2011/07/17 - 2011/07/17
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倫清堂さん
あの大地震は、父と母が楽しみにしていた旅行も中止に追い込んでしまいました。
JRでフリー切符を販売していることを知り、せめて1日だけでも別世界に案内したいと思い、地震の後いろいろと苦労していた母を連れて弘前へ行ってきました。
仙台から新幹線を利用する時はたいてい上り線に乗るので、北に向かうのは珍しいねなどと話したりしながら、快調に走る新幹線に身を任せていました。
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仙台から3時間ほどで新青森駅に到着。
ほとんどのお客さんは北海道に向かう電車のホームへと歩いていましたが、我々は弘前行きの奥羽本線のホームを目指します。
乗客はそこそこ多いですが、ちょうど座席に空きがあり、母に座ってもらうことができました。
1時間もしないで弘前駅に到着。
今回のJR東日本の企画には、レンタカーが格安で利用できるというおまけもついています。
問い合わせをした時はすでに予約でいっぱいでしたが、ここ弘前の事務所の方が車を手配してくれたおかげで、この小旅行は実現したのでした。
母にとって弘前は2回目。
今回は、津軽藩ねぷた村に行ってみたいと言っていました。
自分は弘前城を見たいので、少しの間別行動となります。
母を目的地で降ろし、自分は弘前文化センターの駐車場に車を停め、弘前城に向かいました。
文化センターの広場には、藩祖津軽為信公の像が立っていました。津軽為信像 名所・史跡
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弘前城は桜で有名ですが、この季節はもちろん桜は咲いていません。
東門・東内門をくぐり、二の丸へと進むと、青葉に囲まれた天守閣が見えてきます。 -
イチオシ
弘前城は、津軽為信公によって慶長8年に計画が始まり、2代藩主信枚公が慶長15年に築城を始め、翌年に完成した城です。
津軽氏はもともとは清和源氏の流れでしたが、為信公が近衛家の傍流を称するようになりました。
明治維新後も城が取り壊されずに残っているのは、近衛家が新政府に影響力を発揮したためだとも言われています。
あまり混んでいなかったので、天守閣に登ることにしました。
ただでさえ狭いスペースに、たくさんの展示物が並び、そこに無理矢理売店を置いているので、1階は人とすれ違うのがやっとの状態でした。弘前公園 (弘前城) 公園・植物園
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本丸の展望台で、雲がかかった岩木山の全景を眺めた後、北の廓・四の丸へと進み、青森縣護國神社に参拝しました。
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津軽藩は尊攘派に属していましたから、討幕軍として出兵した兵は五稜郭の戦いなどに参戦し、戦死した兵たちを藩主の津軽承昭公が祀ったのが始まりです。
その後、交流の深かった熊本細川藩士の応援犠牲者なども合祀されました。
参拝が終わったところでちょうど母親から連絡が入り、車まで戻って迎えに行きました。
少し早いですが、ねぷた村の食堂で昼食をとり、いくつかの土産物を買って、次の目的地へ向かいました。青森県護国神社 寺・神社・教会
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津軽市街から車で約30分の所に、次の目的地、津軽一之宮の岩木山神社は鎮座しています。
津軽は令制国ではなく、全国一の宮会が作られてから決められた新一之宮ですが、東北では最も由緒ある神社の一つに数えられます。
神社は岩木山のふもとに鎮座しているため、車が向かう方向には常に岩木山が見えていました。
この日は幸か不幸か猛暑ではありませんでしたが、岩木山の上半分以上は厚い雲に覆われていました。
その岩木山の山頂には岩木山神社の奥宮が鎮座しており、今回参拝するのはその里宮です。 -
奥宮の御創建は光仁天皇の御代、宝亀11と伝えられ、その後征夷大将軍の坂上田村麻呂が東征の成功を祝い、父の坂上刈田麻呂を祀るために再建したのでした。
震災の影響で観光客が少ないことを期待していましたが、駐車場は満車に近い状態で、次々に訪れる参拝客は途絶えることを知らない状態でした。 -
鳥居をくぐりゆるやかな上り坂となっている参道を進むと、真っ赤に塗られた楼門が見えてきます。
少しくすんだような紅色は、べんがら塗りと呼ばれており、この楼門は2代藩主信枚公による寄進です。 -
更に先に進むと、石垣に設けられた湧水の手水所があります。
かなり長い柄杓を用いて水を汲み、手と口を清めました。 -
そして更に進むと、東郷平八郎元帥の揮毫による「北門鎮護」の扁額がかかる中門があります。
明治の武人には書の達人も多く、東郷元帥もその一人で、日本各地の神社で社号標や扁額などに揮毫しています。岩木山神社 寺・神社・教会
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この「北門鎮護」の扁額は、明治6年に国幣小社に列せられたのを記念して作られ、本州最北で日本を守るという意味が込められています。
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本殿は正面からは見えませんが、手水所から回り込むように進むと、かろうじて金の龍の彫刻が見えます。
津軽藩中興の祖、4代藩主信政公が貞享3年から8年かけて築いた社殿で、日光東照宮に洋式を習っています。
ここに祀られる御祭神は、顕國魂神と多都比姫神の夫婦神と他3柱の神です。
顕國魂神と多都比姫神は岩木山神社の起源をなす神で、顕國魂神と大己貴神(大国主神)は同一神とされています。
岩木山縁起によると、津軽に降臨した大己貴神は白く光る美しい沼を発見し、そこで見つかった珠を献上されると、それを「国安珠姫(=多都比姫神)」呼んで妻とし、津軽地方を治めたとされます。
また、その後大津波にも流されなかった森の嶺に社を建て、「磐椅宮」として夫婦神を祀ったとも記されています。
ここで記される大津波は、東日本大震災の大津波に比べ、どのような規模だったのでしょうか。 -
神社からは、岩木山への登山道が伸びています。
岩木山は別名「津軽富士」とも呼ばれるほどの美しさ。
この地方では、一定の年齢になった男性は必ず登拝することになっており、それをしない者は「フジヤマナシ」と呼ばれて、一人前として扱ってもらいないそうです。
山頂への往復にはおよそ4時間かかるため、今度は一人で来てのんびり登ってみたいものだと思いました。 -
この他境内には、柱とともに一つの石から削られている狛犬など、見どころはたくさんあります。
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岩木山神社へ向かう道路の脇に、「高照神社」と書かれた看板が何枚も置かれているのを見ていたので、岩木山神社の参拝を終え、そちらへも行ってみることにしました。
当初の予定にはなかったので、詳しい鎮座地は分かりませんでしたが、べんがら塗りの鳥居が目に入り、ほとんど迷うことなく到着できました。
高照神社の御祭神は、津軽藩第4代当主津軽信政公。
法令の整備や新田開発などを行って多くの業績を残したため、津軽中興の祖として仰がれています。
若い時に山鹿素行に師事して儒学を兵学を学び、その後吉川惟足に師事して「高照霊社」の神号を授けられました。
信政公は生前から自分の死後の祀り方を吉川神道流で行うことに決め、この地を廟所とするよう遺言していました。
同じく吉川神道によって祭祀されていた保科正之公の土津神社に習い、社殿が建てられたのでした。 -
参拝に行って驚いたのは、そのような歴史的に貴重な社殿であるにもかかわらず、老朽化によって社殿の一部(向かって左側の供物を準備する部屋)が倒壊したまま無残な状態を晒していることです。
文化財に指定されているため応急の処置はできず、かと言って莫大な費用がかかるため、修理もできないでいるとのこと。
こども手当てをはじめとするバラマキ予算の何分の一かでも、文化財の保護に回せないものでしょうか。
宝物殿が公開されており、津軽氏の歴史や将軍家・皇室とのつながりなど、興味深いお話しを聞かせていただくことができました。高照神社 寺・神社・教会
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次に訪れたのは五所川原市。
重要文化財に指定される、旧平山家住宅を見に行きました。
母は古建築が好きなので、少し遠回りになりますが、今回も旅程に組み入れたのでした。
平山家は代々津軽藩広田組代官所の手代を務めた家で、現存する建物は建築から200年以上を経た、この地方で最古の建築物です。
自動音声案内に、標準語と津軽弁の2種類があるのが可笑しかったです。旧平山家住宅 名所・史跡
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平山家の表門は、津軽藩に対する数々の功労により、天保元年に第10代藩主信順公から特別に許されて建てられました。
当時は、屋敷に門を構えることは、一般に許されていなかったのです。
一通り見学し、青森市内へと向かいました。 -
予定よりも早く青森市内に入ることができたので、小中学校の教科書でもお馴染みの三内丸山遺跡を見学することにしました。
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ここに大規模な集落があったのは縄文時代で、江戸時代にはその存在が知られていましたが、本格的な発掘調査は平成4年から始められ、12年に国の特別史跡に指定されました。
以前に青森に来た時は、ここに到着したのが夜だったため、昔の人々と同じ夜空を見ることしかできませんでした。
出土品などを展示する縄文時遊館を通って野外の遺跡を見学に行くことができますが、驚いたことに野外の見学は無料でした。
時代によって少しずつ形を変える竪穴住居の復元が15棟、中に入るとそこには昔の人の生活空間があります。 -
同じく復元された掘立柱建物は高床式で、後に伊勢神宮などの社殿の様式へと発展することをうかがわせる様式でした。
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イチオシ
そして、三内丸山遺跡のシンボルとも言える6本柱の大型掘立柱建物。
特別史跡 三内丸山遺跡 名所・史跡
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野外にそびえるのはその復元で、隣には地中に直径1メートルのクリの柱の根元部分の遺構が保存展示されています。
この建物の用途はまだ不明で、いろいろな説があるようですが、自分としてはかつての出雲大社のような天空の神殿であってほしいとの願いがあります。 -
また、長さ32メートルという国内最大規模の大型竪穴住居の復元もあります。
いまで言うコミュニティセンターのような役割を負っていたのでしょうか。
柱の間隔はすべて70センチメートルの倍数となっており、縄文時代の長さの単位があったことが考えられます。 -
出典は思い出せませんが、ここで障害者の介護も行われていたという説を、何かで読んだ記憶があります。
それが本当なら、日本は縄文時代から弱者を慈しむ精神があふれていたことになります。 -
母の歩調に合わせ、野外をゆっくり歩いて見たため、屋内展示まで見ることはできませんでしたが、お互い満足できました。
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最後に青森市内に鎮座する善知鳥神社を参拝。
青森市が善知鳥村と呼ばれていた頃、第19代允恭天皇の御代に善知鳥中納言安方という人が、宗像三女神をお祀りしたのが始まりです。
善知鳥中納言は原住民だったと思われる夷人山海の悪鬼を平定し、この地で漁業と耕作を広め、発展のために尽くしたことから、青森発祥の地とされています。善知鳥神社 寺・神社・教会
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世阿弥による謡曲「善知鳥」には、善知鳥を捕って生活していた猟師が登場し、殺生の罪によって地獄で責め立てられてしまいます。
この地が安方という名前を今も残していることも、歴史を感じさせます。 -
この後、新青森駅でレンタカーを返し、駅の中で黒石つゆ焼きそばを食べ、母の買い物に付き合ってから新幹線で帰りました。
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地震による精神的な負担も、少しは解消されたでしょうか。
被害がより大きかった地域の方々も、大いに旅行できる状態に戻れるよう、早期復興を心よりお祈りいたします。
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