2026/04/03 - 2026/04/03
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練馬区の郷土史などを訪ねて その5 明治初頭完成の田柄用水核心部
シリーズ「その4」で、練馬区内の富士街道西部に現存する田柄用水上流部を歩きました。
今回はその中流部、西武池袋線石神井公園駅付近から、三軒寺、土支田を通って笹目通りに至る区間を歩いてみました。「核心部」と名付けたのは、水車利用が多く、馬蹄形に等高線に沿ったルートが選ばれた用水が地域の発展に役立った流域からです。
明治に入って新政府による規制緩和の一環として、また新首都東京の郊外発展のため、水が乏しい練馬の台地に地元住民主導で用水を開削することが許可され、受益村9ヵ村が出捐し、半年間余りで通水に漕ぎつけたそうです。玉川上水と千川上水は有名でも、こにような先人の歴史は、地元練馬区内でもほとんど知られていません。
田柄地区の一部では水田は増やせたでしょうが、広い畑地の灌漑には水量不足ですし、用水からのくみ上げも大変でしょう。特産の大根を洗って沢庵漬をつくるとか、水車で脱穀精米・小麦製粉とかに使われたそうです。
のちに下流石神井川で王子製紙工場や板橋火薬製造所などで近代化工業用にも役立ったそうです。
明治に入ったとはいえ土木技術は江戸時代とさほど変っていないでしょうから、素掘りの溝のような浅い用水堀です。「その4 富士街道西部に現存する田柄用水上流部」の50mに満たない短区間を除いて地表に見られる箇所はなくなり、暗渠や下水道管に代わったり、埋め立てられています。
今回の「核心部」は、地表の微地形により等高線に沿った二つの馬蹄形の流路を昭和末期まで残した土支田地区と、その前後を歩く地味な旅行記です。
表紙の写真は、練馬区が「土支田みどりの公園」に建てた解説板です。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
本日の旅は、前回の旅「田柄用水上流部」につづく富士街道(旧ふじ大山道)沿いの西武池袋線石神井公園駅近くから、田柄用水の下流に向けてスタートする地味な旅。
石神井公園駅は15年ほど前に連続立体化されて高架線に変った記憶だが、そのとき出来た南口広場バスロータリー脇に建つ「石神井火車站之碑(しゃくじいかしゃたんのひ)」は、1915(大正4)年の当時の武蔵野鉄道石神井駅の開通を記念して建てられた高さ3m近い大きな石碑。「火車站」とは中国語の「駅」のことだという。
銘文には、近くにある石神井城・三宝寺池・長命(密)寺などの歴史や見所を漢文・漢詩などで記し、鉄道完成による利便や地元の5千坪寄附でできた駅を記念し、背面には、石碑造立主唱者などの氏名が刻まれている。
駅が開設される40年以上も以前から、のどかな畑の中を一直線に進む富士街道の脇を、田柄用水が流れていたのでしょう。 -
田柄用水は、北の白子川と南の石神井川の緩やかな分水嶺の尾根筋を走っている富士街道に沿って、田無宿から東北東に開削された。起点の田無近くの西東京市富士町の標高56mが、石神井公園駅北口近くでは44mと下がっている。
正面に西武池袋線石神井公園駅のホームが見えて来たところで、田柄用水(下流方向)はこの次の路地を左(北)に向きを変えて、目白通りの三軒寺交差点(関越自動車道入口)方向に進む。
これは、分水嶺が土支田通り沿いに北に向かい、目白通りと交差する比丘尼交差点近くで標高45.4mと高いので、その東側の石神井川支流の田柄川流域と思われる浅い谷を目指すためです。途中の地蔵通りから始まる浅い谷は、大雨のとき以外は涸れていたようです。
以下の写真では、特に記述がない限りは、上流方向を望んだ写真です。 -
田柄用水は西武池袋線石神井公園駅のすぐ西側を抜け大型スーパーマーケットのライフの西の道路を北上する。(写真に下水マンホール蓋が写っている)。
こちらは振り返って上流を見た写真。この辺りは全て道路下の下水管になっている。 -
直ぐに東に向きを変えて、車両通行止めの細い路地を進む。練馬区で水路を示す入口の水色舗装は、水色の痕跡のみ残る。(写真に下水マンホール蓋が写っている)
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位置関係を示すと、
写真の左側の地図は、平成9年に練馬区小学校社会科部の教員見学会で講師から配付された、明治26年の「北豊島全図」に水車などの調査をされた明治期の方が記号を書き加えた「水車之分布図資料」の一部です。
水色で塗ったのが田柄用水で、上流(地図の下)から北に流れ下る途中に、速水水車、鴨下水車、関口水車などが描かれている。水車は主に製粉や精米用か。
写真の右側の地図は、練馬区文化・生涯学習課作成の「練馬区文化財あんない」という公的パンフレットで、平成30年の国土地理院承認という最近の1.5万分の1地図をもとに作成されています。「田柄用水跡」は破線で描かれ、水色に着色しました。 -
その先はやや道幅が広く車が通れる箇所もあり、レンタル倉庫などの間を通る。
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「速見水車」跡と光和公園
写真正面から流れて来た田柄用水は、写真右側の光和公園角で左折して北に向かう。
左折した先に「速見水車」があったとされる。
直ぐ東側には長命寺の北を通る石神井川支流の小さな谷が標高45mまで迫っており、その谷に落ちてしまわないように北に進む。 -
「鴨下水車」跡
北上する道路に沿ったこの歩道部分が田柄用水跡のよう。
昭和32年の建設省地理調査所地形図に水車記号があるので、この辺りに「鴨下水車」があったとされる。
鴨下家の水車については、『明治22年に鴨下由右衛門名で東京府知事あてに出された「水車器械新築之願」によって、水車の直径は3丈(約9m)、つき臼(うす)13本、ひき臼4個の規模であった』とされ、意外と大規模で長く利用されたよう。 -
この辺りが広いのは、田柄用水と道路が並行してあったのであろう。
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田柄用水のみの部分は、車両通行止めの路地がつづく。
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道路の左(東)側、水色舗装が消えかけた部分が田柄用水跡。
この辺りは標高が42.5mよりも少し高いところを北上していき、写真の手前側、南で42.5mの等高線よりも低くなる。狭まった谷間の斜面を通しています。
写真右側はさらに低くなって雨水が貯まりやすいる地形で近年まで住宅化が遅れていたよう。
田柄用水は左岸の低い土地に落ちてしまわないように緩斜面を等高線に沿うようにトラバースして流れていたよう。 -
その先で右(東)に折れて、住宅の間を抜けて東北東の三軒寺交差点方向へ向かう途中。
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目白通りのやや南で写真奥から流れてきた田柄用水は、この地点の先の、三軒寺交差点のすぐ西で北に向きを変え目白通りと交差して、三原台清掃工場方向に向かったよう。
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三軒寺交差点付近は、関越自動車道のランプも合わせた広い目白通りになっているため、どこで旧道路と交差していたのかは不明。
目白通り対岸で田柄用水が通っていた路地は、写真正面の右から2つ目のビルの右(東)側で、北側の三原台清掃工場方向に向かう。 -
目白通りから入る路地入口は、手前に下水道管のマンホール蓋があり、下流に向かって点々と続いている。左(西)側が交差点から2つ目のビル。
ここも車両通行禁止、水路敷の水色塗装は痕跡のみ。 -
さらに、何本もの道路と交差して、ほぼ真っ直ぐ北に繋がっている。
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こちらの路地も、お約束とおりの車両通行止めの姿と下水マンホール。
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下流を見た写真。三原台清掃工場の西側で交差する道路を右(東)に折れて清掃工場の北側に向かう。水色塗装はだいぶ残っている。
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「関口水車」跡
三原台清掃工場の北側を東に進み、ここが南北に走る「地蔵通り」との最初の交差点。道路の右側路側帯が田柄用水跡。
右(南)に緩傾斜で下っており、斜面の中腹をトラバースしている感じ。
「関口水車」はこのあたりにあったようです。
新旧地図の写真で紹介した練馬区文化・生涯学習課作成の「練馬区文化財あんない」では、田柄用水はここで分岐して、本流は東に直進後、200mほど先で左に折れて左側の尾根筋の鞍部を開削してさらに左にカーブして再びここの北側で地蔵通りと交差しているが、分流が地蔵通り沿いにショートカットして描かれています。
筆者の全くの想像ですが、この写真の左側を3mほど掘り下げて関口水車を設置し、分流を水車の羽根に落として利用後、地蔵通り沿いに開渠か暗渠で分流路をつくっていたように推理します。地蔵通りとの二番目の交差点から下流は旧田柄川の谷筋で、田柄用水としては急流で高度を下げていく部分です。
このすぐ北の方に関口米店という店があるが、関口水車の名残なのかもしれません。 -
関口水車跡の先で北に折れて尾根の鞍部、左(北東)側の斜面を2m以上掘り下げる難工事で開削されたよう。これまでは擁壁がつくられて畑地として利用されていたが、宅地造成が始まっています。
正面が田柄用水水路跡。擁壁は斫って壊され左側の丘を道路面まで鋤取る大規模造成工事のよう。
正面奥からこちらに流れていた田柄用水跡は、練馬区ハザードマップでは0.5~1mくらい浸水深と予想されています。わざわざ浸水リスクがない丘を削って浸水警戒区域広げるような大規模造成が許可されるとは不思議に感じます。 -
旧 田柄川の谷頭
昭和32年の建設省地理調査所1万分の1地形図が掲載された本のページ一部に水色彩色してみました。
水色が田柄用水で、下が上流の石神井公園駅方向で、右が下流の光が丘、田柄方向。
紫色で、標高40mと42.5mの等高線に彩色しました。
中央から左(西)側に張り出した小さな丘の周囲を、標高40m弱の細い谷が馬蹄形に開析しており、田柄用水はその田柄川最上流部分を流下しています。この辺りで湧水が湧いていて田柄川の谷頭の一つだっのかもしれません。 -
南北に走る地蔵通りとの二回目の交差点から西に進む部分の下流を見る。
右手北側の工場の裏を流れ下っていたよう。 -
水路敷は徐々に右にカーブして行く。
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道路のガードレール左側が田柄用水水路跡のよう。大きく右にカーブして、最終的には180度方向を変えて、東に流れ下る。
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こちらは、田柄用水が馬蹄形にカーブしている右岸の丘で、練馬区がやっている土支田農業公園。
20年ほど前から作業日を決めて、抽選に当選した利用者がグループで作物をつくっています。 -
土支田農業公園内の奥に移築された旧見留家納屋。
かつて大泉町白子川流域で農家の納屋として使われていた建物(屋根は元は茅葺)。
1991年に解体され、1993年にここ土支田農業公園に移築されたという。
左側の水車は、穀物の搗きや製材、織物生産などに利用されていたという。
田柄用水の関口水車も、鴨下水車ほど大きくはなく、この程度かもしれません。 -
正面は、ここ土支田農業公園から東に下って行く田柄用水跡の水路敷。
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なんとなくじめじめした感じになってきた水路敷。
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南北の地蔵通りとの三回目の交差点から上流方向を見る。正面右の緑地が表紙写真の解説板がある「土支田みどりの公園」。
正面(西側)から流れてきた田柄用水は、地蔵通りをこちら側渡り、東にに進む。 -
前の写真の南北の地蔵通りとの三回目の交差点を東側に進む下流部分は、大江戸線の計画駅仮称土支田駅前周辺の大規模区画整理事業が行われたので判然としないが、おそらくこの歩道部分あたりをしばらく進んで左(北)に折れたよう。
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都営地下鉄大江戸線が延伸される計画がある、先に完成した都道443号線を横切る。
これは田柄用水下流部分から西側を望んだ写真だが、道路の対岸の上流部分は区画整理されたエリアで、水路の痕跡が全くなくなっている。 -
大江戸線光が丘駅から西に都道443号線をつくり、その下に大江戸線を延伸する計画が進み、都道ができている。
おそらくこの先の交差点側から流れて来て、道路左側の舗装色が異なる部分を手前(東)に流れていたのではなかろうか。 -
ここは豊渓小学校の南側を東西に流れていた部分。
この道路の左(南)側の舗装色が異なる部分を流れていたのではなかろうか。 -
この小交差点から向こう側では道路の左(南)側を流れ、手前側では道路の右(北)側の舗装色が小豆色部分を流れていたのではなかろうか(新しい部分は水路敷が小豆色に?)。
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道路右(北)側の舗装色が小豆色部分は車止めがある。
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その先では、左の歩道部分を流れていたのではなかろうか。
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アポロ公園角で南から歩道部分を流れて来て、角を東に折れる。
この辺りに長く住んでいる住民に聞くことができた。
50年ほど前はドブ川で、その後に暗渠化されたとのこと。
この先の光が丘(戦後から1973年(昭和48年)まで在日米軍のグラント・ハイツ)では、1958年の狩野川台風などで水害も起きていたという。) -
これがアポロ公園角で、東に折れると水色の塗装跡が復活しており、下流に向かう田柄用水跡に間違いない。
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ここの水路敷の水色が、一番残っている。
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笹目通りの西側では、水路敷は歩道と花壇。
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下流に都道68号の笹目通り(通称「オリンピック通り」)が見える。
前の1964年の東京オリンピック大会前に、埼玉県戸田のボートレース競技会場への裏口アクセス道路として、目白からの目白通り谷原交差点から大規模な拡幅直線化が行われた。そのため、田柄用水の痕跡はしばらく途絶える。
今回の旅はここまでにして、次回は下流部分へ。
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