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平成10年10月23日(金)<br /> 成田エキスプレス13号、横浜駅8時30分発に乗車。東京駅で池袋からの電車を接続するために時間が随分掛かった。池袋からの電車が遅れたらしい。かれこれ30分近く遅れて発車した。<br /> <br /> 成田空港へはリムジンバスでも行けるが、交通渋滞のことが予測できないので、時間信頼性の高い電車を選んだのに、今日に限って遅延するとはどうも幸先がよくない予感がする。<br /><br /> 結局30分の遅延を挽回できず、成田空港第二ターミナル駅には18分程遅れての到着となった。集合時間は航空機出発時間より2時間前に設定されているので、致命的な遅れではないが、時間を守ってきちんと集合した他の同行者に迷惑をかけることになりそうなのが心苦しい。<br /><br /> 気が急いているので、集合場所に指定されたカウンターがよく判らない。案内のテレビ画面を見るが、該当のものが見当たらない。近くにいた係員に旅行案内書を見せて、何処へ行けばよいかと尋ねるとHカウンターでよいというので、荷物を検査に通して窓口を探すが、やはり見当たらない。時間に遅れたので、窓口を締め切られたかと一瞬不安な気持ちになる。念のためもう一つの案内板を見に行くとやっとJカウンターへ行けばよいことが判った。既に参加者は全員集まっているらしく、我々が一番最後であった。列車が遅れたことをアピールして、慌ただしくパスポートや航空券を受け取った。添乗員の吉沢美月さんは元部下の大沼淑子さんによく似た顔だちの女性であった。<br /><br /> 免税店で寝酒用にジョニーウオーカーの黒ラベルの小瓶を一つ買ってリュックへしまった。海外旅行では時差が介在するし、宿泊所への発着が深夜に及ぶこともままあって、睡眠が十分とれないことがある。そのため、アルコールの力を借りて寝付きをよくする必要性が起きる。トルコ旅行の時、免税店でジョニ黒の小瓶を求めて試みてみた。ウイスキーを寝る前に飲むと寝付きがよくなり熟睡できることが判った。<br /><br /> それ以来、ジョニ黒の小瓶を買うことが恒例となった。ところで、今回持ち出した小遣いは612ドルである。通常1日当たり50ドルを食事時のアルコール飲料、飲料水、有料手洗い等の出費用としておけば十分なのだが、トルコ旅行の使い残しを全部持ち出したので、一日50ドルの見積もりからすれば多少多めである。帰宅した時、何ドルになっているのだろうか。<br /><br /> 全員が集まって吉沢嬢から説明をきいている時、参加者の様子を観察すると今回はかなり年配の老人が多いなあという印象である。最高齢者は85歳であった。<br /><br /> 13時始動、離陸13時13分。ケネデイ空港着陸11時30分。所要時間11時間25分であった。予定より50分も早い到着となった。窓の外に大陸の広大な平野が俯瞰できたが、ロッキー山脈を越えたあたりだったであろうか、円形に区画された畑が緑色と茶色に見えていて珍しかっ、た。そんな景色が暫く続いてやがてどこでも見られる長方形の田畑に変わった。<br /><br /> 五大湖上空を飛行している時、ここでも雲がなかったので、下界の景色がよく見えた。湖と川が多いという印象である。<br /><br />  秋の空 湖沼多きに 驚きぬ<br /><br /> 飛行機の中では持参した文芸春秋を読み耽ったので、そう退屈することもなく、多少眠ったかなと思う頃にはニューヨークのケネディ空港に到着していた。今回の旅行では成田出発が昼過ぎであったので、飛行時間が12時間とすれば夜中の12時前後になる。時差を考慮に入れて、現地時間に体を順応させていくには、今度の場合、機中ではあまり寝ない方がよい。睡眠時間調整はうまくいったようだ。<br /><br /> この空港はとても大きな空港だという印象である。到着したターミナルからブエノスアイレス行きの出発ターミナルである9番ターミナルへ移動するために、バスに乗ったが随分時間がかかった。15分近くかかったであろうか、それ程大きいのである。ベノスアイレス行きの飛行機が離陸するまで7.5時間近くもあるのに、空港で待機しているだけで、外へでることをしないという。<br /><br /> 旅程の作り方としては、ちょっと能のない話である。ベテランの添乗員であれば、参加者の意向を聞いてまわりオプションということで、国連ビルと自由の女神程度の見学はさせてくれるのにと内心では不満に思っていた。しかしこれは旅行社としては責任外の行動となり、あくまで添乗員の個人的な好意に依存することになるので、あまり強くは要求できない。今回の吉沢さんは社歴も浅さそうだし、自信がないのかなと思ったりした。<br /><br /> 結局誰も市内見学の希望を言いださなかった。老人が多いので長時間の飛行に疲れてしまってその元気もないということなのか。でも7.5時間の手待ち時間は勿体ない。ただ私の場合、両者とも過去に見ているので是非にという気持ちではなかったが、例え二度目であっても空港内でただ時間待ちをしているだけよりは、体を動かしたいという気持ちであった。<br /><br /> 機内食が3回でたが、体調を考えると全部食べないほうがよいだろう。どれだけの量食べるかが非常に難しいところだ。美味いからというので食べすぎると胃腸を壊すし、沢山残すのも幼少期戦中派には気がひける。<br /><br />平成10年10月24日(土)                    <br /> 眠りから覚めて、時計を見ると朝5時10分である。機外に目をやると雲もなくブエノスアイレス上空にさしかかっているところであった。<br /><br /> 山肌を 見せてうねるや ブエの秋                  <br /> 秋の朝 四方発達 白き川                <br /><br /> パンパスに 野焼きの煙 たなびけり                <br /> エセイサ国際空港に5時40分着陸。荷物を取ったり入国審査をうけたり、した後、現地ガイドの熊沢女史の案内で待ち受けているバスに乗り込んで、空港を出発したのは7時23分であった。ニューヨークとの時差は1時間である。熊沢さんは現地生まれの二世だというが日本語はとても上手である。現地通貨の説明に現物を用意していたが、札を金額の大きい順に貼り合わせてあり、コインも並べて貼ってあった。なかなか工夫したなと思わせる。<br /><br /> 7月9日通りを通ると「にせアカシア」が、小さい黄色の花を咲かせている。ジャカランダの木が通りに植えてある。紫色の花が11月に咲くということである。ちらほらとそちこちに咲いているのがみられた。この木は高級家具に使われ木質は非常に固いという。国花はセイボといいディゴの一種である。          <br /><br />  ブエの街 ジャカランダが 咲き乱れ               <br /> 大統領府、コロン劇場(オペラ劇場)、オペリスコ(ブ市400年記念)国会議事堂議事堂前のロダン作考える人、基点石等を見学。       <br /><br /> アルゼンチンの国土は300万平方キロで人口3500万人、ブエノスアイレスは400平方キロの面積に対し1100万人が住んでいるという。 <br /><br /> 革命記念塔、革命広場、メトロポリタン大聖堂を見学。この教会を足早に済ませて外へ出ると出口に老婆の乞食がいた。意外な感じである。トルコでは見かけなかった風景である。教会前の広場のベンチに腰をかけているとパンチパーマをかけた同行の男が近寄ってきて名乗りをあげ挨拶をした。こちらも相応に挨拶を返す。この種の旅行では積極的に働きかけて知り合いになろうとはしない主義を貫いているが、先方より近づいてくるのを拒む理由もない。<br /><br /> ガイドの説明によればアルセンチンは80%以上がカソリックであるという。移民の国で白人が多い。従って母国を偲んだ町作りをするからヨーロッパに似た街のたたずまいである。<br /><br /> 教会を出てからはボカ地区へ移動した。このあたりは、とたん壁の粗末な家が多い。イタリアからの移民が多いらしく、40%にも及ぶという。この地区にあるプラシチサッカークラブにはマラドーナも所属している。チリーの独立を助けたサンマルチノ将軍の銅像があちこちに建てられていたがカミニートにも記念碑があった。この地区の渡しの船頭を少年の頃のオナシスがしていたという話がある。<br /><br /> タンゴの発祥の地カミニートに立ち寄った。アルゼンチンで一番古い港町なのに港自体には往時の活気はなく、うらぶれた雰囲気が漂っている。しかしタンゴの発祥地ということで観光客の往来が激しく、屋台だけの土産物屋。が沢山立ち並んでいる。ビルの中に店を構えた土産物屋も数軒あるが屋台のほうにお客は多く集まっていた。<br /><br /> 絵描きが数人、自作の絵を沢山吊るした展、示台の側で画筆をふるっていた。タンゴを踊っている男女のセクシーな姿を描いた立て看板の横で中年の男が手風琴を弾きながらうら悲しい音を流している。よく見ると踊っている男女の顔がくり抜いてある。記念写真撮影用の舞台装置というわけである。タンゴは元々失恋の歌であるというからもの悲しい手風琴のメロディーは相応しいのかもしれない。一枚絵を買った。<br /><br /> アルゼンチンには東洋人は少ないが、その中では日本人が一番多い。 <br /> 35000人住んでいて、洗濯屋や花屋を営む者が多く、日本移民の歴史は90年になるという。<br /><br /> レコレタ墓地へ見学に行った。墓地見学と聞いたときは変なものを見に行くんだなと訝ったが墓地へ来てみて納得した。墓地には違いないが贅を尽くした豪華な館が建ち並んでいるのである。総大理石造りのものあり、豪華な彫刻を施した柱や壁面あり、様式もゴチック、ロマネスク、ロココ、アールデコと思い思いの様式がある。大きなものは敷地面積が10坪ほどもあるであろうか、小さいものでも1坪くらいはありそうである。故人の遺徳を偲んで立派な墓を作ることがその一族のステータスと富の証になるのである。墓に莫大な金をかけるという思想はローマ時代にもあったようである。トルコのパムッカレで見学したローマ時代のネクロポリス(墓地遺跡)も遺跡になる前の形はこのレコルタ墓地と類似した景観だったであろうと想像しながら見学した。この墓地では極貧の身から女優になりペロン大統領の奥方としてファーストレディにまで登りつめたエビータの墓が有名である。訪れる観光客が供えるのかここだけは切り花の数が特別に多かった。我々が見学している時間帯に軍関係有力者の葬式があるらしく大変な混雑であった。 <br /><br />  エビータの 墓に額ずき ジャカランタ<br /><br />  ゴムの木の その大きさに 驚きぬ<br /><br /> トランケーラ(牧場という意味)というレストランでアサード料理を食べた。店頭ではデモンストレーションのためであろうか、炭火で羊や子牛の姿焼きをしており香ばしい香りが漂っていた。しかし4本の手足を伸ばして串に刺され丸焼きされている羊や子牛の姿はグロテスクである。この姿を見て美味そうだと受け取るかグロテスクだと感じるかは美意識の問題なのか、人間が内蔵する残虐性の問題なのかという疑問がふと頭の中をよぎった。内蔵の前菜とサーロインステーキを食べた。白ワイン750CCのボトルをとった。10$。  <br /><br /> パレルモ公園を通り、ラプラタ川を見学した。この川はアルゼンチンとウルガイの国境をなす大河で長さ 361キロメーター、最大川幅は河口の221 キロメーターもあり大西洋に注いでいる。パンパで採れた穀物や冷凍食肉はこのラプラタ川。の港から輸出されていく。<br /><br />  ラファイエットホテルへ入り、1時間程午睡してから二人で街へ出た。地、図と地形を見比べながら、辺りを見回しキョロキョロしていた。<br /><br /> 並木道を歩いて高い木の下にさしかかったところ、木の上から何かが落ちてくる気配がした。鳥の糞か木の葉についていた水が落ちてきたのかなという感じであった。家内が「いやだ、鳥の糞かしら」と言って上を見上げている。<br /><br /> 私は気づかなかったが言われて上を見ながら、右手で後頭部をさすると手に黄色いものがついている。鳥の糞は黄色いのかなと思っていると現地人の男が同じように木を見上げている。そのうち女がティッシュペーパーを取り出して近づいてきた。ここでハット気がついた。ガイドから注意されていたマスタードによる掏摸の手口である。                      <br />「マスタードだ、掏りだよ。相手にせず逃げよう」と私が叫んだ。近づいてくる二人の男女に対して「ノー、サンキュー」と大きな声で言いながら相手を無視してどんどん歩いた。暫くついてこようとしていたが、毅然とした態度をとったので諦めたのか二人連れは去っていった。<br /><br /> 教科書通りの手口で被害にあうところであった。そのままホテルへ帰って洋服を脱いでみると上着とズボンの上から下へかけて一条、刀で切られたように黄色い線が走っていた。マスタードをかけられたのである。<br /><br /> 二人の男女は手に道具らしきものは何も持っていなかったから、他にも仲間がいて物陰から水鉄砲のようなもので襲撃したのではないかと思う。二人の男女は40歳前後の土着人のような肌の色と顔貌であった。後から考えるのだが、もし咄嗟に相手の襟首を掴まえて、一喝したらどんなことになったであろうか。仲間が出てきて取り巻かれ、大騒動になったであろうか。いずれにしても癪にさわる出来事であった。水洗いして他の洋服に着替えて、タンゴショーへ臨んだ。<br /><br /> ラベンタナというレストランでタンゴショーを見た。タンゴは腰から下の動きが活発でかなりセクシーである。踊り子達の体型はすらりとして恰好がよいが、顔貌はあまりよくないと思った。食事は再びビフテキを取ったがとても大きくて半分も食べられなかった。パサパサした感じであまり美味しいとも思わなかった。餌のせいなのだろうか。ホテルへ帰ると12時30分を廻っていた。<br /><br />平成10年10月25日(日)                    <br /> 6時起床。シャワーを済ませてベッドに腰かけていると家内が起き出してきて、お化粧を始めた。7時にホテルの食堂で朝食をとる。このラファイエットホテルは以前パリで泊まったときも同じ名前であったという記憶がある。バイキングである。南国の果物が豊富なのが嬉しい。    <br /><br /> タンゴのロゴの入ったTシャツを買おうと8時半頃、街中へ出てみるが、清掃の人や車が活躍しているだけで、店はまだ開いていない。ガイドの言っていた通り、日曜日だからなのであろう。ただ、軽食用の食堂は開いていてちらほらと食事をしている人を見かける。それでも一軒、繊維製品を扱っている店が開いていたので、入ってみるとTシャツも売っていた。タンゴの踊りの入ったものをLとMを一着買った。一法君と支奈へお揃いで土産にしようというつもりである。家内が形のよい履きやすそうな靴を見つけて買いたい口ぶりであったが、店が閉まっていてはどうしようもない。ここは歩行者天国のようで、屑入れ箱がやたらに目につく。昨日は夜遅くまで賑わっていた様子が窺われる。<br /><br /> 店が閉まっていては歩いても仕方がないので部屋へ帰ることにした。部屋まで来ると人がいる。メイドが掃除に入っているのだが、我々に気がついて仕事途中で出ていった。枕銭はそのまま残っていた。受け持ちの仕事を早くかた付けようとして、外出している部屋に入って作業していたということらしい。<br /><br /> 風邪気味らしく鼻水が出るので病院で貰って持参していた薬を服用する。指先が荒れているのは風邪薬を服用したからだと見当をつけているので、あまり飲みたくはないが、鼻水が出るのを我慢するのも苦しい。昨日のマスタードのことを思い出したら一句できたので書いておく。<br /><br />  春の街 マスタード鉄砲に 戸惑いぬ<br /><br /> 11時20分にロビーへ集合してから空港へ向かいイグアスへ飛んだ。13時26分離陸、14時00分着地、15時、迎えのバスでイグアスの滝へ向かう。ガイドは斉藤さんという男の人で旅行社を営んでいる社長らしい。<br /><br /> 滝はアルゼンチン側から見るのであるが、滝壺へ流れ込んでいく様を観察することになる。こちら側からの落差はあまり大きなところまでは見られないが、水量といい流れの数といい規模の大きさに圧倒される。滝の幅は4kmに及び滝の数は300もある。<br /><br /> 生憎の雨で滝を見る前から合羽を着用している。合羽のずぼんを当初着用しなかったので下半身はずぶ濡れで寒くなってきた。慌ててずぼんをはいたが遅すぎた。4〜5年前の大洪水で観瀑橋の大部分が流されたので、舟に乗って残っている橋脚まで運んで貰う。その後、流されずに残った橋を歩いて「悪魔の喉笛」と呼ばれる箇所を見学に歩いていく。飛沫が飛んで激しく水煙が上がっているので、合羽で身を固めていても先刻下半身が濡れていたため全身ずぶ濡れである。ビデオカメラを濡らすまいとビニール袋に入れているのだが、どうしても濡れてしまう。<br /><br />  イグアスの 飛沫千丈 夏涼し<br /><br />  大地割れ 悪魔の雄叫び 夏涼し<br />                  <br />  夏の雨  足元かばい 滝を見る<br /><br /> このあとイタイプー湖から放流されて流れてくるパラナ川とイグアスの滝、を経て流れてきたイグワス川の合流する地点が三国の国境になっていて、それぞれの国境点に標識が建っている。ブラジル、パラガイ、アルゼンチンの国境である。この国境をアルゼンチン側から見学したのちカリマンホテルへチェックインした。<br />     <br />

移民の国・タンゴの国

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1998/10/23 - 1998/10/25

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11

早島 潮

早島 潮さん

平成10年10月23日(金)
 成田エキスプレス13号、横浜駅8時30分発に乗車。東京駅で池袋からの電車を接続するために時間が随分掛かった。池袋からの電車が遅れたらしい。かれこれ30分近く遅れて発車した。
 
 成田空港へはリムジンバスでも行けるが、交通渋滞のことが予測できないので、時間信頼性の高い電車を選んだのに、今日に限って遅延するとはどうも幸先がよくない予感がする。

 結局30分の遅延を挽回できず、成田空港第二ターミナル駅には18分程遅れての到着となった。集合時間は航空機出発時間より2時間前に設定されているので、致命的な遅れではないが、時間を守ってきちんと集合した他の同行者に迷惑をかけることになりそうなのが心苦しい。

 気が急いているので、集合場所に指定されたカウンターがよく判らない。案内のテレビ画面を見るが、該当のものが見当たらない。近くにいた係員に旅行案内書を見せて、何処へ行けばよいかと尋ねるとHカウンターでよいというので、荷物を検査に通して窓口を探すが、やはり見当たらない。時間に遅れたので、窓口を締め切られたかと一瞬不安な気持ちになる。念のためもう一つの案内板を見に行くとやっとJカウンターへ行けばよいことが判った。既に参加者は全員集まっているらしく、我々が一番最後であった。列車が遅れたことをアピールして、慌ただしくパスポートや航空券を受け取った。添乗員の吉沢美月さんは元部下の大沼淑子さんによく似た顔だちの女性であった。

 免税店で寝酒用にジョニーウオーカーの黒ラベルの小瓶を一つ買ってリュックへしまった。海外旅行では時差が介在するし、宿泊所への発着が深夜に及ぶこともままあって、睡眠が十分とれないことがある。そのため、アルコールの力を借りて寝付きをよくする必要性が起きる。トルコ旅行の時、免税店でジョニ黒の小瓶を求めて試みてみた。ウイスキーを寝る前に飲むと寝付きがよくなり熟睡できることが判った。

 それ以来、ジョニ黒の小瓶を買うことが恒例となった。ところで、今回持ち出した小遣いは612ドルである。通常1日当たり50ドルを食事時のアルコール飲料、飲料水、有料手洗い等の出費用としておけば十分なのだが、トルコ旅行の使い残しを全部持ち出したので、一日50ドルの見積もりからすれば多少多めである。帰宅した時、何ドルになっているのだろうか。

 全員が集まって吉沢嬢から説明をきいている時、参加者の様子を観察すると今回はかなり年配の老人が多いなあという印象である。最高齢者は85歳であった。

 13時始動、離陸13時13分。ケネデイ空港着陸11時30分。所要時間11時間25分であった。予定より50分も早い到着となった。窓の外に大陸の広大な平野が俯瞰できたが、ロッキー山脈を越えたあたりだったであろうか、円形に区画された畑が緑色と茶色に見えていて珍しかっ、た。そんな景色が暫く続いてやがてどこでも見られる長方形の田畑に変わった。

 五大湖上空を飛行している時、ここでも雲がなかったので、下界の景色がよく見えた。湖と川が多いという印象である。

  秋の空 湖沼多きに 驚きぬ

 飛行機の中では持参した文芸春秋を読み耽ったので、そう退屈することもなく、多少眠ったかなと思う頃にはニューヨークのケネディ空港に到着していた。今回の旅行では成田出発が昼過ぎであったので、飛行時間が12時間とすれば夜中の12時前後になる。時差を考慮に入れて、現地時間に体を順応させていくには、今度の場合、機中ではあまり寝ない方がよい。睡眠時間調整はうまくいったようだ。

 この空港はとても大きな空港だという印象である。到着したターミナルからブエノスアイレス行きの出発ターミナルである9番ターミナルへ移動するために、バスに乗ったが随分時間がかかった。15分近くかかったであろうか、それ程大きいのである。ベノスアイレス行きの飛行機が離陸するまで7.5時間近くもあるのに、空港で待機しているだけで、外へでることをしないという。

 旅程の作り方としては、ちょっと能のない話である。ベテランの添乗員であれば、参加者の意向を聞いてまわりオプションということで、国連ビルと自由の女神程度の見学はさせてくれるのにと内心では不満に思っていた。しかしこれは旅行社としては責任外の行動となり、あくまで添乗員の個人的な好意に依存することになるので、あまり強くは要求できない。今回の吉沢さんは社歴も浅さそうだし、自信がないのかなと思ったりした。

 結局誰も市内見学の希望を言いださなかった。老人が多いので長時間の飛行に疲れてしまってその元気もないということなのか。でも7.5時間の手待ち時間は勿体ない。ただ私の場合、両者とも過去に見ているので是非にという気持ちではなかったが、例え二度目であっても空港内でただ時間待ちをしているだけよりは、体を動かしたいという気持ちであった。

 機内食が3回でたが、体調を考えると全部食べないほうがよいだろう。どれだけの量食べるかが非常に難しいところだ。美味いからというので食べすぎると胃腸を壊すし、沢山残すのも幼少期戦中派には気がひける。

平成10年10月24日(土)                    
 眠りから覚めて、時計を見ると朝5時10分である。機外に目をやると雲もなくブエノスアイレス上空にさしかかっているところであった。

 山肌を 見せてうねるや ブエの秋                  
 秋の朝 四方発達 白き川                

 パンパスに 野焼きの煙 たなびけり                
 エセイサ国際空港に5時40分着陸。荷物を取ったり入国審査をうけたり、した後、現地ガイドの熊沢女史の案内で待ち受けているバスに乗り込んで、空港を出発したのは7時23分であった。ニューヨークとの時差は1時間である。熊沢さんは現地生まれの二世だというが日本語はとても上手である。現地通貨の説明に現物を用意していたが、札を金額の大きい順に貼り合わせてあり、コインも並べて貼ってあった。なかなか工夫したなと思わせる。

 7月9日通りを通ると「にせアカシア」が、小さい黄色の花を咲かせている。ジャカランダの木が通りに植えてある。紫色の花が11月に咲くということである。ちらほらとそちこちに咲いているのがみられた。この木は高級家具に使われ木質は非常に固いという。国花はセイボといいディゴの一種である。          

  ブエの街 ジャカランダが 咲き乱れ               
 大統領府、コロン劇場(オペラ劇場)、オペリスコ(ブ市400年記念)国会議事堂議事堂前のロダン作考える人、基点石等を見学。       

 アルゼンチンの国土は300万平方キロで人口3500万人、ブエノスアイレスは400平方キロの面積に対し1100万人が住んでいるという。 

 革命記念塔、革命広場、メトロポリタン大聖堂を見学。この教会を足早に済ませて外へ出ると出口に老婆の乞食がいた。意外な感じである。トルコでは見かけなかった風景である。教会前の広場のベンチに腰をかけているとパンチパーマをかけた同行の男が近寄ってきて名乗りをあげ挨拶をした。こちらも相応に挨拶を返す。この種の旅行では積極的に働きかけて知り合いになろうとはしない主義を貫いているが、先方より近づいてくるのを拒む理由もない。

 ガイドの説明によればアルセンチンは80%以上がカソリックであるという。移民の国で白人が多い。従って母国を偲んだ町作りをするからヨーロッパに似た街のたたずまいである。

 教会を出てからはボカ地区へ移動した。このあたりは、とたん壁の粗末な家が多い。イタリアからの移民が多いらしく、40%にも及ぶという。この地区にあるプラシチサッカークラブにはマラドーナも所属している。チリーの独立を助けたサンマルチノ将軍の銅像があちこちに建てられていたがカミニートにも記念碑があった。この地区の渡しの船頭を少年の頃のオナシスがしていたという話がある。

 タンゴの発祥の地カミニートに立ち寄った。アルゼンチンで一番古い港町なのに港自体には往時の活気はなく、うらぶれた雰囲気が漂っている。しかしタンゴの発祥地ということで観光客の往来が激しく、屋台だけの土産物屋。が沢山立ち並んでいる。ビルの中に店を構えた土産物屋も数軒あるが屋台のほうにお客は多く集まっていた。

 絵描きが数人、自作の絵を沢山吊るした展、示台の側で画筆をふるっていた。タンゴを踊っている男女のセクシーな姿を描いた立て看板の横で中年の男が手風琴を弾きながらうら悲しい音を流している。よく見ると踊っている男女の顔がくり抜いてある。記念写真撮影用の舞台装置というわけである。タンゴは元々失恋の歌であるというからもの悲しい手風琴のメロディーは相応しいのかもしれない。一枚絵を買った。

 アルゼンチンには東洋人は少ないが、その中では日本人が一番多い。 
 35000人住んでいて、洗濯屋や花屋を営む者が多く、日本移民の歴史は90年になるという。

 レコレタ墓地へ見学に行った。墓地見学と聞いたときは変なものを見に行くんだなと訝ったが墓地へ来てみて納得した。墓地には違いないが贅を尽くした豪華な館が建ち並んでいるのである。総大理石造りのものあり、豪華な彫刻を施した柱や壁面あり、様式もゴチック、ロマネスク、ロココ、アールデコと思い思いの様式がある。大きなものは敷地面積が10坪ほどもあるであろうか、小さいものでも1坪くらいはありそうである。故人の遺徳を偲んで立派な墓を作ることがその一族のステータスと富の証になるのである。墓に莫大な金をかけるという思想はローマ時代にもあったようである。トルコのパムッカレで見学したローマ時代のネクロポリス(墓地遺跡)も遺跡になる前の形はこのレコルタ墓地と類似した景観だったであろうと想像しながら見学した。この墓地では極貧の身から女優になりペロン大統領の奥方としてファーストレディにまで登りつめたエビータの墓が有名である。訪れる観光客が供えるのかここだけは切り花の数が特別に多かった。我々が見学している時間帯に軍関係有力者の葬式があるらしく大変な混雑であった。 

  エビータの 墓に額ずき ジャカランタ

  ゴムの木の その大きさに 驚きぬ

 トランケーラ(牧場という意味)というレストランでアサード料理を食べた。店頭ではデモンストレーションのためであろうか、炭火で羊や子牛の姿焼きをしており香ばしい香りが漂っていた。しかし4本の手足を伸ばして串に刺され丸焼きされている羊や子牛の姿はグロテスクである。この姿を見て美味そうだと受け取るかグロテスクだと感じるかは美意識の問題なのか、人間が内蔵する残虐性の問題なのかという疑問がふと頭の中をよぎった。内蔵の前菜とサーロインステーキを食べた。白ワイン750CCのボトルをとった。10$。  

 パレルモ公園を通り、ラプラタ川を見学した。この川はアルゼンチンとウルガイの国境をなす大河で長さ 361キロメーター、最大川幅は河口の221 キロメーターもあり大西洋に注いでいる。パンパで採れた穀物や冷凍食肉はこのラプラタ川。の港から輸出されていく。

ラファイエットホテルへ入り、1時間程午睡してから二人で街へ出た。地、図と地形を見比べながら、辺りを見回しキョロキョロしていた。

 並木道を歩いて高い木の下にさしかかったところ、木の上から何かが落ちてくる気配がした。鳥の糞か木の葉についていた水が落ちてきたのかなという感じであった。家内が「いやだ、鳥の糞かしら」と言って上を見上げている。

 私は気づかなかったが言われて上を見ながら、右手で後頭部をさすると手に黄色いものがついている。鳥の糞は黄色いのかなと思っていると現地人の男が同じように木を見上げている。そのうち女がティッシュペーパーを取り出して近づいてきた。ここでハット気がついた。ガイドから注意されていたマスタードによる掏摸の手口である。                      
「マスタードだ、掏りだよ。相手にせず逃げよう」と私が叫んだ。近づいてくる二人の男女に対して「ノー、サンキュー」と大きな声で言いながら相手を無視してどんどん歩いた。暫くついてこようとしていたが、毅然とした態度をとったので諦めたのか二人連れは去っていった。

 教科書通りの手口で被害にあうところであった。そのままホテルへ帰って洋服を脱いでみると上着とズボンの上から下へかけて一条、刀で切られたように黄色い線が走っていた。マスタードをかけられたのである。

 二人の男女は手に道具らしきものは何も持っていなかったから、他にも仲間がいて物陰から水鉄砲のようなもので襲撃したのではないかと思う。二人の男女は40歳前後の土着人のような肌の色と顔貌であった。後から考えるのだが、もし咄嗟に相手の襟首を掴まえて、一喝したらどんなことになったであろうか。仲間が出てきて取り巻かれ、大騒動になったであろうか。いずれにしても癪にさわる出来事であった。水洗いして他の洋服に着替えて、タンゴショーへ臨んだ。

 ラベンタナというレストランでタンゴショーを見た。タンゴは腰から下の動きが活発でかなりセクシーである。踊り子達の体型はすらりとして恰好がよいが、顔貌はあまりよくないと思った。食事は再びビフテキを取ったがとても大きくて半分も食べられなかった。パサパサした感じであまり美味しいとも思わなかった。餌のせいなのだろうか。ホテルへ帰ると12時30分を廻っていた。

平成10年10月25日(日)                    
 6時起床。シャワーを済ませてベッドに腰かけていると家内が起き出してきて、お化粧を始めた。7時にホテルの食堂で朝食をとる。このラファイエットホテルは以前パリで泊まったときも同じ名前であったという記憶がある。バイキングである。南国の果物が豊富なのが嬉しい。    

 タンゴのロゴの入ったTシャツを買おうと8時半頃、街中へ出てみるが、清掃の人や車が活躍しているだけで、店はまだ開いていない。ガイドの言っていた通り、日曜日だからなのであろう。ただ、軽食用の食堂は開いていてちらほらと食事をしている人を見かける。それでも一軒、繊維製品を扱っている店が開いていたので、入ってみるとTシャツも売っていた。タンゴの踊りの入ったものをLとMを一着買った。一法君と支奈へお揃いで土産にしようというつもりである。家内が形のよい履きやすそうな靴を見つけて買いたい口ぶりであったが、店が閉まっていてはどうしようもない。ここは歩行者天国のようで、屑入れ箱がやたらに目につく。昨日は夜遅くまで賑わっていた様子が窺われる。

 店が閉まっていては歩いても仕方がないので部屋へ帰ることにした。部屋まで来ると人がいる。メイドが掃除に入っているのだが、我々に気がついて仕事途中で出ていった。枕銭はそのまま残っていた。受け持ちの仕事を早くかた付けようとして、外出している部屋に入って作業していたということらしい。

 風邪気味らしく鼻水が出るので病院で貰って持参していた薬を服用する。指先が荒れているのは風邪薬を服用したからだと見当をつけているので、あまり飲みたくはないが、鼻水が出るのを我慢するのも苦しい。昨日のマスタードのことを思い出したら一句できたので書いておく。

  春の街 マスタード鉄砲に 戸惑いぬ

 11時20分にロビーへ集合してから空港へ向かいイグアスへ飛んだ。13時26分離陸、14時00分着地、15時、迎えのバスでイグアスの滝へ向かう。ガイドは斉藤さんという男の人で旅行社を営んでいる社長らしい。

 滝はアルゼンチン側から見るのであるが、滝壺へ流れ込んでいく様を観察することになる。こちら側からの落差はあまり大きなところまでは見られないが、水量といい流れの数といい規模の大きさに圧倒される。滝の幅は4kmに及び滝の数は300もある。

 生憎の雨で滝を見る前から合羽を着用している。合羽のずぼんを当初着用しなかったので下半身はずぶ濡れで寒くなってきた。慌ててずぼんをはいたが遅すぎた。4〜5年前の大洪水で観瀑橋の大部分が流されたので、舟に乗って残っている橋脚まで運んで貰う。その後、流されずに残った橋を歩いて「悪魔の喉笛」と呼ばれる箇所を見学に歩いていく。飛沫が飛んで激しく水煙が上がっているので、合羽で身を固めていても先刻下半身が濡れていたため全身ずぶ濡れである。ビデオカメラを濡らすまいとビニール袋に入れているのだが、どうしても濡れてしまう。

  イグアスの 飛沫千丈 夏涼し

  大地割れ 悪魔の雄叫び 夏涼し
                  
  夏の雨  足元かばい 滝を見る

 このあとイタイプー湖から放流されて流れてくるパラナ川とイグアスの滝、を経て流れてきたイグワス川の合流する地点が三国の国境になっていて、それぞれの国境点に標識が建っている。ブラジル、パラガイ、アルゼンチンの国境である。この国境をアルゼンチン側から見学したのちカリマンホテルへチェックインした。
     

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  • ブエノスアイレス。エセイサ国際空港

    ブエノスアイレス。エセイサ国際空港

  • コロン・オペラ劇場

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  • 国会議事堂前の公園内基点石

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  • 国会議事堂とロダンの考える人

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  • タンゴ発祥の地。カムヌート

    タンゴ発祥の地。カムヌート

  • ジャカランタ

    ジャカランタ

  • レコレタ墓地

    レコレタ墓地

  • タンゴショーの踊り子たち

    タンゴショーの踊り子たち

  • ラプラタ川

    ラプラタ川

  • アルゼンチン側のイグアスの滝

    アルゼンチン側のイグアスの滝

  • アルゼンチンで一番大きなゴムの樹木

    アルゼンチンで一番大きなゴムの樹木

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この旅行記へのコメント (1)

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  • ドク金魚さん 2009/09/05 10:45:54
    懐かしい ジャカランタの花
    はじめまして。
    中米のキューバとメキシコ旅行は体験してますが
    南米進出はまだ。当分先の話でしょう。

    メキシコの(オアハカから遠出)田舎町でジャカランタの花が満開でした。
    鮮やかでのどかな街並み、市場巡り・・。
    夫婦だけだった頃も思い出し、懐かしく回想してます。(只今2歳児の母)

    マスタードの件は南米の洗礼でしたね。
    犯罪種も土地柄を感じました。

    南米は憧れです。アルゼンチン ペルー ブラジル〜
    いつの日か訪れたい、そう願ってます。

    また旅行紀を楽しませて頂きます。

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