2010/05/12 - 2010/05/27
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akkiy363672さん
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幾多の民族が興亡の歴史を繰り返してきたトルコ…。文明の十字路として東西の人々が行き交ってきた憧れの地に、15日間の旅をしてきました。
初めてのトルコでしたから、H交通社のツアーに参加してのお任せの旅でしたが、さまざまな驚きに接することができました。
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス 船 タクシー
- 航空会社
- ウズベキスタン航空
-
イスタンブールから出発して、上の図の青線の道路を左回りに走ってきました。
その総距離は4500余km…、トルコにある9つの世界遺産のうちの6つと、エーゲ海域最大の遺跡が残る「エフェソスの遺跡」や、世界の七不思議のひとつ「アルテミス神殿跡」などに立ち寄り、7千年にわたってのトルコの地に刻まれた歴史を歩いてきました。
このツアーの37人の参加者の皆さんは、上は89歳の長老から下は27歳のお嬢さんまで…、バラエティに富んでいました。15日間という長さでしたから、皆さんと仲良くなれて、ツアーもいいものだなと思いました。 -
第1日目、5月12日。大阪のH交通社が催行するこのツアーは、関西国際空港午後8時集合から始まりました。
午後6時、大阪上本町の都ホテル前から空港行きのバスに乗りました。
空に赤みがかかり始めたミナミの街を、バスは関空へと走ります。
↑【車窓からの写真です】 -
↑ 【車窓から】
午後7時、関空へ到着しました。 -
↑【ウズベキスタン航空機】
午後8時、H交通社の受付カウンターで、今回の旅の美人添乗員「智絵ちゃん」から搭乗券を受け取りました。
午後10時、しばしお別れの日本の味として「うどん」を食べ、ゲートへ向かいました。
章くんたちが乗るウズベキスタン航空機のゲートは2番…、モノレールに乗っていきます。
便数の少ないマイナー航空会社は、端っこのゲートですね。 -
午後10時50分、定刻にテイクオフ!
ウズベキスタン航空って機内食は出るのかなと心配しましたが、飛び立ってから1時間半ほど経って、立派な夕食が出てきました。結構、美味しかったですよ。 -
タシケントへ降りる1時間ほど前にも、軽食と飲み物が出ました。これも、なかなか美味しかったですよ。
この便は、関空からウズベキスタンの首都タシケントまで8時間40分をかけて飛びました。このあと…、タシケント空港で5時間ほど待って乗り換え…、さらにイスタンブールまで4時間45分…。合計18時間25分の旅程です。 -
↑機内の飛行路線を示すテレビ画面をパチリ…。
これを見ると、ほとんど中国の上を飛んでいますね。 -
タシケント着、午前3時30分(現地時間)、予定通りです。ウズベキスタンもやるじゃないか! 帰りはズタズタだったけど…(笑)。
でも、沖止めの飛行機から降りて、空港の風景をパチパチと撮っていたら銃を持った警備員が飛んできて、手にした小銃を突きつけ、「写真を撮るな。撮ったのを消せ」と言う。こりゃぁ撃たれたらかなわんなと思い、警備員に示しながら3枚を消去しました。ホントは5枚撮ってあった。
空港の写真を撮っちゃダメなんて、昔のモスクワ空港でもそんなことは無かったのに…。 -
ここで乗り換え、5時間の待ち。待合室はご覧の通りすし詰め状態…。
ウズベキスタンは1991年のソ連崩壊によって独立しました。独立後は、現在に至るまでイスラム・カリモフ大統領が権力を集約し、ほぼ独裁統治をしています。
世界生産量の2.2%に達する天然ガスをはじめとして鉱物資源に恵まれていますが、社会開発が遅れていて、一人当たりの国内総生産は521ドル(2005年)。これは旧ソ連領各国の中で最低レベルです。
が…、「シルクロードの中心地」として、ソ連からの独立後には「青の宮殿」など歴史的遺構への訪問を目的とする各国からの観光客が急増しています。
シルクロード好きの章くんとしては、また行かなきゃなりませんね。 -
午前8時25分、タシケント空港を離陸。
動き始めた飛行機の窓からパチリ…。もう捕まらないでしょう(笑)。
何もないガランとした空港です。止まっている飛行機も古いし、あちこちに水溜りなどがあって、滑走路もガタガタ…。この状況を撮られたくなかったのかな。
トルコのイスタンブールまで、ここから約4時間45分のフライトです。 -
タシケント~イスタンブール間の機内食です。
機内食の写真が続きますが、ウズベキスタン航空の機内食は美味しかった。
ウズベキスタンの名誉のために、何かひとつと思って…! -
↑【飛行機の窓から】 窓の下に雪山が見えました。
時刻から推察して、コーカサス(カフカス)山脈でしょうか。
ギリシャ神話では、コーカサスは世界を支える柱のうちの一つで、ゼウスがプロメテウスを鎖で繋いだ場所です。 -
午前11時15分、イスタンブール空港に着きました。
日本を発ってから18時間25分、お疲れさま。 -
イスタンブールのアタテュルク国際空港は、3,000m滑走路2本、2,300m滑走路1本、計3本の滑走路を有する大空港です。
トルコ航空は、成田・関空への直行便を飛ばしていますが、章くんの格安ツアーはウズベキスタン経由です(苦笑)。
-
入国審査、荷物の受け取りを無事終えて、市内へ。
↑【バスの車窓から】
今日から、観光バスでの周遊です。まずは、空港駐車場で見た、待機中のタクシー! -
↑【車窓から】 マルマラ海沿いの道路を走って、市内へ向います。
向こうに、イスタンブールを3重に囲む、難攻不落の「テオドシウスの城壁」が見えています。
-
↑【車窓から】
空港から50分、イスタンブールの市街地に入ってきました。
イスタンブールは人口1500万人を擁する大都会です。交通渋滞は日常的…、人が溢れていて、アバヤをまとって目と手足の先以外をすべて隠している人から、ショートパンツにサンダル履きの女の子までが闊歩する、懐の広い町です。
この自転車のおじさん、信号なんて有って無きがごときもの…。疾走する車の間を、ス~イスイ! -
↑【車窓から】
市内を、ビザンチン帝国時代のヴァンレス水道橋(378年、ヴァンレス帝が建設)が通っています。
今はもちろん水道としては使われていません。橋の上からの眺望はなかなかの絶景だったそうですが、今は登ることはできないようです。 -
←【車窓から】
金角湾にかかるガラタ橋。イスタンブールの旧市街(南側)と新市街(北側)を結んでいます。
2階建ての可動橋で、下は中央部の船が通るところを除いて、その両端が歩道と飲食店舗になっています。
釣り糸を垂れている人がたくさんいました。 -
新市街の小洒落たレストランに着きました。
時刻は午後2時、昼食です。 -
スープ、メイン、デザートが、この日以来繰り返される、トルコ料理の定番です。
この日のメインは、キョフテ、ボイル野菜、ポテト、味付けご飯&ミニピザです。
パンはヨーロッパのレストランらしく、各テーブルに盛ってあります。
章くん、油っ濃いものや揚げ物などには、ほとんど手をつけません。でも、総じてパンが美味しかったのが何よりでした。
トルコ料理は世界三大料理の一つに挙げられるほどですから、それなりのレストランへ行けば、1プレートでなく、美味しい料理が食べられるのだろうと思いますが、格安ツアーでは不満も言えません。 -
↑【車窓から】 その途中に見かけた、トルコのお巡りさん。
食事の後は、イスタンブールの新市街を歩いてみました。
イスタンブールは7つの丘の上に築かれた町…。だから坂道がとても多い町です。
歩き始めるのは、高いところから…。その出発点まで、バスで移動しました。 -
イスタンブールで一番にぎやかな広場「タクシム広場」です。ここから、「イスティクラル通り」を下って「ガラタ橋」まで歩くことにしました。
市電がやってきました。電車が近づいても、人々は平気で線路内を歩いています。 -
「イスティクラル通り」は、大きなビルが並ぶ、にぎやかな通りです。
-
角を曲がると、小路にはオープンカフェが…。
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ペルシャ風?の猫! トルコにはいたるところに猫(犬も)が居ました。かの有名な世界遺産の「トプカプ宮殿」の庭にも、野良猫くんが寝そべっていました。
実は、「イスラム教の創始者ムハンマドはたいへんな猫好きであったといわれ、猫にまつわるさまざまな逸話があります。
ある日ムハンマドが外出しようとすると、着ようと思っていた服の上で猫が眠っていました。ムハンマドは猫を起こすことを忍びなく思い、服の袖を切り落とし片袖のない服で外出したとか。
ムハンマドが猫好きであったとされることから、イスラム教徒には猫好きが多いといわれます。とくに額にM字の模様が入った猫は「ムハンマドの猫」と呼ばれています。これは、あるときムハンマドが可愛がっていた猫の額に触れると、ムハンマドの名前の頭文字である「M」の模様が浮かび上がったという逸話がもとになっています。 -
果物をいっぱい積み上げて売っていました。
ザクロを搾ったジュースを作ってもらって、飲んでいた人がいました。「おいしいーッ」と言っていましたよ。
確かに、トルコで食べた果物は、スイカもサクランボもメロンも、とても甘くて美味しかったです。 -
キュウリを、リヤカーいっぱいに積んで売っている人もいました。
-
ガラタ橋まで降りてきました。歩いて渡ります。
何十人もの人が釣竿を並べていました。その釣り針に釣られないように歩かねばなりません。
釣り人の皆さん、持っているバケツをいっぱいにして、釣果は上々のようでした。 -
途中で下(1階)へ降りました。
飲食店が並んでいます。金角湾を渡る風に吹かれながら、お茶するというわけですね。 -
町歩きのあと、いったんホテル(ホリディイン・エァポート)に入って荷物を置いたあと、また、食事のためにレストランへと向かいました。
「SULTAN REST」というこの店、なかなかのムードだったのですが…、お味の方はさっぱり。 -
出されたのは、「パスタスープ」のあと、メインは「ピーマンにご飯を詰めたもの、マカロニ」(写真)でした。
ところが、これが何の味もつけてなくて、机の上の塩とコショウをかけてみたのですが、全然食べられません。
激安ツアーの食事に不平を言うつもりはありませんから、パンばかりをコーラで流し込んだ、章くんでありました。 -
【車窓から】 帰路、「テオドシウスの城壁」がライトアップされていて綺麗でした。
午後9時前、ホテルに帰り着きました。
関空を日本時間12日の22時50分に出発して以来31時間が経っています。
お風呂に浸かって10時にはベッドに沈んでいました。 -
3日目、5月14日(金)。
午前6時起床。トルコの5月の午前6時は、まだ朝日が顔を出していません。
6時30分、モーニングビュッフェはパンとスイカ。 ヨーグルトが美味しい。
余談ながら、ヨーグルトはトルコの遊牧民が発明した食べ物なのだとか。トルコ人は宣伝下手だから、隣国のブルガリアが本家のように思われている…と、現地ガイドのセルハンさんが言っていました。 -
午前8時、ホテルを出ました。
エーゲ海沿岸を南下して、クシャダスから内陸部に入り、コンヤ、カッパドキア、アンカラを回って、イスタンブールに戻る、4500kmバスの旅への出発です。
まずはイスタンブールから西に向い、マルマラ海の北岸をテキルダーを経てゲリボル半島へ向いました。
車窓からは、どこまでも広がるなだらかな平地と、その向こうに小高い丘が見えていました。
ひとつの丘を越えると、また広大な平地とその向こうに小高い丘が見えてきます。 -
広い平原はキレイに耕され、小麦、菜種、ケシ、ジャガイモなどが栽培されていました。
↑【車窓から】 野原には、羊、牛、馬の放牧が行われていました。柵も無い広い牧草地で、のんびりと草を食む家畜たちの様子がとてものどかでした。
1枚あたりの田畑の広さは、日本の5倍ほどはあります。広大な耕地を、5~6人の人たちがひと塊になって作業をしていました。
機械化は、トルコの農業にとって課題のひとつだそうです。 -
←【車窓から】 1時間半ほど走って、ガソリンスタンドで休憩しました。
都会地を除いて、トルコの地方ではガソリンスタンドがレストランを併設していて、客はガソリンを入れるついでに飲食をしているようでした。 -
休憩所にガソリンスタンドが有るとも言えるようですが、客の多くは給油だけに来る人が多かったようですから、やっぱりガソリンスタンドがレストランもやっていると言うべきでしょうね。
-
章くん、休憩所では、チャイ(トルコ紅茶)を飲むことが多かったです。
ところによって値段はまちまちでしたが、50クルシュ(=1/2リラ)。【1リラは60円ぐらいです】
町のレストランでは40リラ。ホテルでは60リラといったところらしい。
トルコのチャイは、インドなどのそれと違ってヤギの乳は入っていません。ストレートの紅茶でとても飲みやすく、りんごジャムなどを溶かしてアップルティなど自由にアレンジすることができます。 -
↑【車窓から】 ここから章くんたちのバスは左折して、ゲリボル半島へ向います。
この道をまっすぐ行けばギリシャへ至ります。ヨーロッパの国々が地続きであることを実感した交差点でした。 -
↑【車窓から】 右手に青い海が見えました。エーゲ海です。
-
12時06分、ダーダネル海峡を望む港町ゲリボルへ着きました。
ここで昼食を済ませ、フェリーに乗って海峡を渡ります。
このあたり一帯は第一次大戦のさなか、ケマル・アタテュルク(トルコ共和国初代大統領)率いるトルコ軍が、英仏連合軍と激戦を展開し、その進撃を食い止めました。 -
港を望むレストラン「KOCA Rest」でランチです。
エーゲ海で獲れたというサバをいただきました。味は…それなり…。
「醤油くれー」と叫んでもらっていた人が居ました。醤油、置いてあるんですね(驚!) -
食事のあとあたりを歩いてみると、港を睨むケマル・アタテュルクの像が建てられていました。
ここで激戦・苦戦の末、英軍の前進を食い止めたケマルは、「アナファルタラルの英雄」と呼ばれる名声を獲得しました。
この軍功で准将に昇進し、「パシャ(オスマン帝国の高級軍人の称号)}となり、トルコ革命の指導者としての地位を築いていくことになります。
アタテュルクの像の横には、抜けるような青空にトルコ国旗がはためいていました。
トルコでは、公官庁にはもちろん、町の掲揚台にも、企業やホテルの壁面にも、人々が集まるところには常に国旗が掲揚されていました。
自国の国旗への誇りや、国を愛する気持ちは、日常の暮らしの中で育てられていくものなのだなぁと、日本の現状と比較して思いを強くしました。 -
午後1時37分、フェリーに乗って、ダーダネルス海峡を南岸のラプセキ港へ渡りました。
-
今夜の宿があるチャナッカレの町↑を通り越して、トロイへと向います。
↑【車窓から】 丘陵に、新しい住宅が整然と並んでいます。新興住宅地ですね。 -
【車窓から】 ダーダネルス海峡に沿って、トロイへと走ります。
この海峡は古代より戦略的な要衝であり、トロイ戦争はこの海峡のアジア側の地で戦われました。ペルシア帝国のクセルクセス1世やマケドニアのアレクサンドロス大王も、遠征のためにこの海峡を渡っています。
現在、モントルー条約によってトルコに海峡での主権があるとされています。ロシアの黒海艦隊が地中海へ出るにはここを通らねばならず、通商とともに軍事的にも重要な意味を持つ海峡です。 -
↑午後2時30分、大きな木馬が見えてきました。
ホメロスの叙事詩『イーリアス』にうたわれた、「トロイアの木馬」の復元模型です。
この地で、紀元前1200年中期に、アキレスやオデッセイが活躍する「トロイア戦争」が、10年の長きに渡って繰り広げられたのですね。 -
トロイの遺跡は、シュリーマンによって発掘されたことはよく知られています。
ただ、シュリーマンの発掘した遺跡がトロイア戦争の舞台として登場する古代都市イリオスであるか否かは議論の分かれるところとされています。
また、考古学的には素人であったシュリーマンの発掘は、遺跡の多くを消失させてしまいました。
しかし、この遺跡の発掘が考古学の発展に与えた影響は大きく、そういった意味から1998年、世界遺産に登録されました。
遺跡は、日本の企業の後援なども受けながら、現在も発掘が続けられています。 -
この遺跡は、建築・破壊・再興・崩壊を繰り返し、前の遺跡の上に新しく町が築かれる形を繰り返して、9層から成っています。
最も古い第1層は、紀元前3000年ごろの集落跡で、当時の都市は岩石でなく日干しレンガを用いて築かれていたので、風化流出してしまい、現在に残るものは少ないとのことでした。
↑第1層の遺跡が残る部分はテントで覆われ、雨風から守られながら、発掘が続けられていました。 -
ここは、トロイ遺跡の9層が全て露出しているところです。各層に数字を書いた札が立てられているのがわかりますか。
最も古い第1層(紀元前3000年頃、初期青銅器時代)の上に築かれている、シュリーマンが『イーリアス』に描かれたトロイだとした第2層は、紀元前2500年から2200年のもので、『イーリアス』のトロイよりはかなり古い時代のものです。
だだ、この第2層の町はエーゲ海交易によって栄えたと考えられており、トロイ文化ともいうべき独自の文化を持っていました。城壁は切石の下部構造を持ち、入り口は城壁を跨ぐ塔によって防衛されています。
その後の第3層から第5層は繰り返し破壊されています。
第6層は、紀元前1800年から紀元前1300年に至るもので、町は再び活発に活動を始めています。
『イーリアス』に描かれた時代のものは紀元前1200年ころの第7層だったと考えられますが、これはシュリーマンの発掘によって大きく削られてしまったため、ほとんど何も残っていません。残っている曲輪の直径は140m程度で、都市遺跡というよりは城塞です。
第8層、第9層がその上に続いていますが、これらはギリシア人・ローマ人による町の遺構です。 -
ポツンと残る折れた柱の跡は、ローマ時代の建物の跡です。
向こうに畑が広がっていますが、昔、その一帯までが海だったそうです。
だからトロイは、海に面した町だったのですね。 -
この四角の遺跡は、何をするものだったのでしょう。
一説には、占いをするところと言い、他には台所だったという説もあるようです。
考古学には、ロマンがありますね。 -
↑音楽堂の跡です。
当時の人にとっても、暮らしの中に根差す美しい音楽は欠かすことの出来ないものだったのですね。
それにしても、世界遺産の遺跡の上を、見学者が当然のように歩いています。のちに訪れる遺跡でも、子どもたちが建物の中で遊んでいる。日本だったら「立ち入り禁止」となるでしょうね。 -
遠足ですかね。子どもたちが、引率の先生の説明を受けながら、回っていました。
誇り高き祖国の遺跡…。5000年に及ぶ祖先の活動を知って、彼らも鼻が高いことでしょう。 -
↑遺跡を一巡して、木馬のところへ戻ってきました。
トロイ戦争は双方に犠牲を出しながら9年が過ぎました。
トロイアの勇将ヘクトールとアカイアの英雄アキレウスたちが戦いの最中で亡くなったあと、戦争は膠着状態に陥ります。
しかし、アカイア方の知将オデュッセウスは、巨大な木馬を造り、その内部に兵を潜ませるという作戦を考案します。
この「トロイアの木馬」の計は、アポローンの神官ラーオコオーンと王女カッサンドラーに見抜かれましたが、ラーオコオーンは海蛇に絞め殺され、カッサンドラーの予言は誰も信じることができない定めになっていたので、トロイアはこの木馬を城壁で囲まれた自分たちの町に引き入れます。
木馬に潜んでいたアカイアの兵士は、夜になって木馬から降り立ち、町に火を放ち城門を開けました。
こうして、10年を耐えた難攻不落のトロイアの町は、一夜で陥落しました。 -
木馬の中へと登ってみました。
中は、大人が30人も入ればギュウギュウ詰め…。当時のものがこれと同じ程度のものだとすれば、兵士が潜んでいるというわけにはいかない…、すぐにバレてしまうと思うのですが…。 -
午後4時15分、今日宿泊するチャナッカレの「コリン」ホテルに到着しました。
新しくて、結構豪華なホテルです。格安ツアーなのに、こんな立派なホテルに止めてもらっていいのかなぁ。 -
前庭のプールの向こうには、ダーダネルス海峡が広がっています。
早い時間のホテル到着でしたから、章くん、近くのスーパーへ水や軽食を買い出しに行きました。
トルコの水道水はいちおう安全とされていますが、硬水ですから慣れない日本人には胃腸への影響がありそうです。だからいつもペットボトルのミネラルウオーターを仕入れていました。1500mlで1リラ、500mlのもので0.5リラほどです。(みやげ物店やホテルなどで買えば、2~5倍ほどします。)
ビスケットやウエハースは、バスの中でのおやつです。 -
午後7時、広いホールで夕食です。
このホールの立派さは、丸テーブルが50脚以上並んでいることからもわかるでしょう。
着席で1000人もの客を収容できる会場は、日本の各都市にもそうは有りません。 -
バイキング形式でしたが、その食材の豊富さも特筆ものでした。
スイーツだけでもこの豪華さですからね。
章くんの好物の「エクレア」があったことも、高評価の材料です(笑)。 -
でも、章くんはそれほど多くは食べません。『腹七分』が、お腹を好調に保つ要諦ですし、特に旅先では食べ過ぎに注意しなくてはいけません。
しかし、エクレアを2つ、シュークリームを2つも食べてしまいました(苦笑)。 -
食事が終わったのが、午後7時40分…。
夏時間のトルコでは午後8時はまだ明るい。
食事のあと、ホテルの前庭を抜けて、ダーダネルス海峡の畔を歩いてみました。
ヨーロッパ側の丘の向こうへ沈んでいく夕日が赤く空を染めて、岸辺にたたずむ二人のシルエットを夕闇の中に描いています。
空と海が紅に染まるこの光景を、1700年前にこの地を東へと進んだ、アレキサンダー大王も見たことでしょう。
明日は、エーゲ海に沿って、海岸線を南へ下ります。
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