2006/04/29 - 2006/05/07
231位(同エリア346件中)
瑞樹さん
昨日一日成都で過ごし、いよいよラサへ。
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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翌、4月30日(日)。
モーニングコールは5:004:45に起きた私
旅行のときは何故かちゃんと目が覚めるんだよなぁ。
外はまだまだ真っ暗。 -
ホテルのロビーでボックスランチ(ボックスブレックファストって云う?)を貰い、まだ暗い中(6:30)を出発。
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7:50の国内線で、成都からラサへ。朝だというのに、成都双流国際空港は多くの人で賑っていました。
途中に出た機内食、パンと殻ごと半分に切った味付き卵、山菜と野菜の和え物、中国蒸しパン、それに搾菜ののったお粥でした。うーん、中国。 -
9:50、ラサの南110kmにあるゴンカル空港へ到着。
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空が青い!空が近い!
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平均海抜4000m以上のチベットは「世界の屋根」と呼ばれています。
そのチベット自治区の区都であるラサは、凡そ1300年の歴史を持ち、ヤルツァンポ江の支流・ラサ河谷地にあります。日差しが特に強いことから、日光城とも呼ばれているそうです。
写真は、空港の果物売り場。 -
”ラサ”とはチベット語で「聖地」の意味で、紀元7世紀初期の吐蕃国の都でした。
現在は、チベットの政治・経済・文化・交通と、宗教活動の中心地。
近年、中央からの投資が増加し、それに伴い漢族の移住、そして観光客が急増しています。
行く前はそんなことを知らなかった私ですが、この7月には青蔵鉄道が完成して、更に観光客が訪れるようになるでしょう。
そうすると、観光料も値下げになるかも?ということですが、漢族が急増したためになんと、本来の地であるチベットで、チベタンが少数民族になりつつあるそうです。
なんてこった。
チベットに行くなら、今が行き時かも。 -
ゴンカル空港に着いた私たちを迎えてくれたガイドのHさんは、先ずお茶を勧めてくれました。
そして、ひとりひとりにカターを掛けて歓迎してくれました(写真の白いシルクの布)。
チベット及びチベット文化圏では、このカターと呼ばれる布は欠かせないものです。 -
寺の参拝、ダライ・ラマ法王や高僧の謁見、宗教の儀式、知人・友人の送迎、子供の誕生日、結婚式、葬式、引越し、卒業式など様々な場面で、この布を挨拶しながら相手に渡す習慣があります。
カターの「カ」は口、「ター」は布あるいは印(しるし)という意味で、誠心誠意、心からの敬意を表しています。
カターには青、赤、黄、緑そして白の五色があり、また材質も優劣あり、宗教的儀式や供養などの目的に応じて使用する場合もあるそうですが、現在はその機会は余りないようです。
もともとカターは1000年ほど前に中国から伝わったもので、当時は羊毛製であったそうです。 -
現在はもう絶えてしまっているかも知れませんが、昔のチベットでは、吉日や大切な日の早朝などに家の屋上や玄関で香を炊き祈る習慣があり、その際、頭に羊の毛を数房付けて供養していたそうです。
この羊毛が変化して現在のカターになったといわれています。
最高級のカターはダライ・ラマ法王や尊敬する高僧に挨拶に伺う時に用いられ、上質の絹で作られた”ナンゾ”と呼ばれるもの。
これには真ん中に運勢を強くするナムチュワンデン(カーラチャクラを象徴する図)とその周りに八吉祥(タシタクゲー)、両端にチベット語で、「ニモデレ・ツェンデレ・ニツェン・クントゥ・デワタン・クンチョク・スムキ・タシーショク」(『昼も元気で、夜も元気で、いつもまでもの元気で、三宝の(仏・法・僧)ご加護がありますように』←なんか欲張ってない?)という文字を描かれているそうです。 -
さてこれから、ヤルツァンポ川沿いにラサ市内へ向かいます。
以前は2時間ほど掛かった道程も、昨年9月に完成した2,7kmのトンネルを含む新しい道路のお陰で、1時間で通行出来る様になりました。
今は一番、青空の多い時期だそうです。 -
ラサへの道程、タルチョがはためく大きな橋などで休憩を取り、ホテルへ向かいます。
チベット自治区の平均標高は4,000m以上ですが、4,000m以上には余り人は住んでいないそうです。
ヤルツアンポ河沿いに車を走らせましたが、この河はチベット最長の川であり、ヤルツアンポ河大峡谷の深さは5,382m、世界で最も深い峡谷だそうです。
では、ホテルに着くまでの間、チベット人の歩んできた歴史など。 -
ラサは、7世紀前半にチベットを統一した吐蕃王朝第33代ソンツェン・ガンポによりチベットの都と定められ、641年には中国の公主(唐王室の皇族女性)がチベットのツェンポ(王)の妃として迎えられました。
伝承では、このときネパール王女も同時に妃に迎えられ、二人がもたらした仏像を本尊として納めるため、トゥルナン寺、ラモチェ寺が建立され、そこから街が発展したそうです。 -
8世紀、ティソンデツェン王の時代に仏教が国教化。しかし9世紀半ば頃には群雄割拠状態となり、仏教も衰退。9世紀に吐蕃王朝が崩壊すると、チベットの政治的中心地は覇者たちの所在地を転々としましたが、宗教的中心地は常にラサでした。
13世紀にはサキャ派(紅帽派)のパスパ(1235(39)〜80)がフビライの信任を得て国師となりチベット仏教はモンゴル帝国、元朝の国教となりました。
14世紀末にツォンカパによりゲルク派が創始され、1414年にはラサ三大寺の筆頭・ガンデン寺がゲルク派の本拠地となり、モンゴル系民族オイラートのグシハン朝の支配下、熱心なダライ・ラマの信者であったオイラト・ホショト部のグシ・ハンがチベットの大部分を征服したことをきっかけとして、1642年ゲルク派の最高位ダライ・ラマ5世によるチベット統一が確立。 -
諸宗派に対するゲルク派の優位(特にモンゴルにおけるゲルク派の優勢)が決定的となり、再びラサはチベット全域の政治的、経済的、文化的中枢の地位になりました。
しかし、1720年には清朝のラサ侵攻を受け、その後、駐蔵大臣が設置されることとなりましたが、ダライ・ラマの聖俗における権威と支配は認められていました。
1904年にイギリス軍がラサに侵入、ダライ・ラマ13世は一時モンゴルに亡命、ロシアの援助を希望しましたが断念。 -
1906年には英清条約でチベットにおける清の宗主権が確認されましたが、情勢は安定せず。
1908年、ダライ・ラマはラサに帰還しましたが、1910年の清軍の侵攻とともにインドに亡命。
辛亥革命で清軍が撤退した後に再びラサに帰還しました。
この辛亥革命の混乱期に、イギリスの後ろ盾を持ってチベット独立を宣言。
1914年、イギリスはシムラ会議でチベットの主権を認めましたが、中国は否認。
1925年に親中国的なパンチェン・ラマがダライ・ラマと対立し、中国に亡命。1933年、ダライ・ラマ13世が亡くなると、中国政府は14世の転生を確認、同時に政府代表をラサに駐在させました。
(1939年、パンチェン・ラマは亡くなりました。) -
1949年、中華人民共和国が成立し、1951年に人民解放軍がラサ進駐。「チベット平和解放に関する17条協議」締結。
1954年、ダライ・ラマ14世とパンチェン・ラマ10世が第1回全国人民代表大会に出席。「17条協議」ではチベットでの社会主義改革は強制しないことになっていましたが、アムド、カム地方(東チベット、中国側では青海省、四川・雲南省とみなす)では改革が強行され、反共産党・反漢族感情が強まり、武装蜂起が頻発。
1959年にはラサで大規模な反乱が勃発しますが、人民解放軍によりチベット人は多くが殺害され、寺院はことごとく破壊されました。そして、ダライ・ラマはインドに亡命。 -
「反乱」の鎮圧後、ウ・ツァン地方(中央チベット)でも「民主改革」の名の下、土地改革や奴隷解放が行われる一方、寺院の厳格な管理が行われるようになりました。
1966年からの文化大革命では民族は「ブルジョア的存在」と規定された為、少数民族の被害は悲惨なものだったようです。更に「反乱」の際運良く残った寺院や文化財も徹底的に破壊され、僧侶や旧貴族を始めとするチベット人も殺害・虐待されました。 -
文革後の1980年に行われた「チベット工作座談会」では従来の共産党のチベット政策が批判され、チベットの実情に即した政策をとることと民族文化の尊重が確認されましたが、1989年にも大規模なデモが発生し、流血の事態に発展したそうです。
延べ数十万人のチベット人が虐殺され、彼らの漢族及び”中国”に対する憎しみは今も消えていないようです。
1959年、インドのダラムサラではチベット亡命政府が発足。
1960年代以来、政府の民主化が進んでいますが、ダライ・ラマの親政を望む声もあるそうです。
対中関係については、流血を好まないダライ・ラマの公式的な立場は「独立ではなく高度の自治」の要求としていますが、チベット青年会議(TYC)などは、完全な独立を主張しており、今も複雑な状況です。 -
さ、そうこうする内にホテルへ到着です。
が、その道程には流石チベット!という動物のいる風景が見られました。
こちらは、途中でバスを降り休憩をしたところの近くに建っている民家。
屋根の上に、河で獲れたであろう魚が干されています。
チベットの乾燥した空気と強い日差しで、直ぐにカラッカラになりそう。 -
のんびりと草を食むドンキー。きっと荷物を運んだりするのでしょう。
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こちらは、カメラ目線のヤク。
チベットでヤクは欠かせない動物のひとつ。
肉は食用に、脂はバター茶など飲食用・灯明用の油、ミルクは飲料用に、皮は加工品に。
そして糞は燃料に。余すところ無く利用されます。
生きている間は、こうして畑仕事。これで魂は休まるのだろうか。 -
なぜこのヤクがお行儀良く写真に収まったかというと、私たちがヤクを見て歓声を上げるなり、このおじさんが畑仕事中のヤクを、わざわざ私たちの前で止めてくれたのです。
観光客に慣れているのかな。どうもありがとう、おじさん。 -
はい、本当にホテルに着きました。
今日のラサでの宿泊には、バルコル(八廓街)と呼ばれる旧市街一の繁華街から程近いところにある、香巴拉酒店(シャンバラホテル)を利用します。 -
ホテルへ到着し、まず一階のロビー横にあるレストランで、お茶を頂く。
お茶といってもリプトンのティーバッグで、カップのお茶が無くなったり少なくなったりすると、すかさず注いでくれます。
ウェイトレスさんの制服、なかなかオリジナルで可愛いです。
リプトンなのは残念ですが、お茶をがぶがぶ飲めるのは嬉しい。
水分補給は、高山病予防に重要なのです。 -
実は成都でも、既に高山病についてはガイドさんからしっかりと説明がありました。
?風邪をひかない
?食べ過ぎに注意
?水を沢山飲む
?お酒・煙草を飲まない
?意識的に深呼吸をする
?無理をしない
?睡眠をたっぷりとる
大きなところでこれくらい。
もともと高山病は短時間の内に高山へ移動したときに起こる症状。
気圧の低下や酸素の欠乏などが原因。
息切れ・めまい・動悸・頭痛・吐き気・耳鳴り・難聴などがおこります。
私は3年前のペルーで、マチュピチュへ3泊4日のトレッキングをしたときは、全く平気でした。
トレッキングの前にリマからクスコへ移動し、そこで一泊していましたが、ちょっと頭痛のような(←普段頭痛も殆どないので、よく分からない)感じが出ただけ。 -
個人差はありますが、大体3,000mくらいから”高所反応”が起こるようです。
標高が高くなると、身体がそのストレスを感知し、それに対して適応活動を始めるのです。
自覚症状があろうがなかろうが、この適応活動は必ずおこっているので、慎重に行動するに越したことはありません。
このツアーでは添乗員さんがパルスオキシメーターを携帯していて、一日2回ほど血中酸素濃度と心拍数を測ります。
既に私も測ってもらったのですが、値の低いこと。
チベットにいる間はそんな状態が続きました。が、本人は至って平気。 -
「ダイアモックス」という本来は緑内障治療の薬が高山病予防には効果的、ということでこれを服用する人も多いですが、私は普段も薬といえば目薬くらいしか使わないので、持参しませんでした。
相部屋になったSさんに一度分けていただいて服用しましたが、余りの利尿作用に夜は寝たんだか寝ていないんだか、2,3回はトイレに起きたので懲り懲りで、それっきりでした。
ところで、これはホテルの部屋のバスルームですが、アメニティグッズの中央に陣取る赤いパッケージ。
白人の男女が情熱的に抱き合っています。
おお、ひとりっこ政策の中国だから?でも見たのはここだけでした(因みに有料との表記あり)。 -
このシャンバラホテルは中級程度ですが、ラサの観光には非常に便利な立地です。
周囲にもお店が沢山並び、買い物にも困りません。
ホテルのフロントも、いい味出しています。
バイキングの朝食は、まぁ普通ですが、反対側にあるレストランはなかなか美味しいです。
香巴拉酒店
西蔵自治区拉薩市丹杰林1号
TEL 0891-6323888 FAX 0891-6323577
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