2009/09/19 - 2009/09/22
13位(同エリア1561件中)
chiaki-kさん
- chiaki-kさんTOP
- 旅行記231冊
- クチコミ123件
- Q&A回答139件
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2009年9月19~23日はシルバーウィークで5連休。と、なると動き出すのが、何処かへ行きたい虫。毎日ネットを眺めては情報収集するが、なかなか適当なものが見つからない。これだというものはすでに満杯で、もう温泉にでも行こうかと半ばあきらめかけていたが、8月19日夜、偶然見つけた○急交通社のツアーに目が止まった。
9月20日中部国際空港発「ウィークエンド西安3日間」という短期決戦型のツアーなのだが、世界遺産・兵馬俑を見たいのと、11年前に上海・蘇州に行ったときと較べて中国はどう変わったか見たくなり、キャンセル待ちで申し込む。5日後に電話でOKの連絡が入り、西安駆け足旅行が実現する。
表紙の写真は西安市内の交差点だが、直進優先などのルールは無く、早い者勝ち。とくにこういった信号の無い交差点では1日中激しいバトルが繰り広げられる。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 2.5
- ショッピング
- 1.0
- 交通
- 1.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- 中国東方航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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9/19
18:00に自宅を出発。やっと走行距離1000kmを越えたばかりのセルボSRは快調に和田峠を越え、岡谷ICから中央自動車道に入る。小牧ICから名古屋高速に入り、普通車を次々と抜き去りながら南下、知多半島道路を経由して22:00前に東横イン中部国際空港に到着する。ちなみに走行距離は291km、やはり成田よりセントレアは遠い。燃費は約15km/Lであった。
東横インは空港玄関の目の前にあり、駐車も10日間無料というサービス中だったので前泊、さらに22日の後泊もネットで予約しておく。部屋数は500室以上ある大きなホテルなのでチェックインカウンターの前は夜10時だというのに長蛇の列。アジア系の外国人さんが多く、しばらく待たされたが15分くらいでチェックインできた。
写真は翌日撮影したセントレア。小さくは無いが、とても解りやすい空港だ。 -
9/20
朝食後、送迎のハイエースに乗り込み空港へ。10分前に団体カウンターに到着、航空券引替え書類などをもらう。続いて中国東方航空のチェックインカウンターへ。手続きはすんなり終わりスーツケースを預け、次に向かったのが両替所。オープンが7:30でしばらく待たされたのと、お客さんが多く、結局40分くらいかかってしまった。ここで3万円を人民元に両替、レートは1元≒15.2円と思ったより悪かった。
写真は待合室から見た中国東方航空MU292便、上海経由西安行。名古屋は良い天気。 -
MU292便で出された朝食。味の方はまあまあ。ビールは無料でバドワイザーをチョイス。
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約2時間後、上海浦東国際空港到着。機内の窓越し撮影のため写りが悪い。
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ここで一旦降りて入国手続きをするが、パンフレットでは同じ飛行機に乗るはずが、全く別の機体に乗り換えることになった。写真はトランジットのため一旦留められた西安行きの皆さんだが、このあと航空会社の職員に誘導されて訳のわからないコースをたどることになる。(帰りはもっと悪かった)空港は約10年前にできたばかりの立派な建物なのだが、乗り換え客の流れを考慮して作られていない印象を受けた。
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待合室前の売店に寄って11年前の人民元でお茶を購入(6元)、11年前より多少愛想は良くなったが店の作りや並んでいる商品などを見ていると購入意欲が湧かない。
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1:40のトランジット後、別の小さい機体に乗り換えて、西安めざし離陸。写真は機内で出された昼食。メインはチキンのあんかけとご飯、味のほうは、ご飯がパサパサでいまいち。
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約1時間30分後、定刻より若干遅れて西安・咸陽国際空港到着。預け荷物を受け取り、迎えのガイドさんに連れられ、外のバスに乗車する。ここで、今回のツアー客は17名ということが判明する。
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ガイドさんの名はJさんといい、30代の男性。日本に行ったことは無いそうだが、見事な日本語を話した。(何度もテープを聞いて覚えたという) 写真は空港から西安方面へ向かう高速道路料金所。中国にも有料道路があるとは知らなかった。
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料金は20元で日本に較べて安いのだが、そもそも社会主義国では公共料金は無料のはずなのに、なにか違和感を感じる。
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西安の街の西側入り口にある「シルクロード起点」を表すモニュメント。西安が長安と呼ばれたころはここに城門があり(今の城門は明代の構築)西域を目指す隊商はここから出発した。
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イチオシ
西の城門に到着。門をくぐった場所が広場になっており、バスを駐めて城壁に登る。なお、このグリーンのバスが今回のツアーバス。ちなみにツアー会社名は「西安中旅国際旅行社有限責任公司」という。
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さっそく城壁に登ってみる。写真は南側の城壁。ちなみに、この城壁は明代に建築されたもので一周13km。年に何度かこの城壁を3周するマラソンが行われるそうだ。
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北側はこんな感じ。ちなみにこの門は「安定門」という。
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東側はこんな感じ。中央に鐘楼が見える。あそこが西安の中心。夜になると一部がライトアップされる。ガイドさんの話では沿岸部に較べて開発が遅れたのが幸いして、このように古い遺跡が残ったとのこと。ではここでちょっと西安の歴史をスタディ。(興味の無い方はスルーしてください)
紀元前770年から続いた乱世は紀元前221年に秦の始皇帝が天下を統一して終わる。始皇帝は西安の西の咸陽を都として阿房宮という豪華な宮殿を建てたり、自らの陵や兵馬俑を建造したり、万里の長城を建てたり、焚書坑儒をしたりと苛政を行った為、始皇帝の死後まもなくして秦は滅亡する。
秦を滅ぼした項羽を倒した劉邦が漢王朝を興し、都を今の西安である長安に定める。220年より群雄割拠の三国時代となるが、581年に隋が、そして618年には唐が中国を統一して長安はシルクロードの東の起点として、また、日本をはじめ外国から遣唐使を受け入れる世界都市として大いに栄えた。
907年に唐が滅亡後、首都は開封、洛陽、北京などに置かれ、物流も海上交易に取って代わられ、長安はただの地方都市となってしまう。明の時代になり西安府がおかれ、名称が西安に変わる。1900年の義和団事件で西太后が西安に逃げ込んだり、中華民国2代総統の蒋介石が張学良に軟禁されるなどまれに歴史に顔を出すが、表舞台からはすっかり退場してしまった。
1949年10月1日、毛沢東率いる中華人民共和国が誕生しても西安は静かだった。やがて鄧小平が改革開放路線を唱え、上海、杭州、広州、深圳(シンセン)など沿岸部の都市が発展するが西安を初めとする内陸部は取り残されてしまった。沿岸部都市の金持ちは外国製の高級車を乗り回し、内陸部の一般民衆は月300元(4500円)くらいの収入しかない激しい格差社会解消のため政府は「西部大開発」という事業を開始、高速道路や地下鉄の建設など、西安の街はいたるところで工事中である。 -
西安の街は、あちらこちらで地下鉄工事の真っ最中。クレーンの向こうに城壁が見える。
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今回宿泊するハイアット西安(西安阿房宮飯店)、城壁の内部にあり繁華街にも徒歩で行けるホテル。
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東西の宿泊棟内部は吹き抜けになっており、下にはラウンジ(有料)が。
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この晩の夕食はバスで20分ほど移動した別のホテル内にあるレストランで四川料理を食すが、何を食べたかよく覚えていない。8:30にホテルへ戻った後、徒歩で街の中心部にある鐘楼まで行く。写真は鐘楼東側。
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1人27元を支払い鐘楼へ登る。写真は鐘楼から見た南側。交差点左側の建物は開元商場(デパート)、右は鐘楼飯店、通りの向こうに見えるのが朱雀門。夜9時過ぎでもこの交通量。
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イチオシ
西側にライトアップされた建物は鼓楼と呼ばれる建物。なお、手前の暗い部分は公園のようなものだが、地下には世紀金花というスーパーマーケットがある。
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鐘楼の中で鐘を使用した演奏が行われていた。
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ライトアップされた鐘楼。21:30までオープンしている。この後ホテルまで来た道を歩いて帰り、今日の観光はここまで。
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9/21
中国は大きな国にもかかわらず標準時が一つしかないので、西へゆくほど朝も夜も遅くなってしまう。写真は7:00頃やっと明るくなってきた部屋の窓からみた西安の裏街。左の4階建ての古い建物はまもなく取り壊される模様。単身とみられる爺さんが住んでいたが、土地は国や市政府のものなので引っ越し(立ち退きとは言わない)するしかない。 -
8:00にガイドさんタクシーで登場。月曜日は渋滞が一番激しいと言い訳。すぐバスに乗り込み出発する。写真は市内交差点だが、11年前と較べて自転車が減り、バイクや自動車が増えた印象。なお、バイクはノーヘルである。
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これが西安名物の道路渋滞。右側に側道があるが、あれは人民の道といってバス、バイク、自転車が通る道。なお、街路樹は柏。
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建物の壁に貼られたポスター。余談になるが胡錦涛国家主席は精華大学でダムの研究をしていた。
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片側3車線の快適な高速道路。なお、最高速度は120km/hとなっている。
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30分ほどで兵馬俑坑博物館に到着。写真は集票所(チケット売り場)大人90元、子供45元。このあと空港並のセーフティーチェックを受け、1人5元の電動カートに乗って兵馬俑まで移動する。
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入館します。
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兵馬俑坑博物館1号坑。
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兵馬俑坑博物館2号坑。3号坑はこの建物の後にある。
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秦始皇帝陵文物陳列庁。始皇帝陵の近くから発見された銅馬車が展示されている。なお、建国60周年に対するテロ活動を規制するためか入り口には自動小銃をかかえた武装警察あるいは人民解放軍兵士が警戒していた。(写真無し)
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1号坑が混んでいたので、最初は秦始皇帝陵文物陳列庁から見学。篆書(てんしょ)と呼ばれる独特の漢字で書かれている看板。なお、この字体は皆さんのパスポートにもあるので、ご覧ください。
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兵馬俑は1974年に井戸を掘っていた農民により偶然発見され、1987年に秦の始皇帝陵の一部としてユネスコ世界文化遺産に登録された。ではここで兵馬俑についてスタディ。
兵馬俑(へいばよう)は、本来は古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったものを指す。現在では、陝西省にある秦の始皇帝の陵墓の周辺に埋納されたもののみをさすことが多い。ここでは、世界的に著名な始皇帝のそれについて記す。秦の始皇帝陵の一部として1987年、世界遺産(文化遺産)に登録されている。
史記や漢書など数々の歴史書には秦の始皇帝陵の存在は記されていたが、数々の動乱などにより所在地や存在そのものが忘れ去られていた。漢書には秦の始皇帝陵は項羽によって破壊されたと記されている。
始皇帝の兵馬俑が発掘されて、世界を驚かせたのは1974年のことであるが、この地域の住民の話を総合すると、以前から水を枯らす化け物等として、その存在は薄々知られていたようである。本格的に発掘されるようになったのは、畑を営んでいた住人が井戸を掘ろうとして偶然見つけたのがきっかけだった。その当人は現在、博物館の名誉副館長となっている
この大文物群が発掘され調査が行われると、人々を驚かせるような事実が次々に明らかとなった。例えば、これらの兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはないことや、秦の軍隊がさまざまな民族の混成部隊であったこと及びかつての秦の敵国が存在した東方を向いて置かれていたこと等である。
また、この文物により、当時の秦軍の装備や編成等、これまでは文献史料のみでしか伝えられていなかったものが、こうして実物大のものとして現代に生きる我々の目の前に登場したことは非常に大きい意義がある。21世紀に入った現在でも、この大文物群の調査・研究は続いている。近年の現地の研究者や日本の研究者の調査報告によると、従来、来世へと旅立った始皇帝を守るべく配された軍隊と思われていたこの大文物群は、それだけでなく、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうとしたものであったようだ。すなわち、兵馬のみならず宮殿の実物大のレプリカや、文官や芸人等の傭も発掘されたのである。
(Wikipediaより抜粋) -
秦始皇帝陵文物陳列庁に入ってすぐの広間にある兵俑と女の子の人形。北京オリンピックで使用したものらしいが、兵俑はいいとして女の子は何? しかもキモい。
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1980年に始皇帝陵の近くで発見された銅馬車。これは立車という4頭立ての馬車(1号車)。
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安車という立車と同じ4頭立ての馬車(2号車)だが、後に皇帝の乗る特別な車両が繋いである。
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車の屋根は傘状になっておりオープンカーにもなった模様。ちなみに始皇帝は50歳のときに巡幸先で病死したが、(不老長寿の薬として水銀を飲んでいたらしい) 2人の側近はこのことを内密にし、咸陽に戻るまでの数ヶ月間この馬車に乗せたままにしたらしい。言ってみればこの馬車は始皇帝の霊柩車とも言える。
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次に向かったのは今回の旅行のハイライトとも言える1号坑。飛行機の格納庫のような1号坑へ入ると2200年の眠りから覚めた兵馬俑とご対面。感激の一瞬。
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兵馬俑その1、この兵馬俑のすばらしい所は兵士達の表情が皆違うこと。
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兵馬俑その2、本物の矛(ほこ)や弩(ど、強力な弓のこと)など持っていたらしいが皆消えてしまった。
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兵馬俑その3、馬の後には本物の木製馬車があったが2200年の間に溶けてしまった模様。
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兵馬俑その4、横から見た兵馬俑。前列には体格の良い軽装の兵士が3列で並んでいる。突撃部隊だった模様。
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兵馬俑その5、右下の部分が最初に発見された場所。ちなみに発見者の楊志友さんはこの博物館の名誉副館長として、現在も総合服務楼(兵馬俑サービスセンター)で解説書にサインをしている。(管理人もサインしてもらった)
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兵馬俑その6、軽装歩兵の後にはこの重装歩兵や馬車が続く。
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兵馬俑その7、馬車の御者達。様々な人種が混ざっているのがわかる。
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兵馬俑その8、中央部から後は未発掘。その理由は、兵馬俑は土の中に埋まっている時は着色されており、掘り出して数分も立たないうちに表面の着色部分が自然に剥がれ落ちてしまうから。現在それを防止するための研究がされているが原因はまだつかめていない。したがって保存技術が開発されるまで発掘はストップしているとのこと。
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後方には発掘された兵馬俑が修復のため並べてあった。
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一番後では学術員による調査、記録、修復が実際に行われている。埋まっているものも併せると、1号坑だけで6000体の兵馬俑が確認されている。気が遠くなるような作業が延々と続く。
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後方から撮影した1号坑、この兵馬俑たちの足下にも未発掘の俑が埋まっている。
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総合服務楼(兵馬俑サービスセンター)で20分ほど休憩した後、入ったのが3号坑。ここは司令部の兵馬俑が置かれている。司令部で重要な仕事は皇帝からの命令を伝達することと、風水による占いである。
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最後に入ったのが2号坑、1号坑に次いで大きい建物で、ここには騎兵・弓兵など機動部隊の兵馬俑が置かれているのだが、試掘した俑を除いてほとんど未発掘。理由は↑に述べたとおり。
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これは2号坑から出土した弩を構える兵俑。
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中級の軍吏俑、お腹が出ている。
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高級の軍吏俑、まさに将軍腹。
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兵馬俑を後に、走るバスの窓から撮影した始皇帝陵。出来れば、くだらない土産物屋などカットしてここに登りたかった。
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近くの町のレストランで郷土料理を食べたあと、華清池に寄る。西安の東、始皇帝陵の近くに位置し、古の昔より温泉地として有名だったところ。唐代の玄宗皇帝もここを気に入り、華清宮という宮殿まで建てて、第2婦人の楊貴妃とラブラブの日々を送った場所。
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これが華清宮と華清池、マイナス12℃くらいになる冬場でも池は凍らないそうだ。
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突然、玄宗皇帝と楊貴妃が登場! 中国のTVドラマ「長恨歌」のロケをやっていた模様。
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温泉の中庭には場違いとも言える楊貴妃の半裸像が建てられていたが、セミヌードの像は中国では人気があるらしく、入れ替わり立ち替わりの人気だったので近くでの撮影はあきらめた。
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楊貴妃が入浴した風呂、海裳湯と言う。
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玄宗皇帝が入浴した風呂、蓮華湯と言う。
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15:00、西安に戻り、絨毯とお茶の売り込み攻撃(一見博物館風であるが説明は最初だけで、途中から売り込みに替わる)をかわした後、寄ったのが碑林博物館。その後一旦ホテルに戻り夕食会場に向け出発する。バスは街の中心部で我々を降ろすが、目の前に見えたのは鼓楼。
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そして、鼓楼近くにある餃子専門店の「徳発長餃子館」。
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店に入ると金の餃子がお出迎え。餃子のおかげで、このくらい儲けたというシンボル?
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これが餃子宴、丸テーブルの周りは前菜、中央に18種類の餃子が1人1ケずつ、次々と出される。
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名前がわからなくて申し訳ない。
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この餃子は食べないほうが身のため。辛党の私も音を上げる辛さだった。
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一番良かったのが普通の水餃子。
20:00頃、餃子宴は終了。またバスに乗って希望者のみ唐舞踊のショー会場で下車する。ちなみにオプショナルツアー代は3900円也。これには参加せず一旦ホテルに戻ってからタクシーでカルフール西安店を目指す。
ところがタクシーの運転手が我々を降ろした場所にはいくら探してもカルフールは見あたらず、40分ほど西安の街をウロウロするが、結局あきらめて別のタクシーをひろってホテルへ戻る。あとで地図をチェックすると、降ろされた通りが一本間違っていた。つまりタクシーの運ちゃん、カルフールを知らなかったのだ!
反省点:中国でタクシーに乗るときは行く先を新体文字で書いたメモだけでなく、地図も用意すること! -
9/22
この日の集合時刻は8:30、ゆっくりとホテルの朝食バイキングを食べる。内容は洋食と中華で、パンや麺の種類も多く、おいしかった。ただコーヒーだけはインスタントっぽく、おいしくなかった。この日は最終日なので8:20に荷物をまとめてチェックアウトする。インターネット代(全室高速LANあり)、ビール代などで149.78元だった。
最初に寄ったのは西安市美術博物館、出てきた説明員は最初中国画の解説をしてくれたが、とある部屋にはいると、こんどは翡翠や瑠璃などの宝玉の説明を始めた。最初は100万円(元にあらず)の石から始まり、60万円、30万円の品物にだんだん値段を落としていった。最後は持ち帰りで3万5千円まで行ったが、結局誰も買わずに美術館を出る。朝からなんとも不愉快なスタートである。 -
次に寄ったのは青龍寺という寺。唐の時代に日本人の空海が仏教を学んだ寺で、その後、唐の街がすたれるとともに廃寺となっていたが、日本からの援助で再建される。
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雲峰閣という名の建物。昔は長安の街が一望できたらしい。(今では高層ビルが乱立してしまった)
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境内にある空海記念碑。
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青龍時の次に総合土産物屋に寄る。ここでは売り込みが無かったので、兵馬俑チョコレート、甘栗などの安物を購入。そして最後に寄ったのが大慈恩寺。山門後方にそびえるのが大雁塔。
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西遊記でお馴染み、玄奘三蔵法師が西域から持ち帰った教典を納めたのがこの大雁塔。西安に残る唯一の唐代の建物。なお、1300年の間に左へ傾いてしまったが、昨年の四川大地震でも倒れなかった。西安版ピサの斜塔。
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大雁塔、説明員さん一押しの場所から撮影。この後、説明員さんが、とある建物の中に我々を案内すると壁には現在の貫首さんが書いた書がさがっている。皆さんピーンとくる。時間が無かったのが幸いして売り込み工作?は失敗、ただちに撤収する。
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三蔵法師が西の空を見ている。
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最後の昼食は大雁塔ちかくの精進料理レストラン。肉類は全く使用していないので皆さん箸が進んでいた。
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写真は空港へ向かう途中の西安市内の環状道路。来たときより流れはスムーズであった。
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一方通行のランプウェイを走っていると、いきなり前方から逆走トラック! 写真を拡大して見ると運ちゃんはくわえタバコ!! 全く、この国の道路はなんでもありだ!!!
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間もなくバスは西安・咸陽国際空港に到着。この後MU291便は15:30に離陸、上海浦東空港で同じ便名ではあるが別の機体に乗り換える。
行きの場合もそうだったが、帰りの浦東空港のトランジットは最悪で、東方航空の職員に案内され表示の全く無い職員専用通路のような廊下を延々歩かされたり、窓の無い暑い場所で10分くらい待たされたり、やっとゲートのあるフロアに出たらトイレが見あたらず、ターミナルの端から端まで走り回ってトイレを探したり、用を足してゲートまで戻ると搭乗をお急ぎくださいの放送があったりとさんざんであった。
21:30 予定より20分遅れてMU291便は中部国際空港に着陸する。滑走路の北側からの進入だったので名古屋の街の真上を右旋回、街の灯りがきれいだった。
これで「2009 西安旅行記」は終了です。本日も古い旅行記を最後まで、ご覧いただき、ありがとうございました。
エピローグ
9/27のNHKTVで北京市内に住む2人の青年のことを放送していた。1人は建設会社社長のドラ息子、趣味はギター収集で数万円もするエレキギターを5本所有。さらに最近は1500万円のマンションまで親に買ってもらった。まだ恋人もいないのに結婚するためには家が必要なのだそうだ。もう1人は地方出身の貧乏青年、ピエロの格好をして女性に花束を届けるアルバイトをしながら公務員になるための勉強をしている。給料は6万円ほどで半分は家に仕送りしているという。しかし、中国の学費は高騰しており生活するだけでやっとの様子であった。
毛沢東の後、実権を掌握した鄧小平は、疲弊した経済を立て直すため市場経済体制への移行を試みる。基本原則は「先に豊かになれる者が豊かになれば良い」というもので、これが商売や蓄財に熱心な一部国民にお墨付きを与える結果になり、今の中国の格差社会を生んでしまった。たとえて言えば「中国版パンドラの箱」を開けてしまったようなもの。沿岸の都市部では外国資本の積極利用が奨励され、深圳やアモイには経済特区が、上海、天津、広州、大連などには経済技術開発区が設置される。
その結果、都市部と農村、沿岸部と内陸部との経済格差が拡大し、拝金主義による官僚の汚職や腐敗が深刻なものになり、インフレや失業も目立つようになってしまった。政府が公共事業を決定して地方政府に事業をまかせると、請け負った企業から地方政府幹部や役人に賄賂が送られるのは当たり前で、その賄賂となる金は水増しした事業費、下請け企業や労働者からのピンハネ、あげくは「おから工事」と言われる手抜き工事による材料費の横領などによるものである。
江沢民政権もこの路線を受け継いだため、地域格差はさらに深刻となり、格差是正のため西部大開発、国営企業改革などを推し進めるが、沿岸部の経済発展は止まらず、中国は「世界の工場」と呼ばれるまでに成長する。その結果こんどは公害問題が発生、大気汚染、水質汚濁などによる病気の発生も目立つようになるが、医療費も高騰しており、医療保険制度の未発達なこともあって、一般庶民は満足な治療も受けられなくなってしまった。
中国の人口は約13億人であるが所謂、富裕層はその1%だと言う。1%であっても1300万人!いるわけで、先に豊かになったこの人たちの購買力で今の中国経済は成り立っているのかも知れない。しかし、99%の一般国民は貧しく(中間層は除く)、生活は苦しい。高い学費(教師も金稼ぎに熱心)を払って大事な一人っ子(金を払えば何人でも産める)を進学させてもろくな仕事は無く(賄賂の金やコネが無いから)、重金属などで汚染された水や危険な農薬で育てた食品を食べ(富裕層はこんなものは食べない)、排気ガスで充満した街へ出稼ぎに行き(キケン・キツイ・キタナイ、3K仕事しか無い)、病気になっても金が無いのでろくな医者にもかかれず、一体何が幸福なのか訳がわからない国になってしまった。
2002年より胡錦涛政権が発足するが「中進国」、「和諧社会」という目標を掲げ、一部を修正しながらも改革開放路線をさらに推し進めている。願わくばオリンピックや万博も結構であるが、一般国民の幸せとは何か真剣に考えて、99%の国民のための政治を行ってもらいたいものだ。
2009/09/28 chiaki-k記す 2020/06/13 一部修正
参考文献:JTBパブリッシング「北京・西安」、西安出版社「夢幻の軍団」日本語訳、陳恵運著「我が祖国、中国の悲惨な真実」Wikipediaより「改革開放」その他
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この旅行記へのコメント (8)
-
- 多良さん 2020/06/15 10:19:13
- 住みたい国とは思いません(笑)
- chiaki-kさん、こんにちは^^。
中国の体制は大嫌いですが、文化はなかなか面白いですね~♪
(予定が立てられない中国の空港のダメ対応も大嫌いですー笑)。
そんな中、ワタシも行ってみたい「西安」に行ってこられた思い出をUPされていましたので拝見しました~ヽ(^o^)丿
中国で驚かされるのは、偽物でも本物でも、日本では考えられないくらい立派な建造物ですね。(ワタシは厦門と上海の偽物の王宮しか見ていませんが・・・)
西安の歴史ーいや~TVや映画での知識しかないワタシにとって、判りやすいまとめ方~♪勉強になりました!
中国映画をDVDで借りて観ることもあるのですが、ややこしい話もこれでスッキリしました(爆)。
このご旅行から早10年経ちましたね。
今、この街はどうなっているのでしょうか?
確かめに行ってみたいとは思うのですが、今の状態では何とも出来ませんね。
拙いワタシの旅行記「☆★☆ウルトラマン⇒釣りバカ日誌 富山県黒部市は楽しいね~♪☆★☆」お立ち寄りいただき、いいね、までいただきありがとうございました。
勝手にフォローさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
多良
- chiaki-kさん からの返信 2020/06/16 08:35:38
- ありがとうございます
- ・
多良さん、おはようございます。西安旅行記に”いいね”をいた
だきありがとうございます。
確か多良さんは10回以上、中国に行かれている大ベテランですが
私のつたない西安旅行記が参考になれば、まことに光栄です。
> 中国で驚かされるのは、偽物でも本物でも、日本では考えられ
ないくらい立派な建造物ですね。
中国ではコピーは文化として一般に認められていますので、どれ
だけ本物に近いものが出来るか競争する社会ですね。
4トラにはUPしませんが、こんなページもありますので、
よろしければ、ご覧ください。
http://chiaki-k.justhpbs.jp/090920to22seiancar.htm
http://chiaki-k.justhpbs.jp/2011pekin/110115to17pekincar.html
> 確かめに行ってみたいとは思うのですが、今の状態では何とも
出来ませんね。
コロナ禍が終了したら、是非お出かけください。そしてリポートを
お待ちしています。
*今朝、2010年ソウル旅行記をUPしましたので、ご覧ください。
では、また。
chiaki-k
-
- ノスタルジアさん 2017/06/10 21:39:18
- 発見者について
- 今晩は、いつもいいねの投票有難うございます。
さて、chiaki-kさんの旅行記に以下の説明文が書かれていますが、
「ちなみに発見者の楊志友さんはこの博物館の名誉副館長として、現在も総合服務楼(兵馬俑サービスセンター)で解説書にサインをしている。(管理人もサインしてもらった)」の
楊志友さんというのは、http://www4.nhk.or.jp/anotherstories/x/2017-06-12/10/26742/1453060/の楊志発(ようしはつ)さんの顔写真と同じだったでしょうか?宜しければ教えて頂ければ幸いです。
ノスタルジア
- chiaki-kさん からの返信 2017/06/12 15:21:46
- RE: 発見者について
- ・
ノスタルジアさん、こんにちは。お礼が遅くなりましたが、
私の旅行記にたくさんの”いいね”をありがとうございます。
ノスタルジアさんもご覧になった私の西安旅行記は2009年9月20日から
23日にかけて格安ツアーで西安に行ったときの体験をまとめたものです。
そのとき兵馬俑博物館でサインをいただいた楊志発さんですが、ほぼ
この方で間違いないと思います。ちなみにノスタルジアさんのブログの
4枚目に映っている楊培彦さんとは全く別人です。
残念ながら楊志発さんの写真はありませんが、アナザーストーリー
(ビデオに録ってありました)の一場面にあった写真で、こんな感じ
の人だったことを思い出しました。
なお、「楊志発」の文字ですが、新体文字では「楊」は楊から日を取り、
「発」は友の上に点々をつけた表現なので、てっきり「楊志友」だと
思っていました。詳細は下記のページをお開きください。
http://www.sakunet.ne.jp/~chiaki-k/2017%20heibayou/2017%20heibayou.html
*農民は皆英雄だ・・・
お墓の中の毛沢東が聞いたら喜びそうなセリフですが、当時は何を
やるにも全て共同作業が当たり前の時代ですね。そんな作業中に発見
すれば、その場に居合わせた農民みんなが発見者だとも言って言えなく
もないかと思います。
ビデオの中にも私が発見者だという人が沢山出てきたという場面が
ありましたが、いかにも中国らしいな・・・なんて思いました。
chiaki-k
- ノスタルジアさん からの返信 2017/06/12 15:50:45
- RE: RE: 発見者について
- chiaki-kさん、ご返信有難うございます。
> ノスタルジアさんもご覧になった私の西安旅行記は2009年9月20日から
> 23日にかけて格安ツアーで西安に行ったときの体験をまとめたものです。
>
> そのとき兵馬俑博物館でサインをいただいた楊志発さんですが、ほぼ
> この方で間違いないと思います。ちなみにノスタルジアさんのブログの
> 4枚目に映っている楊培彦さんとは全く別人です。
番組で楊志発さんが博物館に出勤していたのは2009年まで、と本人が語っていましたので、
chiaki-kさんのは楊志発さんですね。私の会ったのは楊俊朋さんでNHKのシルクロード取材班の楊培彦さんとは違います。
>
> 残念ながら楊志発さんの写真はありませんが、アナザーストーリー
> (ビデオに録ってありました)の一場面にあった写真で、こんな感じ
> の人だったことを思い出しました。
>
> なお、「楊志発」の文字ですが、新体文字では「楊」は楊から日を取り、
> 「発」は友の上に点々をつけた表現なので、てっきり「楊志友」だと
> 思っていました。詳細は下記のページをお開きください。
>
> http://www.sakunet.ne.jp/~chiaki-k/2017%20heibayou/2017%20heibayou.html
> *農民は皆英雄だ・・・
>
> お墓の中の毛沢東が聞いたら喜びそうなセリフですが、当時は何を
> やるにも全て共同作業が当たり前の時代ですね。そんな作業中に発見
> すれば、その場に居合わせた農民みんなが発見者だとも言って言えなく
> もないかと思います。
>
> ビデオの中にも私が発見者だという人が沢山出てきたという場面が
> ありましたが、いかにも中国らしいな・・・なんて思いました。
でも、番組では最初に鍬を入れたのは自分だと楊志発さんが言ってましたので
chiaki-kさんはラッキーでしたね。
ところでリンク先の兵馬俑関連写真集とこの掲示板のコメントを私の旅行記に引用させて頂きたいのですが如何でしょうか?ご検討宜しくお願いします。
ノスタルジア
- ノスタルジアさん からの返信 2017/06/12 16:02:14
- 訂正します。引用についてのお願い
- > ところでこの掲示板のコメントを私の旅行記に引用させて頂きたいのですが如何でしょうか?ご検討宜しくお願いします。
> ノスタルジア
- chiaki-kさん からの返信 2017/06/12 17:59:27
- RE: 訂正します。引用についてのお願い
- ・
かまいませんが、写真入りの詳細ページについては1月ほどで
削除する予定ですので、ご承知おきください。
- ノスタルジアさん からの返信 2017/06/12 18:06:44
- RE: RE: 訂正します。引用についてのお願い
- chiaki-kさん、ご配慮有難うございます。
> かまいませんが、写真入りの詳細ページについては1月ほどで
> 削除する予定ですので、ご承知おきください。
写真入りの詳細ページについて旅行記ではないのでそうだと思って訂正メールを送った次第です。
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