦争初期はドイツ軍の華々しい活躍に感銘を受け、むしろヒトラーを崇拝していました。
しかし、ユダヤ人や戦争捕虜の大量虐殺、ヒトラーの無謀とも言える戦争遂行等により、彼は愛するドイツの未来への憂慮から抵抗運動グループの一員になりました。 -
ルートビッヒ・ベック
かつて参謀総長だったルートビッヒ・ベックも早くからヒトラーの強硬な侵略政策に危惧しており、クーデターを計画していました。
彼はヒトラー暗殺計画(ワルキューレ作戦)が成功したら、反ヒトラー政権の元首となる予定でした。
*ベックの父が偉大な学者だそうで、夫はベックに興味を持っていました。 -
シュタウフェンベルクは1943年北アフリカ戦線で負傷し、右腕、左手の指2本、右目を失っています。
指の機能は10本のところ3本しかないのです。
負傷した彼は1ヶ月ミュンヘンで療養します。
その間の家族との交流の写真。 -
療養後、国内予備軍参謀長としてベルリン、ベンドラー・ブロックの国防省に赴任した彼は、ヒトラークーデターのリーダー格になっていきます。
国内予備軍という部署は、治安維持をも担当し、ヒトラー暗殺後の反乱鎮圧には都合のいい部署だったのでした。 -
ヒトラーの会議に出席できる立場にあるシュタウフェンベルクが、暗殺実行犯となります。
この写真は暗殺5日前、作戦会議場だったヴォルフスシャンツェでヒトラーと同席しているシュタウフェンベルク。
左側の背の高い人物。
資料よりコピーしました。 -
そして運命の7月20日、ヴォルフスシャンツェでの会議場に、副官ヘフテン中尉を伴ない、2個(2?)の時限爆弾を持って出席しました。
ところが、急遽、ムッソリーニが訪問するということで会議が30分繰り上げられます。
片手のみで、指が不自由なシュタウフェンベルクは時限爆弾のセット変更が1個しか出来ないうちに時間切れになってしまいます。
その1個の爆弾をヒトラーの近くのテーブルの下に置いて、彼はその場を去ります。 -
爆弾はほぼ予定通り爆発。
会議室はメチャメチャに爆破され、死者も3名出ました。が、ヒトラーは死ななかった…。
なぜか?
*テーブルの下のカバンを邪魔だと思った一人がヒトラーの遠くに移してしまった。
*夏のことで会議場は暑く、窓が開けられていた
*1個では爆破の威力が小さかった から。 -
暗殺失敗のあと、800人が逮捕され、200人が処刑されました。
その中の一人、ベルリン防衛軍司令官のパウル・フォン・ハーゼ中将も絞首刑にされました。
前旅行記でご紹介したウンター・デン・リンデンのベルリン地区司令館に執務室を持っていた軍人です。
*2010初夏 ベルリン街歩き ウンタ−・デン・リンデン編参照 -
記念館には、他のさまざまなレジスタンス運動も紹介してありました。
ミュンヘンで、学生達がナチスレジスタンス運動をした「白バラ抵抗運動」。
資料よりコピー -
著名な芸術家・音楽家なども、ナチスの意に添わなければ迫害を受けました。
写真は、彫刻家ケーテ・コルヴィッツ。
ノイエ・ヴァッヘに「ピエタ(死んだ息子を抱きかかえる母親)像」がありましたね。 -
1時間以上も見ていたのに、その間私達は他の観光客とは誰にも合いませんでした。
館内は広く、たいへん見ごたえがありました。
興味のある方にはお薦めの博物館です。 -
外に出ると、いつの間にか大勢の観光客が来ていました。
皆さん、戦争を経験したような年代の方たちばかりです。
残念ながら、入館時間が終わって中には入れないようです。 -
さて、再びバスに乗り次に移動します。
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ここはホロコースト記念碑。
昨年秋、私達が滞在したアパートが、気球の下あたりに見えます。 -
ここには、2711もの高低差がある殺害されたユダヤ人の墓標が立っています。
背の高い石の間に迷い込んだら、すごい圧迫感と恐怖感を覚えました。人影はみえません。 -
地下には情報センターがあり、殺されたユダヤ人などの履歴を閲覧することができるそうです。
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土産物屋さんを通り抜けて、次の目的地に行きます。
すぐそこです。 -
ホロコーストの記念碑の目と鼻の先にある場所。
ただの駐車場ではありません。 -
実はここにヒトラー総統の待避壕がありました。
ヒトラーは1945年4月30日に自殺するまでの105日間をここで過ごしました。
今は、ここに壕があったという立て札しかありません。 -
立て札にある地図を見ると、ヒトラー体制によって殺害された600万人のユダヤ人のホロコーストの碑のすぐ側に、ヒトラーの最後の場所があるというのも皮肉な話です。
左は待避壕の見取り図、情報によると、4メートル厚さの壁に3.5メートル厚さの天井だったそうです。
(どれだけ厚い壁なのか…、情報の間違いかもしれません) -
ヒトラーは1945年3月7日、愛人のエファ・ブラウンを待避壕に呼び、4月29日に彼女と結婚しました。
そして、翌30日拳銃自殺しました。
エファはその傍らで服毒自殺していました。
そして、遺言により2人の遺体は庭で焼却されました。
今となっては、二人が焼却された場所は特定できないそうです。 -
終戦後、待避豪跡は連合軍によって爆破計画があったものの、その後東西ドイツに分断し、数十年間廃墟は地下に埋まったままでした。
ちなみにこの地は東ベルリン側になり、ソ連の管理下でした。
写真は1963年当時の待避壕跡の航空写真 -
1988年にようやく地上の部分が撤去されましたが、壕の大部分はいまだ地下に…。
さきほどの駐車場のコンクリートの下で眠っているそうです。
駐車場の側で寄り添っている2つの石。
これがヒトラーとエファ・ブラウンの墓碑なのかと、柄にもなくしんみりしてしまった私でした。 -
帰りはUバーンのモーレンシュトラーセ駅から乗ります。
駅前にあった像、プロイセン王国で最初の重要な兵制改革の主導者、レオポルト・デッサウ候。 -
アパートに帰ると…。
ワールドカップで日本がカメルーンに勝ったそうです!
何度も何度もTVで流れていました。
やったー!
頑張れ・ニッポン!!
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この旅行記へのコメント (7)
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- 哈桑湖さん 2010/12/09 22:19:23
- こんな記念館が、あったとは。
- frau.himmel様
こんな記念館が、あったとは知りませんでした。あのフォン・シュタウフェンベルク伯爵大佐の、ヒトラー暗殺未遂事件は、旧ドイツ軍人には、不評です。この事件に関与した者たちは、ゲシュタポに捕らわれていきます。捕らわれた人たちは、あまりにも開けっぴろげな、自白をしていきます。ヒトラー打倒のグループを、同情心から、黙認していただけの人まで、逮捕され刑死していきます。このことに対して、ハインツ・グデーリアン将軍は、驚きを隠しませんでした。
砂漠の狐とうたわれた、ドイツの英雄・ロンメル元帥は、フォン・シュタウフェンベルク伯爵の従兄弟の、ツェーザル・フォン・ホーフアッカー(パリでのヒトラー打倒グループの、リーダー)の証言により、ヒトラーから自決を強要されます。ロンメル夫人は、夫はこの事件には、関与していないと、戦後述べています。
ヒトラーの後継者となったドイツ海軍総司令官のデーニッツは、この一派を軽蔑すると、自叙伝の中で述べています。1944年7月20日は、もうすでに、連合軍は、ノルマンディーに上陸していました。ヒトラーがたとえ死亡したとしても、連合軍は、ドイツの無条件降伏は、必ず求めたと。
あと、ベルリンでの、ヒトラー暗殺事件を鎮圧した、ドイツ陸軍の、オットー・エルンスト・レーマー(鎮圧命令を、ヒトラーから直接受け、少佐から大佐にいきなり昇進)氏は、戦後ネオ・ナチ活動をしたので、スペインに亡命し、スペインで他界されました。
150台の敵戦車破壊で有名な、戦車長オットー・カリウス大尉は、シュタウフェンベルク伯爵大佐以外は、評価しないと。そしてドイツ連邦政府の旧ドイツ軍人に対する侮辱にたいして、憤慨しておられます。
綺麗なお写真、有難うございました。
- frau.himmelさん からの返信 2010/12/11 09:25:16
- RE: こんな記念館が、あったとは。
- 浦潮斯徳様
おはようございます。
私の旅行記にお目を留めていただいて有難うございます。
何分にも付け焼刃的に調べてコメントにつけたものなので、お詳しい方がお読みになったら、一笑に付されるのではないかと心配しておりました。
でも、本当にお詳しいんですね。
シュタウフェンベルク大佐に関しましても、私が知りえなかった歴史的事実を教えていただき、大変興味深かったです。
> 砂漠の狐とうたわれた、ドイツの英雄・ロンメル元帥は、フォン・シュタウフェンベルク伯爵の従兄弟の、ツェーザル・フォン・ホーフアッカー(パリでのヒトラー打倒グループの、リーダー)の証言により、ヒトラーから自決を強要されます。ロンメル夫人は、夫はこの事件には、関与していないと、戦後述べています。
有名なロンメル将軍も、その名声ゆえ、反ヒトラー派のリーダーに担ぎ出されたとか何かで読みました。ロンメル夫人の証言の通り、「黙認はしたけれど、積極的に関与しなかった」のでしょうか。
またヒトラー暗殺を鎮圧したとされるオットー・レーマー大佐は、反ヒトラー派のハーゼ司令官の部下だったのですね。上官の命令に従わないで寝返ったため、暗殺は失敗に終わったと…。もしかして彼の裏切りがなかったら暗殺は成功していたのかもしれないと今まで思っていました。
でも、浦潮斯徳様がコメントしてくださった、「たとえ、ヒトラーが死亡したとしても、連合軍はドイツの無条件降伏は必ず求めた」という事実、これを読んで、はっとしました。
時期が遅かったのですね。もう少し早くヒトラー暗殺がなされていたら、こんなに大量のユダヤ人は殺されなかった、大量の軍人は戦死することがなかった、と…。
浦潮斯徳様のお陰で、もう少し、この件について勉強したいと思い始めました。
今後ともいろいろご教示願います。
-
- しょうちゃんさん 2010/11/07 21:44:25
- RE: 抵抗記念館
- Frau.himmelさん いつか訪れようと思っていたドイツ連邦国防省の写真と解説ありがとうございます。中庭で処刑された人(含むシュタウフェンベルグら4人)は、そのまま(軍服姿など)埋葬されましたが、その後火葬され、灰は下水処理場にばらまかれたようです(追悼者が訪れないように)。
また、ヒトラー夫妻もブンカーそばの中庭で火葬・埋葬されましたが、ソ連軍が発見し、検査のため一部(頭蓋骨あるいは顎の部分)を持ち帰り、残りをゲッペルス夫妻と子供たちと共に埋葬された。その後、ネオナチの聖地となるのを恐れたソ連政府は遺体を掘り起こし、火葬した後、灰をマグデブルグにあるソ連軍基地近くの川に流したようです。顎の部分はモスクワのどこかにあるようです(未公表)。では
- frau.himmelさん からの返信 2010/11/08 12:15:37
- RE: RE: 抵抗記念館
- しょうちゃん様
いつもご覧頂き有難うございます。
この度はまたすごい情報を教えていただき、感嘆いたしました。
>中庭で処刑された人(含むシュタウフェンベルグら4人)は、そのまま(軍服姿など)埋葬されましたが、その後火葬され、灰は下水処理場にばらまかれたようです(追悼者が訪れないように)。<
えっ!そうなんですか?
シュタウフェンベルクらのヒットラー暗殺計画は、ナチスの暗黒時代にあって、まだドイツ人に良心が残っていたとして、敗戦後は英雄視されましたね。追悼者が訪れないようにと火葬され、下水処理場にばら撒かれたとのこと…。皮肉ですね。その後その国防省に追悼記念館が出来るとは…。
> また、ヒトラー夫妻もブンカーそばの中庭で火葬・埋葬されましたが、ソ連軍が発見し、検査のため一部(頭蓋骨あるいは顎の部分)を持ち帰り、残りをゲッペルス夫妻と子供たちと共に埋葬された。その後、ネオナチの聖地となるのを恐れたソ連政府は遺体を掘り起こし、火葬した後、灰をマグデブルグにあるソ連軍基地近くの川に流したようです。顎の部分はモスクワのどこかにあるようです(未公表)。<
後ほど続けさせていただきます。
、
- frau.himmelさん からの返信 2010/11/08 13:11:15
- RE: RE: 抵抗記念館
- 中断してスミマセンでした。
> また、ヒトラー夫妻もブンカーそばの中庭で火葬・埋葬されましたが、ソ連軍が発見し、検査のため一部(頭蓋骨あるいは顎の部分)を持ち帰り、残りをゲッペルス夫妻と子供たちと共に埋葬された。その後、ネオナチの聖地となるのを恐れたソ連政府は遺体を掘り起こし、火葬した後、灰をマグデブルグにあるソ連軍基地近くの川に流したようです。顎の部分はモスクワのどこかにあるようです(未公表)。<
この情報も私にとっては すばらしい! の一言です。
ヒトラーのブンカー跡に行ったとき、そこには立て札1枚しかなく不思議に思いました。
ヒトラー政策の是非は別として、歴史上こんなに名を轟かせた人物の終焉の地ですから、記念碑の一つもあるはずだと思って行きましたから。
ところが見事に何もなく、駐車場のコンクリートで覆われていました。
立て札がなかったら、そんなに重要な地であることさえわからない…。
なるほど、ネオナチの聖地ですね。まだ熱狂的なネオナチがいますからね。
私は旅を楽しんだ後も、こういう歴史的な調べ物をして(高齢者には少々骨の折れることですが)二度楽しんでいます。
しょうちゃん様には笑止に耐えないこともあるかと思いますが、
私の解釈が間違っていましたら、是非教えてください。
どうか今後もよろしくお願いいたします。
- しょうちゃんさん からの返信 2010/11/08 16:18:30
- RE: RE: 抵抗記念館
- 拝復 Frau.himmelさん 舌足らずの説明でごめんなさい。現ドイツ連邦国防省の中庭で処刑された人(シュタウフェンベルグら4人)は、そのまま(軍服姿など)埋葬されましたが、その後ヒムラーの命令で掘り起こされ、階級章などをはぎ取られ、火葬されたあと、その灰はベルリンの下水処理場にばらまかれました。それは謀反人を侮辱し、将来追悼者が訪れる場所を残さないためです。> また、ヒトラー夫妻(エバーは服毒自殺、ヒトラーはピストルによる自決)もブンカーそばの中庭で(ガソリンにより)火葬され、(ドイツ兵により)埋葬されましたが、ソ連軍が発見し、検査のため一部(本人かの確認のため頭蓋骨あるいは顎の部分)をモスクワに持ち帰り、残りをゲッペルス夫妻(ピストルによる自決)と子供たち(ブンカー内で服毒自殺)と一緒に(どこかの)森のなかに(秘密裏に)埋葬されました。その後、ネオナチの聖地となるのを恐れたソ連政府は(ヒットラー夫妻とゲッペルス家族の)遺体を掘り起こし、(再度)火葬した後、その灰をマグデブルグにあるソ連軍基地近くの川に流したようです。なお、下顎の部分(ヒトラー掛かりつけの歯医者に確認するため)はモスクワのどこかにあるようです(未公表)。また、ブンカーの立て札はつい最近できたものです(2003年にはなかった)。それは、ベルリンの歴史を一般市民に知らせるためにボランティアーが立てたと思います。たしか、熊谷 徹さんだったかの本に書いてあります。
- frau.himmelさん からの返信 2010/11/08 23:02:42
- RE: RE: RE: 抵抗記念館
- しょうちゃん様 こんばんは!
ヒトラーの最後について、しょうちゃん様のご説明で猛烈に興味が湧いてまいりました。
今しがた、ネットで
エイダ・ペトロヴァ/ピーター・ワトソンの「ヒトラー最後の日:50年目の新事実」藤井留美訳 原書房
を、読んできたばかりです。
すごいです!
私はヒトラーの遺体はエヴァ・ブラウンとともに完全に焼却されて、
ほとんど何も残らなかった(2つの歯のブリッジだけ)と思っていました。
ところが、しょうちゃん様の仰るように、モスクワでヒトラーの頭蓋骨が発見されているのですね。
その他、ヒトラーの影武者説のこと、ゲッペルス一家の殉死のこと、
ヒムラーの裏切り、など興味はつきません。
でも、写真で見たゲッペルス家の6人の子供達のあどけない顔、切なくなりました。
有難うございました。
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