2025/12/02 - 2025/12/02
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天理市布留町「石上神宮」は奈良盆地に広がる平野の東端に鎮座し、悠久の歴史と伝説が伝わる神社のひとつ。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
-
天理市布留町「石上神宮」は奈良盆地に広がる平野の東端に鎮座し、悠久の歴史と伝説が伝わる神社のひとつ。
杣之内町の都祁山口神社から北に徒歩10分ほど。
写真の森は、古墳時代末期に作られた峯塚古墳(円墳)で杣之内古墳群の一つ。
石上神宮はこの古墳の西に延びる県道を進み、旧木堂地区の集落を抜け、布留川左岸の布留地区にあり、社殿は布留山西麓の杜の中に鎮座する。 -
参拝道は県道51号線沿いにあり、車の場合はその先を右に進むと広い駐車場が用意されている。
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県道沿いの小さな杜の中に、社の姿が見えます。
これは石上神宮の末社「神田神社」で、祭神は石上神宮に霊剣を奉納した高倉下命を祀る。
市史によれば、もともとは現在地より1kmほど西の、『古宇田と呼ばれる地の田畑の中の森に鎮座していた。
布留神社(石上神宮)縁起には「六月晦日、早且に神剣此地に御幸ありて、神事執行、名付けて田植という」
とあって、天正四年(1576)の記録によれば、当時神田は一町歩あって、毎年六月田植の神事を行っていた。
この神田一町歩に対し、一反につき米一斗、計一石を本社に納め、四月・十一月の卯日祭の御供料としていたが、この神田も明治初年に廃絶し、大正六年の明細帳に、祭神を高倉下命としているが、その徴証は考えられない。
なお境内に名高い烏帽子石がある。』としている。
現在の社は平成2年にここに遷されたようで、境内に安置される烏帽子石には、伝説が伝わります、内容は以下のようなものです。
『天理市の布留川に住む正直なおばあさんが、川で洗濯をしていると、不思議な剣が流れてきた。
刃は木の根や岩を切るほどの霊剣で、おばあさんは白布で拾い上げ、石上神宮へ奉納した。
正直な行いが称えられ、多くの褒美を受けた。
その話を聞いた欲張りなおばあさんは、自分も良い物を得ようと毎朝川へ通った。
ある日、烏帽子や冠のような物が流れてきたので喜んで拾ったが、夜が明けると、それはただの岩だった。』というもの。
この伝説が後の人に伝えたいのは「誠実に生きることが幸運を呼び、欲に目がくらむと、真実が見えなくなる」と言いたいのかもしれない。
正直なおばあさんが白布で剣を「留めた」ことから、この地が「布留」と呼ばれるようになったと伝えている。
石上神宮参拝後に訪れる予定でしたが、結局参拝できなかった。 -
県道脇の長い参拝道入口。
左に官幣大社石上(いそのかみ)神宮社標が立っており、鳥居がある社頭はここから200m先になります。 -
石上神宮社頭。
ここから社殿は更に100mほど先にあります。
ここまで訪れてきた神社とは違い参拝者の姿が多く見られ、崇敬の篤さが伝わってきます。 -
森に抱かれ、玉砂利が敷き詰められた参道には、静寂とともに神聖さが伝わってくる。
鳥居から社殿に続く参道に、打ち水で紋様が描かれているが、何を意図するのか定かではないが、神剣と所縁があるだけに剣を描いている様にも見えなくもない。 -
参道の先の社殿全景。
境内には無数の鶏が放たれており、先程の打ち水は、楼門に向かう石段にも描かれています。 -
境内の手水鉢、鉢の正面には布留社と彫られ、注がれる清水は湧水のようで、溜池の多い奈良盆地にあって、布留川とともに水が豊かな土地柄かもしれない。
その湧水は、境内に放たれている鶏にも恵みを与えている。 -
御神鶏。
参道右側の鏡池の脇に彼らの住まいがあり、人を怖がることもなく境内を自由に散策している。
気に入られると、ボランティアのように先導してくれる。 -
石上神宮の創建は崇神天皇7年(91)に遡り、石上布留の高庭に祀られたのがはじまりとされ、それ故に日本最古の神社のひとつに数えられます。
古来より「石上神宮」「石上振神宮」、手水鉢にあるように「布留社」とも呼ばれていたようです。
社殿は緑色に彩色された連子窓の付く回廊が楼門へと繋がり、拝殿、本殿を取り囲むように建てられています。 -
楼門と回廊の眺め。
写真の楼門は文保2年(1318)に建立されたもので重要文化財に指定されている。 -
楼門に掛けられる「萬古猶新」の額。
山縣有朋の揮毫によるもので、込められた意味は「古いものでも大切なものはその新しさを失わず、不変である」というものらしい。
楼門の棟木に「文保二年(1318)卯月二十九日の墨書銘が残り、鎌倉末期、後醍醐天皇が即位された頃の建立である。
天理市史の解説に依れば「社記に白河天皇永保元年(1081)神門を改めたと記され、現在の楼門との関係は明らかでない。
建築は二間二尺四面、四界八分四屋、入母屋造、重層・檜皮葺で、上層は和様三手先、下層は二手先に組み、斗栱間の蟇股と柱頭の天竺様の鼻の繰形に優れたものがある。
柱は円柱で、全体の恰好も美しい。
この楼門を一名鐘楼門とも称え、縁記書に楼門に洪鐘一ロを懸、四天王像を鋳あらはせり、後門前に鶏栖あり、岩上大明神の五大字を題すと記し、氏子有事の際この鐘をついたものである。
鐘銘に「永和式丙辰年正月廿五日、勧請僧行範、大施主豊田巽莫範、四天像奉懸鐘楼門之旨趣如斯、奉鋳本山辺郡布留社鐘、右依当社霊告、錆付八大竜王并とあり、そののち、打割れたままであったが、享保十三年(1728)氏子勧進して改めて身の高さ三尺三寸三分、 口径二尺五寸、厚さ二寸五分、竜頭の高さ七寸五分のものを鋳造した。」とある。
往古は鐘楼門として上層に鐘が吊るされたが、明治初年の「神仏分離令」により取り外され売却され、現在は境内マップにも楼門と記されています。 -
楼門から拝殿の眺め、神社灯には十六葉八重菊の紋入る。
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国宝の石上神宮拝殿。
神社HPの解説は以下。
『当神宮への御崇敬が厚かった第72代白河天皇が、当神宮の鎮魂祭のために、永保元年(1081)に宮中の神嘉殿を寄進されたものと伝えられています。
建築様式の区分では鎌倉時代初期の建立と考えられる。
いずれにしても拝殿として現存する最古のものであり、国宝に指定されています。
なお、文明2年修復、貞享元年上葺、享保18年修補、元文5年上葺、寛政10年修復、安政6年屋根替、計6枚の棟札が現存しています。』
古来石上神宮はこの拝殿と後方の禁足地だけで、現在のような本殿はなく、拝殿内に本殿が置かれていたという。
主祭神は布都御魂大神、布留御魂大神、布都斯魂大神を祀る。
御神体は禁足地から出土した布都御魂剣、古来からの伝承が事実であったことを裏付けるものです。 -
拝殿から本殿方向の眺め。
古くから健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として崇められてきました。 -
以下は市史から一部抜粋したもの。
「拝殿の建築は梁行四間八寸、桁行七間三尺二寸五分、入母屋流檜皮葺、四方に縁をめぐらし、正面中央に一間の向拝がある。
斗拱は和楼三斗で、天竺様の木鼻を出し、外部に面取の角柱、内部は円柱、外廻り一間は外陣で、化粧屋根裏、内陣は組入天井で、各柱間に繋虹梁をかけ、総丹塗を施している。
細部の手法は鎌倉時代のもので、一部に平安時代の手法も伝えている。
昭和16年に拝殿中央南北二間を改造し幣殿とした。
かくて明治39年に特別保護建造物となり、昭和29年棟札六枚を付けて国宝に指定された。」
後方の本殿全容は見通せず、航空写真から見ると、5本の鰹木と外削ぎの千木が載る流造で、HPによる本殿解説は以下。
「御神体の神剣「韴霊(ふつのみたま)」が禁足地の土中深くに祀られているという伝承があったため、明治7年に当時の大宮司 菅政友が官許を得て調査したところ、多くの玉類・剣・矛などが出土すると共に神剣「韴霊」が顕現され、伝承が正しかったことが証明された。
その後、明治43年から大正2年にかけて神剣「韴霊」を奉安するために本殿を建立し、この折に禁足地を北側に拡張、当時拝殿西隣にあった神庫を禁足地内の南西の隅に移築し、現在の状態に整えられた。
神剣「韴霊」が顕現された地点は本殿と拝殿の間で、現在大きな石を置いて標示してあります。
また、神剣と共に出土した玉類などは、その多くが重要文化財に指定されています。」
神宝は?HP?でも公開されており、なかでも七つの刃先を持つ「七枝刀」は、銘文解釈から西暦369年と考えられ、古代史上の年代を明確にする最古の史料という。
やはり歴史を伝える伝承より、それを示す物には何より説得力がある。 -
拝殿から回廊・楼門を眺める。
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楼門を出て左に続く参道を進むと、大きなイチョウやイチイガシの巨木が聳える社叢(天然記念物)へ続き、祓戸神社の注連柱を経てさらに伸びています、ここは奈良に続く山の辺の道です。
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樹齢300年とも言われるイチイガシ、左手の大イチョウも同年代とされます。
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祓戸神社へは立ち入り禁止ですが、杜の静けさは日頃の雑念から解放される場所かもしれない。
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再び楼門に戻り、楼門の向かいにある、もう一つの国宝に向かう。
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楼門の向かいの石段を上ると国宝の出雲建雄神社拝殿と境内社が祀られている。
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右手の摂社 出雲建雄神社拝殿(国宝)。
神社HPの解説は以下。
『元来は内山永久寺鎮守の住吉社の拝殿だったが、大正3年に現在地に移築されました。
内山永久寺は鳥羽天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院でしたが、神仏分離令により明治9年に廃絶しました。
その後も鎮守社の住吉社は残されましたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火により焼失し、拝殿だけが荒廃したまま残され、当神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築しました。
この建物は内山永久寺の建物の遺構として貴重なもので、国宝に指定されている。
建立年代は、はじめは保延3年(1137)に建立され、その後13・14世紀に2回の改築を受け現在の構造・形式になったと考えられています。』
参拝客の大半は煌びやかな楼門をくぐり国宝の拝殿を目指しますが、楼門の前の高台にひっそりと建っているもう一つの国宝には訪れないようです。 -
市史では摂社・出雲建雄神社拝殿について以下のように纏めていました。(重複する内容は割愛)。
「建物は桁行五間、梁行一間で、中央の一間が通路になり、その左右二間ずつが板敷きである。
通路の両側の上部には唐破風が付けられ、左右の側面は板戸の両開き、前後は素木の格子戸で、建物は一層構造。屋根は切妻造の「割拝殿」である。
この拝殿は、何度か改造を受けて現在の形になったとされる。
その変遷は梁の上にある「蟇股」に見られ、南北外側に残るものは創建当時の形式を保っている。
建物全体は軽やかで素朴な造りながら、優美な印象を与える。
現存する割拝殿の中でも最も優れたものと評価され、昭和29年(1954)3月19日に国宝に指定された。」
というものです。 -
拝殿の先に鎮座する摂社出雲建雄神社。
祭神は出雲建雄神で市史では以下のように纏めていた。
「本社楼門前の高庭に西面して鎮座する。
延喜式内社で古来より草薙剣の御霊を出雲建雄神と称え奉斎している。
『石上振神宮略抄』下巻には、次のような興味深い記述がある。
石上振若宮に祀られているのは出雲建雄神である。
この神は、日本武尊が帯びていた「八握剣(やつかのつるぎ)」の神霊であり、もとは「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と呼ばれ、熱田神宮の祝部である尾張氏が代々奉斎してきた神である。
天智天皇の御代、新羅の僧・道行がこの宝剣を盗んで逃げようとした。
しかし国境を越えることができず、難波の浦に捨てて戻った。
国人がこれを拾い、大津宮に献上したという。
その後、天武天皇が都を浄見原に遷されたとき、この宝剣は宮中に留め置かれた。
しかし朱鳥元年6月、宝剣の祟りによって天皇が病にかかられたため、熱田神宮へ返納することになった。
その夜、石上神宮の神主・布留宿禰邑智(ふるのすくね・おち)の夢に、東の高い山の端から八つの雲が立ち上り、その中で神剣が光を放って国中を照らす姿が現れた。
剣の根元には八つの頭を持つ竜が座していた。
翌朝その場所に行くと、八つの霊石が出現しており、そこへ童子の姿を借りた神が現れ、次のように告げた。
「私は、尾張連の女性たちが斎き祀ってきた神である、今、この地に天降り、帝都を守り、諸氏族の人々を護ろう。よって、敬って祀るがよい。」
そこで神託に従い、神殿を造営して神をお祀りした。
この神を「出雲武雄神」とし、熱田明神と同体であるという説は社記には見えないが、ただ一書に「摂社があり、社人はこれを『たけを社』と呼ぶ。
建謄心命(たけおこころのみこと)を祀るのであろう」と記されている。」 -
鳥居の先には左の出雲建雄神社本殿と右に猿田彦神社が祀られています。
主祭神は、猿田彦神で、 底筒男神、中筒男神、上筒男神、息長帯比売命、高?神(たかおかみのかみ)を配祀神として祀られています。
江戸時代には、祭王御前・山上幸神・道祖神社などと呼ばれ、現在地より東の山中に祀られていたが、 明治10年に現在地に遷座され、後の明治43年に内山永久寺の鎮守社住吉社の祭神が合祀された。 -
出雲建雄神社の左に二つの境内社が祀られています。
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鳥居正面の本殿は天神社で高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の二座を祀る。
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右手の相殿は七座社と呼ばれ、左から大直日神、御膳都神、魂留産霊神、生産霊神(中央)、足産霊神、大宮能売神、辞代主神の七柱をお祀りしています。
ここに天神社の二座を合わせた九柱は、禍や穢れを正す大直日神と、宮中で生命を守護するとされた八柱の神々から成り、古くから鎮座していると伝えられています。
霊剣の伝承や社宝の数々、日本最古ともいわれる拝殿など、石上神宮は単なる古社ではなく、奈良盆地の歴史そのものを紡いできた神社だと感じます。
伝説と史実が溶け合うこの地には、今も変わらぬ静けさと、どこか懐かしい光景が広がっています。
官幣大社 石上神宮
創建 / 崇神天皇7年(91)
祭神 / 布都御魂大神、布留御魂大神、布都斯魂大神
境内社 / 出雲建雄神社、猿田彦神社、天神社、七座社
例祭 /
所在地 / 奈良県天理市布留町379 -
石上神宮境外末社 恵比須神社。
奈良最後の目的地石上神宮の参拝を終え、鳥居を出て右に曲がり、天理駅に向かう道すがら、鳥居から250mほど北に進んだ左側に写真の社が祀られていました。
北側の民家の先は、剣が流れ着いたという布留川が流れています。
道路脇に石垣を積みあげ、玉垣で囲った小規模な社地が作られ、境内には木造の鳥居と春日造りの社が祀られています。 -
実は、この恵比須神社のすぐ後方に、小さな祠(不動堂)があり、スルーしました。
それだけにこの小社も立ち寄るつもりはなかったが、社頭のこの解説を見たらそうもいかない。
この小社、石上神宮の境外末社 恵比須神社ということです。
「祭神 事代主命、例祭 三月二十三日。
由緒 御鎮座は不詳、古くより「布留のえびすさん」といわれ商売繁盛・家内安全の神として崇敬されている」 -
東西に細長く玉砂利が敷きつめられた境内、西向きに本殿が祀られている。
日頃見慣れた街の中で、ひっそり佇む神社に通じるものがあるが、決定的に違うのは、小さな社ながら日々参拝に訪れる人の気配が感じられること。
由緒に書かれている以外に、石上神社HPと天理市史の内容をひとつに纏めると、江戸時代の元禄15年(1702)の社堂寸間附に「戎社・板葺、是は往古より有来勧請年暦知不申」とある。
社堂寸間附?
馴染みのない名称だが、当時の規模を記録したものと思われ、当時にして勧請年は分からないというのだから、江戸初期或いは更に遡るのかも。
いずれにせよ、遷座したという記録も見られないので、古くから布留川左岸のこの地で、石上神宮参詣者や住民から崇敬を受けてきたものです。
石上神宮境外末社 恵比須神社
創建 / 不明
祭神 / 事代主命
境内社 / ・・・
例祭 / 三月二十三日
所在地 / 奈良県天理市布留町446
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旅行記グループ 奈良 山の辺の道を歩く
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