2026/05/01 - 2026/05/04
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一人旅のラクさん
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2026年5月1日から5月4日にかけて、甘粛省の武威と張掖を旅行してきました。
今回は1日目の武威での観光について書きます。
以下旅程
5月1日、蘭州→武威(高鉄)、鳩摩羅什寺、武威市博物館、雷台漢墓観光
5月2日、武威→張掖(列車)、大仏寺、張掖国家湿地公園観光
5月3日、馬蹄寺、七彩丹霞景区観光
5月4日、張掖→蘭州(高鉄)
※中国に留学中のため出発地は日本ではなく蘭州からになります。
※当時の人民元-日本円のレートは1元-23円程です。
それではここから本編です。
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おはようございます。5月1日の朝です。
今回の旅行では甘粛省の武威と張掖を旅行していきます。
まずは武威に向かうため、蘭州西駅にやってきました。 -
駅の待合室の様子。
今日はゴールデンウィークの初日ということで、駅は大勢の人で賑わっています。 -
乗るのは09時05分発の武威東行きの高鉄(日本でいう新幹線)です。
20分前になると改札が始まりました。 -
今回予約したのは1等車。
少し値が張りましたが、いつもより席が広くて快適。 -
列車は定刻通りに発車。
黄河を渡って北と向かいます。
武威までは約2時間の乗車です。 -
車窓。
蘭州⇔武威間の景色は大体はこのような茶色い岩山の風景が続きます。 -
ということで11時ちょうど、武威東駅に到着しました。
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駅の外まで出てきました。
武威はかつて涼州と呼ばれた地域の街で、漢の武帝が河西回廊を統治する際に最初に設置した群です。
後に張掖、酒泉、敦煌の3つの群が置かれると、河西四郡と称されシルクロード交易の要衝の1つとして栄えました。
街の中には有名な「銅奔馬」が発掘された雷台漢墓遺跡や鳩摩羅什寺といった観光スポットがあります。
では先に荷物を置きにバスでホテルへと向かいます。 -
今日泊まる瑞一国际酒店にやってきました。
立地の割には結構安かった印象。 -
部屋の様子。
少し準備を整えたら観光に出かけることにします。 -
その前に先に腹ごしらえ。
ホテルのすぐそこにある邱家行面と言う店に来ました。 -
三套车と呼ばれる、行麺という特色料理と、ロバ肉、お茶がセットになったメニューを注文。
清代の将軍左宗棠が回族の反乱鎮安のため武威に駐留した際にこのセットが食事として出され、彼が1つも欠けてはならないという意味を込めて三套车と呼んだのが由来なのだそう。
行麺は少し酸味のあるトロッとしたスープで、具沢山で美味しかったです。
食べ終えた後は歩いて近くにある鳩摩羅什寺に向かいます。 -
お店から歩いて5分、鳩摩羅什寺にやってきました。
ここは仏教伝来で有名な鳩摩羅什が亀茲(現在の庫車)から涼州に連行されてきた際に住まわされた寺です。
約1600年もの歴史があり、初期の中国の仏教伝来史における象徴的な建物の1つです。
入場料は無料です。 -
まず中に入ると正面には鳩摩羅什の舌を祀った大きな舎利塔があります。
これは鳩摩羅什が死の直前に、「自分は舌だけは潔白にして説法を行ってきたつもりだ。もし私の説法に間違いが無かったのならば、火葬の時に舌だけは燃えずに残るだろう。」と言い残し、実際にその通りになったという説話に基づいています。 -
羅什法師記念堂という建物。
中には鳩摩羅什の像と彼の生涯についての説明が書かれていました。 -
建物の中にある鳩摩羅什の生涯についての説明。
折角なので鳩摩羅什の生涯について少し触れておきます。
彼は344年に亀茲国で生まれ、若い頃からインドや西域諸国を周りながら大乗仏教を学びました。しかし384年に前秦の呂光大という将軍(後に後涼を興す)が、当時勢力を拡大しつつあった仏教の力を政治利用しようとして亀茲を攻め、その際に仏教に精通していた鳩摩羅什を涼州に連れ去りました。
連れ去られた鳩摩羅什はその後17年間涼州に留まり、この間に中国語の習得して説法などを行いながら過ごしました。この時に彼の住居として386年に新しく建てられたのがこの鳩摩羅什寺(当時は姑臧大寺という名前)で、彼の高名を聞いて西域や中原からの訪問者が絶えなかったそうです。
その後政変によって401年に居を長安へと移し、皇帝の意向で還俗し妻帯するも、その後は経典の漢訳に従事して中国の仏教定着に大きく貢献し、413年の秋に長安で亡くなりました。
本当は約20枚のパネルに渡って彼の人生が詳しく書かれているのですが、流石に紹介しきれないので割愛します。 -
こちらが本殿の大雄宝殿。
415年前後から建設が始められたそうで、中には中央に金色の大仏と壁に無数の小さな仏像が置かれていました。 -
では鳩摩羅什寺を後にして、次に武威市博物館へと向かいます。
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ということで武威市博物館にやってきました。
武威らしくシルクロードと仏教関係の展示が豊富のようです。
入口は2階にあり、2階と3階が展示室になっています。
ここも入場料は無料です。 -
まずは一階の「河西都会 天马故乡」という展示から見ていきます。
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古代の壺。
約4.5000年前の甘粛では马家窑文化や齐家文化という古代文明があったそうです。 -
武威の成立について。
前漢初期の武威は匈奴の支配する地でしたが、前121年に霍去病が匈奴の休屠王と浑邪王を破ると、武帝は武威郡を含む河西四郡を設置して河西回廊を支配するようになりました。
この時の漢の武力の強さを示した「武功軍威」という言葉が武威という名前の由来になっているみたいです。 -
漢代の陶器。
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前漢時代の河西回廊の地図。
現在の新疆には西域都護府が置かれ、シルクロード交易路は一時期漢によって支配されました。 -
木製の鳥。
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有名な銅奔馬の像。(と言っても実物は蘭州の甘粛省博物館にあるので複製品ですが)
武威市街にある雷台漢墓遺跡から発掘され、当時の社会で馬が重要な役割を持っていたことを表しています。 -
美術品など。
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後漢が滅び三国時代に入ると涼州一帯は魏によって支配され、魏が禅譲を受け西晋となった後も同じように支配されました。
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その西晋も滅び五胡十六国時代に入ると、涼州では前涼、後涼、南涼、西涼、北涼の5つの政権が興亡する五涼時代が始まります。
この頃中原では戦乱によって世の中が乱れていたのですが、対して涼州では情勢が安定していたため、難を逃れてきた中原の人々が流入しました。
これによって武威を中心に涼州の経済が発展するとともに、中原の文化や習慣が深く浸透していきました。 -
439年に北魏が北涼を滅ぼすと五涼時代は幕を閉じ、涼州は北魏が支配するようになります。
その後535年からは西魏が、558年からは北周が涼州を支配しました。 -
魏晋南北朝の絵。
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581年になると、新しく中原を統一した隋が吐谷渾や突厥といった勢力を抑えて河西回廊を支配するようになります。
隋末の混乱が終わると唐が隋に代わって西方を支配し、8世紀中頃まで唐の支配の元涼州は河西回廊の要衝として大いに繁栄しました。 -
涼州を含む西方社会の繁栄ぶりは文化にも表れています。
シルクロード交易が黄金期を迎えたことによって東西の文化交流が促進された結果、中原では西凉楽・西凉伎と呼ばれる中原と西域の音楽が融合した舞踊や、涼州詩と呼ばれる西方を舞台にした詩などが流行しました。 -
西方から伝わってきた楽器たち。
このような楽器は後に日本にも伝わり、日本の国風文化の原型を形作りました。 -
唐三彩。
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しかし安史の乱をきっかけに吐蕃が勢力を伸ばし、907年の唐の滅亡以降は五代王朝、帰義軍、遊牧勢力の割拠する地となりました。
しかし戦略上・交易上重要であったことは変わらず、涼州は唐滅亡後も依然重要な拠点でした。 -
五代十国時代が終わると新しい統一王朝となった宋が河西回廊を支配しようとしますが、11世紀に強勢になったタングート族が西夏を建国すると、以降約200年に渡って西夏が涼州を支配しました。
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西夏文字。
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13世紀になるとモンゴルが西夏を滅ぼし、涼州もモンゴルの領土に組み込まれました。
1247年には涼州会盟と呼ばれるチベットとモンゴルの和睦会議が涼州で開かれ、これによって吐蕃滅亡後のチベット高原における混乱が終わったみたいです。 -
明清代の涼州。
明清の時期も涼州の戦略的価値は失われず、この時期に現在の武威の歴史文化都市としての基盤が築かれていったとあります。
ということで次の展示室に向かうことにします。 -
次に来たのは3階の「天梯神韵 凉州佛光」という展示室。
ここは武威郊外にある天梯山石窟の展示がメインみたいです。 -
天梯山石窟は北涼の時代に建設が始められ、中国で最も早期に掘られた石窟の1つです。
涼州模式という形式の典型的な石窟で、部屋の形が四角形または正方形、壁に千仏が描かれている、仏像の顔が丸みを帯びている等の特徴があります。 -
天梯山石窟の立体図。
石窟の数自体はあまり多くありませんが、第13窟には約30mにもなる巨大な大仏が掘られているらしいです。 -
北涼時代の壁画。
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宋代の菩薩像。
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明代の壁画。
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ということで博物館を出ます。
そんなに大きな博物館ではないですが、武威らしい展示で楽しめました。 -
次に雷台漢墓遺跡に向かいます。
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雷台漢墓遺跡にやってきました。
ここは後漢時代に造られた墳で、銅奔馬が出土したことで有名です。
入場料は1人45元、学生や老人は半額になります。 -
入ってすぐの広場にある銅車馬儀仗俑という出土品のジオラマ。
この先頭にあったのが有名な銅奔馬で、銅製の馬、牛、車、人俑など計99点が出土しました。 -
雷台漢墓は古墳のような巨大な盛り土の中にあり、上には雷祖殿という道教のお寺があります。
写真正面の階段を登ると雷祖殿、右に曲がると雷台漢墓の入り口があります。 -
雷祖殿。
明代に建てられたらしいです。 -
こちらが雷台漢墓の入り口。
奥行きは約40mあり、奥の方に副葬品が置かれていた小部屋がいくつかあります。
中が狭いため一度に入れる人数が決まっているらしく、少し外で待たされました。 -
5分ほど待つと中に入れました。
通路はかなり狭く、部屋と部屋の間は頭を低くしないと通れません。 -
雷台漢墓の説明。
誰の墓だったのかは分かっていないようですが、墓の規模と副葬品の多さから、社会的地位の高い人の墓であったと推察されているみたいです。 -
中にあった井戸。
底の方にゴミが溜まっています。 -
新、漢代のお金も出土したみたいです。
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1番奥の部屋の様子。
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膝の高さくらいにある鉄格子から隣の小部屋を覗くと、元々あったであろう副葬品の類が置かれています。
さすがに本物ではないと思いますが、こんな感じで副葬品があったんだな~と思うと感心。 -
別の小部屋。
それでは外に出ます。 -
こちらはさっきの入り口から少し奥に行った場所にある雷台二号漢墓遺跡。
こちらの方が少し広く奥行きは50mほどあるみたいです。 -
見た目は少し違いますが、中の構造自体は先程のものとほとんど変わりません。
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小部屋の様子。
正直先程見たものとあまり変わりませんが、折角行くのであれば両方見るのがいいと思います。 -
ということで景区を出て一旦ホテルに戻ります。
ずっと観光してきてさすがにクタクタなので、ホテルで2時間ほど休んでから夕食に行くことにします。 -
19時になりそろそろ腹も減ったので、明清街という夜市に夕食を食べにいくことにします。
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南城门楼という城楼の近くにある明清街にやってきました。
小雨が降っているのが残念ですが、食べ歩きをしていくことにします。 -
イカ焼きの屋台。
何となくですが、他の街にある夜市よりかなり食べ物の値段が安いような気がします。 -
たこ焼き。
おたふくソースは流石に無かったので照り焼き味で注文。
味はおいしかったです。 -
羊串。
肉が大きくて良かった。 -
東北料理の锅包肉という料理。
薄く切った豚肉を揚げて甘酢のタレを掛けてつくります。 -
食べ終えたのでホテルへ帰ります。
武威市街の終バスは結構早く20時半にはもう無かったので、タクシーで帰りました。 -
といった所で今回はここまでです。
市街にしかいなかったので歴史関係の観光ばかりになってしまいましたが、結構楽しかったです。
明日は昼の列車で張掖に移動し、張掖市街の観光をしていきます。
次回は張掖市街編です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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