2026/04/19 - 2026/04/19
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gianiさん
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佐賀藩は、幕末の実勢生産力では10本の指に入る大藩です。戦国時代から九州有数の勢力にもかかわらず、知名度はマイナーなのが実状です。
佐賀藩の成り立ちが分かるスポットは1平方km内に集中しているので、徒歩で回れます。本稿は近隣地区にも目を向けて、膨らませています。城濠周囲に隠れた歴史/エピソードをお楽しみ下さい。
ボリュームを考慮して、8代藩主までを扱います。
※太古から佐嘉と表記されましたが、固有名詞を除いて佐賀を使用しています。
把握してほしい最低限の人物
龍造寺隆信、鍋島直茂/勝茂親子。
望ましい水準
龍造寺家兼、鍋島光茂、鍋島治茂。
入門編はコチラ↓
https://4travel.jp/travelogue/12042670
- 旅行の満足度
- 5.0
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佐賀城は、建材として土と木を多用しました。土木という文字を、地で行った城です。石と木を多用する近世城郭に於いて、資金難の為に中世のスタイルになりました。城内の面積は広大ですが、殆どは重臣の屋敷地で、城郭部分は藩の規模の割には小ぶりです。
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屋敷地が多かったゆえに、城内の西側と北東部に広大な住宅地が広がります。
さらに、城内を多布施川(水路)が横断し、隠密の潜入を歓迎しているような状態です。城内に多布施川を引いたのは、重臣屋敷の水源とするためです。 -
龍造寺氏は、鎌倉時代に地頭として地盤を固めました。名前は龍造寺村に由来し、現在の佐賀県庁/警察本部周辺の地域です。そして村内に、村中城を築きます。
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村中城址
村中城は、佐賀城内に組み込まれます。村中城の本丸/二の丸跡は、諫早家/多久家/武雄鍋島家屋敷地となります。北濠の向かいは久保田村田家と、龍造寺の家系が占有します。 -
13代当主龍造寺康家(?-1510)
宝琳院を再興して三男を住職に据え、次男の家和に家督を譲って水ヶ江村で隠居します。四男の家兼を分家させて、水ヶ江龍造寺氏を興します。
※長男は出奔 -
康家は隠居に際し出家して、死後に慶雲院という諡号が授けられます。臨済宗南禅寺派の寺院として、後世へ記憶を留めます。佐賀城下に多い、住職不在寺院の一つとなっています。境内は縮小され、殆どが住宅地へ変わっています。
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龍造寺家兼(1454-1546)
水ヶ江分家当主ですが、兄の死に伴い本家の当主となります。晩年の1545年には、馬場氏の攻撃で息子2人孫4人を失い、筑後へ落ち延びます。翌年には、形勢を立て直して馬場氏を破り、生涯を終えます。家臣の鍋島清房が肥前に留まり、家兼の出陣に呼応したのも大きな勝因です。慶雲院に葬られます。 -
家兼の施した仁政は、地元の人々の記憶に残されます。度々領民の平和を願って1万部の経を奉納し、後の歴代佐賀藩主も倣いました。徳政令を出して、領民の負債を帳消にしました。
昭和の佐賀の慣用句に、「剛忠(家兼の法名)さんの時代~。」というものがあり、剛忠さんの時代から、そうなっとる。といった使い方をしました。万部島 名所・史跡
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龍造寺隆信(1529-84)
出自は水ヶ江分家しかも四男坊ということで、7歳で出家して宝琳院の住職となります。1545年に有力者が相次いで死亡したために、家兼の遺言により還俗、水ヶ江龍造寺家当主となります。 -
写真は、水ヶ江城跡にある龍造寺隆信生誕地です。胞衣が塚に納められています。
中の館児童遊園内にあります。児童遊園と自治会館の部分は東の館と呼ばれ、当主の奥方が住んでいました。龍造寺隆信誕生地 名所・史跡
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1548年には本家の胤栄が死去し、隆信が本家の当主となります。破竹の勢いで勢力を拡大し、千葉/少弐氏を滅ぼしますが、絶頂期の1584年の沖田畷の戦いで島津/有馬連合軍を相手に命を落とします。
水路を挟んで遊園の反対側は水ヶ江城本館で、城主の生活空間でした。 -
水ヶ江城跡
南濠を挟んで後の佐賀城本丸向かい側に建ちました。東端に慶雲院、続いて本館、東の館、中の館、西の館が並んでいました。水ヶ江/中の館は、現在の住所でも使用されています。 -
旧中の館の現在。
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西の館は隆信の弟たちの住居で、赤松小学校の校庭となっています。
水ヶ江城址は、藩政下では多久家下屋敷および多久家家臣団の居住地となりました。村中城と同じく、龍造寺の家系が居住しました。 -
写真は、沖田畷古戦場(長崎県島原市)に立つ隆信の供養塔です。
相手の4ないしは10倍の兵力で臨んだ竜造寺隆信が自分の勢力圏内で、決死で斬り込む敵に討たれたことは、明らかに番狂わせでした。沖田畷の古戦場 名所・史跡
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隆信の菩提寺は、宗龍寺です。隆信の戒名~宗龍大居士に因みます。
隆信の跡を継いだ龍造寺政家(1556-1607)は、島津氏を怖れて降伏します。 -
宗龍寺は佐賀藩から寺領208石を知行地として与えられ、厚遇されました。
※墓所は、明治期に高伝寺へ移されます。 -
位置関係を整理します。
佐賀城の北東角に宗龍寺が建ち、鬼門を守っています。宗龍寺の境内を収めるために、東濠の形まで変えています。
対角線上の裏鬼門へ移動します。 -
佐賀城の裏鬼門(南西)は鬼丸町という住所で、宝琳院が現在も広大な敷地を維持しています。行基が開基したと言われ、龍造寺康家が再興、歴代住職を龍造寺氏が務め、第4世円月は還俗して、龍造寺隆信となります。
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徳川家菩提寺の上野寛永寺と同じ天台宗ということもあり、藩政期の住職は参勤交代に同行して江戸藩邸で儀式を行いました。
龍造寺本家の村中城は佐賀城の北西部、水ヶ江城は南濠を挟んで本丸/二の丸の反対側にありました。
こうしてみると、佐賀城と龍造寺氏の関係が地理/宗教面で対角線上にリンクしていることが分かります。 -
鍋島氏
山城国長岡から1370年頃に、長岡経秀/経直親子が肥前国鍋島村へ下向したのが起源とされます。居住地は4アール程の面積で御館の森と呼ばれ、鍋島家発祥の地とされます。周囲は安楽寺(太宰府天満宮)領蛎久荘なので、その関係で赴任したと思われます。
※長岡京市の長岡天満宮は、生前の道真ゆかりの由緒ある神社です。 -
現在は鍋島町という住所で、1954年に佐賀市域に編入されます。経直は鍋島姓を名乗り、15世紀初めに与賀本荘(本庄町本庄)へ移動します。経直/清直/清久/清房と系譜は続き、清久/清房親子は龍造寺家兼の旗下に加わります。1530年の田手畷の戦いで劣勢の家兼は苦戦しますが、鍋島清久/清房親子が赤熊を被った体で敵陣を疾走する奇策で形勢を逆転させます。
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喜んだ家兼は孫娘を清房に嫁がせ、二人の間に誕生したのが鍋島直茂(1538-1618)です。本庄には、鍋島直茂生誕地として胞衣塚が遺っています。
明治維新後も、地域で墓守をしてきました。 -
直茂の生母は早くに亡くなり、父の清房は龍造寺隆信の生母と再婚します。かくして直茂は、隆信の義弟という関係になります。
1570年の今山合戦では、500騎で敵陣を奇襲し大友軍を撤退させ、村中城を救出します。1584年に隆信が戦死した時点で、直茂は柳川城主として筑後一国の支配を任されていました。今山古戦場 名所・史跡
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直茂は、早くから秀吉と誼を通じ、九州征伐(1587)ではいち早く帰参します。秀吉からは直参として扱われ、1.5万石を与えられます。また龍造寺氏の領地は、当主の政家ではなく息子の高房(1586-1607)へ与えられます。政家は、肥後国人一揆で出兵を怠り、秀吉の怒りを買い隠居に追い込まれ、高房の後見は鍋島直茂に委ねられます。直茂は、朝鮮出兵では龍造寺軍の総大将として臨み、加藤清正の下で活躍します。
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鍋島勝茂(1580-1657)
豊臣政権では、大名世子として扱われます。関ケ原の戦いの恩賞配分では、龍造寺茂綱の働きを家康が高評価したので、自分よりも多い領地を配分することになります。
1607年に政家/高房が相次いで亡くなって宗家が廃絶すると、家臣団は鍋島家の家督相続で決まり、家康の了承を得ます。直茂は隠居して藩祖となり、勝茂が初代藩主となります。 -
佐賀城築城(1602-12)
豊臣秀頼が健在ということもあり、軍事拠点確保/徳川の威光を反映する必要から、築城には幕閣のサポートが伴います。直茂は、築城の名手加藤清正/黒田官兵衛とも昵懇でした。勝茂も幕府の公共工事に多々服役し、ノウハウを身に付けます。軟弱な地盤の上に築城するために、多くの特殊技術が盛り込まれています。写真は、本丸御殿の地盤です。 -
南濠沿いの遊歩道には、当時の石垣が展示されています(発掘地点から19m移動)。
朝鮮出兵(文禄/慶長の役)で直茂は10000人以上の兵を率いて合計36ヶ月従軍しますが、苦役と引き換えに軍役体制による強力な統率機構が龍造寺恩顧の家臣にも浸透し、永続的な効果をもたらします。
※勝茂は慶長の役(21カ月)のみ従軍。 -
縦と横に杭を通して、地盤沈下を防いでいます(梯子状胴木)。堀内に石垣がせり出すのを防ぐため、胴木の前面には約1メートル間隔で杭が打たれていました。
佐賀城だけでなく、徳川家の築城/改修(江戸/駿府/名古屋/大坂)を相次いで課せられ、藩の財政は破綻します。1611年には、全家臣から知行地の3割を返還させることで乗り切りました(三部上地)。一方では、龍造寺四家に藩政を委ねる大胆な決断も行います。直茂は1611年に城を出て、実質的にも隠居します。 -
直茂は、1610年に次男の忠茂に鹿島支藩を立藩させます。1618年に80歳で亡くなり、父清房が本庄に開山した高伝寺へ埋葬されます。以後、歴代藩主の菩提寺となります。
※鹿島支藩は嗣子に恵まれず、1642年に勝茂九男の直朝が養子入りします。高伝寺 寺・神社・教会
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勝茂は、1618年に長男の元茂に小城支藩を立藩させ、1642年には五男直澄に蓮池支藩を立藩させます。龍造寺時代の家臣を引き継ぎ、子飼いの家臣が少なかったので、一族を強化することで藩内の支配体制を強化します。
※勝茂は1609年に家康の養女菊姫を後妻に迎えたので、跡継ぎは菊姫との間に生まれた四男忠直にする必要があり、やむなく元茂を廃嫡しました。直澄は菊姫が生母です。 -
勝茂は、1614年に全家臣から収入(米)の半分を献上させ、1621年には2回目の三部上地を計画します。財政を司る多久家らが動いて、この度は龍造寺四家のみで実行されました。立藩当初から危機意識は藩内で浸透していたようで、藩が潰れるよりは身を切った方がましという空気に後押しされて、蔵入地(直轄地,藩の収入源)が強化されます。
※久保田村田家のみ、三部上地は免除されます。 -
関ヶ原で西軍に組みした負い目が永らく圧し掛かっていましたが、天草島原の乱(1637)では破格の規模の軍勢を派遣、抜け駆けしてでも原城一番乗りを果たすよう家臣に命じ、家光から褒められるどころか軍律違反で謹慎させられます。おかげで幕府への忠誠心はしっかりアピールでき、1642年以降は長崎警備を委ねられます。
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鍋島清久が1512年に再興し、直茂が1612年に社殿を造営した本庄神社。
勝茂は、四男直弘を分家(白石鍋島家)、龍造寺氏に次ぐ勢力の川久保神代氏に六男直長を養子として送り、御親類格の2家を勢力下に置きます。五男直朝は第三代鹿島藩主となったので、6人の息子を勢力拡大のためにフル活用しました。
勝茂は1657年に78歳で亡くなります。世継の忠直よりも長生きし、孫の光茂が藩を継ぎます。本庄神社 寺・神社・教会
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鍋島光茂(1632-1700)
2代藩主で家康の義孫、血縁上でも家康の玄孫です。歌道に秀でた文化人としても知られます。長男/次男/十五男が3,4,5代藩主となり、三男茂文を多久家の養子に送り込みます。大名家の常ですが、支藩が増長して本藩からの独立を企てるので、1687年に三家格式を制定して三支藩を統制しました。1662年には、幕府に先んじて殉死を禁止しました。 -
1662年に東濠を挟んで二の丸の向かいに離れ(向陽軒御社)を設け、ここから政務を行いました。1687年以降は居住して、東御屋敷とも呼ばれます。光茂は風流を楽しみましたが、贅沢はせずに質素倹約に努めました。絵図を見ると、東濠に突き出た縁側があります。北の門からは、東濠沿いに万部島へアクセスできました。
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東御殿跡は、看護学校/龍谷学園キャンパスとなっています。
藩祖/初代/二代と名君が続き、佐賀藩は対外的にも内政面でも環境が整えられていきます。藩士の処遇は、家格と役職の2つで決まりました。例えば同じ家老職でも、家格による上下関係が発生します。 -
三代藩主綱茂(在1695-1706)は、元禄文化にどっぷりと浸かり摂津から庭師を招聘して、佐賀城南西部に観頣(かんい)荘と呼ばれる8haの大名庭園を建設し、西御屋敷と呼ばれます。おかげで藩財政はひっ迫し、1707年には四代藩主吉茂(弟)によって直ぐに解体され、家臣の屋敷地とされます。
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観頣荘跡(南御堀端小路沿い)の現在の姿。
綱茂の功績は、1699年に竜造寺四家を御親類格へ降格させたことくらいです。
綱茂/吉茂は子どもに恵まれず、弟の宗茂(5代目)でようやく次代へ繋がります。しかし6代目と弟の7代目も子供に恵まれず、遡って5代藩主の十男が8代目を継ぎます。 -
今更ですが、城の濠周辺はどうなっていたかというと、中級以上の家臣の屋敷で四方をきっちりと囲んでいました。南濠に沿った900mほどの武家地(南御堀端小路)を例にとると、15の屋敷で構成されました。直参のみが立地し、陪臣は濠沿いには住めませんでした。直参は与/組、陪臣は備と呼ばれます。
※陪臣は藩主にも謁見できませんでした。 -
上の1810年の図で枝吉栄屋敷となっている所には、副島種臣生誕地石碑と枝吉神陽生誕地の解説板が立ちます。二人は実の兄弟で、枝吉栄の息子です。栄は南濠と号し、藩校の教授を務めました。
蒼海伯副島種臣誕生地 名所・史跡
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今は空き地ですが、数年前まで社会福祉会館や保健所が建っていました。
佐賀城周囲は多久氏の知行地が多かったものの、2回の三部上地で51%を失います。三部上地の成果で、平成大合併前の佐賀市域の3/4が蔵入地(藩の直轄領)となっています。 -
鍋島/本庄村を本拠地とする鍋島家が、龍造寺/水ヶ江村でも地盤を確立しました。
南濠を西進し、右へ折れて西濠へ向かいます。 -
道路の部分は藩政時のままで、遊歩道の部分は濠を埋めて造成しました。
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西御堀端小路と呼ばれる武家地は、西濠沿い800mに及ぶエリアです。南端は観頣荘唯一の名残である鬼丸聖堂に接します。10軒ほどの屋敷で構成されます。
聖堂は、孔子を祀ったお堂の事で、幕府公式の学問儒学の創始者です。幕府や藩の学問所に設置されます。覚えておいて損はない知識です。 -
西御門橋に面するエリアは、坂部家(着座)の屋敷地でした。大組頭を務め、有事や軍事訓練時には組員数百名が一斉に集合しました。城内へ通じるルートに配置するには持って来いの家です。
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西御堀端小路の北半分は、静かなエリアです。
天下泰平が続いたとはいえ、藩士(直参 与/組と表記)は全員戦闘員というのが建前で、概ね15ある大組のどれかに所属していました。大組頭は着座/家老格が務め、今でいう連隊長を務めます。時経つうちに軍事色が薄れ、家臣団の統率組織という意味合いが濃くなります。藩の有力家臣も自らの家臣団で独自の軍を編成し、備と呼ばれました。 -
ホテルニューオータニから後ろを振り返った構図。濠沿いは武家屋敷が並ぶ中、唯一の例外として与賀神社の宮司宅が濠に面していました。現在は写真のようにPL教会/自衛隊佐賀地方協力本部/立正佼成会となっています。
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辻堂堅小路
北端は多布施川沿いの辻堂から南方へ400mほど続く武家地で、変則的な形をしています。大きな特徴は、面積の9割を寺社が占めることです。7つの寺社(うち寺院は6つ)は中世から続く由緒あるもので、城に寺院が隣接しているのは珍しいです。
※寺院は墓地(冥界/不浄界)が伴うので、通常は城下町の外あるいは軍事拠点として城下の端に寺町として配置するのが一般です。 -
中心に位置するのは、与賀神社。
欽明天皇の勅願で造立とされ、それを証明するように樹齢1400年超の楠が鎮座します。第二代執権北条義時が再建(1212)、大宰府長官少弐氏が与賀荘地頭だった経緯もあり、北条氏/少弐氏等名だたる武家の信仰を集めます。鍋島氏も然りで、鳥居は1603年に直茂夫人が奉納したもので、国の重文指定を受けています。 -
石橋は1606年に鍋島直茂が奉納し、楼門は室町時代に肥前国守護だった少弐氏が造営したものです。これらも国の重文指定を受けています。与賀神社は、川/海/水の神を祀ります。
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辻堂から多布施川を分岐した辻の堂井樋水路は、堅小路の中央を南北に流れ、与賀神社の宮川も兼ねています。右隣は、上野寛永寺ゆかりの延命院です。
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延命院の裏側には、与賀神社別当の浄土寺、阿弥陀廃院が建ちます。
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与賀神社の左隣は梅林寺跡、宮川沿いの立派な石垣が遺ります。向かい側には十念寺がありました。
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その隣は光照寺。龍造寺隆信が開山、十念寺/光照寺左隣にあった常楽寺も龍造寺氏ゆかりの寺で、共に光照寺の境内の一部となっています。
次に、北濠沿いを見てみます。 -
北御堀端小路と呼ばれる武家地は、北濠に面した全長900mの地域で、多布施川より西側の160mは重臣屋敷で固められています。龍造寺宗家を受け継ぐ久保田村田家屋敷(5500坪/1.7ha)と神代(こうじろ)鍋島家屋敷です。
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貫通道路に沿った久保田村田家(御親類)屋敷跡の景色。その先は家老の神代鍋島家です。
知行地内で行使できる権利は、大配分/大配分格小配分/小配分に区分されます。大配分(御親類格以上)は、領内で自由に采配を行使でき自治国家の性格を持ちます。大配分格小配分(家老格)も、大配分に準じるものです。小配分では、藩の規則が全面的に適用されます。 -
多布施川を挟んで東側は、勢屯り。勢屯りの北/東側を囲む形で御米蔵が建っていました。現在は、県警本部となっています。
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御米蔵の裏側には松原川という水路が通り、水運で米を蔵まで運べるようになっていました。多布施川からサイフォン原理で道路の地下を潜って導水されました。
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北濠に並行して東方向へ流れます。往時は、もっと幅の広い水路でした。
佐賀藩は大配分/大配分格の家臣(重臣)に、自治と引換に参勤交代を命じます。城内で屋敷地が多くを占めるのは、参勤制度も関係しています。 -
イメージが湧きませんが、水路の向こう側には松の老木がひしめいて視界を遮っていました。松原の先には、10軒ほどの屋敷がありました。両者の間にも堀が隔てていました。
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松原川の向かいは、グリーベルト(松原)が広がり、スクリーンの役割を果たしました。これにより、佐賀城は人々の目から隠され、長崎街道の通行人や隠密が城の様子を把握できないようにしました。
近世の多くの城が高い石垣の上に立派な城郭を建てて見せ付ける目的があったのに対し、佐賀城は石垣で嵩上げもせず、建物の周りを土塁で囲み、更に樹林帯で視界を遮ることで姿を隠し通したのも他にない特徴です。佐賀城は、沈み城とも呼ばれます。 -
弘道館(藩校)
松原川の北側は松原小路と呼ばれる武家地で、松原川と裏十間川に挟まれた細長い地域でした。県庁前通りと松原川が交差するところから先(写真)は、藩校弘道館のキャンパス跡です。立地から、松水黌とも呼ばれました。四方から通うのに便利な場所ということで此処が選ばれます。 -
弘道館の東端からの構図。案内解説板が見えます。現在は、佐賀バルーンミュージアム、中央大通りを跨いで西へ伸びます。
藩祖直茂の150回忌(1767年)の際に建議され、1781年に開校します。佐賀バルーンミュージアム 美術館・博物館
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弘道館跡より先の景色。右側は松原でした。
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松原小路を構成する嬉野家の屋敷門が遺っています。薬医門という様式です。鎌倉時代から続く名門ですが、佐賀藩では175石取の中級武士でした。屋敷地は55m四方でした。
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屋敷門の隣には、レトロ建築の現役写真館。
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松原川が右へ折れて、松原が終わります。現在は、松原神社となっています。
弘道館/松原神社は、8代藩主鍋島治茂(1745-1805)の事業です。藩政改革を行った名君、佐賀藩中興の祖とされます。松原神社(日峯さん) 寺・神社・教会
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鍋島治茂(在1770-1805)は、5代藩主忠茂の十男で、鹿島支藩7代目藩主(在1763-70)として養子入りします。宗家の跡継ぎが途絶えると、兄の跡を継いで佐賀藩8代目藩主となります。
六府方という部署を設置し、六方向から殖産興業を進めます。藩政改革が成功した熊本藩に倣い、人材教育のための藩校弘道館を1781年に開設します。 -
改革を始めるにあたり、1772年に松原の一部を境内とする松原神社を創立し、藩祖鍋島直茂を祭神として祀ることで求心力を得ようとします。直茂の戒名を取って、日峯社とも言います。地元では「日峯さん」の方が通りが良いです。
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境内は楠が主ですが、松原が視界を遮った様子を類推するには良い場所です。
松原神社の入口は、参勤交代路に面しています。真っ直ぐ進むと宗龍寺、これで堀の周囲3.4kmを一周しました。
続いて、宗龍寺や東御屋敷に隣接する片田江小路という武家地へ移動します。 -
片田江小路
南北に走る堅(タテ)小路と、東西に櫛の歯のように延びる8つの横(ヨコ)小路で構成されます。西辺は東濠、南辺は佐賀江、北辺/東辺は裏十間川(対岸は町人町)に囲まれていました。赤線は長崎街道、水色は濠、青は裏十間川/佐賀江です。 -
堅小路は、名前の通り縦方向に700m続く通りで、武家屋敷の白練塀と屋敷門というレイアウトで、道幅は広いとはいえ壁に挟まれた閉鎖的空間でした。防衛上の配慮です。現在は往来の激しいバス通り(県道30号線)ですが、江戸後期築の空閑家薬医門が現存します。
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片田江小路エリアを構成したのは、中級以上の武士かつ藩主の直臣のみでした。
地域名となる片田江は、龍造寺氏の支流片田江氏に由来します。片田江家貞の娘は、龍造寺家兼に嫁いでいます。 -
空閑家のような堅小路沿いの屋敷地裏側には堅小路に並行する背割り水路が流れ、横小路沿いの屋敷地とは水路で隔てられました。練塀/水路という二重の防衛システムです。
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裏十間川
現在と違い、堅小路は裏十間川に面したところで行き止まりになっていました。明治になって橋が架けられ、明治橋と呼ばれています。写真は明治橋から東方向を向いた構図。左岸が町人町で、右岸が武家地でした。 -
裏十間川は名前の通り川幅が十間(18.2m)で、町人地と武家地を隔てる存在でした。写真を見てわかるように、現在は川の南側が埋立てられて幅が数メートルです。
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堅小路は現在の松原3丁目交差点で行き止まり、川幅は横断歩道の手前まで迫っていました。交差している道路には、馬責馬場というポールが立っています。
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馬責(うません)馬場
裏十間川右岸土手に敷かれた横小路で、横小路の中で最北なので、片田江北一番土手際小路とも呼ばれます。
通りの北側は裏十間川の土手に面し、南側は11の屋敷で構成されました。 -
堅小路を右折しました。繰り返しになりますが、左側に建っている家は裏十間川を埋め立てて建てたものです。しばらく進むと、
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左側に小径と橋が。藩政期から成就院橋が架かり、町人町へ通じていました。
引き返して東進すると、肥前通仙亭があります。この辺りは、弘道館教授草間佩川屋敷でした。肥前通仙亭 名所・史跡
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裏十間川の向かいには、江戸時代の商家の蔵が並びます。間口は長崎街道に面しています。裏十間川の水運で商品を運びました。
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右へ折れる裏十間川に並行する裏十間端小路へ接続します。現在は裏十間川に橋が架かっていますが、当時は町人地との境界のために対岸へは渡れませんでした。堅小路から280mの道のりです。
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引き返すと、左側に旧佐賀託児センターが。どう見ても最初は料亭だったと思われます。
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堅小路を越えて西進します。
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堅小路から数十メートル進むと真宗堀と呼ばれる堅小路に並行する水路がありました。開発で埋立てられているので、一筋北の長崎街道沿いの真宗堀の光景をアップしておきます。
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突き当りは参勤交代路です。堅小路から170mほど、全長は450mです。
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右へ曲ると欄干橋。裏十間川を渡ります。成就院橋の次に架かる橋です。
深川製磁 (佐賀営業所) 専門店
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橋の先は町人地で、数十メートルで長崎街道と合流します。参勤交代時に通行した橋で、欄干が備わっていました。
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馬責馬場の突き当りを左へ曲がると、左側には欄干御茶屋と呼ばれる藩主別邸があります。ここで休憩して江戸/佐賀城を目指しました。左奥には、松原神社境内の森が見えます。
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堅小路へ戻り、南下すると堀を横断します。横小路の間には堀が流れ、防衛力を高めていました。駐車場の奥のレンガ壁が、堅小路に面した武家屋敷の裏面で、壁の外側に堀が流れていました。余談ですが、明治中期~戦前にかけて佐賀米穀取引所があったことを示す案内板が立ちます。
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駐車場の角を曲がると、片江田より二番小路の通小路です。13の屋敷で構成されました。福田家旧宅等の見所があります。突き当たって、裏十間端小路に接続します。
旧福田家 名所・史跡
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新馬場
堅小路を挟んで通小路の反対側には、1817年に新馬場と呼ばれる道が開通します。松原神社の参道です。突き当り正面には松原神社の鳥居が見えます。 -
参勤交代路の左側には欄干御茶屋の建物が続いていましたが、新馬場開通に伴い分断されました。
北濠沿いを通る北御堀端小路に接続します。 -
北御堀端小路から続く道へ左折して入ります。真っ直ぐ進むと、堅小路に突き当たります。
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現在の片江田交差点
貫通道路と堅小路が交差します。藩政時代は、上の写真の道路が酒屋と駐車場の看板の間の道で堅小路に突き当り、クランクして貫通道路へ通じていました。 -
椎小路
1931-36年に貫通道路(R264)として整備され、北濠から2箇所のクランクを無くして直線化、裏十間川にも材木橋を架けて久留米まで通じています。藩政時の道幅は7mでしたが、現在はかなり拡張されています。境野病院の手前に、堅小路と椎小路を隔てる堀が通っています。13の屋敷で構成されました。 -
花房小路
北から4番目の横小路で、両側に11の屋敷がありました。間口の平均は、50-60mです。治茂に六府方の設置を建言した長尾弥治馬の屋敷がありました。 -
中ノ橋小路
北から5番目の横小路は、10の屋敷地で構成されます。
東端で裏十間川にぶつかると、中ノ橋で町人町(材木町)を結んでいました。 -
こんな感じで、堅小路と横小路を区切る堀も、幅が細められつつも遺っています。
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上の写真の右側は、葉隠の著者山本常朝生誕地(山本家屋敷)があります。
山本常朝誕生地 名所・史跡
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通りには、不思議な雰囲気を醸し出す自治会館も。
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枳(げす)小路
六番目の横小路で、10の屋敷で構成されます。日赤創設者佐野常民が養子入りした佐野家、大木喬任の生誕地があります。右奥には、1840年築の多久家屋敷門があります。 -
枳小路の向かいには、東御門(城内)へ通じる道が延びていました。
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現在は味のある光景が広がります。
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堅小路の西側は、南北に走る多布施川が境界線となります。その向こうは、東御屋敷です。
堅小路へ戻ります。堅小路には、空閑家屋敷門があります。 -
会所小路
14の屋敷で構成され、大隈重信生家もあり、記念館が併設されています。佐賀七賢人の多くが、城の濠に近い中級家臣の屋敷地で生まれているのが興味深いです。大隈重信旧宅 (生家) 名所・史跡
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十間端
片江田北より八番堀端小路の北側6つの屋敷で構成されました。南面は幅十間の堀に面していました。堀に面した部分は埋め立てられ、現在は道の両側に家が建ちます。 -
裏十間川と交わる了関橋から、現在県道の部分を幅十間の堀が西へ伸びて、
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堀は、龍谷高校正門手前で行き止まり(端)となっていました。十間端小路は、大谷高校正門を進んで裏御門(城内)へ通じました。
堀の南側は下今宿堀端小路という武家地です。原型を留めていないので割愛します。
続いて、虎次堅小路へ。 -
虎次(とらじ)堅小路
片田江小路の南に隣接する11の屋敷で構成される武家地です。十字に近い変則的な形をしています。大組頭深江六左衛門屋敷と通りに面さない抱屋敷がありました。堅小路は現在の県道30号線で、西端は堀を介して藩の会所に接していました。 -
現在の横小路交差点
右折すると虎次西横小路、左折すると虎次東横小路です。 -
その先で、多布施川を渡ります。多布施川が横小路南側の境界でした。
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虎次東横小路側の多布施川。写真の左側が虎次横小路です。
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虎次西横小路側の多布施川。写真の右側が虎次横小路です。
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横小路交差点から分岐する虎次東横小路。
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横小路を右折。江戸期の住宅が残る百崎家が。堅小路沿いはマンションになっていますが、藩政時は堅小路/多布施川までが屋敷地でした。右枠外に堀が流れて西横小路との境界になっていました。
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虎次西横小路の西端も多布施川です。右奥には、佐賀城の南濠が見えます。正面は、南御堀端小路です。
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橋の左側
多布施川が左(東)へ折れています。折れた向かい側には慶雲院が建ちます。水ヶ江城址です。 -
橋の右側
西横小路の北面は水路を挟んで藩会所に面していました。 -
まとめ
佐賀城の濠の周りは、~小路と呼ばれる武家地で完全に囲まれ、更に水路が何層にも分断していたことが分かります。武家地と町人地の境界は、幅10間の堀で隔てられていたことが分かります。 -
おまけ
北濠近く、藤川病院のテナントに松原うどんという老舗があります。3月中旬から休業が続いています。おばあちゃんのお店なので、腰が治るか心配です。佐賀の名店も、後継者問題が大きくなっています。
次は、城下町を探検します↓
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