2016/06/24 - 2016/07/03
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一川さん
9日間の長い旅ですけど、北京からラサへ、列車で徐々に高山へ行く、その内の乗車体験、様々な人間様態、変幻自在な列車窓を越して眺めた自然風景等々、その感動さは文字だけでは書ききれないほどですが、日記の形を作り、残しておきたい心情です。
元中国出身なので、旅人や現地チベット住民などとの接触には支障がないものの、思惑を感じさせられたりトラブルが起きたりして、色々なでき事に遭遇していましたが、目的であるエベレストまでにいくことが実現し、何よりの喜びを感じてしまいました。
「エベレスト全体が突然私たちにその広い胸襟を開いてくれたのだ。こうして、私たちはその真の姿を身近に一目で見ることができた。その雪に覆われた部分は、光に照らされて、ぴかぴかと明るく輝いている。その褐色の土層が白雪を背景に白黒をはっきりさせながら、ひときわ目立っている。」
「エベレストは、ダイバーシティな巨体を見せながら朝の私たちを迎えてくれている。
魔力に富むエベレスト、世界の頂点に聳え立つエベレスト、その雄壮たる姿には圧倒されてしまっている。エベレストは、千百万年の歴史の移り変わりを目撃して、絶えず無数の勇敢な者を引き付け、親密に触れさせているのだ。」
ほんとにこのエベレストへの旅は、朝の太陽に恵まれ、まことに幸運の至りであった。その心情を皆さんに共有したいと思っております。
- 交通手段
- レンタカー
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世界の屋根に行こう
1
2016年6月24日火曜日 晴れ33℃
「汽車に乗ってラサへ」の歌の影響もあってか、沿道の景色を楽しみながら高原の気候に慣れて行きたいと思い、夜20時発の北京-ラサ直行の急行T27便でチベットの旅に出た。
私が申し込んだのは12日間の陸路・航空を使ったツアーコースで、旅行社から18時半に北京西駅北広場に集合するようにと言われた。
時間通りに北広場に到着したが、日はまだ沈まず、暑さの余勢が残っていた。日中の焼けた地面からは湯気が舞い上がり、人々の中にはさまざまなタバコの匂い、汗の匂い、化粧品の匂いなどが立ち込めていた。
すでに汗だくになっていたのに、いきなりこの雑踏の中に来て、私は少し頭がぼんやりして大きくなった。試練はあまりにも早すぎたのではないだろうか?
旅行社の案内に従い、ガイドさんを見つけて寝台券を手に入れた。40数時間の道のりを考えると、なんとか苦労を避けたいので、ガイドさんと相談し、400元を支払って軟座寝台券(高級寝台車)に変更した。ガイドさんは私にもう1枚のホーム入場券を渡し、駅に入る際は必ずこの切符を使用するように、軟座券を提示しないでください、と指示してくれた。疑問に思って聞いてみると、やっとその理由が分かった。その一等寝台はガイドさんたちが以前から買いだめしていた「資源」であり、通常は実名で購入する「軟座券」は改札で使用しないことで、どの人物が「実名」を使用していたのか分からなくするための措置だった。
個室に入り、まだ座りもしていない内に英語混じりの騒ぎ声が聞こえてきた。
一体何なのだろうかと思っていると、一人の西洋人美女がドアの前に現れた。そばに居るもう一人の十七、八の少女が彼女に何か「change」などと話している。少女が来るのか外国人が来るのか、誰であっても悪いことではない。そんなことを考えていると、香水の匂いが鼻を衝いてきて、あわや気絶しそうになり、頭が鈍く痛み始めた。やっぱりこの西洋人女性は、私が最も我慢できないようなヨーロッパの強烈な香水をつけていたのだろう。駅前広場の「熱波」の洗礼を受けたばかりなのに、もしかして今頃「香水陣」に入るのか…?
私はすぐにその少女に聞いた。
少女は、私がここの個室だが、家族は西洋人美女と同じ個室だ、お母さんは家族が一緒になりたいとして、私たちの個室に変えて欲しいと西洋人美女と相談したと言ってくれた。私はすぐに、あなたの英語がこんなに上手なのに、この40数時間の言葉交流の機会を放棄するべきではない、あなたは彼女と個室を交換するなら、交流することができなくなる、彼女も私とコミュニケーションができず、気まずくなるだろう…、と少女に相談すると、「了解した」と返事が返ってきた。
しばらくしてから、50前後の女性が個室に入って来た。彼女は自分があの少女の母親であることを教えてくれた。「今では何人かの話で盛り上がっているそうだ」と報告してくれた。また、「私の娘はシンガポールの大学に進学していて、英語がとても上手だ」と女性は最後にこう付け加え、顔には限りない誇りがにじみ出ていた。
私はすぐにお世辞を言って、なんとかこの香水の危機を治めた。
時間はすでに10時を過ぎていたので、私は上段ベッドに登って、この列車の旅のために買った「乱世のヒーロー」(軍閥張作霖伝記)を取り出して、時間を100年前の清末時代に戻した。
日曜日には姪の結婚式に参加して、ハルビンから北京に戻ったばかりだし、月曜日には急いでチベットへ行くための薬や衣類などを買い出し、今日は汽車に乗車して出発したため、疲れと揺りかごのような揺れの中で、私は本を持ちながらいつの間にか眠りに落ちた。The Tibet Cang-gyan Lhasa Hotel ホテル
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2016年6月25日水曜日 曇り25℃(車内)
目が覚めるとぼうっとしながらシャワーを浴び、出勤ショートして起きたら、突然、左足がすっかり浮かんでいて、体のバランスが崩れそうになった。しばらくしてから意識がはっきりしてきた。もともとこれは汽車に乗っていたのだ。十数年間まったく汽車の寝台に乗っていなかったからか、まだなかなか不適応だったのだ。
寝台の洗面室で歯を磨き、顔を洗ってから、まだ7時前の朝食時間帯なので、食堂車に行った。朝食の種類はあまり多くなく、薄っぽいお粥、何枚かの揚げパン、ゆで卵と漬物などを入れた朝食セッとは10元を要するが、まあまあの食事だ。
食堂車に座って窓の外を見ていると、夜はとっくに明けていて、まだら模様の野原がひっきりなしに目の前を過ぎ去り、時にはボロボロのレンガ造りの家や雑然とした林や池が目に飛び込んでくる。ただでさえ豊かではない朝食が、この光景を見るといっそう味気なくなった。
個室に戻ると、カップラーメンの匂いが鼻の穴に突っ込まれてきた。いつもはこの食品に抵抗がある私でも、少し食欲をそそられた。テーブルの前に座っている女性は、私が入ってくるのを見て、湯気をたてている「康師傅」を美味しそうにすすりながら会釈した。
「彼女たちは本当に興奮して、夜中までトランプを打って遊んで、今でもまだ起きていないんだよ」
女性はカップラーメンを食べ終わると、言葉箱の蓋を開けた。
「もしかしてあの外国人も一緒に遊んでいるのか?」と疑問を投げかけた。
「娘がそう言っていた」と女性は答えた。
女性は、娘が休みになったので遊びに連れて来てくれたとも話してくれた。
「同行していたもう二人の少女は親戚の子だ。出てきてから気づいたんだけど、自分の娘に非があったら自分の言うことを聞いてくれるが、あの二人の子にはあまり仕付けのことを言えない。まだ行き先に着いてないのにもう癇癪を起こすなんて、まあ!もう嫌になっちゃうわ…」
女性は滔々と語っていたが、いかんせん私という聴衆は何の役にも立たず、ただ「はあはあ」と応対しながら、ベッドに登ってすぐに軍閥の世界に入った。女性はぼんやりと私の方向へ凝視していて、窓の外に放り出されている荒涼とした野原には見向きもしない様子だった。
11時過ぎに、少し空腹を感じてきた。自分が持って来た「ハルビン大列巴」(ロシア式パン)を開けて、赤いソーセージ、魚泉ザーサイ、キュウリ、許氏味噌など、ハルビンスーパーの食品を取り出した。飲んだのは持って来た「紅牛」という健康ドリンクだった。汽車に乗ってから、今回の旅行は絶対に白酒を飲まないと心に決めていたのだ。
たくさん食べて、たくさん飲んだ後、満腹になった。長いこと汽車に乗っていなかったからか、好奇心が沸き上がり、所在の5号車から車両を潜って、9号の寝台車まで行った。以前に乗った寝台車よりも通路が狭くなった感じがした。また、寝台車はベゼル付きの三段敷きでドアがない以外、ほとんど軟座寝台車と変わらない。車内にはザーサイの匂いが漂っていたが、思ったほど騒がしくはなかった。
各車両結合部の洗面台横の壁には、この鉄道ルーとの各停留所と到着時間を示すカラーの図が掲げられている。この図を見たら、列車はすでに寧夏の境内に入ったようで、外の景色は静かに変わり、すぐに感興が湧き出て、窓の外に専念した。
大きな饅頭のように丸裸の黄色い丘陵が次々と窓の外を通り過ぎていくと、それまで荒れていた草原はいつの間にかその跡形が消え、目の前には、見たことのない異様な世界が広がっていた。丘陵の間を時折曲がりくねった道路が通っていて、路盤の高い列車からは、まるで複数の真珠の繋がれたネックレスが青空と白雲の間に散在しているような奇妙な風景が見えている。
空想にふけっていたところ、お腹の異常を感じ、素早くトイレに行って用を足した。一回、二回…、下痢かと気が狂うほどだった。まだチベットに着いていないのに、これが続けば、この旅行もこの休暇もダメになってしまうのではないだろうか?考えれば考えるほど怖くなって、直ちに用意していた腸炎薬を出して飲み込み、夕食もあっさり省略した。そのままじっとその効き目を待っていた…。数時間も経つと、なんと良くなってきた。
小さな危機を乗り越えた頃には、空はもう暗くなり始めた。遠くに浮かんでいる黒い雲はまるでキノコのようで、それが真っ黒な鏡の上に立っている。そんな神秘的で不気味なものが見えて来た。
「これは青海湖だ」誰かが叫んだ。
青海湖はグレーな色に包まれ、想像していた震撼力が感じられず、その百変もある勇姿の中で最悪の一面を見たのだろう?もしかして列車のゴロゴロがこれを騒がしたのだろうか?私は想像力を活かしながら、またこの列車の個室で別の夜を迎えた。ポタラ宮 (布達拉宮) 城・宮殿
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2016年6月26日木曜日雲のち晴れ22℃
夜中にパチパチという音で目が覚めた。どうしたの?と聞いてみた。温度を調整して…、と女性の声が聞こえると、私も個室の温度が下がり,体中が少し冷えるのを感じた。女性はしばらく弄ったが、はっきりとした効果がないようで、諦めて大きなため息をついてベッドに戻った。
窓の外を見ると、真っ暗で何の景色も見えなかった。列車の車輪がリズミカルに響く音と、空調機が発した雑音だけが聞こえた。私はもはや、今はゴルムを過ぎて崑崙山脈に入り、標高5000m以上のタンゴラ山を越える時間帯だと推測していた。こんなに標高が高く、こんなに複雑な地形で、人々はどうしてこの青蔵鉄道を建設したのかと、私は当時の鉄道労働者の壮挙にひそかに尊敬の念を禁じ得なかった。
鉄道工事の風景を想像しているうちに眠気が再来し、私はダンゴラ山の雄姿を見るのを待ちきれず、また眠りについた。
目を覚ますと、頭のてっぺんから「ちっちっ」と空気が出る音がした。もしかして車両から空気が漏れているのか?と起き上がってよく見ると、車の壁にはスイッチのようなアルミ板がはめ込まれていて、そこに穴が開いている。その空気音はそこから出ていたのだ。酸素だ!とハッとした。青蔵鉄道の機関車は中国独特の設計の高圧酸素車両で、建設費が非常に高いと言われたことを覚えている。時計を見ると、もう朝5時くらいになり、ダンゴラ山はもう過ぎたはずだが、私には何の不快な反応もない。
何時の間にか、空調機から出る冷気が暖房に変わり、個室の中はぽかぽかしていて、体感が快適になった。窓越しに白い光が空に浮かんで来て、ダウンジャケットを頭に被って服のまま寝ている女性が見えた。布団を丸めて放り投げられている状態だったので、ベッドに寝ていなかったことが分かった。
洗面が終わり、朝食まで時間があるので、それを待つ間通路の席に座って窓の外の景色を眺めていた。この時、遠くの空に浮かんでいる雲の間をいくつか金色の光線がまっすぐに突き抜けて来た。その瞬間、真っ赤なトマトのような朝日が現れ、花火のように一気に昇り、大地一面は明るい太陽の光輝で覆われた。すると、遠い山や近くの草が鮮明に目に映って来た。褐色の山脈とエメラルドグリーンの草原ははっきりと区別され、互いに交わりあっている中、牛や羊が草原の中をぶらぶら歩いている風景が描かれていた。これは私が夢中になっているチベット高原なのだろうか。
私は、写真を撮るのを忘れてしまうほど、外の景色にすっかり引き込まれてしまった。周りを見回すと、通路はもう人で一杯になり、ぱちぱちという音が絶えず、感嘆の声や驚きの声があちこちから起こっていた。「憧れる美しいチベット高原、私はやって来たぞ」とみんなは、恐らく心の中でこう叫んでいるだろう。
興奮した気分で朝食を済ませて、個室に戻ると、女性は起き上がり、顔色が悪くなっていたようで、聞けば、彼女は昨晩すでに高山病にかかっていたと言う。「頭痛、息苦しさ、不眠に一晩中振り回されていた。子供たちを連れていかなければならないのに、私が先にだめになってしまってはどうしよう?」と女性の血色の悪い顔色は憂いに満ちていた。「私たちはみんな大丈夫だよ…、もう少し「紅景天」(高山病薬)を飲んだら大丈夫だ」と私は慰めた。
私も飲んだのだが、女性はそう言ってテーブルの方を指した。小さなテーブルの上には、開封された「紅景天」内服液のケースが置いてあった。そんなことを話していると、これまであまり姿を見せなかった少女が、玄関先で母親を呼んで朝食を食べに連れて行った。その少女はにこやかで、母親とは比べ物にならないほどすがすがしい顔をしていた。
母娘二人が出て行くと、車掌が何枚かの紙を手に入ってきて、私に記入するように言った。私が見ると、「健康登録表」というものだった。高血圧や糖尿病など高原にふさわしくない病気があるかどうか、健康を保証するための説明や連絡先などをありのままに記入するように求められた。これはまた少し緊張した空気を作り出した。自分も女性に遅れて高山病になるのではないかと心配するようになった。この高原の酸素列車の中は結局車外と少し違いがあるはず、本当の高原は一体どういうものなのか?私はそれを早く体験したいという強い気持ちになった。
汽車は絵のように美しいチョナ湖を通り過ぎ、ラサの最後の玄関である那曲駅に近付いた。ここで三分間の停車だ。私はいち早く列車のドアを出て、ホームに立ち、大きく息を吸った。何の苦しさも感じなかった。うろうろホームを歩き回ったりしても別に異状はなかった。那曲は標高3600メーとル以上で、ラサよりも高い。ここで大丈夫なら、ラサはなおさらだ。ただ、今は夏だというのに、ここはあまり気温が高くないようで、半袖だと少しひんやりするのだった。
列車は峡谷の中を走り続け、道路の両側には家や森が増えた。午後16時55分に列車はやっと目的地のラサ駅にほぼ時間通りに到着した。
喜びと悲しみを明暗両端に感じそうなあの母と娘に別れを告げて、ワクワクした気持ちで大勢の人波に巻き込まれながらホームを出た。
ラサ駅の建物はポタラ宮に似ており、紫褐色のダムの形をした壁にはとチカの口のような小さな窓がついている。黒服の警察機動隊と緑色の武装警察が実弾を装填した自動小銃を手に握り、駅の広場周辺には厳重な警備体制が取られている。彼らにはアフリカ人と変わらない黒色の肌をしているという共通の特徴があった。あの黒服の機動隊員がかぶっているサンダル帽は内陸地の機動隊のものとは異なり、地域的な匂いが漂っている。
凝り固まった雰囲気とは対照的に、ラサの風は澄み切っており、その地は抜けるような青空に入り込んでいる。スモッグの都から来た私は、パッと明るく開いた景色に気分が盛り上がり、高山病の症状を感じなかった。しかし、私の肌を熱くし、目の前にある景色を眩しく感じさせる太陽の光は強烈なものだった。慣れるのに暫く時間が掛かったが、やっと「西部縦横」というピックアップの看板を見つけた。それを持っているガイドさんが、私の側まで迎えに来てくれた。
じっくりとこのガイドさんを見ていると、彼は30歳にもなっていないようだ。または頭の周りの髪はぴかぴか剃られており、頭上に残されている髪は清の時代の役人羽帽のように結び付けられていて、なかなか奇抜なガイドさんだ。 -
奇抜なガイドさんは方言味のある共通語を操り、手にハダ(白いシルクマフラー)を抱えて私たちの首に掛けて、お辞儀してから、私たちを迎えのワゴン車に乗せ、市内の方向に向かって行くように誘導した。
旅行社は、3.5星レベルと自称する「金蕃ホテル」を用意してくれたが、実際は、四階建ての田舎町によく見られるような「旅館」だった。旅行社が事前に条件を説明してくれたので、あまり気にならなかった。荷物を置いて、まずフロントの係員に位置関係を確認し、有名な八角街、大昭寺なども遠くないことが分かった。今後数日はラサを軸に林芝、納木錯、シガツェ、エベレストなどに行くことになるが、ここに泊まり続ければ、多くの手間が省けるだろうと心の中でひそかに祈りながら、後日、旅行会社に再確認してみようと思っていた。
夕方5、6時のラサは、依然として明るい。まだ時間が早いと見ていたので、八角街の方へぶらりと歩いて行った。
道を何度か聞いてみると、八角街というのはラサでは「八郭街」と表記されており、複数の通りがある周回路であることが分かった。通りにはいくつかの経典塔が聳えていて、経典の書かれた経幡が掛けられている。色とりどりの経幡が風に舞い、八角街は祭りのように彩られている。敬虔な仏教徒の多くは、下駄のようなものを手にして、何かの呟きに合わせて、リズミカルに両手を伸ばして、地面をポン、ポン、ポンと叩いて、八角通りに沿って四つん這いになったり、立ち上がったりしている。その動作は見事に一貫している。これはいわゆる「五体投地」なのかもしれないね?と思った。
八角街は仏教用品、雑貨、蔵装店が林立する商店街でもあり、数珠つなぎ、ブレス、転経筒、工芸品が色々と並んでいる。仏教用品について詳しくは知らなかったので、見るだけに留めた。
あちこち見渡していたら、前方に掛かっている「正宗蔵食」の看板に目が留まった。店先は二階にあり、一階は商店になっている。チベット図案のフェルト布を敷いた両側の座席は長方形の木のテーブルを挟んでいる。全体的に座席が高く、テーブルが低く、食事をするには身を屈める必要があり、あまり気分がよくなかった。
ツァンパ、ヤクの肉焼き、青稞酒(チベットの麦焼酎)を注文した。ツァンパは少しツァンパらしい食感があったが、香りは感じられなかった。ヤクの肉は実際には乾燥肉で、噛むのも大変だった。ただ、低アルコール度数の青稞酒は、過去に飲んだことのあるサイダーのような味で、飲むにはまずまずだった。一食110元だが、もう二度と食べたくないほどだ。
帰り道には、気温の低下が目立った。半袖では風に耐えられなかった。「朝は綿入れ、昼は薄着、晩はストーブを囲んでスイカを食べる」(気温の変化が激しいこと)という民謡の言っていることはラサでも再現されている。その理由からガイドさんが入浴を控えるように注意を促してくれたのだ。高山病でなくても、この気候では思わず風邪をひいてしまう可能性が十分ある。
部屋に戻ると、二泊三日の列車の揺れで疲れ切っていた私は、蛇口からちょろちょろと流れ出る水で顔を洗い、ベッドに入った。
4
2016年6月27日金曜日晴れ22℃
「朝6時半に出発しますから、ホテルでお待ちください。私は明日のガイドです。用があれば連絡してください」
昨日、奇抜なガイドさんにスケジュールを聞いたとき、ショートメッセージで知らせると言っていた。昨夜の9時すぎに初めて今日の行程を知った。
早起きして急いで階段を下り、ホテルの裏庭にあるレストランに駆けつけた。
レストランには白粥、まんじゅう、卵、炒め物が数品並んでいる。無造作に何皿か手に取って口に詰め込み始めた途端に携帯電話が鳴った。電話を取ると、向こうから少しぎこちない女性の声が聞こえた。
「私たちの車は交差点に着きました。早く来てください」
「ホテルまで迎えに来るじゃなかった?まだ時間になってないでしょ?」と私が聞き返した。
女性は説明もせずに電話を切ってしまった。朝ご飯を鵜呑みにしてから道の向こうまで小走りで渡った。
ラサの朝6時過ぎはまだ真っ暗だ。気温は7、8度で、その寒さは人を圧倒しそうな感じだ。私はジャケットを着ていたが、冷たい風が体に吹きつけたため、ガタガタ震えていた。
10数分も過ぎたが、車やってくる様子がない。私は腰を丸めてまだ登録していない先ほどの番号を押した。
「もうすぐです! もうすぐです!」
女性の声が少し柔らかくなった。
3、4分経ったところ、一台のバスが疾走してきて、私の前に急停車した。前部にあるドアが開いて、女性の声が伝わって来た。
「あなたは李さんですか?車に乗ってください」
私は、街燈の明かりを頼りにして、声の方向に目線を向けると、長髪の少女がバスドアの段に立ちながら腰を屈めて、私に手を振っているのがぼんやりと見えた。
彼女は俯いていたし、光も弱かったので、薄茶色のジャケットに細いジーンズの恰好以外、その顔ははっきり見えなかったが、私に電話をかけてきた女性ガイドであることは間違いない。
「どうしてこんなに長い間私を待たせてしまったのか?」
私は席を探しながら女性ガイドに怒りをぶつけていた。
「まだ白塔まで何人か迎えに行かなければなりません…、ここの路肩は駐車禁止ですよ」
女性ガイドは私の質問に答えずに、冷たく言った。その言葉には何の申し訳なさも感じられない。
バスは白塔で三人を拾った後、すぐ近くのポタラ宮に向かった。
この合間に女性ガイドが自己紹介をした。
「徐と申します。今日のポタラ宮のガイドを担当しています。よろしくお願いします」
今日のガイドさん? もしかして全行程を彼女が担当するのではないのか?私は少し首をかしげた。
バスはポタラ宮の東側の駐車場に止まった。みんなはガイドの徐さんと一緒に壁際へ歩いた。彼女は私たちにその場で待っているように合図し、電話を取り出して誰かと話をしていた。
夜が明けたころになって、ようやく気がついたのだが、このガイドさんは、可愛らしい丸い輪郭が描かれているような顔に、柳の葉っぱのような細目をしていて、肌の色が白く、すらりとした体付きの美人女性であり、見た目は二十二、三歳のようだが、この女性はちょっと横暴で、絶対ガイドには向いていないと私は彼女のことをひそかに惜しんでいた。
早朝のポタラ宮は白壁が目立っている。横から見ると、ポタラ宮は山を台座として高く聳え立っており、黄色の最上階と茶色の補助階はたっぷり太陽の光を浴びている中で、その色分けがさらに鮮明に映っていた。 -
側面の白壁と白壁内の堡塁のような円形の建築はしっかりとポタラ宮を抱えていて、建築群全体が渾然一体となってポタラ宮の威厳と聖地の尊さを一層感じさせる。今この身近にあるポタラ宮と、写真で知っているポタラ宮とでは、感覚がまったく違っていた。
徐さんに呼ばれ、私たちは側門のセキュリティチェックを受けて、中に入った。
奥の庭に入ってみると、ポタラ宮の足元には屋敷が点在していているのが目に付いた。使用人たちや衛兵たちが住んでいたのだろう。
ここでさらに30分以上待った後、私たちは庭の真ん中の通路に入ってポタラ宮の白い壁の下に来た。そこに人が一列に並んでいた。他のガイドさんが、白い壁は特殊な草にハダカムギや牛乳などを混ぜて作られたため、その白さと耐久性を保つことができると説明していた。よこから聞いて、思わずため息が出た。これはどれだけ牛乳を費やすことだろう。
行列の移動に従って、私たちはついにポタラ宮の最後の門まで来た。この門を通って初めてポタラ宮への階段に辿り着いた。
ポタラ宮の階段は遠くから見るとそれほど高くないようだが、実際に目の前に来てから階段の長さを感じた。てっぺんに登ると、もう苦しそうな表情をしたり、喘いだりしている人も少なくない。ここはやはり高原なのだ。
中に入って上から六世ダライ(未冊封)を除く十三世ダライまでの霊塔、ダライの来客、説法のお堂などを見物した。現代人の目で見ると、まるで牧民たちが住んでいるモンゴルパオのような粗末な条件のものだが、仏門に入ると身を清め、世俗を離れ、身を修め、清貧に暮らさなければならないのかもしれない。
1400年以上前に建てられた高さ115.73メーとルのポタラ宮の一角に立つと、ラサの大部分が見渡せる。いずれも田舎町のように低い建物が並んでいる。他のガイドさんの話を聞くと、ラサのすべての建物はポタラ宮の高さを超えてはならないとのことで、ポタラ宮の尊厳を守るためでもあるのだ。
私たちは反対側の階段に沿ってポタラ宮を下りた。
昼過ぎに気温が高くなり、人々の服装が厚手のコーとから半袖のシャツに変わった。徐さんはすでに駐車場で待っていた。恐らくサボっていたのだろう。ポタラ宮を見物している間に、ずっと彼女の姿が見えなかったのだ。
皆が揃うと四川料理店に連れて行ってくれた。その後の数日間、ほとんど四川料理店に案内され、食事を取ることになった。これでラサの隅々まで四川料理店があり、ラサの四川(重慶)人も圧倒的に多いことを発見した。
午後は八角街、大昭寺に行く予定だったが、昨夜は自分で八角街に行ってしまったし、大昭寺にも興味がなかったので、このプログラムをキャンセルした。私は、女性ガイドが私に返してくれた20元の今晩の団体食事代を手に入れて、何の未練もなく、早くも彼女とバイバイした。別れの際、彼女はシガツェ、エベレスト旅程のガイドさんがスケジュールをウェチャットで知らせてくれると言った。こうして、ガイドさんたちとのウェチャットのやり取りが、チベット旅行中に翌日のスケジュールを知り得る主な手段となった
5
2016年6月30日月曜日晴23℃
ポタラ宮遊覧の翌日、異なるガイドさんの案内で3700m以下の林芝県を観光した。ラサから林芝まで約400キロの距離があると言われるが、10時間以上のバスツアーだった。途中にはミラパス(ミラ山)、バソンクオ湖などの名所が見物プログラムに組まれており、特に疲れを感じなかった。
林芝の二泊三日の滞在中、山登りではなく「比日神山」の山一周に板が敷かれた道を歩き回り、古代「天葬台」(逝去した人の晒し出し処)を望んだり、滝を通ったり、自然の風景を楽しんだりする「転山」を体験した。林芝は内陸部の地形、植物、環境などに近く、あまりチベットとは感じないほどの場所であり、「転山」以外に私の興味をなかなか誘ってこなかった旅だった。
30日の夜にラサに戻った。旅行社は大規模な実景舞踏ショー「唐蕃古道」の鑑賞を手配してくれた。ラサ郊外の山の斜面の間を行進する人、馬車、馬に光り輝く燈火が添えられ、人々の声と馬の叫び声が交えられ、文成王女と嫁迎えの大型車列が唐蕃古道に沿って長安(西安)からラサまで行進する壮観な光景が生き生きと再現された。
このショーは、長い唐蕃古道を題材に、現代「タイムスリップ」という幻想的な手法を融合された情景を舞台にしたものだが、約1時間30分の長さで、五回に分けられ、序盤と終わりの七つの山間実景画面から構成され、「文成王女のチベット嫁入り」を主な手掛かりとし、観客に文成王女のチベット嫁入りを通じて大唐王朝とチベット藩との親和性シーンを表し、長安(西安)から山と川を渡り、甘粛省、青海省の日月山の厳しい気候と険しい環境に遭ったにもかかわらず、故郷を後にした彼女のチベット親和の决意と、漢民族とチベットの民族団結の遠大な志を語っている。
一方、ソンツェン・ガンポが遠くラサからわざわざ柏海(今青海瑪多県境)まで行って大唐王女の到来を迎えるこの盛大な歓迎会のシーンは、美しい愛情と裕福な生活への願望も謳歌している。
文成王女はチベットで40年近く生活し、地元のチベット族の人々から慕われ、尊敬された。彼女がチベット域に持ち込んだ大唐文明は地元の経済、文化の発展に大きな貢献をした。唐蕃古道は3000キロ余りであり、険しく曲がりくねっていて、見渡す限り天空の道のようで、漢民族とチベット民族の往来を連絡する重要な通路となっている。この大舞台は壮大なシーンと現代の電子音と光の舞台技術を組み合わせて当時の賑やかな光景を再現し、まるで時空を倒錯させたかのように帰ることすら忘れてしまうほど観客を圧倒した。
このショーは今回のチベットツアーの特別な体験となった。
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