2011/07/24 - 2011/07/24
52位(同エリア84件中)
倫清堂さん
原発事故の収束が見えない中、福島はもう人が住む場所ではないようなことを真顔で言う人もいますが、そこに住んでいる人たちは懸命に故郷復興のために努力しています。
放射性物質の飛散による汚染は確かに恐ろしいです。
しかし、目に見えない恐怖におびえるよりも、希望を捨てずに一日一日を生きる生き方の方に、自分は共感します。
太平洋沿岸の地域では、地震・津波・原発の三重苦にあえいでおり、相馬では伝統的な祭である相馬野馬追がようやく縮小開催にこぎつけたと聞き、こういう非常時だからこそ応援に行くことにしました。
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相馬野馬追は、野生の馬を敵に見立てて行われた平将門の軍事訓練に由来します。
平将門の子孫でもある相馬藩主相馬氏は、伊達氏との抗争を繰り返しながらも領地を守り続け、徳川幕府に一度は改易されますが、訴訟によって自らの正当性を認めさせ、明治まで存続することができた珍しい大名です。
その相馬氏は平将門の野馬追を継承し、守護神である妙見に奉納する神事として拡大させたのでした。
山元町までは常磐自動車道が開通しており、その後は国道6号線を南下します。
特に福島県内に入ってからは、まだあちこちに船が打ち上げられていたりするのが目立ちます。
ようやく営業を開始できたガソリンスタンドには「自衛隊ありがとう」と書かれた横断幕が掲げられており、苦しい時においても感謝の心を忘れない美しい精神を感じました。
2時間ほどで相馬太田神社に到着。 -
毎年7月23・24・25日の三日間にわたる野馬追の中でも最も盛り上がる甲冑騎馬と神旗争奪戦は、ここ太田神社によって執り行われます。
これらは伝統的な野馬追祭が明治になって一度途絶えた時、太田神社が中心となって再興したのに合わせて始められた祭です。
着いた時には、ちょうど神事が始まろうとしていました。
騎馬武者の装束で参列する地元に人々の中には、まだ小学生くらいの男の子も混じっています。
これらの人々や見学に来ている人々の中には、家族や友人を失ったり、家や車を失ったりした人も多くおられるはずです。
しかし、そういう状況にあっても伝統的な神事だけは絶やさず、そこに明日への希望を見出そうという姿勢は、なんと清らかなことでしょうか。
縮小開催ということで、祝詞奏上などごくわずかの行事しか行われませんでしたが、強く生きようと努める人々とともに祈りに参加できたことをうれしく思います。相馬太田神社 寺・神社・教会
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次に、1日目の宵祭りの会場である相馬中村神社へ向かいました。
前日の23日に、ここでも縮小されて神事が行われているはずです。
御祭神は妙見こと天之御中主神。
平将門が篤く信仰していた、宇宙の根元神です。
妙見は北極星の神とされ、自ら新皇を名乗った平将門は日本の中心として君臨すべく、妙見を崇めていました。
北極星を見つける時、北斗七星を頼りにすればよいというのは小学校の授業内容ですが、平将門の乱が鎮圧された後、彼の体は7つに分けられ、関東に北斗七星を描く配置で埋められたという伝説もあります。 -
その後、相馬中村藩初代藩主となった相馬利胤公が、将門が下総国に建てた妙見社から分祀し、相馬中村城の裏鬼門に鎮守社として創建しました。
長い参道を通り抜けた先、鳥居の奥には石段が続いています。
現在の社殿は相馬中村藩2代藩主義胤公による寛永20年の寄進で、国の重要文化財に指定されています。
先に訪れた相馬太田神社と、3日目に行事が行われる小高神社と合わせ、相馬三妙見社とされます。相馬中村神社 寺・神社・教会
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社務所の前には、昨日使用されたと思われる甲冑や馬具などが干されていました。
中村神社で行われる総大将出陣式は、お殿様と家臣の行列がその起源であることから、歩道橋や建物の2階以上から見下ろしたり、行列の前を横切ったりすることは、今でも禁忌とされています。
しかし、視聴率目的の報道関係者は、このような地元の人たちが大切にして来た伝統を蹂躙して来ました。
今回の震災をきっかけに、神を畏れることの大切さを改めて思い知るべきではないでしょうか。 -
社務所には、被災した馬たちへの援助を求める募金箱が置かれていました。
野馬追祭の主役とも言える馬たちは今、飼料が足りないことなどを理由に各地に疎開していますが、資金が足りず先が見えない状況が続いているとのこと。
また、直接津波の被害を受けて流されてしまった馬も少なくないとのこと。
乗馬クラブが海沿いにあることが災いしてしまったのです。
一人一人に出来る支援は限られていますが、日本中が同じ思いになれば、復興は早期に成し遂げられます。 -
中村神社の参拝を終え、相馬中村城に登城しました。
現在は城郭は残されておらず、本丸には相馬神社が鎮座しています。
御祭神は相馬氏初代当主の相馬師常公。
源平合戦の時代の武将で、源氏方につき、全国を転戦した人物です。
相馬中村城は、坂上田村麻呂による奥州征伐の時に築城され、南北朝時代から戦国時代までは中村氏の支配下となりますが、力を伸ばした相馬氏が永禄年間に奪い取りました。 -
来た道とは別な道を帰ろうとすると、二宮尊徳の像がありました。
天明・天保の大危機で東北は危機に陥り、相馬中村藩も大打撃を受けました。
この危機から立ち直るため、弘化元年に藩の長期財政基本計画を策定したのが二宮尊徳だったのです。
農村復興事業は翌年から始まり、尊徳の死後も続けられ、元治元年には101の村にまで事業が及びました。
その縁もあってか、慶応4年の戊辰の役で焼け出された長男徳行は、妻子とともに相馬に移り住んでいます。
もし尊徳が東日本大震災後の今ここに生きていたら、復興に手腕を発揮してくれたことでしょう。
しかし彼は今はおらず、復興は我々の手で進めなければなりません。
政治家にはせめて尊徳の教えに少しでも触れてほしいものですが、選挙のことしか頭にない彼らにそれを求めても詮無いことです。
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