2010/05/12 - 2010/05/27
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akkiy363672さん
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ヒエラポリスは大遺跡…。山肌を白色に染める石灰棚は自然の造形美…。
自由行動の今日は、ブルガモン王国の夢の跡と自然が造る奇跡の様を、ゆっくりと時間をかけて見て回りました。
【表紙の写真は、パムッカレの石灰棚です。】
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス タクシー
- 航空会社
- ウズベキスタン航空
-
第6日目。5月17日(月)
↑ これは何の写真かというと、一枚の面積が日本の畑の5~10倍はあろうかという、トルコの麦畑です。
章くん、今日は一日中自由行動の日ですから、ホテルでゆっくりと朝食をとってから、ヒエラポリスの遺跡とパムッカレの石灰棚の見物に、ホテルから歩いていきました。
ホテルから見えるポリスの遺跡までは、大平原の中を歩いて約1時間…。その途中、大麦畑の真ん中で休憩したのです。 -
↑ヒエラポリスの西門に着きました。
ヒエラポリスは、紀元前190年、ペルガモン王エウメネス2世によって建設が始まった都市で、この時代のものとしては最も内陸部にある遺跡です。
「ヒエラポリス」とは、「聖なる都市」という意味です。 -
西門を入ってすぐの丘陵一帯は、墓地です。
大きな石を組み合わせた墓や土盛りした墓などの間に、石棺だけが置かれたものなど、おびただしい墓跡がありました。
墓の形や大きさはまちまち…。「三途の川も金次第」とは、古今東西を問わない現実ですね。 -
それにしても、この丘陵からはるかに広がる眺望の素晴らしさはどうでしょう。
この写真では、遺跡の向こうに広がる大平原の広さが表現できなくて残念です。
国を統治するということは、この景観を自分の物とすることも含まれているのですね。 -
大きな建物の遺構が現れました。「北大浴場」です。
温泉地であったヒエラポリスには2ヶ所の大浴場がありますが、どちらも設備が大きく立派なものです。
左のほうには、崩壊を防ぐ鉄柱の足場が築かれていました。 -
崩壊の恐れがありますから、「立入禁止」の立て看板が立っていました。
でも、監視のおじさんも居ませんから、みんな自己責任で中を歩いています。
章くん、崩れかけたアーチをくぐったり、石垣に登ったりして、中を調査してきました。
当時の浴場は市民の社交場だったので、このような大きくなものを造ったのです。
「南大浴場」はヒエロポリス博物館の敷地の内にあります。 -
ドミティアン門。西暦84~85年にドミティアヌス帝をたたえて造られたローマ様式の門です
3連アーチと円筒を持つこの門は、北ビザンツ門から石畳で舗装された道で結ばれており、門の横や道路に面しては大きな建物があったそうです。
-
↑【携帯で撮った画像です】
ドミティアン門の外から、北ビザンツ門をのぞきました。
北ビザンツ門から南が、当時の城内です。
ヒエラポリスはどんどん大きくなって、城壁の外へと発展していったことがうかがえますね。 -
ドミティアン門から、北ビザンツ門に至る道です。
とても立派な石畳の舗装がなされていました。この道路の下には下水道の設備もあります。
道の両側には円柱を持つ大きな建物が幾つか並んでおり、アゴラ(古代ギリシャの都市国家の公共広場。集会や裁判などが行われました)や政庁・神殿・商店などがありました。 -
↑北ビザンツ門です。
ヒエラポリスの町は城壁に囲まれた町ですが、北ビザンツ門と南ビザンツ門を直線で結ぶこの道が、この町のメインストリートでした。
メインストリートにはバシリカ(公会堂)やいろいろな店があり、この町の繁華街になっていました。 -
↑町の中には、温泉を引き込む水路が縦横に走っていました。
この都市の住民は、さまざまな形で温泉を楽しんだようです。豊富に供給される温水は、人々の生活を豊かに、また、清潔なものにしたことでしょう。 -
時刻はすでに2時近く…。章くん、北門を入ってから3時間が過ぎています。
広大なこの遺跡を見るには、丸1日をかけても十分とはいえません。
広い構内には、歩き疲れた観光客のために、ミニバスが走っています。
停留所で待っていてもいいですが、通りかがったものに手をあげれば、乗せてくれます。 -
と…、遺跡の間から、ビキニ姿の美女が出てきました(驚!)。
このあとも、水着姿の美女群はふえるばかり…。
思わず写したんですが、日本でならば『盗撮!』って御用になるところでしょうかね。
でも、ここはパムッカレ…。そんなことで、目くじら立てる人はいません。
「ワンショット、プリーズ」とリクエストすると、素敵なポーズをとってくれます。 -
さらに行くと、白いかたまりの山が出てきました。
湧き出る温泉の水が山肌を流れ、溶け込んだ石灰質が地表に沈着して積もり、山の表面を白く覆ってしまったのです。 -
温泉(と言っても27℃ぐらいでぬるいです)の中を、みんな歩きに行きます。
靴や草履は脱がなくてはなりません。地表は石灰が重なって硬化していますから、結構ゴツゴツして、足の裏が痛いです。
このあたりの地名をパムッカレと言いますが、パムッカレとはトルコ語で、「綿の宮殿」(パム=宮殿、カレ=綿で)という意味です。
綿とあるのは昔からこのあたりが良質の綿花の一大生産地であったことと、山を覆う石灰棚が下から見ると宮殿を思わせたことによるのでしょう。 -
↑女の子が二人やってきて、バシャバシャと泳ぎはじめました。
この地に石灰棚ができるのは、二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となります。
その地下水が地熱で温められて地表に湧き出て温泉となり、その温水中から、溶け込んでいた炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の棚田のような景観を作り出したのです。 -
↑石灰棚の上から、ふもとのパムッカレ村をパチリ!
-
↑この二人、見事なポーズで、何枚もの写真を撮っていました。
プロじゃない…というのは、見とれていた章くんにカメラを渡して、2人の写真を撮ってくれと言ったことからわかりました。
ホントにポーズを作るのが上手なのです。章くんも、何カットか、撮らせてもらってきました(笑)! -
↑陽光を受けて、棚田の水が青くキラキラと輝いていました。
棚田の畦の部分は、流れてきた植物片などがひっかかり、これに石灰分が沈着して次第に堤のように成長したものです。
これは温水が畦を越流する時に石灰分の沈積が加速するためでもあります。
ここパムッカレでは、このような景観が高さ約100m、幅700mにわたって形成されています。
ここには、近くに宿を取って、ぜひ一泊したいものです。日暮れ時には夕日に棚池の一枚一枚が赤く染まり、また、夜のライトアップに浮かぶ景観はとても幻想的だそうです。 -
昨今、温泉を汲みすぎて、枯渇してきているそうです。
それで、幅700mほどある石灰棚のうち、日を決めて各部分ごとに順番に水を流しているとのことでした。
以前は、石灰棚の直ぐ横にホテルが建てられていたのですが、現在は丘の上のホテルは全て撤去されています。 -
↑石灰棚の北西400m、ヒエラポリス遺跡の南北ビザンツ門を結ぶ線上に、湧き出る温泉を利用して、温水プールが造られています。
もと、水の神を祭る神殿跡だとか。プールの底には古代遺跡の石柱がゴロゴロ横たわっています。 -
お湯(水?)は透き通るように青く、なんとも神秘的です。
トルコ人は日本人ほど温泉好きではないそうですが、医者から勧められて湯治療養のためにここに来る人もいるのだとか。
夏場は混雑で、芋の子を洗うようだということです。
遺跡の柱が折れて横たわっているのが見えますか? 湯の中にも、ごろごろと柱やレリーフが沈んでいます。 -
温泉プールからさらに北西へ丘を登っていくと、ニンフェウム(記念泉水)の遺構があり、その後ろに「アポロ神殿」の跡があります。
ここヒエラポリスはローマ帝国の温泉保養地として栄えましたが、ローマ時代にも地震で破壊されています。その後、復興されましたが、1354年の大地震で完全に廃墟となってしまいました。
このアポロ神殿も、今は2本の柱を残すのみです。
でも、材石は運び出されたりせずに残っていますから、いつか再び組み合わせて、再建されるのではないでしょうか。 -
さらに丘を登っていくと、世界遺産をバックにポーズを決めている、水着の女の子たちがいました。
ローマ時代の紀元前2世紀頃にハドリアヌス帝により造られた、大劇場のファサードです。 -
このローマ劇場は、保存状態も抜群…。
収容人員は15,000~20,000人といい、最上段に座ると、かなりの高さと傾斜が実感されます。
高所恐怖症であることを忘れて、章くん、最上段まで上ってしまいました。 -
南門へ着いたのが、午後4時30分…。
5時間30分、ヒエラポリスを歩いていたのですね。
帰り、ここからホテルまで歩くのは、ちょっと勘弁…(苦笑)。
駐車場に泊まっていたタクシーの運ちゃんと交渉して、30リラ…10分足らずで帰り着きました。 -
ヒエラポリスのふもと、パムッカレ村の停留所です。
ツアーで一緒の、滋賀県のお姉さま2人組は、ホテルで頼んだタクシーで往復して50リラ、ヒゲの博士は公共バスで来て往復3リラだったそうです。
章くん、ロクに調べもせずに行き当たりばったり…。
まぁ、それが旅の醍醐味でもあるのですが! -
ホテルに戻ってから、夕食の時間まで、ホテルの温泉プール(このあたりのホテルは、それが売りですから、どこも温泉プールがあります)につかりました。
が、底には湯の花がたまってドロドロ…。たまらず、25mプールへ飛び込みました。冷たいかなと思っていましたが、入ってしまえば平気でした。
夕食の後は、明日は移動ですから、洗濯したパンツを取り込んで、荷物をまとめ、10時過ぎに寝てしまいました。 -
第7日目。5月18日(火)
↑午前6時起床。朝食の前に、庭へ出てみました。
今日も良い天気です。
6時45分、朝食。7時30分、出発です。 -
今日の見物の第一番目は、昨日歩き回った「ヒエラポリスと石灰棚」。8時到着。
章くん、ここは昨日のうちに歩き回ってありますから、昨日は月曜日定休だった「ヒエラポリス博物館」へ行こうと決めていました。
↑ 今日の入場は、南駐車場までバスで行き、
南ビザンツ門から。
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南のほうにも、たくさんの遺跡がありました。
-
石灰棚を流れる水が、朝日に輝いていました。
-
今日も、棚田を訪れる人たちはいっぱい…。
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↑ これは、2世紀に建てられた「南大浴場」。
今は、ヒエラポリスから出土した彫像や遺物を展示する、「博物館」になっています。
門扉に午前9時オーブンと書いてあります。章くんたちのバスの集合時間は9時30分…。
9時に入って、20分で見れば、集合時間に間に合うだろうと、8時50分から扉の前で待っていました。
9時…開かない。おじさん、タバコを吸っている。
9時5分…、おじさん、どこかへ行ってしまった。
9時10分…、戻ってきて、ケイタイで電話している。
「もう、時間は過ぎているじゃないか。いつ開けるんだ」と言うと、「鍵を持っているのが、まだ来ないんだ」。
ここはトルコ、章くん、諦めてバスに向いました。 -
博物館の前に植えられているバラ…。
トルコでは、いたるところでバラが植えられていました。町中にも、遺跡にも、田畑のあぜ道にも、野山にも…。
でも、トルコの国花はバラじゃなくて、チューリップなのです。
チューリップはオランダなどが有名ですが、原産地はトルコなんだとか。
↑ 南大浴場の巨大な遺構が見えています。 -
↑【車窓から】
9時40分出発。バスはシルクロードを東へ、コンヤを目指して突っ走ります。
コンヤまでは約410km…。
ここから見るシルクロードは、地平線の彼方へ吸い込まれていく真っ直ぐな道でした。 -
↑途中のサービスエリアで、トルコ・ヨーグルトを食べました。粘り気の強いヨーグルトで、皿を逆さにしてもヨーグルトが落ちないのです。
ガイドのセルハンさんによると、ヨーグルトの起源もトルコで、トルコの山岳遊牧民が造って飲んでいたのが最初だといいます。
確かに、欧米や日本でこの乳製品を指すのに用いられる「ヨーグルト」という言葉は、トルコ語でヨーグルトを意味する「ヨウルト(yourt)」に由来します。ヨウルトは「攪拌すること」を意味する動詞yourmakの派生語で、トルコにおけるヨーグルトの製法を反映しています。
ちなみに、現在、トルコのレストランなどでヨーグルトを頼むときには、「アイラン(Ayran)」と言います。 -
↑【車窓から】
お昼ごろ、こんなかわいい町を通過しました。 -
午後1時、途中の町のレストランでランチです。
子羊のケバブをまぶしたご飯とトルコ風ピザ。ほかに食べ放題のパンが有りますから、章くん、それだけで大丈夫です。
「アイラン」(ヨーグルト)を頼みました。写真に写っているでしょう。 -
レストランの前庭に「ナスレディン・ホジャ」が、ロバに乗っていました。
後ろ向きに乗っているのですが、ホジャは
「何でさかさまにロバに乗っておられるんかい?」と聞くと、
「わしが真っ直ぐロバに乗って、あんた等の前を歩いたら失礼になるじゃろうが。といって、後ろから行くのもうまくない。じゃから、こうやった、逆様に乗って、あんた方と向きおおておるんじゃよ!」
と答えたといいます。
ナスレディン・ホジャは13世紀にアナトリアで生まれ、ここアクシェヒルの街で暮らしたと伝えられていますが、正確なことはわかっていません。
彼は日本でいうとちょうど一休さんみたいな存在です。一休さんのとんち話と同じように、ホジャ…彼はおじいさんですが、さまざまなとんちで時に窮地をしのぎ、時に大活躍をし、そして毎日の暮らしを幸せに過ごす、トルコの人々にとって愛すべきなおじいさんなのです。 -
↑【車窓から】
バスは、大平原をひた走ります。コンヤ市はもうすぐです。
コンヤ平原は、内陸部の中部アナトリアに広がる、トルコ最大の平原です。 -
午後4時15分、コンヤ市内に入ってきました。
↑【車窓から】 正面にメヴラーナ博物館とセリミエ・ジャ?ミィ(モスク)が見えています。
コンヤは、人口55万人(2007年)を擁する、内陸アナトリアの中心的都市のひとつです。
パウロがキリスト教の布教に訪れたという古い歴史を持つ町(当時はイコニウム(Iconium)といった)で、1077年にはルーム・セルジュク朝の首都となりました。
イスラム教圏内になってからは、イスラム神秘主義の一派メヴラーナ教団の発生地として知られています。
政教分離の進むトルコにあっては、イスラム戒律の強い町で、へジャーブ(女性のかぶりもの)を着用している女性がほとんどでした。 -
↑メヴレヴィー教団の「メヴラーナ博物館」へ寄りました。
創始者のメヴラーナ・ジェラールッディン・ルーミーの霊廟です。
緑色の円錐形の屋根を持つ霊廟は、13世紀、オスマン朝スュレイマン大帝らの寄進によって造られました。
1925年、政教分離を進めるケマル・アタテュルクの命令によって教団は解散させられましたが、1927年、霊廟が博物館として公開されています。
-
← イスラム神秘主義の一派、メヴラーナの旋舞
(トルコで買った本から)
メヴレヴィー教団は、セマーと呼ばれる旋舞によってトランス状態になり、アラーの神との一体化を図る舞踏教団です。
章くんは、「神がかりの状態とは、旋回で目が回っているだけじゃないのか」とバチ当たりなことを言って、顰蹙を買っていました。 -
午後5時40分、今夜のホテル「デデマン」に到着しました。
すぐ前にコンヤで最大といわれる「Kipa Alisveris Markezi キパ」というショッピングセンターがありました。 -
↑部屋の窓から見た、コンヤの町並みです。
イスラム圏の町ではおなじみのミナレット(モスクの建物の外側に建てられている細くて高い塔。アラビア語で光の塔の意)が、遠くに小さく見えています。
ミナレットには拡声器が着いていて、決まった時間になるとお祈りが始まる呼びかけの声が聞こえてきます。
イスラム教は一日に5回、定刻に礼拝を行うことを義務としていますが、その際に大声で礼拝を知らせる詠唱(アザーンと呼ばれる)が行われます。
キリスト教圏ではチャペルや時計台の鐘が告時機能を果たしていましたが、それのイスラム圏版とも言えそうですね。 -
夕食までの時間に、ショッピングセンターへミネラルウオーターやお菓子などを買いに出かけました。
果物や野菜は、篭に入れられて整然と並べられています。 -
この旅行中、茄子の料理にはしょっちゅうお目にかかりましたが、それにしてもこのナスの大きいこと。
↑章くん、持っていたケイタイを一緒に置いて撮ってみました。 -
あまり魚を食べない国だからでしょうか、鮮魚コーナーは片隅で、スペースも狭かったです。
ちなみに、1年間に魚を食べる量は、日本人の66Kgに比べて、トルコ人は12Kgだそうです。
1位 モルディブ 186Kg
2位 アイスランド 91Kg
3位 日 本 66Kg
4位 ポルトガル 59Kg
5位 韓 国 58Kg
世 界 平 均 16Kg
(2002年 FAO(国連食糧農業機関)より -
夕食は、5ツ星ホテルらしく(?)ビュッフェでなくコース料理…。
といっても、スープ、メイン、デザートの定番3部作ですが、これは格安ツアーなのですから、当然といわねばなりません。
そのメインが、これ…。大きなソーセージといったところでしょうか。
まずますの美味しさでしたが、腹7分目が旅の健康の秘訣としている章くんは、1枚だけでやめておきました。
明日はまた8時出発…。コンヤの夜をぶらつく元気もなく、章くん、11時過ぎに眠りに…。
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