2026/04/18 - 2026/04/18
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gianiさん
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この旅行記のスケジュール
2026/04/18
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日本最西端の有力大名、佐賀藩鍋島家の藩庁佐賀城を探検します。
藩祖鍋島直茂は、家臣の立場でありながら、龍造寺家の幼い主君を後見する形で藩政を動かします。直茂/勝茂親子は秀吉にも高く評価され、直接拝領地を賜る等陪臣の枠を超え、事実上の佐賀藩当主(秀吉の家臣)として扱われます。
1607年の主君死後に家臣団の総意で勝茂が藩主に就いた経緯から、中世の封建領主のように領地の殆どは家臣への知行地で、蔵入地が僅かという時代錯誤の特徴が伴い、当初から財政問題が付きまといます。
幕末を無事に乗り切れたのは、藩主直正の聡明さに拠るところが大きく、幕府とも倒幕勢力とも良好な関係を築きます。
特異な点を多く持つ佐賀城を探検しながら、佐賀藩のユニークな歴史を追いかけます。
佐賀藩って??というのが世論かと思いますので、まずは基礎的な内容から追いかけます。入門編の佐賀宿編旅行記未見の方は、こちらをご覧ください↓
https://4travel.jp/travelogue/12040795
- 旅行の満足度
- 5.0
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佐賀城
佐賀藩祖の鍋島直茂が建築。大きな特徴は、幅80m前後の広大な濠に四方を囲まれていることです。本丸/二の丸/三の丸/西の丸/重臣屋敷地で構成されます。濠の外側も武家屋敷で囲まれていました。龍造寺氏が鎌倉時代に建てた村中城が発展した形です。 -
写真は、警察本部前交差点。濠の北西角に位置します。濠を渡る道は4本ありましたが、こちらが大手門へ通じる正規ルートです。写真右の多布施川に沿って、貫通道路および濠を渡ります。
多布施川の右側は、久保田村田家屋敷跡で、重臣の中で唯一城外に割り当てられました。御親類(一門)と呼ばれる家格です。 -
多布施川(水路)が城内を貫通しているのも、他の城には無い大きな特徴です。
土橋を境に左が北濠、右が西濠です。
濠を跨ぐ土橋の道幅と多布施川の川幅は、江戸時代の姿で残っています。 -
西濠は、貫通道路沿いやホテルニューオオタニ敷地等が埋立てられています。一昨年の国民体育大会開催時に天皇一家が宿泊した、佐賀市で最高ランクのホテルです。
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北濠は、比較的原型を留めています。福岡藩が普請を助けたので筑前濠と呼ばれます。濠の幅は80m前後で建設され、四十間堀とも呼ばれました。濠の内側を城内(現在の住居表記にも反映)、外側を城外と呼びます。
※福岡城には佐賀藩が普請した肥前堀がありました。現在は埋立てられ天神地下街で遺構が展示されています。 -
濠を渡り切ると左前に北御門跡の石碑と解説板が。写り込んでいる建物は、議会棟です。
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道を塞ぐ形で北御門が設けられ、番所も併設されました。参勤交代のルートだったので、大手門に相当します。
※進行方向に併せて、南北を反転しています。 -
北御門を潜ると、左側は勢屯り。屯(たま)り場/広場で、本来は武装した部隊が敵を待ち受ける軍事目的のスペースですが、参勤交代時には家臣が集まって藩主の乗った駕籠を出迎えるために使用されたそうです。写真左の議事堂と県庁新館の一部が勢屯り跡です。
写真右枠外の本願寺および正面の佐賀西高校の敷地は、武雄鍋島家の屋敷跡です。 -
道は左へ折れます。藩政時代はここで多布施川を渡らず、川の手前の並木部分までが勢屯りでした。
周囲は平安時代から龍造寺村と呼ばれ、鎌倉時代に地頭を務めた人物が龍造寺氏を名乗ります。龍造寺氏は、この場所に村中城を築き、江戸時代の佐賀城築城まで居住しました。 -
川の手前で右に折れ、多布施川を渡ります。
龍造寺氏のピークは隆信(1529-84)の時代で、九州三強の一人/五州二島の太守として権勢を奮います。家臣の鍋島直茂は隆信の義弟で、隆信死後の家中を後見し、断絶後は藩を相続します。 -
南進すると、歩道沿いに解説板があります。
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水路の向こうは多久家(現在は県庁駐車場)/向かい(佐賀西高校)は諫早家/武雄鍋島家屋敷地、3家で広大な敷地を占有しました。鍋島家主君の龍造寺氏親戚筋ということで、藩主も頭の上がらない存在でした。龍造寺四家は、御親類という格付けで、鍋島家一門と同格でした。
※須古家を含む4家は、1699年に親類同格へランクダウンします。鍋島家から養子を送り込んで支配力を強めた成果です。 -
絵図を見ると、多久家境界の水路と多布施川が左へ折れる間に参勤交代路が左折しています。県庁駐車場方向へ進むと当時の道の跡を比定できます。
駐車場となっている多久家屋敷地は旧村中城の本丸、向かいの諫早家/武雄鍋島家屋敷地は二の丸跡で、龍造寺家のレガシーを屋敷割でも受け継ぎます。 -
2つ上の写真の青矢印が多久家屋敷地と参勤交代路の間を流れる水路で、駐車場に舟入場のような形で今も僅かに遺っています。
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東へ進むと、駐車場の楠並木に沿ってアスファルトの切れ込みが一直線に延びます。その終点に佐賀城城内水路の遺構という石柱が建ちます。1988年に工事で掘った際に水路の遺構が見つかり、埋め戻した跡です。水路の幅は、8.45mもあったそうです。
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駐車場には、途中で南方向へクランクする多布施川も流れています。
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1796年の絵図で、参勤交代ルートという文字の部分が駐車場内です。
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右側の佐賀テレビが建っている一帯は百間御蔵(武器庫)でした。
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現在の出口より左(北側)に参勤交代路の出口が通っていました。右折して本丸通りを南下します。
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馬洗場に面した橋で多布施川を渡り、すぐに右折します。奥に見えるカフェO3のマンションの区角全体が道路の幅でした。
城内 竹した グルメ・レストラン
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右のカフェO3の区画が当時の道幅でした。
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栄城橋交差点
現在は商店となっている幅が参勤交代路で、ここで写真右方向へ折れます。 -
真っ直ぐ進み、県合同庁舎を右折します。
道は濠に挟まれていました。黄色い部分は二の丸です。
後ろを振り返った構図です。 -
真っ直ぐ進むと、本丸の石垣にぶつかります。石垣の右側は天守跡です。五層の天守閣が建ちましたが、1726年の火災で焼失、再建は断念されます。本丸からはアプローチできない不思議な構造です。
佐賀城は、地元では栄城(えいじょう)と呼ばれます。
写真左の芝生部分は、旧二の丸でした。 -
左側には鯱の門と続櫓が建ち、国の重文指定を受けています。1835年の火災で焼失し、1838年に再建されました。
佐賀城鯱の門及び続櫓 名所・史跡
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明治7年の佐賀の乱では反乱軍が本丸(当時は県庁)に立て籠もり、城門にはその時の銃痕が何か所も残っています。
佐賀城跡 名所・史跡
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反対側
門の内側は、本丸です。 -
壁の外側は石垣ですが、内側は土塁です。
近世城郭は石垣が原則ですが、節約のために外から見えない部分は土塁にしているのも大きな特徴です。 -
本丸の先(東方角)は二の丸。現在は佐賀大学教育学部附属小学校/NHK佐賀放送局跡地(空き地)となっています。
1726年火災で天守閣/本丸/二の丸は焼失しましたが、二の丸だけは2年後に藩庁として再建されます。1835年の火災で再び二の丸は焼失し、今度は本丸が再建されることになりました。 -
本丸御殿の御玄関/御式台があります。藩主やVIPが使用する特別な入口です。現在は、佐賀城本丸歴史館の入口になっています。床は全て畳なので、靴を脱いで入ります。
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幅36m/奥行10m/高さ11.5mの御式台は、応接間/行事を行う場所として使用されました。御殿内で第二のスケールです。左側に北廊下が続きます。
入館は無料ですが、展示物の接写は禁止されています。木造建築ゆえに湿気/温度変化が激しいので、展示品はレプリカを使用しています。佐賀県立佐賀城本丸歴史館 美術館・博物館
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北廊下
全長38m幅3.6m、廊下ですが畳が敷き尽くされています。
余談ですが、前回訪問時はゲリラ豪雨が発生し、職員が慌てて木製の雨戸を閉めていました。しかもガラス戸ではなく障子で、江戸時代と変わらない構造。本丸御殿全体で外縁に面した部分は膨大なので、室内に雨が吹き込まないよう利用者そっちのけで必死に戸締りしていました。木造風ではなく忠実な復元ゆえの苦労で、スタッフのご苦労には頭が下がります。 -
外御書院(大広間)
世継の御披露目等、藩の重要な公式行事が行われました。御殿最大の建造物で縦35m/横7.2m/広さ152畳、柱は無く3か所の襖で空間を4つに区切ることが可能です。下座からの構図です。北廊下と南廊下に挟まれています。1838年の本丸完成時には、1000名の家臣が集まりました。両脇の廊下を合わせると320畳を超える空間に変身します。襖が為し得る魔法です。 -
外から見ると、こんな感じです。奥の御式台から外御書院を含む棟が手前へ伸びます。外御書院の上座の後ろには西廊下が走り、向かい(写真手前)には御三家座と呼ばれる家臣筆頭(支藩)3家のための控室(32畳)があります。現在は、城の変遷/復元に関する展示室となっています。外から直接御三家座へ上がれる専用玄関が備わり、現在は消防法に基づく非常口となっています。
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本丸御殿の図面を見ると、外御書院(赤:廊下も含む)+御三家座(青)の大きさが際立ちます。幅15m長さ50mになります。
本丸御殿8000平方mのうち、2500平方mが現在再現されています。
これまで、家臣には御三家/御親類/親類同格の順に格付けされた点に触れました。鍋島の分家には御の字が付き、龍造寺分家には御が外されています。 -
御殿内部に戻ります。
北廊下から西廊下を経て南廊下を進むと、右へ分岐します。
写真の左側は外御書院で、上座方向からの構図です。
支藩は、藩主が継子以外の息子へ分与立藩させるもので、かなり特殊な事情が絡むことが多いですが、単に親の溺愛ということも。宗家で世継が生まれないときの養子提供が存在意義で、宗家の家名存続のための安全策です。 -
屯(たまり)之間
廊下を10mほど進むと、35畳の屯之間があります。家臣が集まり、控室として使用されました。
島津義弘/大友宗麟と九州を三分した龍造寺隆信が沖田畷の戦い(1584)で戦死すると、息子の政家が相続します。秀吉は、九州平定(1587)時に家督を政家の嫡子高房(まだ1歳)に与え、病弱な政家に代わって、隆信の義弟鍋島直茂に後見を命じます。1607年に高房/政家が相次いで死去すると、直茂の息子勝茂に禅譲されます。 -
屯之間から15mほど廊下を進むと、右に御小書院(45畳)がありました。突き当りを左に曲がると、御座間へ通じます。畳敷きなのは、このエリアが藩主の活動領域だからです。
御小書院は、藩主が御三家や側近と会議を行うスペースです。現在は、厳密に空調管理/防火対策が施された企画展示室(実物展示)となっています。 -
御座間
木材が、いかにも古めかしいです。実は1838年に再建されたものが現在まで残っている唯一の区画です。小学校の作法室として使われた後、1957年に公民館として近所に移設されていたものを里帰りさせました。 -
御座間が移設された南水公民館には大木喬壬の記念碑があり、大木公園として開放されています。
関ケ原合戦の柳川城攻めで武雄の龍造寺茂綱は大活躍し、家康からお誉めの言葉を賜ります。主君を後見する鍋島勝茂は15000石を所有していましたが、恩賞配分の際に家康の誉め言葉を無視できず茂綱に12000石を配分、勝茂は我が身を削って9000石とし、石高の逆転が生じます。この時から、龍造寺の血を引く家臣から舐められるようになり、宗家断絶後も宗家の血を引く龍造寺四家へ頭が上がらなくなる構図が誕生します。 -
御座間は藩主の政務室で、明治維新を乗り切った鍋島直正(在1830~)の写真パネルがもてなしてくれます。1859年撮影と、結構古い写真です。満15歳で家督を相続し、大名で唯一、明治政府で実務を担った有能な人物です。島津斉彬は池田家を通しての血縁関係で、いとこに当たります。
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石垣張り障子
当時は大きな和紙を漉く技術が無く、障子戸には必ず紙と紙との繋ぎ目がありました。その繋ぎ目を石垣の様に配列して、美を意識しました。 -
御座間の奥は堪忍所で、警護詰所を意味します。
行き止まりなので、南廊下まで戻ります。
佐賀藩は家臣への知行地が多く、蔵入地(藩の直轄領=藩の予算/収入源となる土地)が不足して経営が行き詰まり、1610年に全家臣から知行地の3割を返上させます。1621年には、龍造寺四家を対象に知行地の3割返上を敢行します。鍋島勝茂は藩内での地位を徐々に強化していきます。 -
南廊下は北廊下よりも幅が0.9m狭く、長崎警備と幕末についての展示があります。
佐賀藩と福岡藩には、長崎警備が課されます。通常の大名に課される公共工事等の責務は一切免除され、参勤交代時の江戸滞在は通常の1年ではなく僅か100日間とされました。警備は財政負担が大きい一方で、進んだ技術や最新の世界情勢に触れられ、大いに啓蒙されます。直正は財政/行政/教育/医療改革を推進し、財政破綻から藩を立て直します。 -
南廊下の突き当りを右折すると御料理の間(51畳)です。
藩主が家臣や藩外の人物と対面したり、餐応の場として使用されました。廊下部分も27畳あります。鍋島直正のプロフィールと、藩が進めた近代化についての展示です。
鍋島直正(1815-71)は、母が鳥取藩池田家の姫、正室が11代将軍徳川家斉の姫、継室が田安家の姫(父親は家斉の弟)と、徳川家や名門池田家と血縁/姻戚関係にありました。この縁が、幕末の難しい時期に幕府や諸大名と上手く渡り合うのに役立ちます。いとこの島津斉彬を鑑みるに、直正の聡明さは池田家の血筋由来かと思われます。 -
鍋島直正はアヘン戦争の顛末を知ると、幕末を待たずして藩の近代化に率先します。物理/生物/化学/工学系の研究機関や英語学校を相次いで開設し、反射炉/蒸気船/ドライドック等の国産化にいち早く成功します。明治維新の雄藩が内部抗争で多くの血を流したのとは対照的に、直正が藩論をリードしたので、家臣は無駄な争いに巻き込まれず能力の向上と活用に専念できました。
直正は新政府の要職を歴任しますが、健康状態が悪化して開拓使長官を辞任し、藩士の島義勇らを後任に推薦します。 -
一周して戻りました。本丸御殿は、藩主の活動領域を中心に復元されていました。
佐賀藩の最新兵器は戊辰戦争で威力を発揮し、江戸城無血開城や奥羽列藩同盟の瓦解、箱館戦争で貢献します。鍋島直正を始め、多くの藩士が新政府に登用され、日本の近代化に貢献します。 -
奥に、御料理の間(右)と事務室として使用している非公開エリア(左)が見えます。
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その奥は、復元されていない広大なエリア。この方がすっきりとしていて良いです。展示内容の見学に3時間かかったので、これ以上展示を増やす必要もないかと思います。奥には、屯之間や御座の間が見えます。
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本丸御殿は、表(塗潰し無)/外(黄緑)/内(黄)/奥(城)に区分されます。
表:公式行事や応接が行われるフォーマルな空間(御式台/外御書院/御料理間等)。
外:藩政の中枢(藩庁)で、家臣が官僚として行政を執り行いました。
内:藩主の生活を支え、政務を執る御座間を中心に藩主を補佐する側近が仕えました。
奥:藩主のプライベート/女性奉公人のための空間です。
※正室は江戸藩邸で人質として暮らしました。 -
跡地には、往時の縄張りと部屋名が埋め込まれています。
写真は、寝室跡。鍋島直正は8人の側室がいました。色好みとも取れますが、大名家では政略の伴う度重なる近親結婚が災いして、江戸中期以降宗家で跡継ぎが生まれないことが常態化します。世継誕生は、藩主最重要の公務でした。 -
御座間の外観。旧本丸は1909年に市立赤松尋常小学校となり、校舎の一部として使用されます。1994年に南濠を挟んで向かい側(旧城南中学)へ移転します。公開に先駆けた10年間で、遺跡調査と本丸御殿の復元が行われました。
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本丸周囲は土塁で囲まれ、城外に接する南濠側は並木も作って、スクリーンが掛けられていました。南西隅には、石垣積の櫓台が復元されています。
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南濠の向かいには、移転した赤松小学校の武家屋敷風の校門が写り込んでいます。赤松小学校は、島田洋七の母校です。この辺りは濠の幅が51間(93m)もありました。
続いて、北西端の天守台へ登ります。 -
先述の通り、本丸内からはアプローチできず、本丸外の鯱の門の先にある階段から上ります。江戸幕府は豊臣秀頼健在の時点で開府されたために、天守閣は籠城戦を見込んで建造されます。徳川新政権のシンボルとして、領民の視界に入るアイコンとしても機能します。
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本丸西側の濠跡
広い芝生の部分は、本丸と三の丸を隔てる濠跡です。
天守台は明治以降も市内で一番高い場所だったので、気象観測等が行われました。17世紀後半になると天下は泰平を謳歌し、天守閣は存在意義を失います。 -
本丸北側の濠跡(芝生部分)
城全体を囲む四十間堀の内側へ広がり、二重の守りでした。 -
三の丸
本丸通りを挟んで反対側は三の丸跡で、現在は佐賀県立博物館となっています。旧村中城の三の丸でもありました。蓮池支藩の屋敷でしたが、1718年以降は本家の居所となり、藩主の子供たちが暮らしました。佐賀県立博物館 美術館・博物館
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本丸を中心とした図
黒が参勤交代路で、橙枠が旧二の丸、県立博物館が三の丸、左枠外が西の丸です。 -
博物館の先、美術館と佐大付属中学の部分が西の丸です。三の丸を分割する形で誕生しました。小城支藩の屋敷地でした。
佐賀県立美術館 美術館・博物館
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西の丸の南西隅には、櫓が建っていました。
周囲は、佐賀城公園として整備されます。佐賀城公園 公園・植物園
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単なる隅櫓ではなく、4階建て3層の天守閣に次ぐ見事な建物だったようです。防衛上の要として機能しましたが、1874年の佐賀の乱で焼失しました。
これで本丸/二の丸/三の丸/西の丸をチェックしました。 -
城内通りを西へ進みます。先述の県立佐賀西高校正門があります。道路沿いは、家老格の深堀鍋島家、その奥は先述の諫早家/武雄鍋島家の屋敷地です。
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佐賀西高校は1781年設立の藩校弘道館がルーツで、1895年に現在地へ移転しています。由緒と立地ゆえに、地元では栄城(えいじょう)高校と呼ばれます。
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屋敷割と道路をプロットすると、こんな感じです。城内には、南北に本丸通り/東西に城内通り(共に黒線)が十字に走っていますが、藩政時には存在しませんでした。紫が参勤交代ルートで、西の丸方向の道(薄紫)は、現在の高校敷地内を横断して西御門へ通じました。
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南濠と西濠に二辺を接する南西隅は松浦伊万里家の屋敷地でした。家老に次ぐ着座というランクです。現在はこんな感じで、城内とは思えない景色です。城内=藩の土地を新政府が接収して役所/学校等の公共施設建設というのが通常ですが、佐賀城内は、住宅地(私有地)が多いのが大きな特徴です。家臣の屋敷地が占める割合が高かったからです。
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西御門
藩政時代の道路は西堀に沿った並木に突き当たって、左へ折れました。そして写真の部分で右に折れていました。土塁の間に西御門が設けられました。城内へ通じる4門の一つで、建築様式は高麗門、唯一枡形構造で、真っ直ぐ侵入できない鉄壁の設計でした。 -
道路脇に、西御門跡のプレートが建っています。写真の公園管理事務所のように番所を構えて、通行を監視していました。
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西御門橋
中央部が木橋で両側は土橋という構造です。現在は完全な土橋で幅もかなり広げられています。築城時は土と木でしたが、1798年の修復では石垣に改変され、船着場も設けられました。 -
現在の光景です。
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道を戻って、参勤交代路から北御門の勢屯りを目指します。
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突き当りを右折します。
右に中原医院、左枠外に県庁新館です。 -
県庁新館/旧館の左端は勢屯りですが、専ら神代(くましろor川久保鍋島)家屋敷地跡で、建物の向こうは北濠です。御親類格で、1万国以上の知行地を持ちます。
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現在の本丸通りを挟んで東側は、県立図書館の広大な敷地です。龍造寺四家の一つ、親類同格の須古鍋島家です。向かいには、家老格の横岳鍋島家/太田鍋島家の屋敷地です。
龍造寺の家系は1699年に親類同格へ降格されますが、村田家だけは御親類に留まります。話は逸れますが、村田家の始祖は当主龍造寺高房の次弟で、宗家の知行地を引き継ぐ形で立家した経緯から降格を免れました。村田に改姓し、知行地に因んで久保田村田家とも呼ばれます。 -
県立図書館の隣は、印象的外観の市村記念体育館が建ちます。道路が体育館を串刺しするように東進し、北側は納富鍋島家(着座格)屋敷地跡、南側が勢屯りでした。
家臣には厳格な序列があり、御三家(三支藩:鹿島/小城/蓮池 藩祖/初代藩主の子供へ分与された家柄)が筆頭でした。続いて御親類白石鍋島家/川久保鍋島家(神代 くましろ)/村田鍋島家/久保田村田家)、親類同格(龍造寺四家:諫早家/多久家/武雄鍋島家/須古鍋島家)、家老(横岳/神代(こうじろ)/深堀/姉川(坊所)/太田/倉町鍋島家)、着座(納富鍋島家/松浦伊万里家等)の順でした。 -
現在の道路の反対側は多布施川が流れ、川向こうは姉川(坊所)鍋島家屋敷跡でした。
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通りを進むと体育館と駐車場を仕切る土手が。
東御門附属の土手です。勢屯りの南東隅に東御門と番所が設けられ、駐車場部分は東濠でした。 -
周辺図
東御門からは、御用商人が出入りしていました。
東御門橋は土橋で、橋の南側を多布施川が城外へ流れていました。 -
ここから先80mは東濠なので、駐車場になっている部分は本来東濠ですが、現在は埋立られて佐嘉神社駐車場となっています。
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上の写真で横断歩道のある部分を右折すると、住宅街が広がります。ここも東濠を埋め立てたエリアです。
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現在の北濠と東濠の境界線は、こんな感じになっています。90度に折れる部分が、辛うじて残されています。
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貫通道路から駐車場へ続く誘導路、その先の駐車場は、東濠の幅全体を埋め立てています。
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誘導路の左側は、水田のような形で東濠の境界が遺っています。
東濠は1938年以降埋め立てが始まり、総延長の半分以上が完全に埋立てられ、開発の影響を最も受けています。 -
城外へ出ると、右側には万部島があります。右折して多布施川を渡り、探検してみます。
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名前の通り、当初は水原に浮かぶ島でしたが、築城で陸続きになり、東濠から瘤状に突き出た半島になり、東御門の図でも確認できます。
築城時は、写真のように東濠が広がり、右奥に万部島があります。 -
島内には、歴代藩主が奉納した万部塔が並びます。名称は、1538年に竜造寺家兼が藩と領民の安泰を願って法華経一万部を奉納した事に由来します。築城後は、本丸の鬼門に位置する重要スポットでした。
万部島 名所・史跡
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万部島から南を向くと、こんな眺め。細い水路は東濠の名残で、右側の住宅地は埋立地で、右側に幅80mの東濠が続いていました。
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東御門から続く道は多布施川に沿って延びていました。写真のように右へ折れます。道の反対側は着座格の成冨家屋敷地に沿っていました。現在は自民党佐賀県連の建物等になっています。
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万部島から見たクランクする多布施川と自民党県連の白い建物。川の向こう側に水路に沿って道が続きます。
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向こうに見える橋まで行きます。万部島を離れます。
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上の写真の橋を渡り、多布施川と別れます。
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橋を渡ると、左に看護学校/その奥に龍谷高校が建っており、2代藩主鍋島光茂が1662年に城外に設けた御殿「向陽軒」跡になります。1687年に東御屋敷と呼ばれるようになりました。右側は東濠跡で、現在復元へと舵を切っています。東濠は、道路から住宅街方向へ80mの幅がありました。
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多布施川に東縁を接した東御屋敷には、藩の医学所好生館が1858年に拡張移転します。看護学校の北側には、1849年に10代藩主鍋島直正が長男に牛痘種痘(天然痘ワクチン)を接種させたシーンのモニュメントが。好生館跡地には2018年まで県立病院県好生館が建ち、移転後も先端医療が継承されています。
直正は領民に広く接種を施しただけでなく、いち早く医師の免許制を施行ました。 -
多布施川は龍谷高校のキャンパスを横断します。多布施川と東濠に挟まれた南北に細長いエリアが東御屋敷の敷地でした。
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キャンパスの南側は、こんな感じ。
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道路を南進、多布施川に沿って右へ折れます。
川向こうが東御屋敷跡で、写真の左奥は… -
本丸の建物が移築された南水公民館です。
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右へ折れた先で、多布施川は左へ折れます。多布施川に沿って左折すると東濠に出ます。
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今回は、突き当りを右折します。
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龍谷保育園の横を掠めて左へ折れます。写真は、後ろを振り返った構図です。
今まで東御屋敷跡の外周を見てきました。ここでお別れです。 -
土橋で東濠を渡ります。1938~39年に東濠のかなりの部分が埋立てられました。
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裏御門跡
城内へアプローチする4つ目は、裏御門です。二の丸に設置されました。現在は、佐大附属小の校庭に面しています。 -
2013年の調査で、寛政年間に修復した赤石の石垣部分と東濠に面した船着場部分が露出するようにしました。築城から200年近く経つと各所が傷んだようで、城のあちこちで大規模改修が行われた痕跡が残ります。城の修復は、幕府に申請して許可が出ないと行えません。無許可で行うと、福島正則のように改易/取り潰しに遭います。
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城内へ通じる4つの門の配置は、こんな感じでした。
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上の絵図では、東濠が分岐して、二の丸の北側を覆いかぶさるように延びています。二の丸の北面は、現在さがレトロ館および合同庁舎となっています。
二の丸北側の濠は、現在このような感じで、数十メートルの幅があった頃と大違いです。写真を撮った弥生橋の部分の幅は、何と160mを超えました。さがレトロ館 レストラン グルメ・レストラン
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城内通り沿いからの構図
レトロな建物は、移築された元県警本部庁舎です。庁舎より右側は東濠で、玄関より奥は、西側へ分岐した濠部分です。 -
右がさがレトロ館、左が合同庁舎の敷地です。手前の青線までが旧二の丸、奥の青線までが濠の幅です。
本丸と二の丸は、城内の他のエリアとは隔離された空間でした。 -
おまけ
佐賀ラーメンの老舗「駅前ラーメンビッグワン」の一杯。昨今の材料費高騰に勝てないようです。味は普通です。
次の旅行記↓ビッグワン グルメ・レストラン
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